2014年05月01日

ミロシュが弾いたアランフェスの協奏曲他

☆ロドリーゴ:アランフェスの協奏曲&ある貴紳のための幻想曲他

 独奏:ミロシュ・カラダグリッチ(ギター)
 伴奏:ヤニク・ネゼ=セガン指揮ロンドン・フィル
(2013年9月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン/マーキュリー・クラシックス>481 0652


 モンテネグロ出身の新鋭ミロシュ・カラダグリッチが、ギタリストにとっては避けては通れないロドリーゴのアランフェスの協奏曲と、同じくロドリーゴのギターと管弦楽のための佳品、ある貴紳のための幻想曲を弾いたアルバムだけれど、これはCDのカバー(表側)とバックインレイ(裏側)の写真が全てを物語っているのではないか。

 ハリウッド・スターを彷彿とさせるイケメンのミロシュ・カラダグリッチが、ギターを構えてななめを向いているカバー。
 そして、アランフェスよりもひときわ大きいMILOS(Sの上には∨みたいな記号)の文字。
(まあ、指揮者のスタニスワフ・スクロヴァチェフスキだって、ミスターSの略称で呼ばれているしね。ちなみに、モンテネグロがらみで記すと、かつてのユーゴスラヴィアの王家はカラジョルジェヴィチ家だ。あいた、舌噛んじゃった)

 で、裏はといえば、ギターを背中に抱えたミロシュが、スペインの荒野(だろう)の中、一人ギターを抱いた渡り鳥状態でたたずむ遠景だもんね。

 つまるところ、今風にパッケージされたかっこいい演奏であり、録音ってことですよ。
 ミロシュのテクニックは、アランフェスとある貴紳のための幻想曲との間に挟まれた、3つの独奏曲、ファリャの『ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌』と『三角帽子』の粉屋の踊り、ロドリーゴの『祈りと踊り』も含めて万全そのものだし、これまた新鋭ネゼ=セガンが指揮したロンドン・フィルも、そんなミロシュにぴったりの洗練された切れのよい伴奏を行っている。
 やたらと分離のよい録音(オケ付きのほうは、ロンドンのアビーロード・スタジオでの録音)もあって、なんだかポップスやら映画音楽寄りの感じもしないではないが、CDは音の缶詰、まさしく録音芸術と考えれば、文句もあるまい。

 それこそスペインの大地の土の臭いのするような演奏をお求めの向きや、イケメンなんて糞喰らえ、俺はチャールズ・ブロンソンみたいな「ぶちゃむくれ」(byみうらじゅん)の御面相のギタリストの演奏じゃないと聴きたかねえやという向き以外、すっきりすかっとしたアランフェスの演奏録音を愉しみたいという方には大いにお薦めしたい一枚である。
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2014年04月27日

グールドが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第5番〜第7番

☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番〜第7番

 ピアノ独奏:グレン・グールド
(1964年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697147952


 グールドが、ベートーヴェンの作品番号10のピアノ・ソナタ3曲(第5番、第6番、第7番)を収めたアルバムだ。
 モーツァルト同様、ここでもグールドの「我が道をゆく」スタイルは徹底されているが、モーツァルトよりもベートーヴェンに親近感を抱いているためか、作品の結構(旨味)を結構意識した演奏に仕上がっているように思う。
(三幅対というか、3つのソナタを一つながりの作品としてとらえているかのようにも感じられる)
 もちろん、ベートーヴェンの音楽の持つ劇性、活き活きとした感じが一層強調されていることは、言うまでもない。
 実に躍動感に富んだ録音である。
 ベートーヴェンの初期のソナタを愉しく聴きたいという方には、強くお薦めしたい一枚だ。
(なお、オリジナルのマスターテープによるものだろう、若干ノイズが多いので、演奏そのものよりも音質が気になるという向きはご注意のほど)
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グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番他

☆モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8番、第10番、第12番、第13番

 ピアノ独奏:グレン・グールド
(1965年〜1970年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148162


 グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタについては、すでに有名なトルコ行進曲つきのソナタ(第11番)が入ったアルバムについて先日ある程度記しておいたので、ここでは繰り返さない。

 モーツァルトにとって数少ない短調のソナタのうち、まだ若い頃に作曲されたイ短調のソナタ(第8番)の、特に第1楽章をグールドがどう演奏するかを確かめたくてこのCDを買ったのだが、いやあやっぱりすごかった。
 繰り返しもなしにあっけなく終わってしまう第1楽章など、これがグールドでなかったら、いやグールドであったとしても、「おふざけなさんな!」とお腹立ちになる向きもあるかもしれないが、僕はその乾いて、それでいながら、やたけたでなんでもかでも掻き毟ったり、物をぶつけまくったりしたくなるような感情のどうしようもなさがよく表われたこのグールドの演奏が好きだ。
 他に収録された3つのソナタも同様に、毒にも薬にもの薬にはならなくて、毒そのものの演奏なんだけど、こういった音楽の毒と真正面から向き合うことも自分には必要なんじゃないかなと改めて思った。

 それにしても、継ぎ接ぎだらけ(ソナタ1曲でも、レコーディングが長期に亘って行われている)にもかかわらず、「生」な感じに圧倒されるのも、グールドの録音の不思議さだ。

 ところで、毒とは無縁、よい意味での教科書的なモーツァルトの演奏としては、ブルガリア出身のスヴェトラ・プロティッチ(同志社女子大学で教えていたことがあり、関西フィルの定期で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の実演に接したこともある)が弾いたピアノ作品集<KING>KICC3527を挙げておきたい。
 1991年の没後200年のモーツァルト・イヤーがらみでリリースされたアルバムが、1000円盤で再発されたものである。
 こういった演奏があるからこそ、毒はより引き立つのだし、逆に毒があるからこそ基本、ベーシックとなるものの意味もはっきりするのではないか。
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2014年04月17日

マナコルダが指揮したシューベルトの交響曲第3番&未完成

☆シューベルト:交響曲第3番&第7番「未完成」

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
(2011年4月、6月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88691960642


 イタリア・トリノ出身の指揮者アントネッロ・マナコルダとドイツ・ベルリン近郊のポツダムを本拠地とする室内オーケストラ、カンマーアカデミー・ポツダムが進めているシューベルトの交響曲全集のうち、2012年にリリースされた第一段、第3番と第7番「未完成」が収録されたアルバムを聴いたが、これは思わぬ掘り出し物だった。

 マーラー・チェンバーオーケストラで長年コンサートマスターを務めた経験も手伝ってか、マナコルダは若いアンサンブルとともに、いわゆるピリオド・スタイルを援用した(ホルン、トランペット、ティンパニはピリオド楽器を使用)、清新な響きの音楽を生み出している。

 第3番では、ロッシーニの喜歌劇を想起させるかのような明快で躍動感にあふれた両端楽章(音楽の流れを重視したのか、第1楽章では序奏部の繰り返しを行っていない)と第3楽章が聴きものだが、第2楽章の緩やかな部分での表情の変化もまた魅力的である。

 一方、「未完成」交響曲では、従来のオーソドックスな演奏と比較すれば速めのテンポはとられつつも、作品の持つシリアスな要素、内面のひだのようなものが強く意識された演奏となっており、シューベルトの一連の歌曲にもつながる寂寥感を覚える。

 カンマーアカデミー・ポツダムは、ソロ・アンサンブルともに優れた出来で、マナコルダの意図によく沿った演奏を行っているのではないか。

 収録時間は46分程度と比較的短いが、内容の密度の濃さを考えれば全く不満はない。
 録音もクリアであり、今現在のベーシックなシューベルト演奏に親しみたいという方には大いにお薦めしたい一枚だ。
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ゼフィロが演奏したモーツァルトのオーボエ協奏曲&ファゴット協奏曲他

☆モーツァルト:オーボエ協奏曲、ファゴット協奏曲他

 指揮:アルフレード・ベルナルディーニ
 独奏:アルフレード・ベルナルディーニ(オーボエ)
 独奏:アルベルト・グラッツィ(ファゴット)
 独奏:マッシモ・スパダーノ、マウロ・ロペス(ヴァイオリン)
管弦楽:ゼフィロ・オーケストラ
(2006年12月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697924082


 ピリオド楽器の管楽アンサンブルというと、ソニー・クラシカルのVIVARTEシリーズに数々の録音を残したモッツァフィアートをすぐに思い起こすが、あちらがインティメートで親和力に富んだアンサンブルを売りにしていたとすれば、こちらゼフィロは活発でエンターテインメント性に富んだアンサンブルを売りにしているのではないか。
(実際、ゼフィロは来日コンサートでも演奏中にいろいろ仕掛けてきたらしい。あいにく接することはできなかったが)
 弦楽器奏者を加え、設立者のアルフレード・ベルナルディーニとアルベルト・グラッツィがソロを務めた、このモーツァルトの協奏曲集でも、そうしたゼフィロの特性はよく発揮されていると思う。

 まずベルナルディーニの吹き振りによるオーボエ協奏曲では、ピリオド楽器のオーボエの素朴な音色が魅力的だ。
 そして、伴奏の管楽器陣が随所で威勢のよさを示しているのも面白い。

 一方、ファゴット協奏曲では、グラッツィの軽快明敏なソロが冴える。
 優れた喜劇役者の独り語りを聴いているかのような愉しさだ。
 そして、第2楽章でのおかかなしさ。

 そうそう、最後に収められた2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネも忘れちゃいけない。
(てか、この曲が一番の聴きものかも)
 スパダーノ、ロペスのヴァイオリンのほか、ベルナルディーニのオーボエもソロ的に加わって、伴奏のアンサンブルともども、流れがよくって活きがよい音楽を生み出している。

 モーツァルトの陽性な作品の魅力が存分に詰め込まれたアルバムで、モーツァルト好き、管楽器好き、ピリオド楽器好きにはなべてお薦めしたい。
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2014年04月10日

ウェラー・カルテットが演奏した『モーツァルトのカルテット・パーティ』

☆モーツァルトのカルテット・パーティ

 演奏:ウェラー・カルテット
(1967年3月、4月/アナログ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1401


 ドイツの名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットの子息で、レコード・プロデューサーのエリック・スミスは、中でもモーツァルト作品に優れた企画を遺したが、この『モーツァルトのカルテット・パーティ』もスミスがDECCAレーベル在籍中に完成させた一連の企画のうちの一枚である。

 モーツァルトの友人でアイルランド出身のテノール歌手、マイケル・ケリーの回想録中にある、ハイドン(第1ヴァイオリン)、ディッタースドルフ(第2ヴァイオリン)、モーツァルト(ヴィオラ)、ヴァンハル(チェロ)ら作曲家が弦楽4重奏を演奏したカルテット・パーティ(イギリスの作曲家、スティーヴン・ストーラスが1784年に開催)を再現したもので、モーツァルトの第3番ト長調、ハイドンの第3番ニ長調、ディッタースドルフの第5番変ホ長調、ヴァンハルのヘ長調が収録されている。
 で、これがモーツァルトやハイドンの後期の作品となるとまた感想も大きく変わってくるのだろうけれど、いずれも古典派の様式に忠実なインティメートな雰囲気に満ちあふれた耳なじみのよい音楽に仕上がっており、甲乙がなかなかつけ難い。

 艶やかな音色を誇るウェラー・カルテットも、音楽の緩急要所急所をよく心得た演奏で、そうした作品の持つ特性魅力を巧く表わしている。
 マスタリング(ハイビット・ハイサンプリング)の成果もあってか音質も優れており、古典派の弦楽4重奏曲をオーソドックスな演奏で愉しみたいという方には安心してお薦めできるアルバムだ。

 そうそう、このアルバムが嬉しいのは、カップリングもそうだけど、ブックレットにLPのオリジナルジャケットと同じデザイン(レーベルマークも含めて)がきちんと使用されていること。
 オリジナルを歌いながら、オリジナルのジャケットデザインが斜めを向いて倒れたり、端のほうでちっちゃくなって縮こまっていたりするエセ・オリジナルCDをまま見かけるが、ああいうものは本当に見苦しい。
 そもそもそういった部分にもこだわる人間だからこそCDを購入するわけで(そうじゃなきゃ、ネットでダウンロードすればすむ話だもん)、LPオリジナルには何も足さない、LPオリジナルからは何も引かないの基本姿勢で、レーベル側(企画者)にはのぞんで欲しい。
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グールドが弾いたモーツァルト

☆モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番、第16番、第15番他

 演奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1965年〜1972年/アナログ・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148242


 昔の人は言いました いやよいやよもすきのうち。

 とは、畠山みどりのヒットナンバー『恋は神代の昔から』(星野哲郎作詞、市川昭介作曲)の一節で、今のご時世、セクハラすけべい親父でさえ口にしづらいフレーズではあるが、グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ集を耳にしていると、ついそんな言葉を口にしてみたくなるのである。

 と、言うのも、このグールド、なんとモーツァルトが好きではない、嫌いだと公言していたからである。
(許光俊『世界最高のピアニスト』<光文社新書>の「第11章 グレン・グールド」等)
 で、確かにそんな自らの好悪の感情もあらわに、このアルバム(ちなみにLP初出時と同じカップリングで、ブックレットのデザインもLPのオリジナルジャケットによる)でもグールドはやりたい放題をやっている。
 未聴の方もおられるだろうから、あんまりネタは割りたくないが、例えば有名なトルコ行進曲(第11番の第3楽章)なぞ、そのあまりのテンポの遅さ、ぎくしゃくとした感じにげげっと驚くことは間違いなしだ。
(一音一音、音の動きつながりがよくかわるので、僕は思わず斎藤晴彦が歌っていた『トルコ後進国』の歌詞を口ずさんでしまったほどである)
 一方、ソナチネでおなじみ第16番(旧第15番)など、速さも速し。
 省略もあったりして、あっという間に曲が終わってしまう。
 ただ、そうしたあれやこれやから、これまで見落とされがちだった別の側面が巧みに描き出されていることも事実で、幻想曲ニ短調K.397の展開の独特さと美しさ、ソナタ第15番(旧第18番)におけるバッハからの影響等々は、グールドの楽曲解釈だからこそ鮮明に表わされているものだとも思う。

 モーツァルトが好きな方にもそうでない方にも、一聴をお薦めしたい一枚。


 ところで、グールドはイギリスのポップシンガー、ペトゥラ・クラークの歌(『恋のダウンタウン』他)の分析を通してアイデンティティ論を展開したことがあるそうだが*、冒頭の『恋は神代の昔から』をもしグールドが聴いていたら、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』や大好きな夏目漱石(特に『草枕』がそうだったそう)を絡めつつ、一種独特な恋愛論を展開したかもしれない。
(んなこたないか…)


 *宮澤淳一「グレン・グールドとその周辺」より(『クラシック輸入盤パーフェクト・ガイド』<音楽之友社>所収)
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2014年03月26日

トン・コープマンのバッハの管弦楽組曲全曲

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:管弦楽組曲全曲

 指揮、チェンバロ:トン・コープマン
管弦楽:アムステルダム・バロック・オーケストラ
(1997年1月、4月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>0630-17868-2


 軽さも軽し躁々し。

 G線上のアリアへの編曲で有名なアリア(エア)が含まれた第3番や、フルート独奏が活躍する第2番など、ヨハン・セバスティアン・バッハの代表的なオーケストラ作品である管弦楽組曲全曲(第3番、第1番、第2番、第4番の順で収録)を、トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラが演奏したアルバムについて一言で表わすとしたらそのようになるだろうか。

 かつてのカール・リヒターのような重厚な演奏に比べれば、少々上滑りして聴こえなくもないだろうが、ピリオド楽器の細やかな音色にコープマンの軽快な音楽づくりが加わって、実に聴きなじみのよい活き活きとした演奏に仕上がっていることもまた事実だ。
 少なくとも、作品本来の舞曲性が巧くとらまえられた演奏であることは、まず間違いあるまい。

 弦楽管楽ともに達者だし、第2番でのヴィリベルト・ハーツェルツェトのフラウト・トラヴェルソのソロも見事というほかない。
 録音もクリアでコープマンらの演奏によくあっている。
 僕は輸入盤の中古を431円で入手したが、国内盤の新品も1000円でリリース中だ。
 バッハって、なあんか重苦しいやと敬遠しているむきには、特にお薦めしたい一枚である。
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2014年03月24日

ライトナーとバイエルン放送交響楽団のモーツァルト

☆モーツァルト:交響曲第36番「リンツ」&第31番「パリ」他

 指揮:フェルディナント・ライトナー
管弦楽:バイエルン放送交響楽団
(1959年4月/アナログ・セッション録音)
<タワーレコーズ/ドイツ・グラモフォン>PROC-1244


 ベルリン・フィルの終身指揮者に選ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンと契約を結んだことが大きな契機となって、それまでヨーロッパのローカル・レーベル的な存在であったドイツ・グラモフォンは、一躍世界的なメジャー・レーベルへと変化した。
 だがその陰で、徐々に録音の表舞台から姿を消して行った一群の指揮者がいた。
 後年NHK交響楽団への客演で我が国でもなじみ深い指揮者となったフェルディナント・ライトナーも、その一人である。
 ベルリン・フィルを振ってヴィルヘルム・ケンプを伴奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(ケンプにとっては再録音)や、同じくベルリン・フィルとのプフィッツナーの管弦楽曲集など、これぞドイツの職人技とでもいうべき手堅い音楽づくりで敗戦直後のドイツ・グラモフォンの屋台骨を支えたライトナーだったが、かえってその彼の美質が、国際化を進めるドイツ・グラモフォンにとってはあまり魅力とならなかったのかもしれない。
(それでも、1969年には、バイエルン放送交響楽団らとブゾーニの歌劇『ファウスト博士』を録音したりもしているが)

 タワーレコードのヴィンテージコレクションでCD化がなったバイエルン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲集(第36番「リンツ」と第31番「パリ」のほか、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』の序曲が収められている)は、ライトナーという指揮者の特性がよく表われた一枚だ。
 いわゆるピリオド・スタイルとは無縁だけれど、足取りの重いべたつく行き方とも一線を画しており、モーツァルトの長調の作品の持つ陽性や劇性、音楽の要所急所が巧く押さえられた耳なじみのよい演奏に仕上がっている。
 バイエルン放送交響楽団もソロ、アンサンブルともに優れた出来であり、マスタリングの成果だろう、55年前の録音にもかかわらず、音質の難を予想以上に感じない。
 収録された3つの曲をよくご存じの方にこそお薦めしたい一枚である。

 そうそう、ライトナーといえば、1988年の12月16日に京都会館第1ホールで、NHK交響楽団との第38回NTTコンサートを聴いたことがあった。
 徳永二男のソロによるヴァイオリン協奏曲と交響曲第1番というオール・ブラームス・プログラムで、それこそライトナーの職人技に接することができると期待していたのだが、京都会館第1ホールの劣悪な音響より前に、ちょうど同じ日にBUCK-TICKか何かのライヴが第2ホールで開催されていて、彼らのどんやんどわどわという重低音が耳障り以外の何物でもなく(バンドの音楽自体が耳障りってことじゃないので、悪しからず。クラシック音楽を聴きに来たのにこれはないわ、ということ)、ちっとも音楽を愉しむことができなかった。
 今もって無念を感じる出来事である。
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2014年02月25日

フォルテピアノによるヨハン・クリスティアン・バッハの6つのソナタ作品番号5

☆ヨハン・クリスティアン・バッハ:6つのソナタ作品番号5

 独奏:バート・ファン・オールト(フォルテピアノ)
(2013年2月、6月/デジタル・セッション録音)
<BRILLIANT>94634


 いわゆる大バッハ、ヨハン・セバスティアン・バッハの11男にあたるヨハン・クリスティアン・バッハは、バロックから古典派への橋渡し役の一人として、また幼い日のモーツァルトに少なからぬ影響を与えた人物として知られるが、鍵盤楽器のために作曲した6つのソナタ作品番号5(変ロ長調、ニ長調、ト長調、変ホ長調、ホ長調、ハ短調)も、そうした彼の性質がよく表われた作品となっている。
 まず第1番の第3楽章を聴けば、その飛び跳ねるような快活な音楽には、どうしてもモーツァルトを思い出さざるをえないだろう…。

 なあんて、小難しいことはいいか。
 ロマン派以降の深淵を穿って穿って穿ち過ぎて、という激しい感情表現とは無縁だけれど、明快な音楽の中にほんの僅かな翳りがあることも事実だし、第6番(唯一の短調)の第2楽章など、ヨハン・セバスティアンの色濃い影響がうかがえて実に興味深い。

 オールトは、作品の構造をうまくとらえつつ劇性に富んだ演奏を繰り広げていて、全く過不足ない。

 ヨハン・クリスティアン・バッハの音楽なんて聴いたことない、という方にも大いにお薦めしたい一枚だ。

 なお、オールトが弾いたヨハン・クリスティアン・バッハの6つのソナタ作品番号17が、まもなく同じレーベルからリリースされる。
 こちらも、非常に愉しみである。
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2014年01月31日

アバドとベルリン・フィルのブラームスのセレナード第1番

☆ブラームス:セレナード第1番

 指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィル
(1981年5月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>410 654-2


 先日亡くなったクラウディオ・アバドが指揮したブラームスのセレナード第1番といえば、自らが創立したマーラー・チェンバーオーケストラとのライヴ録音が強く印象に残る。
 ブラームスが若書きした、勇壮で明快、しかしときにメランコリックな音楽を活き活きと再現して、とても聴き心地がよかった。

 で、今回とり上げるのは、同じアバドの指揮でも、1981年に録音されたベルリン・フィルとの一回目の録音である。
 カラヤン治世下のベルリン・フィルということもあってか、非常に安定感の強いアンサンブルで、マーラー・チェンバーオーケストラを性能のよいサイクリング用自転車と評するならば、こちらは明らかに高級乗用車、それも大型の、と評したくなる。
 デジタル初期のドイツ・グラモフォンレーベルの録音に顕著なじがじがもわっとした音質も加わって、どうしても重たさを感じないわけにはいかないが、作品の要所急所をしっかり押さえた演奏に仕上がっていることも事実だろう。
 アバドの音楽解釈の変遷と継続を知る上でも貴重な録音であることは確かだ。

 なお、アバドは同じくベルリン・フィルと1967年に第2番を録音しているが、結局再録音は果たさなかった。
 交響曲ともども、上述したマーラー・チェンバーオーケストラ、もしくはモーツァルト管弦楽団、ルツェルン祝祭管弦楽団などとぜひ再録音して欲しかったと思う。
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2014年01月24日

ショルティが指揮したハイドンのびっくり交響曲と軍隊交響曲

☆ハイドン:交響曲第94番「驚愕」&第100番「軍隊」

 指揮:ゲオルク・ショルティ
管弦楽:ロンドン・フィル
(1983年11月、12月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>411 897-2


 ゲオルク・ショルティがロンドン・フィルと遺したハイドンのザロモン・セット(ハイドンがロンドンの音楽興行師ザロモンのために作曲した12曲の交響曲)のうち、驚愕のニックネームで知られる第94番と軍隊のニックネームで知られる第100番の2曲を収めたCDを聴く。

 って、驚愕と軍隊といえば、昨年末にシュテファン・ザンデルリンクとロイヤル・フィルのCDを購入したばっかりだけど、あなたクリアでスマートスポーティなハイドンなら、こなたクリアでパワフルスポーティなハイドンとでも評することができるだろう。
 音楽の処理、例えばフレーズの終わりで弦が「うういん」とうなるような感じ等、若干古さを覚えないわけではないのだが、がたいのいい男が小刻みなドリブルでこまめにシュートを重ねているかのような、大柄でありながら見通しのよい演奏は嫌いじゃない。
 特に、シンフォニックなハイドンをお求めの方にはお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、たぶんザロモン(ロンドン)・セットということに加え、音楽の軽重の判断もあって、同じショルティの手兵のうちロンドン・フィルが起用されたのだろうけど、今となっては、シカゴ交響楽団とのばりばりぐいぐいのハイドンを聴いてみたかった気もしないではない。
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2014年01月15日

アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノで弾いたモーツァルト

☆モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番〜第6番他

 独奏:アレクセイ・リュビモフ(フォルテピアノ)
(1990年1月/デジタル・セッション録音)
<ERATO>2292-45618-2


 ロシア(旧ソ連)出身のピアノ奏者アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノを駆使して録音したモーツァルトのピアノ・ソナタ全集のうち、第4番変ホ長調KV282(189g)、第5番ト長調KV283(189h)、第6番ニ長調KV284(205b)の、デルニッツ男爵の依頼によって作曲されたいわゆる「デルニッツ・ソナタ」中の3曲と、アレグロKV400(372a)のつごう4曲を収めた第2集を聴いた。

 10代後半に書かれた長調のソナタということで、陽性かつ軽快な音楽となっているのだが、リュビモフの手にかかると、単に底なしの明るさではなく、そうした明るさの中からちょっとした表情の変化、ちょっとした翳り、ちょっとした含みのようなものがじんわりと浮き出してくる。
 特に第6番の長い終楽章、主題と変奏は、リュビモフの真骨頂というか、彼の音楽のとらまえ方さばき方の巧さがよく表われていて強く印象に残った。
 また、展開部にゾフィーとコンスタンツェ(モーツァルトの夫人コンスタンツェとその妹ゾフィーのことだろう)という言葉が書き込まれているアレグロの感情の迸りも面白い。

 フォルテピアノ(クロード・ケルコムによるヨハン・アンドレアス・シュタインのレプリカ)の細やかな音色ともども、音楽の愉しみに満ちた一枚だ。
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グレン・グールドが弾いたリヒャルト・シュトラウス

☆リヒャルト・シュトラウス:ピアノ・ソナタ&ピアノのための5つの小品

 独奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1982年7月、9月&1979年4月、8月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148562


 リヒャルト・シュトラウスが10代後半に作曲したピアノ・ソナタロ短調作品番号5とピアノのための5つの小品作品番号3をグレン・グールドが弾いた珍しいアルバムである。
 そして、ピアノ・ソナタは、グールドの人生最後の録音でもある。

 後年金の匙でも銀の匙でも作曲し分けてみせると豪語したほどの完成度は当然ないものの、ベートーヴェンの運命交響曲を想起させるような連打で始まるピアノ・ソナタの第1楽章を皮切りに、いずれも若き日のリヒャルト・シュトラウスの強い創作意欲が十二分に発揮された作品となっている。
 グールドは、そうした作品の勘所をよくつかまえるとともに、作品の持つロマンティシズムや歌唱性を巧みに描き出すことで、とても聴き応えのあるアルバムを造り出した。

 グールド好きはもちろんのこと、そうでないクラシック音楽好きにも充分お薦めできる一枚である。
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ゴルトベルク変奏曲 グレン・グールドの再録音

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲

 独奏:グレン・グールド(ピアノ)
(1981年4月、5月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8697148532


 1955年6月の鮮烈なモノラル録音でデビューしたグレン・グールドが、最晩年(と、言っても50歳前だが)になってデジタル再録音したヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲を聴く。

 一気呵成とでも評すべきデビュー盤のテンポ設定とは対照的に、グールドはゆっくりと踏みしめ噛みしめるように冒頭のアリアを奏でる。
 それから、ときに激しく強弱のコントラストをつけつつ、ときに歌うように、バッハが仕掛けた要所急所をさらにデフォルメさせたりするりとかわしたりしながら、グールドは演奏を構成していく。
 そして、最後の最後に、再びゆっくりとしたアリアが訪れる。

 ああ、音楽を聴いた。
 という単純な感想が全てだ。
 何度聴いても聴き飽きない演奏録音で、音楽好きの方にはなべてお薦めしたい一枚である。
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2013年12月30日

ザ・ラストナイト・オブ・ザ・プロムス・コレクション

☆ザ・ラストナイト・オブ・ザ・プロムス・コレクション

 指揮:バリー・ワーズワース
 独唱:デッラ・ジョーンズ(メゾ・ソプラノ)
 合唱:ロイヤル・コラール・ソサエティ
管弦楽:BBCコンサート管弦楽団
(1996年1月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>454 172-2


 ロンドン音楽界の夏の夜の風物詩といえば、どでかいロイヤル・アルバート・ホールで連日開催されるプロムス(BBCプロムス)ということになるが、中でももっとも有名な最終夜(ラストナイト・オブ・ザ・プロムス)をスタジオ録音で再現したのが、このCD。

 エルガーの行進曲『威風堂々』第4番に始まって、ウォルトンの戴冠行進曲『王冠』、エルガーのエニグマ変奏曲から美しい第9変奏「ニムロッド」、ホルストの『我が祖国よ、私は誓う』(惑星の木星の有名な旋律に愛国的な歌詞をのせたもの。平原綾香のJupiterの元ネタっぽく聴こえて仕方ない)、ヴォーン=ウィリアムズのグリーンスリーヴズの主題による幻想曲、エルガーの『朝の歌』、エリック・コーツの『ロンドン』から第3曲(行進曲)、ヘンデルの戴冠式アンセムから合唱曲、クラークのトランペット・ヴォランタリー、かつてのプロムスを代表する指揮者ヘンリー・ウッドが作曲した『イギリスの海の歌による幻想曲』(『埴生の宿』や、ヘンデルの『見よ、勇者は帰る』の旋律がまんま登場する)、アーンの『ルール・ブリタニア』、エルガーの『威風堂々』第1番の合唱付き、パリーの『ジェルサレム』、そしてイギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』でしめるという、まさしくプロムスのラストナイトの雰囲気が存分に味わえること間違いなしの一枚だ。

 正直、レナード・スラットキンならずとも、その愛国心の称揚には辟易しなくもないのだが、ばらばらなものを一つに繋ぎとめるためにはそんな仕掛けも必要だろうということは想像に難くないし、それより何より、音楽そのものが陽性勇壮で聴きやすい。
(ふと、『軍艦行進曲』や『愛国行進曲』といった作品が居並んで、『君が代』でしめるという日本版プロムスのラストナイトを想像してしまった。このご時世、全くありえない話でないのが…)

 ワーズワースとBBCコンサート管はツボをよく押さえた演奏で、過不足がない。
 イギリス音楽好き、のみならず、理性の働く愛国心をお持ちの方々には、安心してお薦めしたい。
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すっぴんの美しさ ガーディナーが指揮したビゼーの『アルルの女』と交響曲

☆ビゼー:交響曲&劇音楽『アルルの女』抜粋

 指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
管弦楽:リヨン歌劇場管弦楽団
(1986年11月/デジタル・セッション録音)


 ビゼーの『アルルの女』といえば、作曲者自身とギローが編曲した組曲版が有名だが、このCDでは、その原曲にあたる劇音楽の中から、第1番前奏曲、第7番パストラーレ、第12番メロドラマ、第14番マエストーソ、第16番メヌエット、第22番メロドラマ、第16番bカリヨン、第17番メロドラマ、第23番メロドラマ、第19番ファランドールの10曲を抜粋し順番を入れ換えて録音している。

 組曲版のシンフォニックな構えと異なり、もともと小編成を想定して作曲された音楽だけに、ある種の素っ気なさを感じないこともないが、すっぴんの美しさというか、ビゼーの作曲の巧さや旋律の美しさが、より引き立っているように感じられることも事実だ。
 それには、カリヨンのシンプルな美、ファランドールの小気味よさなど、ガーディナーによるピリオド・スタイルを援用した音楽づくりも忘れてはなるまいが。
 交響曲も軽快かつ清々しい演奏で、とても聴き心地がよい。

 中古CDを500円で手に入れたのだけれど、これまた掘り出し物。
 『アルルの女』の組曲に慣れ切った人にこそ聴いて欲しい一枚である。
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シュテファン・ザンデルリンクの若々しいハイドン

☆ハイドン:交響曲第100番「軍隊」&第94番「驚愕」

 指揮:シュテファン・ザンデルリンク
管弦楽:ロイヤル・フィル
(1994年6月/デジタル・セッション録音)


 モダン楽器オーケストラの機能を存分に活かした若々しいハイドン。

 一言で評するならば、そういうことになるだろうか。
 ちょうど手元になかったハイドンの大有名交響曲、軍隊シンフォニーとびっくりシンフォニーの中古CDが250円で出ていたので思わず買ってしまったのだけれど、これは思わぬ掘り出し物だった。
 いわゆるピリオド・スタイルとは一線を画すものの、シュテファン・ザンデルリンク(ちなみに、クルト・ザンデルリンクの子息)のきびきびとして流れがよく、しかも鳴らすべきところはしっかり鳴らす音楽づくりが功を奏して、実に爽快な演奏に仕上がっている。
 ロイヤルも安定した出来で、ニックネームの由来となっている二つの交響曲の第2楽章や、カップリングの『ラ・フェデルタ・プレミアタ(報われた誠意)』序曲での管楽器群の陽気な強奏など、まさしく面目躍如だと思う。
 録音も演奏によくあってクリアだし、ピリオド・スタイルはちょっと、でも古いタイプの演奏ももういいや、というむきには特にお薦めしたい一枚だ。
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2013年11月30日

我まとめるゆえに我あり ジンマン指揮の『英雄の生涯』と『死と変容』

☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』&『死と変容』

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2001年1月、2月/デジタル・セッション録音)
<Arte Nova>74321 85710 2


 我思うゆえに我あり。
 とは、おなじみデカルトの命題で、さすがは私、自己自我意識が尊ばれるヨーロッパらしい。
 と、感心してみせたが、まあ、命題は命題、理念型は理念型(byマックス・ウェーバー)、ヨーロッパの人たち全般をそうした自己自我意識の確立した人と規定してしまうのもどうかとは思うし、ましてやそれを俺が我がの我がまま勝手と解しちゃまずいだろうが。
 ただ、いわゆる芸術家となれば話は別で、俺が我が、己の表現表出欲求に長けた人々とにらんでもまず間違いはあるまい。
 中でも、ベートーヴェン以降、ロマン派の作曲家たちには、我作曲するゆえに我あり、とでも呼ぶべき自己表現と自己表出を強く感じる。
 で、ドイツの後期ロマン派を代表するリヒャルト・シュトラウスなんてその最たるもの、だって交響詩『英雄の生涯』なんて自分を英雄に見立てた私交響詩的色合いの強い作品を作曲してるんだもの!

 って、つらつらと記してみせたけど、これってどうなんすか?
 確かに、一見『英雄の生涯』は自己顕示欲の表われみたいな作品だけど、その実そんな自分をからかってみせる皮肉なまなざしだって十二分に含まれているように僕には思われてならないのだ。
 我疑うゆえに我あり。
 それに、リヒャルト・シュトラウスはオーケストラやオペラの現場をよく知った(と、言うことは演奏家や歌手たちの我がまま勝手もよく知っていた)職人なわけで、『英雄の生涯』一つとっても、ここは押してここは譲ってといった演奏者たちとのかけ引きが聴こえるような気がする。
 我さばくゆえに我あり。
 だから、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルのようなそれいけどんどん、我統べるゆえに我あり的な演奏でこの曲を聴くと、いやあ凄いねと思う反面、ちょっとげんなりしてしまうことも事実だ。
 君にはあれが見えないのか?(by榎木津礼二郎)

 ところが、デヴィッド・ジンマンと手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による録音ならば無問題。
 クリアでスマート、すっきりすいすいテンポのよい演奏で、げんなりすることなく最後まで聴き終えることができる。
 と、言って無味乾燥とは正反対、作品の要所急所、構造をしっかりきっちりと押さえた演奏で、リヒャルト・シュトラウスの音の仕掛けが明示されている。
 我まとめるゆえに我あり。
 この曲に形成肉のような脂臭さを求めるむきにはお薦めできないが、リヒャルト・シュトラウス、『英雄の生涯』というタイトルだけで敬遠している方々にこそぜひともお薦めしたい一枚だ。

 カップリングの『死と変容』も、作品の結構を巧くつかまえた演奏。
 強奏部分に到る音の動き、流れが特に魅力的である。
 こちらも、大いにお薦めしたい。

 なんて、我聴くゆえに我ありだなあ。
 いや、我書くゆえに我ありかなあ。
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2013年10月24日

「外省」的な音のドラマ ヴァレリー・ゲルギエフの悲愴と『ロメオとジュリエット』

☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」&幻想序曲『ロメオとジュリエット』

 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
管弦楽:サンクト・ペテルブルク・マリンスキー(キーロフ)劇場管弦楽団
(1997年7月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>456 580-2


 いつの間にかPHILIPSレーベルもDECCAレーベルに吸収され、何を今さら15年近くも前にリリースされたCDを、の感なきにしもあらずだが、ちょうど手元に悲愴交響曲と『ロメオとジュリエット』のCDがなかったこともあって購入した一枚。
 まあ、50パーセント・オフに釣られたっちゃ釣られたんだけどね。

 一言で表わせば、劇場感覚に満ちた演奏。
 あと少し詳しく説明するならば、チャイコフスキーが歌劇『スペードの女王』や『エフゲニ・オネーギン』、そして三大バレエといった舞台音楽の優れた造り手だったことを教えてくれる演奏、ということになるだろうか。
 まさしく、両作品の持つ劇性、音のドラマの要所急所をよく押さえた演奏である。
 中でも、悲愴第3楽章など、あとに第4楽章が控えていることがわかっていても、生なら思わず拍手してしまいそうな迫力だし、第1楽章中盤の衝撃(トラック1の10分過ぎあたり)の決まり具合も見事というほかない。
 また第1楽章第2主題や『ロメオとジュリエット』での美しい旋律の歌わせ方も堂に入っている。
 ただ、悲愴の第4楽章や『ロメオとジュリエット』の強奏部分で特に感じることなのだけれど、技術的にどうこうというよりも、音楽のとらえ方、表現の仕方が大づくりというか、若干表面的な効果に傾き過ぎているように思われないでもなかった。

 いずれにしても、「外省」的に優れた音楽づくりと演奏で、両曲をエネルギッシュでドラマティックな音楽の劇として愉しみたい方々には大いにお薦めしたい。
 録音もクリアだ。
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2013年10月17日

ゲルハーエルとケント・ナガノのマーラー

☆マーラー:声楽曲集

 独唱:クリスティアン・ゲルハーエル(バリトン)
 指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール交響楽団
(2012年1月/デジタル・ライヴ録音)
<SONY/BMG>88883701332


 大地の歌で優れたコンビネーションを発揮した、ドイツ出身のバリトン歌手クリスティアン・ゲルハーエルとケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団による、マーラーの声楽曲集(さすらう若者の歌、亡き子をしのぶ歌、リュッケルトの詩による5つの歌曲)である。
 すでにゲルハーエルは、ゲロルト・フーバーのピアノ伴奏でマーラーの声楽曲集を録音していたし、さすらう若者の歌にいたってはハイペリオン・アンサンブルとシェーンベルク編曲の室内アンサンブル伴奏版すら録音しているが、今回のアルバムは、まさしく満を持してというか、ゲルハーエルのマーラー歌唱の現段階での集大成とでも呼ぶべき充実した内容となっている。
 上述したハイペリオン・アンサンブルとの若々しい歌声に比べれば、若干声の経年変化は否めないのだけれど、細部までよくコントロールされる歌唱の根幹はそのままに、より表現に厚みと安定感を加えていることも、また確かな事実だろう。
 例えば、亡き子をしのぶ歌での悲嘆と諦念、リュッケルトの5つの詩の第1曲「私の歌をのぞき見しないで」の蠱惑的なと言ってもよいような歌いまわし等、ゲルハーエルの成熟ぶりがよく示されているのではないか。
 一方、ハレ管弦楽団を指揮した、同じくドイツ出身のバリトン歌手ディートリヒ・ヘンシェルとのマーラーの声楽曲集では、ヘンシェルに合わせて鋭角的な音楽づくりを行っていたケント・ナガノだが、こちらのアルバムでは、ゲルハーエルの歌唱によく沿って柔軟な演奏を繰り広げており、亡き子をしのぶ歌の第2曲「なぜそんなに暗い眼差しか、今にしてよくわかる」でのホルンのソロなど、モントリオール交響楽団もその美質を十全に発揮している。
 管弦楽伴奏による男声のマーラーの声楽曲集のファーストチョイスとして、ぜひともお薦めしたい一枚だ。
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ジンマンとチューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトのザ・グレート

☆シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレート」

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年5月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG[RCA]>88697973982


 デヴィッド・ジンマンと手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によって進められてきたシューベルトの交響曲全集の掉尾を飾るのが、この交響曲第8番「ザ・グレート」である。
 これまでの7曲と同様、金管楽器とティンパニにピリオド楽器を用い、強弱メリハリの効いた速めのテンポ設定と、いわゆるピリオド・スタイルをとった演奏となっている。
 指揮者の解釈に加え、オーケストラの特性の違いもあって、同じくピリオド奏法を援用したトーマス・ヘンゲルブロックとハンブルクNDR交響楽団の演奏と比べると、いくぶんこじんまりとまとまった感じはしないでもないが、シャープでクリアな音楽づくりは、きびきびとして聴き心地がよい。
 また、同じ組み合わせのベートーヴェンの交響曲全集(第5番や第7番)でもそうであったように、第1楽章や第2楽章等の管楽器のソロで即興が加えられているなど、音楽的な仕掛けが要所要所で施されている点も、やはり聴き逃せない。

 そういえば、交響曲全集の完結とともに、5枚組セットが3000円(HMV)で発売される予定だ。
 予想していたとはいえ、一枚一枚丹念に買い集めてきた人間としては、少々悔しさを感じざるをえないことだが、統一された楽曲解釈によるシューベルトの交響曲全曲の優れた演奏を手ごろな値段で購入したいというむきには、これほどぴったりのセットもないものと思う。
 大いにお薦めしたい。
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2013年09月26日

アーノクールが指揮したハイドンの交響曲集

☆ハイドン:交響曲第30番「アレルヤ」、第53番「帝国」、第69番「ラウドン」

 指揮:ニコラウス・アーノンクール
管弦楽:コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン
(1990年6月/デジタル・セッション録音)
<TELDEC>9031-76460-2


 ニコラウス・アーノクールがTELDECレーベルに録音した一連のハイドンの交響曲のうち、第30番、第53番、第69番の3曲を収めたCDを聴く。
 もっとも有名なザロモン・セット(第93番〜第104番。ほかに第68番も)はコンセルトヘボウ管弦楽団との録音だから、今のところアーノンクールと手兵のコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンとは、第6番〜第8番、第45番「告別」と第60番「ばかおろか」、第31番「ホルン信号」、第59番「火事」、第73番「狩り」、その後のドイツ・ハルモニアムンディ・レーベルへのパリ・セット(第82番〜第87番)を録音しているだけだ。
 このCDでの演奏を聴けば、そのことがとても残念に思えて仕方がない。
 第1楽章で聖週間に歌われるグレゴリオ聖歌の旋律が引用されていることから「アレルヤ」、当時人気があったオーストリア陸軍のラウドン元帥にあてこんだ「ラウドン」、そしてどうしてそうなったかが不明の「帝国」と、それぞれニックネームの付いた三つの交響曲だが、いずれも陽性で壮麗、実に聴き心地がよく活気のある音楽となっている。
 アーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンは、そうした作品の特性をよく活かし、動と静のメリハリがよくきいた劇性に富んだ音楽を造り上げているのではないだろうか。
 指揮者の意図によく沿ったアンサンブルとともに、管楽器のソロも聴きものである。
 ハイドンの中期の交響曲の面白さを識ることのできる一枚。
 音楽好きには、なべてお薦めしたい。
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緩徐楽章が特に魅力 エロイカ・カルテットのシューマン

☆シューマン:弦楽4重奏曲第1番〜第3番

 エロイカ・カルテット
(1999年12月/デジタル・セッション録音)
<ハルモニアムンディ・フランスUSA>HMU907270


 デビューしてそれほど間もない頃の、イギリスのピリオド楽器による弦楽4重奏団、エロイカ・カルテットが録音したシューマンの弦楽4重奏曲全曲だ。
 簡単にまとめるならば、ピリオド楽器の持つ繊細でウェットな音色を活かした、インティメートな雰囲気の濃厚な演奏、ということになるだろうか。
 もちろん、音楽の文脈に応じて動と静との対比もよく考えられているのだけれど、例えば、モダン楽器のハーゲン・カルテットのような「寄らば斬るぞ」、触れてはならじ虻蜂とらじといった風情の一気呵成、鋭く激しいぎすぎすした感じはない。
 いずれの曲でも、歌謡性に富んだ緩徐楽章の演奏が強く印象に残った。
 じっくり室内楽を愉しみたいという方に大いにお薦めしたい一枚である。
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2013年08月29日

山田一雄と日本フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲

☆山田一雄と日本フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲

 *交響曲第3番「英雄」&モーツァルト:歌劇『後宮からの逃走』序曲
<タワーレコード>TWCO-1013

 *交響曲第5番&第7番
<タワーレコード>TWCO-1014


 ヤマカズさんの愛称で知られた山田一雄の録音が、タワーレコードから系統立ててリリースされている。
 今月は、日本フィルとの1980年代の演奏がまとめて発売されたが、そのうちベートーヴェンの交響曲を集めた2枚を聴いた。
 なお、交響曲第3番「英雄」は1988年4月4日の第100回名曲コンサートの、交響曲第5番は1986年4月11日の第381回定期演奏会の、交響曲第7番とモーツァルトの序曲は1988年2月29日の第398回定期演奏会の、それぞれライヴ録音である。

 ヤマカズさんというと、激しい身振り手振りに唸り声と、まさしく熱演爆演系の指揮者と見なされていて、実際いずれの作品でもあの指揮姿を彷彿とさせる熱のこもった演奏を繰り広げているのだけれど(第5番の第2楽章では、山田一雄の踏み込むような音すら聴こえるほどだ)、その根本には、作品の構造を明晰に再現するという新古典派流の音楽のとらえ方があるように感じられる。
 そして、ブックレット中にも引用されたインタビューにもあるように、自分自身の楽曲解釈をよく表現しきるための手段として、あの「踊るから笛吹いてくれ」と言わんばかりの身振り手振りに唸り声があったのではないかとも僕は思う。
 中でもそうした山田一雄の姿勢が如実に示されているのが、交響曲第3番「英雄」ではないだろうか。
 作品の要所急所と劇的な性格を押さえつつ、音楽の流れを重視した演奏で、最晩年のヤマカズさんと大阪センチュリー交響楽団による「英雄」(1991年3月15日の第4回定期演奏会)も、確かにこのCDと同様に見通しのよい音楽づくりだったことを思い出した。

 もともと記録用に録音された音源だが、リマスタリングの成果もあってか、思ったほどには音質に不満は感じない。
 ただし、東京文化会館での第5番と第7番、モーツァルトの序曲は、サントリーホールでの第3番に比して、相当乾いた音質であることも事実だ。
 金管と打楽器の強奏が一層粗く感じられるのも、このことが大きく関係していると思う。

 いずれにしても、山田一雄という指揮者音楽家の特性を識ることのできるCDで、東京フィルや東京交響楽団、読売日本交響楽団、東京都交響楽団、新日本フィルなどとの録音のリリースも強く期待したい。
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2013年07月31日

ヘンゲルブロックが指揮したシューベルトの「ザ・グレート」

☆シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレート」

 指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
管弦楽:ハンブルクNDR交響楽団
(2012年9月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>8883729982


 絶好調のトーマス・ヘンゲルブロックとハンブルクNDR交響楽団によるリリース三枚目は、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。

 どうせピリオド・スタイルを用いたせせこましい演奏なんでしょう?
 と、思うと、これがさにあらず。
 確かに、楽節の処理や楽器の鳴らし方など、細部ではしっかりきっちり丁寧にピリオド・スタイルが援用されているのだけれど、一方で、本来この交響曲の持つ大らかさ伸びやかさ歌謡性も失われていない。
 初めて耳にした際は、昔々カール・ベーム指揮ベルリン・フィルの演奏に触れたときのような、わくわく感を覚えたものだ。
 オーケストラも、ソロ・アンサンブル両面でヘンゲルブロックの音楽づくりによく応えていて見事である。
(マクロとミクロのバランスのよさは、もしかしたらヘンゲルブロックが、バッハの受難曲のような声楽曲の大曲を得意としていることと深く関係しているかもしれない)

 この交響曲を聴き慣れた方にも、そうでない方にも大いにお薦めしたい一枚。


 できれば、ヘンゲルブロックとハンブルクNDR交響楽団のコンビには、ブルックナーの交響曲(第4番や第7番)をセッション録音してもらいたいなあ。
 のちのブルックナーを予感させる「ザ・グレート」を聴けば、なおさらのことそう思う。
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ノリントンとチューリヒ室内管弦楽団によるストラヴィンスキー

☆ストラヴィンスキー:『兵士の物語』組曲他

 指揮:ロジャー・ノリントン
管弦楽:チューリヒ室内管弦楽団
(2012年1月、3月、6月/デジタル録音)
<SONY/BMG>8725470102


 ロジャー・ノリントンと新たな手兵チューリヒ室内管弦楽団によるリリース一枚目は、ストラヴィンスキーの作品集。
 ノリントンにとって念願だったという『兵士の物語』の組曲のほか、協奏曲「ダンバートン・オークス」(委嘱者の居住地がここだったため。後年のダンバートン・オークス会議とは無関係)、ダンス・コンチェルタンテという新古典派時代の作品を中心としたカップリングがまずもって嬉しい。
 例えば、シャルル・デュトワ指揮モントリオール・シンフォニエッタの録音<DECCA>(ただし、『兵士の物語』は除く)と比べると、ノリントンの意図的な音楽づくりもあるとはいえ、いくぶんアンサンブルの精度に関して気になる点もなくはないが、作品の持つ仕掛け、コンチェルト・グロッソ的な愉悦感やジャズの影響などはよくとらえらえれていると思う。
 特に、『兵士の物語』でのヴァイオリンや管楽器、ドラムの活躍ぶりは、聴きものだ。
 録音もクリアで、とても聴き心地がよい。
 この調子で、ぜひ『プルチネッラ』あたりもリリースしてもらいたい。

 ちなみに、youtubeにノリントンとチューリヒ室内管弦楽団のコンサート(ダンバートン・オークスやモーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」等)がアップされている。
 両者のコンビネーションのよさがよく示されているのではないか。
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2013年07月17日

メニューインとロイヤル・フィルが演奏した大管弦楽版のヘンデル

☆メニューインとロイヤル・フィルが演奏した大管弦楽版のヘンデル

 指揮:ユーディ・メニューイン
管弦楽:ロイヤル・フィル
(1986年/デジタル・セッション録音)
<RPO>CDRPO 8002


 名ヴァイオリニストとして知られたユーディ・メニューインは、晩年積極的に指揮者としての活動を繰り広げた。
 ロンドンの五大オーケストラの一つロイヤル・フィルは、そんなメニューインが密接なつながりを持ち続けたオーケストラであり、両者は複数のレーベルに少なからぬ録音を遺している。
 今回とり上げるCDは、ロイヤル・フィルの自主レーベルからリリースされた一枚で、大管弦楽用に編曲された『王宮の花火の音楽』(ベインズ&マッケラス編曲)、『アマリリス』組曲(ビーチャム編曲。ビーチャムはロイヤル・フィルを創設したイギリスの有名指揮者)、組曲『水上の音楽』(ベインズ編曲)が収められている。
(ちなみに、メニューインとロイヤル・フィルは、同様のヘンデルのアルバムをもう一枚録音していた)
 あと数年も経ぬうちに、いわゆるピリオド・スタイルがヘンデルやバッハといったバロック音楽演奏の主流を占めることになるわけで、まさしく貴重な録音と言えるだろう。
 実際、ストコフスキー編曲による『水上の音楽』が録音されたりはしているものの、それはあくまでもストコフスキーというくくりによるもので、ヘンデルの大管弦楽版というコンセプトでの録音は、当方の知る限りほとんど為されていないのではないか。
 バッハのトランスクリプション集を録音したエサ・ペッカ・サロネンとロスアンジェルス・フィルのコンビに期待していたが、結局だめで、こうなったらシャンドス・レーベルで活躍中のアンドルー・デイヴィスあたりの奮起を待つほかあるまい。

 メニューインの若干たどたどしい音楽運びに加え、いくぶんくぐもった音質もあって、それこそ編曲者の一人であるチャールズ・マッケラスだとか、ヴァーノン・ハンドリーの指揮だったら、もっとシンフォニックシンフォニックしたロイヤル・フィルの特性魅力が巧く引き出されていただろうになあと思わずにもいられないのだけれど、堂々麗々とたっぷり鳴らされる『王宮の花火の音楽』の序曲や『水上の音楽』のホーンパイプを聴くと、これぞ「大英帝国」という気分に浸れてしまうのだからなんとも面白い。
(いやまあ、これらの作品の来歴はひとまず置くとしても、ヘンデルのイギリスでの活動、劇場での成果が後代の作曲家たちの音楽語法に影響を与えていることも確かだから、「大英帝国」云々は、あながち的外れなことじゃないのだが)

 大オーケストラでヘンデルの音楽を愉しみたい方には大いにお薦めしたい一枚である。


 なお、『王宮の花火の音楽』や『水上の音楽』の大管弦楽版でより有名なハミルトン・ハーティ編曲を利用した録音としては、ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団<DECCA>(ただし、セル自身による改編あり)、マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル<EMI>、アンドレ・プレヴィン指揮ピッツバーグ交響楽団<PHILIPS>などが挙げられる。
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2013年06月29日

芥川也寸志の交響曲第1番、交響三章、弦楽のための三楽章

☆芥川也寸志:交響曲第1番、交響三章、弦楽のための三楽章

 指揮:芥川也寸志(交響曲、交響三章)、森正(弦楽のための三楽章)
管弦楽:旧東京交響楽団
(1963年、1961年/アナログ・セッション録音)
<EMI/タワーレコード>QIAG-50106


 坂本九じゃないけれど、この世で一番肝心なのは素敵なタイミングだ。
(ここで九ちゃんがらみのブラックな言葉を一つ挟もうと思ったが、自粛する)

 僕が中学校三年生になって中古LPを集めたり、FM放送のエアチェックを行ったりと、クラシック音楽に本格的にはまり出した頃、芥川也寸志と黒柳徹子の掛け合いが微笑ましいNHKの『音楽の広場』が最終回を迎え、芥川さんは『N響アワー』の司会へと転じた。
 入門編から応用編へ。
 僕のクラシック音楽との向き合い方の変化と時を同じくして、これまたテレビにおけるクラシック音楽の説明の仕方、伝え方を変化させた芥川也寸志は、自分自身のクラシック音楽体験を語る際に、切っても切れない人物の一人ということになった。
 だから、今回とり上げるCDの初出盤が1987年に発売されたとき、迷わず購入することにしたのも、クラシック音楽を親しむきっかけを与えてくれた芥川さんへの敬意の念が大きく働いていたことは、言うまでもない。
 ちなみに、このCDは学生時代繰り返し愛聴していたのだが、ある人物に貸したままそれきりになってしまった。
 その後、LP時代と同様の交響曲第1番と交響三章のカップリングで再発されたことはあるものの、CD初出時のスタイルでリリースされるのは、約26年ぶりということになる。

 このCDには、芥川也寸志自身が指揮した交響曲第1番と交響三章「トゥリニタ・シンフォニカ」、森正が指揮した弦楽のための三楽章「トリプティーク」という、芥川さんにとって出世作、そして代表作と呼ぶべきオーケストラ作品が収められている。
 ロシア・ソヴィエト音楽からの影響丸出しなリズミカルで激しいアレグロ楽章(交響曲は、プロコフィエフの交響曲第5番を明らかに意識したもので、同じ作曲家の交響曲第8番と偽って聴かせても疑わない人がいるんじゃないか)と、東洋的な雰囲気を醸し出す叙情的な旋律との明快なコントラスト等、『八甲田山』や『八つ墓村』といった後年の映画音楽とも共通する、芥川也寸志の作曲の特性がよく示されていて、いずれも耳なじみがよい。
 特に、表面的には紳士然とした芥川さんの内面の躁的な部分が全開となっているように感じられてならない交響曲第1番の第4楽章や交響三章の祝祭的な終楽章は、聴いていて本当にわくわくどきどきしてくる。
 また、森正(1987年に亡くなった。と、言うことは、このCDの初出盤は、彼の追悼盤にもなっていたのか)が指揮したトリプティークも、一気呵成、実にかっこよい。

 交響三章など、湯浅卓雄指揮ニュージーランド交響楽団の演奏<NAXOS>と比較すれば、オーケストラの力量と音楽づくりの精度の高さという点では、残念ながらひけをとるものの、たがの外れ具合、音楽への熱の入り方という点では、こちらも負けてはいないと思う。
 イヤホンで聴くと、どうしても録音の古さは否めないのだが、リマスタリングの効果もあって、作品と演奏を愉しむのに、あまり不満は感じない。

 芥川也寸志の入門にはうってつけの一枚。
 税込み1200円という価格もお手頃だ。


 なお、交響曲第1番と交響三章が録音されたとされる1963年前後、東京交響楽団はRKB毎日・毎日放送の契約を解除され(1962年)、アサヒビール社長の山本為三郎が理事長を退陣し、東芝音楽工業との専属契約を解除され、東京放送・TBSからも契約を解除され(1963年)、ついに解散の発表をよぎなくされ、楽団長でトロンボーン奏者の橋本鑒三郎が自責の念から入水自殺を遂げることとなった(1964年)*。
 その後、東京交響楽団は自主運営の楽団として再建されるのだけれど(だから、あえて旧東京交響楽団と表記している)、日本のオーケストラが辿ってきた歴史を振り返るという意味でもこれは貴重なCDだろう。


*日本フィルハーモニー協会編著『日本フィル物語』<音楽之友社>より
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2013年03月29日

ロジェとイザイ・カルテットが演奏したフォーレのピアノ4重奏曲&5重奏曲

☆フォーレ:ピアノ4重奏曲&ピアノ5重奏曲

 演奏:パスカル・ロジェ(ピアノ)、イザイ・カルテット

 *ピアノ5重奏曲第1番&ピアノ4重奏曲第1番
(1995年12月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>455 149-2

 *ピアノ4重奏曲第2番&ピアノ5重奏曲第2番
(1996年4月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>455 150-2



 そもそも音楽を言葉で表わそうということに無理があるのだけれど、それでも言葉でくどくどと説明したくなるような音楽も、世の中にはやはりある。
 一方で、言葉で説明しようとすればするほど空回り、どうにも嘘臭くなってしまって、はては「言葉が、腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」(byホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』より。岩波文庫)ような、なんとも虚しい想いにとらわれてしまう音楽もある。

 さしずめ、フォーレの室内楽作品、中でもピアノ4重奏曲(2曲)とピアノ5重奏曲(2曲)など、その最たるものではないか。
 端整な表情をしていて日頃は穏やか、ユーモア感覚だってそれなりに持ち合せている。
 けれど、ときとして垣間見える憂いと、心に秘めた激しい感情…。

 ああ、なんとも嘘臭いや!

 いずれにしても、音楽をじっくり愉しみたいと思っている人にはまさしくうってつけの作品だと思う。

 パスカル・ロジェとイザイ・カルテットは、クリアでスマート、それでいて劇性にも富んだ演奏を行っている。
 作品の持つリリカルさを尊重しつつも、粘り過ぎず乾き過ぎず、過度に陥らない音楽解釈でとても聴き心地がよい。
 録音も明快で、フォーレのピアノ4重奏曲とピアノ5重奏曲に親しむのには絶好の二枚だ。
 大いにお薦めしたい。
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2013年03月20日

アルテミス・カルテットのセリオーソとラズモフスキー第1番

☆ベートーヴェン:弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」&第7番「ラズモフスキー第1番」

 演奏:アルテミス・カルテット
(2005年6月&7月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>7243 5 45738 2 8


 一気呵成はまだしも、猪突猛進って言葉には、なんとも言えない危うさを感じる。
 例えば、目の前に並ぶ鉄砲隊もなんのその、進め進め、進め一億火の玉だ! と突撃して、ばたばたばたばたと倒れる、信玄亡きあとの武田騎馬軍団のような。
(最近の研究では、長篠の戦いの様相って巷間伝わっているようなものではなかったらしいけど)

 で、そんな武田騎馬軍団を想起させるといえば、最晩年のヘルマン・シェルヘンがスイス・ルガーノのスイス・イタリア語放送管弦楽団を指揮して遺したベートーヴェンの交響曲全曲のライヴ録音。
 速いテンポでぐいぐいと、と言えばよく言い過ぎだろう。
 笛吹くから踊ってくれ!
 軍配挙げるから突撃してくれ!
 てな具合の叱咤激励(唸り声が凄い!)で、あまり技量に秀でていないオーケストラを駆り立てるものだから、破れかぶれのはちゃめちゃやたけた。
 壊滅破滅のゲシュタルト崩壊寸前。
 まあ、その迫力気力には、上っ面だけ整えた中途半端に上手な演奏なんかより、何倍何十倍何百倍も、心にぐっとくるものがあるんだけどね。
 でも、一般向きとはちょと言えない。

 こなたアルテミス・カルテットが演奏した、第11番「セリオーソ」と第7番「ラズモフスキー第1番」の2曲の弦楽4重奏曲がカップリングされたアルバムは、速いテンポで一気呵成という点だけならばシェルヘンの交響曲と共通するものの、音楽への向き合い方で大きく異なっている。
 ように聴こえる。
(だいいち、まずもって4人のメンバーが達者だ)

 速いテンポ、という部分は、いわゆるピリオド・スタイルの影響で、さくさく、さ・す・そという感じ。
 メリハリがよく効いていて、名人上手がテニスのダブルスでずっとラリーを続けているような緊迫感と爽快感を覚える。
 もちろん、先達アルバン・ベルク・カルテット譲りの、細密精緻な楽曲把握も忘れちゃなるまいが、アルバン・ベルク・カルテットのようなアナリーゼアナリーゼした感じではなく、インティメートな雰囲気が勝った音楽づくりを行っている点が、耳なじみの良さにつながっていると思う。

 ほどよい残響で、録音もクリア。
 高邁で深淵な精神性を求める向きにはあまりお薦めできないが、ベートーヴェンの一面、音楽そのものとしての劇性面白さを愉しみたい方には大いにお薦めしたい一枚だ。

 それにしてもこのCD(輸入盤)、リリース後、それほど間を置かずに廃盤になってしまったんだった。
 そういう武田勝頼みたいなことをやっているから(あくまでも思い込み)、EMIレーベルといっしょにワーナー傘下に吸収されてしまうんだ、Virginレーベルは。
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2013年03月13日

カール・ベームとウィーン・フィルの来日公演から、ブラームスとワーグナーを聴く

☆ブラームス:交響曲第1番他

 指揮:カール・ベーム
管弦楽:ウィーン・フィル
(1975年3月22日/アナログ・ステレオ・ライヴ録音)
<ドイツ・グラモフォン>UCCG-4489


 独墺系を代表する巨匠指揮者だったカール・ベームが亡くなったのは、1981年の8月14日。
 僕がクラシック音楽をちらちらと気にするようになったのは、それから一年後の1982年頃。
 加えれば、僕がクラシック音楽にどっぷりとはまり込んだのは、さらに二年後の1984年頃。
 つまり、一応同じ時代を生きてはいたものの、僕がカール・ベームの存在に気付いたのは、彼が亡くなってからあとのことだった。
 だから、ベームが晩年の手兵ウィーン・フィルと録音したブラームスの交響曲第2番<ドイツ・グラモフォン/LP>やブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」<LONDON/CD>を愛聴はしつつも、どこか過去の人というイメージをぬぐい去ることはできなかった。
(そうそう、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したモーツァルトの交響曲第39番〜第41番「ジュピター」の廉価LP<fontana>も中古で入手していたが、どうも素っ気ない感じがしてあまり聴き込むことはしなかったっけ)
 そして、年長のクラシック音楽の愛好家の方から、ベームとウィーン・フィルの来日公演は凄かったと聴かされるたびに、僕はベームと自分との時間のずれを改めて強く感じたりもした。

 そんなベームとウィーン・フィルの来日公演のうち、1975年3月のライヴ録音が久しぶりに再発されることとなり、その中から3月22日のコンサートの、ブラームスの交響曲第1番とアンコールのワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲がカップリングされたものを購入することにした。
 なお、音源はNHKによるもので、国内のドイツ・グラモフォン・レーベル(ユニバーサル・ミュージック)がリリースを行っている。

 20世紀の終盤、後期ロマン派の作品に関しても、いわゆるピリオド・スタイルによる解釈が進んで、実際ブラームスの交響曲第1番でも、ロジャー・ノリントンとロンドン・クラシカル・プレイヤーズ<EMI>をはじめ、速いテンポでメリハリのよく効いた、作品の持つどこかぎくしゃくとした感じまで強調するような演奏が徐々に市民権を得るようになってきた。
 それに対して、ベームは、王道中の王道と評すべきか、過度に速からず過度に遅からず、鳴らすべきところではたっぷりと鳴らし、歌うべきところではじっくりと、しかし粘らず歌う、作品の長所は前面に押し出し、短所急所は巧く馴らして聴かせるという、実にオーソドックスな音楽づくりを行っている。
 中でも、第4楽章の有名な旋律がこれほどしっくりくる(ああ、この曲もここまでやって来たんだと思える感慨、と言い換えてもいいかな)演奏を聴くのは、本当に久しぶりのことだ。
 そして、ライヴ特有の傷は多々ありつつも、ベームの解釈にしっかりと応えるウィーン・フィルの存在も当然忘れてはならないだろう。
 特に、弦楽器の美しさには聴き惚れる。
 また、カップリングのワーグナーでは、ベームとウィーン・フィルの劇場感覚がよく示されているのではないか。
 いずれにしても、こうした演奏を生で聴くことができなかったことがとても残念でならない。
 お客さんたちの激しい拍手を聴けばなおさらのこと。

 音質はとびきりのものとは言えまいが、演奏を愉しむという意味では、それほど問題はないとも思う。
 クラシック音楽好きには、大いにお薦めしたい一枚だ。


 ところで、最後に付け加えるならば、今回の1975年3月のベームとウィーン・フィルの来日公演のライヴ録音の再発のあり様に関しては、正直僕は全く感心しない。
 と、言うのも、各公演日のプログラムを優先させたカップリングにすればよいものを、あちらからこれ、こちらからこれとごちゃまぜにした、ばらばらなカップリングを行っているからである。
 こうしたことは、LP時代の音源をCD化する際、往々にして起こりがちなことではあるのだが、少なくとも今回の録音に関しては、ドキュメント的な意味合いもあるわけで、どうしてこんなことになるのかと、非常に残念でならない。
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2013年03月05日

アンドルー・デイヴィスが指揮した『マドンナの宝石』

☆マドンナの宝石(オーケストラ名曲・ア・ラ・カルト)

 指揮:アンドルー・デイヴィス
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
(1987年6月/デジタル・セッション録音)
<東芝EMI>CC30-9062(ANGEL BEST100)


 恥の多い生涯を送って来ました。

 齢43を数えるまで、いったいどれほど穴があったら入りたくなるような恥ずかしい事どもを繰り返して来たか。

 あれは、中学2年生の頃。
 クラシック音楽を聴き始め、おまけに吉田秀和の書いた本なんか読み始めた僕は、音楽のW先生(20代後半だったろうか。なかなかきれいな女性だった)に向かって、
「マスネの『タイス』の瞑想曲やマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲とかって、通俗的で次元の低か曲ですね」
と口にしてしまったのだ。
 W先生は、にこっとして、
「あたしは、好きよ。きれいか曲やもん」
と答えてくれたのだけれど、もしかしたら内心>こん、くそガキが<と唸り声を上げていたかもしれない。

 今になって、じゃない、時を経ずして高校に入った頃には、己はなんて馬鹿なことを口にしてしまったのだろうと、自分自身の愚かさ浅はかさを呪ったものである。
 が後の祭、後悔先に立たず、覆水盆に返らず、生兵法は大けがのもと。
 いや、最後のは違うか。

 まあ、それはそれとして、30年以上いろいろなクラシック音楽を聴き続けてきて思ったことは、W先生がおっしゃたように、『タイス』の瞑想曲も『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲も、確かにきれいで耳馴染みのよい曲で、聴けば必ず「ああ、いいなあ!」と感じるということだ。

 ところがどっこい、気がついて周りを見れば怖い蟹、じゃない、こは如何に。
 かつてあれほど録音されていた、クラシックの名曲小品と呼ばれる作品が、影も形もなくなっているではないか。
(って、ちょと大げさだね)

 と言ってこれ、中2(病)の僕のようなお高くとまったスノビストが増えて、名曲小品の価値がだだ下がりに下がったというわけではなく。
 レコードに変わって、長時間収録が可能となったCDが一般化するとともに、マーラーやブルックナーなんて大曲や、これまであんまり知られてこなかった秘曲珍曲が幅をきかせてくるようになったってことで。

 今回とり上げる、アンドルー・デイヴィスがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した『マドンナの宝石』(オーケストラ名曲ア・ラ・カルト)なぞ、それこそ名のあるオーケストラを起用して録音された名曲小品集の末尾を飾る一枚なのではないだろうか。
(そうそう、これは東芝EMIのスタッフがイギリスまで出張して録音した国内企画のアルバムで、東芝EMIからは、先頃亡くなったヴォルフガング・サヴァリッシュとバイエルン州立歌劇場管弦楽団の組み合わせで録音した同種の名曲小品集がリリースされていたし、デンオン・レーベルからは、チャールズ・グローヴズが同じフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した『グローヴズ卿の音楽箱』という名曲小品集が2枚リリースされていた)

 お国物のエルガーの『愛のあいさつ』に始まり、スッペの喜歌劇『軽騎兵』序曲、レハールのワルツ『金と銀』、ポンキエルリの歌劇『ジョコンダ』から時の踊り、ワルトトイフェルのスケーターズ・ワルツ、ヴォルフ=フェラーリの歌劇『マドンナの宝石』間奏曲、イヴァノヴィッチのワルツ『ドナウ河のさざ波』、ボロディンの交響詩『中央アジアの沿う現にて』、ローザスのワルツ『波濤を越えて』、マスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲(!)、エルガーの行進曲『威風堂々』第1番、そしてヘンデルの歌劇『クセルクセス』からラルゴで締めるという、若干脈絡はないけれど、オーケストラの魅力を存分に、そして気楽に味わうことのできるカップリングとなっている。
 カナダのトロント交響楽団のシェフを辞し、母国イギリスに腰を落ち着けたばかりのアンドルー・デイヴィスは、そうした各々の作品の特性魅力をよくとらまえて、実に聴き心地のよい音楽を造り出しているのではないか。
 フィルハーモニア管弦楽団も達者なかぎりだ。
 それにしても、『ドナウ河のさざ波』や『波濤を越えて』なんて、本当に久しぶりに耳にしたなあ。
 『ドナウ河のさざ波』の冒頭部分は、テレビドラマか何かのテーマ曲になっていたこともあって、よくリコーダーで吹いていたくらいなのに。

 例えば、自殺したヘルベルト・ケーゲルがドレスデン・フィルを指揮して録音した同種のアルバムのような「深淵」をのぞくことは適わないが、たまには気楽な気分で音楽に親しむ時間があってもいいんじゃないか。
 それこそ「深淵」ばかりのぞいていると、長年積み重ねて来た自分の恥に耐えかねて、自分の命を自分で奪ってしまうことにもなりかねないもの。

 いずれにしても、音楽好きに安心してお薦めできる、愉しい一枚だ。
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エリアフ・インバルが指揮したブルックナーの交響曲第2番

☆ブルックナー:交響曲第2番

 指揮:エリアフ・インバル
管弦楽:フランクフルト放送交響楽団
(1988年6月/デジタル・セッション録音)
<TELDEC>243 718-2(8.44144ZK)


 エリアフ・インバルがフランクフルト放送交響楽団と録音したブルックナーの交響曲全曲のうち、初期の作品にあたる第2番を聴く。
 第1楽章の冒頭の細かい弦の動きや、金管のファンファーレと、ブルックナーらしさが明確に現れ出した頃の交響曲で、森閑とした、とでも評したくなるような澄んだ感じのする曲調が僕は好きだ。
 インバルは、曲の要所長所をよく押さえるとともに、この交響曲の持ついびつな部分、弱点短所を馴らすことなく、それもまた作品の特性と捉えて細かく表現しているように思う。
 オーケストラの動きに若干鈍さを感じるし、録音もそれほどクリアではないのだが(TELDECレーベルらしく)、ブルックナーの交響曲第2番の特質特徴をよく識るという意味では、ご一聴をお薦めしたい一枚だ。
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アントニー・ペイ独奏によるウェーバーのクラリネット協奏曲集

☆ウェーバー:クラリネット協奏曲集

 独奏:アントニー・ペイ
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1987年10月/デジタル・セッション録音)
<Virgin>VC7 90720-2


 進化には道理あり。
 いわゆる社会ダーウィニズムには、19世紀的な帝国主義臭がふんぷんとして、どうにもこうにも胡散臭さと腹立たしさを覚えるものの、時代に伴った化学技術の進化には、やはりむべなるかなと大いに納得せざるをえぬものがある。
 楽器もまたしかり。
 社会の変化に歩みを合わせるかのような、19世紀、そして20世紀の楽器の変化は、これまた当為のものであり、実際楽曲演奏両面で大きな進化をもたらした。
 でもね、今は今中今は今、と永遠の今日を続けていると、何やら惰性が働いて手垢はつくわ苔は蒸すわ。
 おまけに原子力発電所は壊滅的な事故を起こすわ。
 事は音楽だって同じ。
 オーソドックスといえば聴こえはいいし、確かに超一流の演奏を聴けば、やっぱり王道っていいな、なんて感心感嘆してしまうものの、世の中そんなに超一流ばっかりじゃない。
 惰性でお仕事やってます、的な演奏聴くと、もう萎えちゃうんだよね。

 で、温故知新じゃないけれど、前世紀の最終盤、作品が作曲された当時の楽器、もしくは復元された楽器=ピリオド楽器を使って、しかもその時代の演奏方法を鑑みながら作品を演奏しようって流れが出来てきた。
 つまり、これがピリオド・スタイルってやつ。
 今までの演奏ではいまいちわかりにくかった作品のツボや仕掛けがわかってきたし、スピーディーなテンポ設定は清新快活だし。
 少なくとも、ピリオド・スタイルの出始めはたまりにたまった塵芥を取り去ったような清々しさを感じたものだ。

 今回とり上げる、第1番と第2番の協奏曲にコンチェルティーノ(単一楽章の小協奏曲)を収めたウェーバーのクラリネット協奏曲集のCDも、そんなピリオド楽器とピリオド・スタイルの演奏が「市民権」を得始めた頃に録音された一枚だ。
(なお、これまではアントニー・ペイが吹き振りしたと思っていたが、改めてブックレットを確認すると、ヴァイオリンのロイ・グッドマンがリーダーとメンバー表に記されていた。もしかしたら、オーケストラは彼の弾き振りなんじゃなかろうか)
 いっかなピリオド楽器の名奏者アントニー・ペイと、いっかなピリオド楽器の腕扱きを集めたエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団であろうと、ところどころ音程その他、危なっかしい部分はあったりはするんだけど、反面、作品の持つ陽性歌謡性が巧みに再現されているようにも思う。
 てか、モダン楽器の整って迫力満点の演奏だと、ときにかまびすしさ、ばかりか安っぽさすら感じるウェーバーのクラリネット協奏曲の伴奏(オーケストレーション)が、適度な華やかさで聴こえるのは、やはりこの演奏の魅力なのではないだろうか。

 ロンドンの聖バーナバス教会での録音もほどよい響きで聴きやすく、初期ロマン派好きの方には、ご一聴をお薦めしたいCDである。
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2013年03月01日

ピリスが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第16番&第21番

☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番&第21番

 ピアノ:マリア・ジョアン・ピリス
(2011年7月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>477 8107


 以前、1985年に録音された(と、言うことは、もう30年近く前になる)、マリア・ジョアン・ピリスが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第21番<ERATO>について、「自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある」最近のピリスの演奏と異なって、清新でどうこうと好意的に評したことがあった。
 で、今回改めてピアノ・ソナタ第21番の新旧二つの録音を聴き比べてみて、自分自身の言葉の浅薄さに反省した次第だ。
 いや、確かに1985年の録音の清新な雰囲気、若々しさは魅力ともなっているのだが、新しい録音と比べると、細かな部分(例えば、第2楽章)での表現のちょっとした薄さが気になってしまうのである。
 と、言っても、新旧双方で大きな解釈の違いがあるわけではなく、演奏時間も新しい録音のほうが2分程度長くなっただけではあるのだけれど。
 けれど、一音一音丁寧に紡ぎ上げていくかのような新しい録音でのピリスの演奏の懐の深さ、幅の広さに僕は強く魅かれる。
 上述した言葉を引くならば、自己の深淵と向き合いつつも、そうした状態に溺れることなく、真摯に淡々と音楽を造っている、と評することができるだろうか。
 このレビューを記すまでに、約20回ほどこのCDを聴き返したが、何度聴いても聴き飽きない、充実感に満ちた演奏だと思う。
 また、カップリングの第16番のソナタも、作品の持つ歌唱性と叙情性、躍動感をよく捉えて過不足がない。
 ドイツ・グラモフォンの録音もクリアであり、音楽好きにはぜひともご一聴をお薦めしたい一枚だ。
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パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるシューマンの交響曲第2番&序曲集

☆シューマン:交響曲第2番&序曲集

 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
管弦楽:ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン
(2011年4月、12月&2012年3月/デジタル・セッション録音)
<RCA SONY/BMG>88765 42979 2 SACD


 先頃hr(フランクフルト放送)交響楽団のシェフの座を降りることが伝えられたパーヴォ・ヤルヴィだが(もしかしたら、ベルリン・フィルを狙っているのか?)、このhr響をはじめ、パリ管弦楽団、そしてドイツ・カンマーフィルと精力的な演奏活動、並びに各々のオーケストラの特性をよく踏まえた録音活動を繰り広げている。
 中でも、ハインリヒ・シフ、トーマス・ヘンゲルブロック、ダニエル・ハーディングら歴代指揮者とともにピリオド・スタイルに磨きをかけ続けてきたドイツ・カンマーフィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集は、ピリオド奏法の援用によるモダン楽器オーケストラの演奏の模範解答とでも呼ぶべき過不足のない内容となっているのではないか。

 そうしたパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルがベートーヴェンの次に着手したのは、シューマンの交響曲全集である。
 で、すでに第1番「春」&第3番「ライン」がリリースされているのだけれど、今回とり上げるのは、僕が大好きな第2番と4つの序曲が収められた一枚だ。
(なお、もともとSACDと発売されているものを、僕はCD面で聴く)

 上述したベートーヴェン同様、いわゆるピリオド奏法を援用した、スピーディーでクリアでスマート、なおかつシンフォニックで劇性に富んだ音楽づくりで、交響曲第2番では、レナード・バーンスタインがこの曲の第2楽章を評して言った「mad(気狂い)」な感じや前のめり感は若干馴らされてしまっているように思わないでもないのだが、とても見通しと聴き心地のよい演奏であることも確かだ。
 加えて、小編成ということもあってだろう、同じく交響曲など、シューマンのオーケストレーションの特異さがよくわかる演奏ともなっている。
(終楽章=トラック4の2分15秒あたりの、オルガン的、もしくは金属的な鋭い響きが強く印象に残る)

 また、このアルバムでは、『マンフレッド』、『ヘルマンとドロテア』(ゲーテの作品によるもので、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』がしつこいほどに引用される。急進的と伝えられるシューマンの「政治性」については、いずれ詳しく調べてみたい)、『メッシーナの花嫁』、『ゲノヴェーヴァ』の4つの序曲も聴きものだろう。
 これまでピリオド・スタイルやピリオド楽器のオーケストラでほとんど録音されてこなかった曲目だけに貴重だし*、音楽のツボをよく押さえたリリカルでドラマティックな演奏も充分に満足がいく。

 いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィという指揮者の力量が十二分に発揮された、安心してお薦めできるアルバムだ。


*注
 そもそもシューマンの序曲集自体、録音が少ない。
 交響曲全集のカップリングは置くとして、序曲集という形では、ヨハネス・ヴィルトナー指揮ポーランド国立放送交響楽団<NAXOS>、リオール・シャンバダール指揮ベルリン交響楽団<ARTE NOVA>、パーヴォ・ヤルヴィの父親であるネーメ・ヤルヴィ指揮ロンドン交響楽団<CHANDOS 一枚物のブラームスの交響曲全曲にカップリングされていたのをまとめたもの>を思いつく程度である。
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2013年01月30日

1983年にリリースされた『バロック音楽へのお誘い』

☆バロック音楽へのお誘い

 指揮:イェルゲン・エルンスト・ハンセン
管弦楽:ソチエスタ・ムジカ室内管弦楽団
(1976年1月/PCMデジタル・セッション録音)
<DENON>38C37-7037


 今手元に、『コンパクトディスク・カタログ’85<秋期>[クラシック編]』<音楽之友社>という一冊のCDカタログがある。
 1985年秋頃発売されていたCD(発売予定含む)を、ほぼ一枚ずつ、ブックレット写真や録音データ、簡単な演奏評や録音評付きで紹介したもので、高校時代に購入して何度も読み返し、はては記号やら数字やらを書き込んだため、手垢まみれの上にぼろぼろとなってしまっているのだが、CD初期のリリース状況が詳しくわかることもあって未だに重宝している。
(CDのリリース量が半端ないものになってしまったこともあってか、1992年以降こうした形でのカタログは刊行されなくなったはずだ)

 で、購入当時から気になったものもそうでないものも、このCDカタログに掲載されているCDは、ある種のノスタルジーもあるのだろう、中古CDで見つけるとこまめに購入しているのだけれど、今回とり上げるCDも、まさしくそのうちの一枚。
 北欧の演奏家たちがアルビノーニのアダージョ、ヨハン・セバスティアン・バッハのアリア(G線上のアリアの原曲)、パッヘルベルのカノンとジーグといった、バロック音楽のくくりの中で有名な作品を演奏したアルバムで、正直全く期待はしていなかったのだが、これがなかなかの聴きものだった。
 40年近く前のモダン楽器の室内オーケストラによる録音だから、いわゆるピリオド・スタイルとは全く遠く、音楽の処理の仕方に古さを感じる箇所も少なくないとはいえ、粘らず重苦しくなく、かといって軽過ぎもせず、かつ清潔感を持った演奏と音色で、聴いていてすっと音楽が耳に入ってくる。
 それこそ、北欧の家具のような演奏であり録音であると思った次第。

 それにしても、1983年4月21日のリリース時に3800円だったものが、ほぼ30年の歳月を経て105円(ブックオフの中古)とは、諸々考えざるをえないなあ。
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ザロモン弦楽4重奏団が演奏したモーツァルトの弦楽4重奏曲第20番&第22番

☆モーツァルト:弦楽4重奏曲第20番&第22番

 演奏:ザロモン弦楽4重奏団
(1990年9月/デジタル・セッション録音)
<hyperion>CDA66458


 モーツァルトの弦楽4重奏曲第20番が好きだ。
 特に、伸びやかさと愛らしさとインティメートな雰囲気に満ち満ちた第1楽章が大好きだ。
 だからこそ逆に、自分にぴたぴたっとしっくりくるCDになかなか出合えない。
 ハーゲン・カルテットのCDが今手元にあって、これもほんとに優れた演奏なのだが、どこかで、いやなんかが違うな、という気持ちにとらわれてしまっている。
 そんなこともあって、ブックオフの500円の中古コーナーで見つけた、ザロモン弦楽4重奏団の演奏によるハイペリオン盤を思わず購入してしまった。

 で、ザロモン弦楽4重奏団はヴァイオリニストのサイモン・スタンデイジが率いるピリオド楽器のアンサンブルなのだけれど、同じピリオド楽器のモザイク・カルテットのような流麗さには欠けるものの、実に親密感にあふれた演奏を造り出しているのではないか。
 目当ての第20番の第1楽章も、なかなかいい線いっていると思う。
 ただ、それじゃあこの演奏がベストチョイスとなるかというと、ううん、それはどうだろう。
 演奏の端々にふと顔を出すちょっとした野暮ったさが、どうにも気になってしまうんだよなあ。
 まあ、気にし過ぎといえば、気にし過ぎなんだろうけどね。
 とはいえ、カップリングの第22番ともども、度々聴き返すことになるCDにはなりそうだ。

 古典派の室内楽好きにはご一聴をお薦めしたい一枚だ。
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ハンス・フォンクが指揮したモーツァルトの序曲集

☆モーツァルト:序曲集

 指揮:ハンス・フォンク
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
(1985年7月/デジタル・セッション録音)
<CAPRICCIO>10 070


 今からほぼ20年前のケルン滞在中、ケルンWDR(放送)交響楽団のシェフを務めていたのがハンス・フォンクで、彼の指揮するコンサートには何度も足を運んだものだけれど、正直今一つという感は否めなかった。
 と、言うのも、細部の詰めよりも、作品の全体像の把握と音楽の波の再現を優先する彼の姿勢が、機能性に富んだケルンWDR交響楽団との間に大きなずれを生んでいたように思ったからだ。
 そういえば、同じシーズン中に、前任者のガリ・ベルティーニが特別コンサートの指揮台に立ってがっちりきっちりとオーケストラをコントロールする演奏を行ったことがあって、当代フォンクの指揮の緩さが一層気になったりもしたんだった。
 フォンクが指揮した中では、荒削りながら、ピリオド・スタイルというより、フォンクと同じオランダ出身のパウル・ヴァン・ケンペンがベルリン・フィルを指揮した古いモノラル録音をどことなく想起させる、ドラマティックなベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」に満足した程度か。
(このときは、ギル・シャハムが同じベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトで、とても美しいヴァイオリンの音色を聴かせていた)
 当時、ケルンのオペラ(ギュルツェニヒ管弦楽団)のシェフを務めていたのがジェイムズ・コンロンで、フォンクとコンロンの音楽性、持ち味、得手不得手を考えれば、二人の人事はあべこべなんじゃなかろうかと考えたほどである。
 その後、フォンクはレナード・スラットキンの後任としてセントルイス交響楽団の音楽監督に就任したが、これといった評判を聴くこともなく(近年、ようやくライヴ録音がまとまった形でリリースされた)、母国オランダのオランダ放送交響楽団とようやく柄に合った録音活動をスタートさせてすぐの2004年に、筋委縮性側索硬化症という難病のため亡くなってしまった。

 今回とり上げるCDは、そんなハンス・フォンクが1985年にシュターツカペレ・ドレスデンと録音したモーツァルトの序曲集である。
 今手元にあるリナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー歌劇場管弦楽団や、アンドレア・マルコン指揮ラ・チェトラといった、いわゆるピリオド・スタイルやピリオド楽器による演奏とは全く対照的な、実にオーソドックスな演奏だ。
 メリハリをぐぐっときかせて、激しい音楽づくりを試みるなんてことは全くない。
 粘らず快活なテンポの、それでいて音楽の要所急所はきっちり押さえた劇場感覚にあふれた演奏で、とても耳なじみがよい。
 当然そこには、シュターツカペレ・ドレスデンというとびきりの劇場オーケストラの存在も忘れてはならないだろうが。
 いずれにしても、最晩年のオランダ放送交響楽団とのCDはひとまず置いて、ハンス・フォンクという指揮者の美質特性をよく表わした一枚だと思う。

 カプリッチョ・レーベルによる録音も全く古びておらず、落ち着いた気分でモーツァルトの序曲集に親しみたいという方には絶好のCDではないか。
 中古とはいえ、これが250円とはやはり安過ぎる。

 なお、収録されているのは、『魔法の笛』、『フィガロの結婚』、『アルバのアスカーニョ』、『クレタの王、イドメネオ』、『劇場支配人』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『後宮からの逃走』、『にせの女庭師』、『ルーチョ・シッラ』、『皇帝ティトゥスの慈悲』、『ドン・ジョヴァンニ』の、計11の序曲だ。
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2013年01月25日

ペーター・マークとベルン交響楽団の「スコットランド」

☆メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」&序曲『静かな海と楽しい航海』

 指揮:ペーター・マーク
管弦楽:ベルン交響楽団
(1986年8月/デジタル・セッション録音)
<IMP>PCD849


 スイス出身の今は亡き指揮者ペーター・マークは、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を十八番にしていた。
 アナログ時代に名盤の誉れの高かったロンドン交響楽団とのデッカ盤をはじめ、今回とり上げるベルン交響楽団との録音、最晩年のマドリード交響楽団との録音、さらには度々客演していた東京都交響楽団とのライブ盤と、都合4枚ものCDがリリースされている。
 未聴の東京都響との録音はひとまず置くとして、大まかに言えば、音楽の要所をしっかり押さえつつも、粘らず流れのよい快活な音楽づくりということになるだろうか。
 諸々の経験からくる表現の異動はありつつも、基本的な解釈は、このベルン交響楽団との録音でも大きく変わっていないように思う。
 よい意味で作品の持つイメージを裏切らない、耳になじみやすい演奏だ。
 ただ、終楽章のラストなどオーケストラの弱さを時折感じてしまったことも事実で(第1楽章のさびしい流麗さなど捨て難いものの)、同じスイスのオーケストラでも、機能性に勝るチューリヒ・トーンハレ管弦楽団との録音だったらなあと思わないでもない。
 加えて、もやもやとしたあまりクリアでない音質も若干残念である。
 とはいえ、中古で400円は安いな、やっぱり。
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リカルド・シャイーが指揮したツェムリンスキーの交響曲第2番

☆ツェムリンスキー:交響曲第2番&詩篇第23篇

 指揮:リカルド・シャイー
 合唱:エルンスト・ゼンフ室内合唱団
管弦楽:ベルリン放送交響楽団
(1987年9月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>421 644-2


 CDの登場がクラシック音楽の世界に与えた恩恵の一つとして、それまであまりとり上げられてこなかった作曲家なり作品なりの録音が活発に行われるようになったことを挙げることができるのではないだろうか。
 むろん、LP時代からのマーラー・ブームや、一部の演奏家・プロデューサーによる地道な録音活動も忘れてはならないだろうが、やはりシュレーカーやコルンゴルト、そしてツェムリンスキーら独墺系の作曲家たちの再評価は、CDの誕生と分けては考えられないものであると思う。
 そして、デッカ・レーベルが1990年代に積極的に進めた「退廃音楽(ENTARTETE MUSIK)」シリーズは、ナチス・ドイツによって退廃音楽の烙印を押された結果、急速に勢いを失い、第二次世界大戦後も時代状況の変化の中でなおざりにされてしまった作曲家たちのリバイバルを期した、CDという記録媒体によく沿った意欲的な企画であったとも思う。
(世界的な経済不況の影響により、その「退廃音楽」シリーズが頓挫する形となってしまったことは、なんとも残念なことだ)

 今回とり上げる、リカルド・シャイー指揮によるツェムリンスキーの交響曲第2番を中心としたアルバムは、上述したデッカ・レーベルの「退廃音楽」シリーズの先駆けと評しても、まず間違いではないだろう。
 ただし、シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団他と録音した同じ作曲家の叙情交響曲などと比べて、1897年に作曲された交響曲第2番では、「退廃音楽」と呼ばれるような、実験的な手法技法や鋭く激しい音楽表現は全くとられていない。
 と、言うより、彼を評価したブラームスや、ドヴォルザークら国民楽派の作品と共通するような、美しくて耳なじみのよい旋律と躍動的な快活さをためた作品に仕上がっていて、全曲実に聴き心地がよい。
 だから、ツェムリンスキーに十二音音階以降のシェーンベルク(義弟でもある)らとの共通性を求めるむきは、ちょっと物足りなさを感じるかもしれないけれど、僕はこのツェムリンスキーの若々しい音楽がとても気に入った。
 シャイーとベルリン放送響も、作品の持つ長所を巧く押さえたエネルギッシュな演奏を行っているのではないか。
 また、詩篇第23篇も、清新な雰囲気の音楽と演奏でカップリングに相応しい。

 25年以上前の録音ということで、いくぶんもやっとした感じはするものの、音楽と演奏を愉しむという意味では問題ないだろう。
 これは購入しておいて正解の一枚だった。
 ブックオフの中古CDとはいえ、税込み500円とは安い。
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2012年12月30日

山田一雄と旧日本フィルによるチャイコフスキー&プロコフィエフ

☆チャイコフスキー:交響曲第5番&プロコフィエフ:交響曲第7番

 指揮:山田一雄
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団(旧日本フィル)
(1972年1月、1971年1月/アナログ・ステレオ・ライヴ録音)
<タワーレコーズ他>TWCO-1010


 笛吹けど踊らず。
 という言葉があるけれど、今は亡きヤマカズさん、山田一雄の場合は、踊るから笛吹いてくれ、ではなかったのかなあと、最晩年の彼が指揮したいくつかの演奏会のことを思い出しながら、ついつい思ってしまう。
 あまりにミスが多くって、金返せと本気で腹が立った関西フィルとのブラームスの交響曲第1番、オーケストラの機能性とヤマカズさんの新即物主義的音楽づくりがそれなりにフィットした大阪センチュリー交響楽団とのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」、そして狂喜乱舞の極み、京都市交響楽団とのフランクの交響曲。
 演奏の良し悪しはひとまず置くとして、いずれも「踊る人」山田一雄の面目躍如というべき指揮ぶりだった。
(余談だが、ヤマカズさんと京響のあと、ハインツ・ヴァルベルク指揮ケルンWDR交響楽団でフランクの交響曲の実演に接したことがあったが、ワイマール共和国時代の中道右派のライヒスバンク総裁みたいなヴァルベルクの堅くて硬い音楽づくりは、ちっとも面白くなかった)

 そんな山田一雄の生誕100年を記念して、彼が旧日本フィルを指揮したライヴ音源のCDがタワーレコードからリリースされた。
 今回紹介するのは、1972年1月(詳細不明)に演奏されたチャイコフスキーの交響曲第5番と、1971年1月27日の第213回定期演奏会で演奏されたプロコフィエフの交響曲第7番がカップリングされた一枚だ。

 ヤマカズさんのチャイ5といえば、新星日本交響楽団との晩年のセッション録音が有名だが、60歳前後の指揮者としてもっとも脂の乗り切った時期ということもあってか、このライヴ録音は、きびきびとして流れがよくエネルギッシュな音楽づくりで、とても若々しい。
 現在に比べて個々の技量という点では、管楽器をはじめ精度の低さは否めないが、弦楽器のアンサンブルなど、予想以上にまとまっていることも確かで、フジ・サンケイ・グループによる財団解散とオーケストラ分裂直前の旧日本フィルの水準がよく示されているのではないか。

 一方、プロコフィエフも、チャイコフスキー同様、推進力に富んだ粘らない演奏だけれど、作品の造りもあって、オーケストラのとっちらかった感じが気にならないでもない。

 いずれにしても、山田一雄という日本の洋楽史に大きな足跡を遺した音楽家と、旧日本フィルというオーケストラを記念し記憶するに相応しいCDだと思う。
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カルミナ・カルテットらが演奏したドヴォルザーク

☆ドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲第2番&弦楽4重奏曲第12番「アメリカ」

 カルミナ・カルテット
 テオ・ゲオルギュー(ピアノ/ピアノ5重奏曲のみ)
(2012年7月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88725479482


 スイスの弦楽4重奏団、カルミナ・カルテットといえば、デンオン・レーベル(現日本コロムビア)に録音した一連のアルバムが有名だ。
 中でも、1997年録音のドヴォルザークの弦楽4重奏曲第12番「アメリカ」(カップリングは第14番)には、同じデンオン・レーベルのスメタナ・カルテットの1987年録音の緩やかな演奏に馴染んでいたこともあり、大きな驚きと刺激を受けた。
 と、言うのも、ピリオド・スタイルからの影響もあってだろうが、強弱のメリハリがよくきいて速いテンポ、なおかつよく目の詰まったアンサンブルに、清々しさと若々しさを強く感じたからである。

 そんなカルミナ・カルテットがソニー・クラシカルに移籍し、約15年ぶりにドヴォルザークの「アメリカ」を再々録音(第1回目は、Bayerレーベルに1991年に録音)したのだけれど、アンサンブルに余裕ができたというか、よい意味で音楽に余白の部分が増えたように、僕には感じられた。
 その分、旧録音の畳み込むような張りつめた雰囲気は弱まったようにも思うが、作品の要所急所の押さえ方、作品の結構への目配せの巧さはやはり見事というほかない。

 今回のカップリングは、ピアノ5重奏曲第2番。
 スイス生まれのゲオルギューは、2006年の『僕のピアノコンチェルト』に出演して一躍有名となったピアニストだけれど、ここではカルミナ・カルテットの、作品の持つ劇性をよくとらまえた精緻な音楽づくりに沿った演奏を行っているように感じた。

 クリアな録音も、カルミナ・カルテットらの演奏によく合っていると思う。

 ドヴォルザークが「中欧」の作曲家であったということがよくわかる演奏で、「ボヘミアの郷愁」(それはドヴォルザークの本質の一部ではあるのだが)にとらわれない聴き手、室内楽好きには特にお薦めしたい一枚だ。
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ドロテー・ミールズが歌ったテレマンのアリア集

☆テレマン:アリア集

 独唱:ドロテー・ミールズ(ソプラノ)
 伴奏:ミヒ・ガイック指揮オルフェオ・バロック・オーケストラ
(2011年3月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697901822


 何度か記したことだけれど、僕は声の好みのストライクゾーンがどうにも狭い。
 特にソプラノ歌手の場合は、はなはだしくて、正直、プッチーニのヒロインたちのもわもわむわむわした声は苦手だし、ワーグナーのヒロインたちの張り詰めた声も好んで聴きたいとは思わない。
 それでは、バロック音楽を得意とする高声のソプラノ歌手ならOKかといえばさにあらず、その人の持つちょっとした声の癖がひっかかって、結局やだなあということになる。

 そんな中、当たりも当たり大当たり、直球ど真ん中のソプラノ歌手に出会うことができた。
 ドイツ人とウクライナ人を両親に持つドロテー・ミールズがその人だ。
 と、言っても、すでに今回紹介するCDと同じドイツ・ハルモニアムンディをはじめ、いくつかのレーベルでその歌声を披歴しているから、デビューしたての新人ルーキーというわけではない。
 ただ、無理をして新譜を購入したいと思えるアルバムが、あいにく今までなかったのだ。

 それが、とうとうリリースされた。
 そう、他の作曲家のオペラのためにテレマンが作曲した、いわゆる挿入アリアを中心にまとめたこの一枚である。
 いやあ、それにしてもこのCDはいいな。
 クリアでよく響く声質(もしかしたら、録音の「工夫」もあるかもしれないが)は、若い頃のバーバラ・ボニーを思い起こさせるが、ミールズの場合は、ボニーをさらにウエットにしたような、柔らかさリリカルさしっとりとした感じが魅力的だ。
 また、そうした彼女の声質に、テレマンの明瞭でよく組み立てられた音楽がぴったりと合っている。

 ミヒ・ガイック指揮オルフェオ・バロック・オーケストラは、機能性においては他のピリオド・アンサンブルに大きく勝るとまでは言い難いが、素朴な質感、音色が印象的で、ミールズの歌によく沿っているように思う。

 協奏曲のカップリングも含めて、ドイツ・ハルモニアムンディからはヌリア・レアルによる同種のアルバムがリリースされているのだけれど、僕は断然こちらを選ぶ。
 歌好き、バロック音楽好きに、大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ドイツ・ハルモニアムンディには、ぜひともミールズのハイドンやモーツァルト、ヨハン・クリスティアン・バッハらのアリア集や歌曲集を録音してもらいたいものである。
 声のピークというのは、本当に短いものだから。
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2012年12月17日

ハンドリーとロイヤル・フィルのワーグナー名曲集

☆ワーグナー:管弦楽曲集

 指揮:ヴァーノン・ハンドリー
管弦楽:ロイヤル・フィル
(1993年10月/デジタル・セッション録音)
<Tring>TRP008


 今ではどう言うのかな。
 かつては駅売CDと言ったはずだけど、駅の構内にあるショップや書店のCDコーナーに、1枚500円から1000円あたりのクラシック音楽のCDが棚一列か二列程度並べられていたと思う。
 あなた、サントメプリンシペ祝祭管弦楽団やスケベニンゲン・フィルといったついぞ耳にしたことのない名前のオーケストラが演奏した名曲集に、こなた、フルトヴェングラーやカラヤン、ワルター、トスカニーニが指揮したモノラル時代の名録音と、その内容は千差万別だが、前者は偽名、後者は板おこし(版権の切れた音源のLPレコードを再生録音しCD化したもの)と、いずれも出所不明の怪しげなCDがその多くを占めていた。
 そうした駅売CDの中に、録音はデジタル録音、しかもオーケストラはイギリスの名門ロイヤル・フィル、当たり外れがあるとはいえ演奏自体もけっこういけている、ロイヤル・フィルハーモニー・コレクションというシリーズがある(あった)。
 実はこれ、もともとTringという海外のレーベルがロイヤル・フィルと精力的に進めていた一連の録音の一部を、KEEPという国内の業者が買い取って、手を変え品を変え販売していたものなのだけれど、今回紹介するワーグナーの管弦楽曲集は、そのTringレーベルがリリースした初出盤。
 ちなみに、KEEPのロイヤル・フィルハーモニー・コレクションにも堂々加えられている(いた)。

 で、第1曲目のワルキューレの騎行(『地獄の黙示録』でおなじみの曲)から、ブラス・セクションの鳴り具合のよさに舌を巻く。
 続く、『リエンツィ』序曲、『ローエングリン』第3幕への前奏曲、『さまよえるオランダ人』序曲、『タンホイザー』序曲、いずれをとっても金管群は好調で、まずもってこのアルバムの聴きどころは、ロイヤル・フィルのブラス・セクションだと強く思った。
 加えて、先年亡くなったイギリスの名匠ヴァーノン・ハンドリーの、見通しがよくて粘らないまとまりのよい音楽づくりにも好感が持てる。
 重くてねっとりとしたワーグナーを好まれる、いわゆるワグネリアンの方々には、相当物足りない演奏かもしれないが、この軽やかなワーグナーは何度聴いても聴き飽きない。
(その意味でも、このアルバムのカップリングは正解だろう)
 ジークフリート牧歌など、細かく聴けば粗さを感じる部分もなくはないが、弦に木管ともに達者な演奏だし、若干ざらつきはあるものの録音もクリアだ。

 これは購入して本当によかった一枚。
 ブックオフで中古が250円とは安過ぎる。

 上述したKEEPなら新品が税込み315円で手に入る(った)し、輸入盤もSACD等が廉価で発売されている。
 なお、ブックオフだとKEEPの中古が500円で出たりしているので、注意が必要だ。
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2012年12月14日

ヘンゲルブロックが指揮したドヴォルザークの交響曲第4番とチェコ組曲

☆ドヴォルザーク:交響曲第4番&チェコ組曲

 指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
管弦楽:ハンブルクNDR交響楽団
(2012年6月/デジタル・ライヴ録音)
<SONY/BMG>88725464672


 ピリオド楽器のアンサンブル、フライブルク・バロック・オーケストラやバルタザール・ノイマン・アンサンブルに、モダン楽器の室内オーケストラ、ドイツ・カンマー・フィルと精力的な活動を続けてきたトーマス・ヘンゲルブロックのハンブルクNDR響の新しいシェフへの就任は、ヨーロッパにおけるピリオド・スタイルの隆盛を象徴する出来事の一つだと思う。
(と、言っても、すでに20年以上前にハンブルクNDR響はジョン・エリオット・ガーディナーをシェフに迎えていたのではあるが)
 そして、あいにく聴きそびれてしまったものの、今年の来日公演は、ヘンゲルブロックとハンブルクNDR響の相性のよさを発揮した非常に充実した内容だったと伝えられている。

 ヘンゲルブロックとハンブルクNDR響にとって二枚目のアルバムとなる、ドヴォルザークの交響曲第4番とチェコ組曲(ちなみに、同じドヴォルザークの交響的変奏曲やブラームスのハンガリー舞曲の抜粋とともに、先述したガーディナーもドイツ・グラモフォンにこの曲を録音している)も、そうした両者の好調ぶりがよく表われた演奏となっているのではないか。
 ピリオド・スタイル云々もそうだけど、それより何より、二つの作品の持つ力感、劇性、抒情性、歌謡性が、テンポ感よくメリハリのきいた解釈で細やかにとらえられていて、実に聴き心地がよい。
 ドヴォルザークの音楽に一種の泥臭さを期待して物足りなさを感じるむきもあるかもしれないが、交響曲の第2楽章をはじめとしたワーグナーとの関連性などにもしっかり目配りの届いたクリアな音楽づくりに、僕は好感を抱く。

 ライヴ録音ゆえ、若干こもった響きなのが残念といえば残念だけれど、作品や演奏を愉しむという意味では、まず問題はない。
 ドヴォルザークの交響曲第4番なんて知らないという方や、チェコ組曲って『のだめ』のドラマで使われてなかったっけという方にも大いにお薦めできる一枚だ。
 ヘンゲルブロックとハンブルクNDR響には、ぜひともドヴォルザークの他の交響曲、中でも第5番や第6番を録音してもらいたい。
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ジンマンが指揮したシューベルトの交響曲第5番&第6番

☆シューベルト:交響曲第5番&第6番

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2012年9月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG RCA>88725463362


 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団と進めているシューベルトの交響曲全集の第4段、第5番と第6番がリリースされた。

 まずモーツァルトの交響曲第40番を下敷きにしたと思しき第5番だが、これまでと同じくピリオド・スタイルを援用して速いテンポの粘らない音楽づくりが行われているものの、長調の中に時折厳しい突風が吹くという感じではなく、作品の持つ叙情性や歌謡性、旋律の美しさに主眼が置かれているように思う。

 一方、ハイドンの交響曲第100番の第1楽章の主題を裏返したかのような同じく第1楽章の主題が印象に残る第6番のほうは、強弱のメリハリはよくきいた、きびきびとしてリズミカルな演奏で、この交響曲の快活さをよく表わしているのではないか。
(と、言うことは、つまり、第5番と第6番を「対照的」な作品として描き分けているということか)

 チューリヒ・トーンハレ管も、ジンマンの意図によく沿って精度の高い演奏を繰り広げている。

 シューベルトの交響曲第5番と第6番のベーシックな録音としてお薦めしたい一枚だ。
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2012年12月11日

アントニーニが指揮した運命と田園

☆ベートーヴェン:交響曲第5番&第6番「田園」

 指揮:ジョヴァンニ・アントニーニ
管弦楽:バーゼル室内管弦楽団
(第5番=2008年7月、第6番=2009年7月/デジタル録音)
<SONY/BMG>88697648162


 イタリアのバロック・アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコのリーダー、ジョヴァンニ・アントニーニがスイスのバーゼル室内管弦楽団と進めているベートーヴェンの交響曲集の最新盤(と、言っても、2010年のリリースなんだけど)にあたるのが、この第5番と第6番「田園」を収めた一枚だ。

 バーゼル室内管弦楽団は、もともとモダン楽器による室内オーケストラなのだが、最近ではピリオド楽器もお手のものの両刀使いに変貌している。
 詳しいところまではわからないけれど、たぶんこの演奏でも、ピリオド楽器が多数を占めているのではないか。
 演奏そのものも、ピリオド・スタイル、と言うよりアントニーニお得意のバロック・ロック、バロック・アクロバティックな雰囲気の強い、メリハリがよくきいて、スピーディーなものとなっている。
 推進力抜群な演奏だから、聴いていて全くだれないが、第5番の第1楽章や第2楽章など、ちょっとばかしすかっとし過ぎというか、あれよあれよという間に楽章が終わってしまって、若干味気なくもなくはない。 
 逆に、「田園」のほうは、アントニーニのテンポのよい音楽づくりが、作品の持つ活き活きとした感じ、快活さ、精神的な喜びを十全に描き表わしているようで、心がうきうきしてくる。
(と、なると、リズム感が一層命となる第7番や第8番の録音も大いに期待できるところだが、果たして全集につながってくれるのか、どうか)

 いずれにしても、清新な演奏で、ベートーヴェンのくどさが苦手という方には特にご一聴をお薦めしたいCDだ。
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2012年10月09日

カラヤンが指揮したブラームスの交響曲第2番とハイドンの主題による変奏曲

☆ブラームス:交響曲第2番&ハイドンの主題による変奏曲

 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ベルリン・フィル
(交響曲=1986年6月、変奏曲=1983年2月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>423 142-2


 昔ほどではないけれど、それでもヘルベルト・フォン・カラヤンといえば、今でも20世紀を代表する指揮者、音楽家の一人として多くの方々に知られているのではないだろうか。
 で、前回とり上げたレオポルド・ストコフスキーと同じくカラヤンもまた、と言うよりも、ストコフスキー以上にレコード録音(テクノロジー)と密接に結びついた人物で、コンパクトディスクの開発に、彼が大きく寄与したことは有名である。
 ただ、ストコフスキーが最晩年にいたるまで進取の気質というか、演奏そのものにおいても若々しさと瑞々しさを失わなかったのに対して、カラヤンの場合は年齢を重ねるごとに、よくも悪くも「保守化」していったように、僕には思われてならない。

 ちょうどストコフスキーのBOXセットに収められていたブラームスの交響曲第2番を聴き比べてみれば、そのことがよくわかる。
 確かに、アンサンブルとしての練れ具合ではベルリン・フィルのほうが何日もの長があって、全体的にとても安定した出来となっている。
 ただ、カラヤンの演奏には、老舗の新劇の劇団が老巧の演出家の下でルーティンな演技を繰り広げているといった趣もないではない。
 テキストの解釈として全く間違ってはいないし、まとまりもいいんだけれど、予定調和的ではっとする瞬間が少ないというか。
 もちろん、旋律の磨かれようは抜群だから、音楽に安定した美を求める方には、厭味ではなく大いにお薦めしたい。
 ハイドンの主題による変奏曲も、至極穏当な演奏だ。
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レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス

☆レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス

<SONY/BMG>88691971152(10枚組BOXセット)



 レオポルド・ストコフスキーという名前を耳にして、すぐに思い出すことといえば、いいったいなんだろう。
 ディズニー映画『ファンタジア』との関係や『オーケストラの少女』への出演といった、メディアにおける派手な露出もあるだろうし、楽器配置をはじめとした20世紀のオーケストラ演奏に対する大きな影響もあるだろう。
 それに、ヨハン・セバスティアン・バッハのオーケストレーションはまだしも、ある種ゲテ物的ですらある、編曲やカットを含むくせの強い演奏も忘れるわけにはいかないし(と、言うより、「とんでも指揮者」というイメージがストコフスキーにはどうしても付きまとっているのでは)、最晩年CBS(コロムビア)レーベルと結んだ100歳までの録音契約が端的に象徴するようなレコード・録音(テクノロジー)との深い関係もやっぱりそうだ。
 そして、そうして思い浮かべたあれこれを総合していくと、ストコフスキーが20世紀を代表する指揮者であり音楽家であったことが、しっかりと見えてくる。

 そんなストコフスキーが、CBS(コロムビア)[現SONY/BMG]レーベルに遺した全てのステレオ録音(先述した最晩年の録音も、当然の如く収められている)、CD10枚分をBOXセットにした、その名も「レオポルド・ストコフスキー ザ・コロムビア・ステレオ・レコーディングス」が先頃発売されたのだけれど、いやあ、これは想像していた以上に聴き応えがあったなあ。
 で、本来ならば一枚ごとに詳しくレビューをアップするべきなのかもしれないが、BOXセットを通して聴くことの意味合いも考えて、あえてどどんとまとめて記しておくことにした。


1:ファリャ:バレエ音楽『恋は魔術師』&ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』の愛の音楽(ストコフスキー編曲)
 管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
 メゾ・ソプラノ独唱:シャーリー・ヴァ―レット(ファリャ)
(1960年2月録音)

 かつてシェフを務めたフィラデルフィア管弦楽団を振って、ストコフスキーが久方ぶりに録音した一枚。
 オーケストラの鳴り方に古めかしさを感じなくもないのだが、ツボをよく押さえた演奏と編曲(ワーグナー)で、実にわくわくする。
 ヴァ―レットの地声を活かしたような歌唱も、なまなましくて悪くない。
 デジタルリマスタリングの力もあってだろうが、音質のよさにも驚いた。


2:ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番&コラール前奏曲(ストコフスキー編曲)
 管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
 ヴァイオリン独奏:アンシェル・ブルシロウ(協奏曲)
 フルート独奏:ウィリアム・キンケイド(同)
 チェンバロ独奏:フェルナンド・ヴァレンティ(同)
(1960年2月録音)

 有名なブランデンブルク協奏曲第5番に、コラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』、『来れ異教徒の救い主よ』、『我ら唯一の神を信じる』の編曲物3曲を加えた録音で、ピリオド・スタイルとは真反対のオールド・スタイルな解釈。
 ただし、音楽を慈しむかのような演奏には、好感を抱く。
 一つには教会のオルガン奏者ということも大きいか、コラール前奏曲の編曲にも、ストコフスキーのバッハの音楽に対する真摯さを感じた。


3:ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 ピアノ独奏:グレン・グールド
 管弦楽:アメリカ交響楽団
(1966年3月録音)

 グレン・グールドはストコフスキーの熱烈なファンだったというが、そうしたグールドの想いにストコフスキーもよく応じているのではないか。
 ストコフスキーが創設したアメリカ交響楽団の技術的な弱さは指摘せざるをえないものの、グールドに歩調を合わせて、作品の持つ多面的な性格を細かく再現すべく健闘していると思う。


4:アイヴズ:交響曲第4番&ロバート・ブラウニング序曲、合唱曲
 管弦楽:アメリカ交響楽団
 合唱:グレッグ・スミス・シンガーズ、イサカ大学合唱団
(交響曲=1965年4月、序曲=1966年12月、合唱曲=1967年10月録音)

 ストコフスキーの現代音楽の紹介者としての側面を象徴した一枚。
 ストコフスキー自身が初演した交響曲は、精度の高さでは、その後録音された小澤征爾&ボストン交響楽団、マイケル・ティルソン・トーマス&シカゴ交響楽団、クリストフ・フォン・ドホナーニ&クリ―ヴランド管弦楽団に軍配を挙げざるをえないが、コラージュをはじめとした作品の持つとっちらかった印象、雰囲気を再現するという意味では、まだまだこの録音も負けていない。
 ボーナストラックとして収められた序曲、合唱曲『民衆』、『ゼイ・アー・ゼア!』、『選挙』、『リンカーン』、特にアイヴズの政治的な意識も垣間見える合唱曲のなんとも言えないグロテスクさも、聴きものだ。


5:ビゼー:『カルメン』&『アルルの女』組曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年8月録音)

 ここからは腕っこきのプレーヤーを集めた録音専用のイギリスのオーケストラ、ナショナル・フィルを指揮した最晩年の録音が続く。
(惜しむらくは、4ステレオの録音のためちょっとばかりもわもわとした感じがして、ストコフスキーのシャープな解釈とすれが生じている)
 メリハリのよく聴いたドラマティックな演奏で、全篇聴き飽きない。
 中でも、『アルルの女』のファランドールといった激しい音楽でのクライマックスの築き方が巧い。


6:ストコフスキー 彼のオーケストラのための偉大な編曲集
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年7月録音)

 ストコフスキーは大曲ばかりでなく、いわゆるアンコールピースの演奏編曲にも長けたが、これはそうしたストコフスキーの十八番と呼ぶべき小品を集めた録音だ。
 もちろん大向こう受けを狙った部分もなくはないのだけれど、全曲聴き終えて、一篇のドラマに接したかのような余韻が残ったことが、僕には印象深い。


7:シベリウス:交響曲第1番&交響詩『トゥオネラの白鳥』
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年11月録音)

 交響曲の第3楽章での荒ぶる表現に、トゥオネラの白鳥での静謐で神秘的な表現。
 押すべきところはきっちりと押して、引くべきところはきっちりと引く。
 緩急自在、強弱自在な演奏である。
 それにしても、90歳を超えてのこの若々しい表現には驚くほかない。


8:チャイコフスキー:バレエ音楽『オーロラ姫の婚礼』
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1976年5月録音)

 チャイコフスキーのバレエ音楽『眠りの森の美女』の第3幕、オーロラ姫の結婚式を中心にディアギレフが編曲した作品で、怒り憤りというとちょっと変かもしれないけれど、激しい感情の動きがぐいぐいと伝わってくる演奏になっている。
 シャルル・デュトワ&モントリオール交響楽団の滑らかな演奏と対照的だ。


9:メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&ビゼー:交響曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1977年6月録音)

 ストコフスキーにとって最後の録音となった一枚。
 けれど、これまたその若々しく瑞々しい表現、音楽の流れのよさに驚き、感嘆する。
 なお、ビゼーの交響曲の終楽章はワンテイク(一発録り)だったとか。


10:ブラームス:交響曲第2番&悲劇的序曲
 管弦楽:ナショナル・フィル
(1977年4月録音)

 このBOXセットの中で、僕がもっとも気に入った一枚がこれだ。
 もともと交響曲第2番が大好きだということも大きいのだが、ストコフスキーの自然で流れのよい解釈、表現は聴いていて全く無理を感じないのである。
 加えて、真っ向勝負とでも言いたくなるような悲劇的序曲の精悍な演奏も見事の一語に尽きる。


 と、これだけ盛りだくさんな内容で、HMVのネットショップなら2290円(別に手数料等が必要)というのだから、どうにも申し訳なくなってくる。
(アイヴズを除くとLP初出時のカップリングがとられているため、中には40分弱の収録時間のものもあるが、一枚一枚をじっくり愉しむという意味では、かえってそのくらいが聴きやすいようにも思う。それに、LPのオリジナル・デザインを利用した紙ジャケットという体裁が嬉しいし)

 ストコフスキー のという音楽家、指揮者の果たした役割を改めて考える上で「マスト」な、ばかりではなく、一つ一つの作品を愉しむ上でも大いにお薦めしたいBOXセットだ。
 クラシック音楽好きは、ぜひともご一聴いただければと思う。
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2012年09月28日

フランチェスコ・ザッパの6つの交響曲集

☆フランチェスコ・ザッパ:6つの交響曲集

 指揮:ヴァンニ・モレット
管弦楽:アタランタ・フーギエンス
(2008年5月/デジタル・セッション録音)
<DHM ドイツ・ハルモニアムンディ>88697901562


 ザッパといえば、なんと言ってもフランク・ザッパだが、ザッパはザッパでもここでとり上げるのは、18世紀後半に活躍したイタリアの作曲家フランチェスコ・ザッパの6つの交響曲のCD。

 で、このフランチェスコ・ザッパ、実はフランク・ザッパがたまたまその存在を見つけ出した人物で、1984年にはその名もずばり『フランチェスコ・ザッパ』というタイトルのアルバムまでリリースしている。
(フランチェスコの室内楽を電子楽器で演奏したものだそうだが、残念ながら未聴)

 ブックレットその他を紐解くと、フランチェスコという人はどうやら1763年〜1788年頃、ミラノをはじめイタリアを中心にヨーロッパで活動したチェロ奏者兼作曲家らしく、若干の作品が遺されているようだ。
(ここら辺、それこそ大ザッパな説明で失礼)

 そんなフランチェスコの6つの交響曲をまとめて再現して聴かせたのが、ヴァンニ・モレットとイタリアのピリオド楽器アンサンブル、アタランタ・フーギエンス。
(ちなみに、モレットは電子音楽の作曲家でジャズ・ベース奏者としても活動しているというから、フランク・ザッパの影響を想像することも容易だ)

 古典派時代にミラノで活躍した作曲家の交響曲=シンフォニアを継続的に録音している彼彼女らにとって、今回のアルバムがちょうど5枚目のリリースにあたるのだけれど、いやあ、これはとっても聴き心地がいいな。
 変ホ長調、ト長調、変ロ長調、ハ長調、ニ長調、変ホ長調、と、いずれも長調の作品が並んでいるのだが、アタランタ・フーギエンスの快活で歯切れのよい軽やかな演奏が、作品の持ついきいきとした感じをよく表わしていて、実に愉しい。
 加えて、緩やかな第2楽章での叙情性や歌唱性も魅力的だ。
 また、ニ長調の第2楽章(トラック14)でのチェロ独奏など、フランチェスコ・ザッパのプレーヤーとしての活動を考える上でも非常に興味深い。
(なお、このアルバムでは、第1ヴァイオリン・3、第2ヴァイオリン・3、ヴィオラ・1、チェロ・2、コントラバス・1、オーボエ、ホルン、フルート・各2、チェンバロ・1という編成がとられている)

 フランク・ザッパ云々はひとまず置くとして、古典派が好き、明るくてのりのよい音楽が好きという方には、大いにお薦めしたい一枚である。


 *追記
 変ロ長調、ニ長調の2曲には、サイモン・マーフィー指揮ニュー・オランダ・アカデミーの録音<ペンタトン・レーベル>もあるが、ちょっと重たい感じのする演奏で、モレット&アタランタ・フーギエンスの演奏のほうが僕の好みには合っている。
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2012年07月31日

シューベルトの交響曲第5番と演奏会用序曲集

☆シューベルト:交響曲第5番&演奏会用序曲集

 指揮:ミヒ・ガイック
管弦楽:オルフェオ・バロック・オーケストラ
(2011年7、8月/デジタル・セッション録音)
<SONY/DHM>88697911382


 CPOレーベルやドイッチェ・ハルモニアムンディ(DHM)などで精力的にCD録音を続けている、オーストリアのピリオド楽器オーケストラ、オルフェオ・バロック・オーケストラが、彼彼女らにとって初の初期ロマン派録音となるシューベルトの交響曲第5番と演奏会用序曲を収めたアルバムをリリースした。

 すでにジョス・ファン・インマゼール&アニマ・エテルナ(2回)、ロイ・グッドマン&ザ・ハノーヴァー・バンド、ロジャー・ノリントン&ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ、フランス・ブリュッヘン&18世紀オーケストラと、ピリオド楽器オーケストラによる録音も少なくない交響曲第5番のほうは、よい意味でここ30年ほどのピリオドスタイルの「まとめ」というか、穏やかな雰囲気の中にときとして激しい風が吹くといった作品の性格をよくとらえた安定した演奏になっていると思う。
 若干ピッチ云々以上に重心が低い感じがしないでもないが、作品を愉しむという意味ではそれほど気にはならないだろう。

 ただ、やはりこのCDで重要となるのは、ピリオド楽器オーケストラによる初録音となる変ロ長調D.470、ニ長調D.556、ホ短調D.648の3曲をはじめとした5曲の演奏会用序曲ではないか。
 ハイドンら古典派の影響が色濃い、交響曲と同じ調性を持つD.470から、当時大流行となったロッシーニのスタイルを巧く取り込んでみせた二つのイタリア風序曲(加えて、ニ長調D.590は、『魔法の竪琴』=『ロザムンデ』序曲の雛形ともなっている)と、シューベルトの創作活動の変遷変化や音楽的な個性(歌謡性)と同時代性が如実に示されていて、非常に興味深い。
 オルフェオ・バロック・オーケストラは、とびきり達者とまでは言えまいが、メリハリのきいた清新な演奏で、作品の持ついきいきとした感じを巧く再現しているように思った。
 シューベルトや初期ロマン派好きの方にはお薦めしたい一枚だ。

 ところで、交響曲と序曲集というカップリングで思い出したが、グッドマンがザ・ハノーヴァー・バンドを指揮したケルビーニの交響曲と序曲集は、いつになったらリリースされるのだろう。
 ザ・ハノーヴァー・バンドのサイトによると、RCAレーベルに録音したことは確からしいのだけれど、ずっとペンディング状態になっているのである。
 せっかくならば、このシューベルトのアルバムと対にして聴いてみたいところなのだが。
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2012年07月30日

デヴィッド・ジンマンが指揮したシューベルトの交響曲第3番&第4番「悲劇的」

☆シューベルト:交響曲第3番&第4番「悲劇的」

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年2月/デジタル・セッション録音)


 今からもう20年近くも前になるか。
 シンガポールからフランクフルトに向かう飛行機の機内で、サービスのクラシック音楽の放送に耳を傾けていると、突然激しい感情表現の演奏にぶつかった。
 作品が、「悲劇的」というニックネームを持ったシューベルトの交響曲第4番であることはすぐにわかったし、ピリオド楽器が使用されていることも続けてわかった。
 それにしても、この荒々しい音の響きと狂おしいばかりの焦燥感はなんなんだろう。
 そんな風に心を強く動かされながら交響曲第4番を聴き終えたとき、この録音がロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによって演奏されたものであることをナレーターが告げた。
 なるほど、ノリントンだったのか。
 それからしばらくして、今度はケルンのフィルハーモニーで、ノリントンとヨーロッパ室内管弦楽団が演奏した同じ作品に接することができたのだが、生である分、さらに若き日のシューベルトの感情がほとばしり出てくるというか、「悲劇的」という名前に相応しいエネルギッシュで、なおかつクリティカルな演奏だったように記憶している。

 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮して進めているシューベルトの交響曲全集の第三段、交響曲第3番&第4番「悲劇的」の第4番を聴きながら、ふとノリントンが指揮した同じ作品のことを思い出した。
 今回のアルバムも、第7番「未完成」や第1番&第2番(最晩年の吉田秀和が、『名曲のたのしみ』の試聴室でこの演奏をとり上げていたっけ)と同様、いわゆるピリオド奏法を援用したスピーディーでスマート、細部までクリアな目配りのよく届いた演奏で、全篇心地よく聴き通すことができる。
 CDでこの二つの交響曲に親しむという意味では、大いにお薦めしたい一枚だ。

 ただ一方で、第3番にせよ「悲劇的」にせよ、何か枠の中で巧くまとまってしまったような感じがしないでもない。
 古典的な造形と言われればそれまでだし、実際そうした楽曲解釈の立場に立てば、非常に優れた演奏なのではあるのだけれど。
 例えば、第4番の両端楽章など、聴く側の肺腑を抉るような痛み、鋭さ、激しさに若干欠けるような気がしてならないのである。
 一つには、いっとう最初にリリースされた未完成交響曲で、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が内面の嵐を描いたような激しい表現を行っていたことも大きいのかもしれないな。

 そういえば、ノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した「悲劇的」と交響曲第5番のアルバムが先頃リリースされたんだった。
 聴いてみたいような、聴いてみたくないような…。
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2012年07月07日

ガッティ&フランス国立管弦楽団のドビュッシーの管弦楽曲集

☆ドビュッシー:管弦楽曲集

 指揮:ダニエレ・ガッティ
管弦楽:フランス国立管弦楽団
<SONY/BMG>88697974002


 許光俊が『最高に贅沢なクラシック』<講談社現代新書>で説く「贅沢」にはほど遠いものの、20代半ばより少し前、1993年の秋口から翌年の晩冬に至る約半年間のケルン・ヨーロッパ滞在は、今さらながら僕にとって「最高に贅沢なクラシック」体験だったとつくづく思う。

 例えば、1993年11月5日から7日と、レナード・スラトキン指揮セントルイス交響楽団、ガリ・ベルティーニ指揮ケルンWDR交響楽団、アルミン・ジョルダン指揮スイス・ロマンド管弦楽団のコンサートをケルン・フィルハーモニーで三夜立て続けに聴いたことなど、一つ一つのコンサートの出来はひとまず置くとしても、やはり自分にとってとても贅沢な記憶である。

 機能性は優れているものの、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ルドルフ・ブッフビンダーの独奏)、ストラヴィンスキーの『春の祭典』にしろCD録音以上に陰影の乏しさが気になって、ルロイ・アンダーソンのアンコールだけがやけにしっくりときたセントルイス響のコンサートについてはいずれ記すこともあるかもしれないから詳述しないが、残るWDR響とスイス・ロマンド管の二つは、今もって忘れられない印象に強く残るコンサートとなっている。

 一つには、当時の首席指揮者ハンス・フォンクとどちらかといえば緩い演奏を繰り返していたWDR響が、前任のシェフ・ベルティーニの下、非常に統制のとれた音楽を造り出していたことに感心したこともあれば、スイス・ロマンド管はスイス・ロマンド管で、前半のプログラム、バルトークのピアノ協奏曲第3番でのマルタ・アルゲリッチの胸のすくような「共演」に感激したことも大きかったのだけれど。
(マルタ・アルゲリッチは我がままだからなあ、なんて言葉を自称音楽通に吹聴されたこともなくはなかったが、この夜の愉しそうにオーケストラと「共演」している彼女の姿、さらには休憩後客席で愉しそうにオーケストラを聴いている彼女の姿を観れば、そんな言葉がどうにも怪しく思えてしまったものだ。少なくとも、我がままは我がままでも、あの晩の彼女は、『上からマルタ』ならぬ『上からマリコ』的な我がままだったんじゃないだろうか、きっと)

 加えて、これは偶然なのかどうなのか、いずれのオーケストラも、ドビュッシーの交響詩『海』とラヴェルの『ラ・ヴァルス』をプログラムに組み込んでいたのだけれど、指揮者の解釈ばかりか、オーケストラの持つ音色の違いをまざまざと知らされる想いがして、あれには本当にびっくりした。
 そういえば、あなたWDR響の細かいところまで明快に見通せるようなクリアな演奏に、こなたスイス・ロマンド管のほわんほわんほわんほわんと音がまるっこく包み込むように響く演奏と、同じ作品(ちなみにほぼ同じ座席)でも、こうも違って聴こえるのかと驚いていると、たまたま隣に座っていたフランス人が演奏終了後に、「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」と口にしてにやりとしたんだったっけ。
(WDR響の場合、ドビュッシーとラヴェルは前半のプログラムで、メインはチャイコフスキーの交響曲第5番。『海』は、カプリッチョ・レーベルからCDがリリースされていた)

 ダニエレ・ガッティがフランス国立管弦楽団を指揮したドビュッシーの管弦楽曲集(『海』、牧神の午後への前奏曲、管弦楽のための『映像』のカップリング)を聴きながら、ついついそんなことを思い出してしまった。
 「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」とは、あまりに感覚的で、ある種の偏見が入り混じったと言葉と思えなくもないとはいえ、このCDのドビュッシーを聴くに、確かにそういう風に彼が口にしてみたくなった気持ちも想像できなくはない。
 録音のかげんもあってだろうが、ガッティとフランス国立管弦楽団が造り出すドビュッシーは、細部までよく目配りが届いている上に、オペラでならしたガッティらしく歌謡性や劇場感覚にあふれているというか、音楽の肝をよく押さえた非常にメリハリのきいた音楽に仕上がっている。
 と、言っても、ベルティーニのように、がっちりきっちりと固めきってしまうのではなく、多少粗さは残っても、音楽の自然な流れ、演奏者の感興というものをより活かしているようにも感じられる。
 そうした意味もあって、『海』の終曲や、『映像』など、音のダイナミズムや劇性に富んだ作品が中でも優れた演奏になっているように思った。
 いずれにしても、単なる雰囲気としてではなく、一個の音楽作品、オーケストラ作品としてドビュッシーの作品を愉しみたい方には、大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ベルティーニ&WDR響、ジョルダン&スイス・ロマンド管の驚きよ再びとばかり、ガッティのCDのあとに、セルジュ・チェリビダッケがシュトゥットガルト放送交響楽団とミュンヘン・フィルを指揮した二種類の『海』の録音<前者ドイツ・グラモフォン/後者EMI>を続けて聴いてみたのだが、これは失敗だった。
 なぜなら、演奏の違い、解釈の違いは頭でよく理解できるものの、あの身に沁みるような感覚感慨は、全く得られなかったからである。
 まあ、生とCD(音の缶詰)、当たり前っちゃ当たり前のことではあろうが。

 それにしても、20代半ば前に、連日連夜、それも生活の一部としてコンサートやオペラに足しげく通ったあの半年間は、僕にとって本当に贅沢な体験経験であり、記憶であるのだが、ことクラシック音楽を生で聴くという意味では、僕の人生のピークだったことも明らかな事実だろう。
 それは、とても贅沢で幸福なことではあったけれど、逆にとてつもなく不幸なことであったのかもしれないと、今の僕は思わないでもない。
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2012年06月17日

ウィーン弦楽6重奏団が演奏したドヴォルザークの室内楽曲

☆ドヴォルザーク:弦楽6重奏曲&弦楽5重奏曲第3番

 ウィーン弦楽6重奏団
(1991年4月/デジタル・セッション録音)
<EMI>CDC7 54543 2


 ボヘミアの郷愁。
 なんて言葉を口にすると、あまりにべた過ぎて、陳腐だなあと思ってしまうけど、ドヴォルザークの作品、特に室内楽のゆったりとした楽章、だけじゃなくて第1楽章ののびやかで快活な音の流れを耳にしていると、ついついそんな言葉を口にしてしまいたくなる。
 一方で、ブラームス譲りというか、がっちりきっちりした音楽の造りもそこにはわるわけだし、さらにはクルト・シュナイダーの爆発者よろしく、突然の血沸き肉躍る、ならぬ血沸き頭沸く感情の爆発もドヴォルザークの音楽には含まれている。
 だから、一つ間違うと、分裂気質丸出しのいっちゃった演奏にだってなりかねないのだけれど、ボヘミアの郷愁をひとまず脇に置いたウィーン弦楽6重奏団は、よく練れたアンサンブルを活かして、速いテンポでスマートにクリアにそこら辺りをクリアしていく。
 例えば大好きな6重奏曲の第1楽章など、スメタナ・カルテット他による演奏と比べれば若干塩辛いというか、情より理という感じもしなくはないが、ドヴォルザークの作曲家としての普遍的(と、言っても、それは中欧を中心としたヨーロッパ内におけると限定すべきかもしれない)な力量を識るという意味では、充分納得のいく一枚である。
(こうした演奏には、ニコラウス・アーノンクールとの活動やモザイク・カルテットで知られるヴァイオリンのエーリヒ・ヘーバルトの存在も大きいのではないか)
 中でも、室内楽好きの方にはお薦めしたい。
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2012年05月21日

クリスチャン・フェラスが弾いたヴァイオリン小品集

☆愛の喜び/珠玉のヴァイオリン小品集

 ヴァイオリン:クリスチャン・フェラス
 ピアノ:ジャン=クロード・アンブロシーニ
(1968年12月/アナログ・ステレオ、セッション録音)


 よくよく考えてみたら、我が家(この場合は生家、実家)は、レコード類が少ない家だった。
 一応ステレオ・セットはあったものの、目ぼしいレコードといえば、ニニー・ロッソのアルバム(父の好み)と10枚一セットの唱歌集(これは母の好み)があったきりで、あとは何かの記念でもらったおくんちの実況レコードに、僕の情操教育を目論んだらしいこれまた10枚一セットのクラシック名曲集ぐらいではなかったか。
(クラシックを本格的に聴き始めた頃は馬鹿にしきったこの名曲集だが、渡邉暁雄やヤマカズ山田一雄、はては奥田道昭が旧日本フィルを指揮するというラインナップは、今となってはとても貴重なものだ)

 と、言っても、両親が音楽嫌いかというとそうではなく、母はいわゆるママさんコーラスにも所属して家でもあれこれ歌っていたし、父は父でアルコールなんぞ入ると歌謡曲をなかなかの美声で口ずさんでいた。
 それじゃあどうしてレコードがなかったかと考えると、一つには、父が運輸省の航海訓練所に勤めていて、一年の大半は日本丸や海王丸といった練習船の航海で家を留守にしていたからかもしれない。

 そんな風だから、ヘルベルト・フォン・カラヤンが旧フィルハーモニア管弦楽団を指揮したベートーヴェンの交響曲第5番&第6番(EMIの擬似ステレオ盤)と、クリスチャン・フェラスが弾いたヴァイオリン集の2枚のLPは、我が家のレコード棚の中では結構異色の存在であった。
 そういえば、あれは僕が小学校低学年の頃、引っ越しをしてステレオ・セットを導入した際、浜町(長崎の繁華街。今ではすっかりさびれてしまった)の楽器店兼レコード店に、この2枚のLPを両親と買いに出かけた記憶がかすかに残っている。
 残念ながら、何ゆえこの組み合わせだったのかは今となっては判然としないのだけれど、もしかしたら、クラシック音楽の中でももっともポピュラーな「運命」とヴァイオリンの美しい音色を聴くことのできるレコードを、という感じでお店の人に尋ねて薦められたのが、この2枚だったのではないか。
 まあ、理由はどうあれ、NHKで放映された『音楽の広場』やベートーヴェンの第九のライヴ録画でクラシック音楽に目醒めた僕が、いっとう最初に慣れ親しんだレコードがこの2枚であることだけは間違いない。
 今度、ドイツ・グラモフォンのザ・ベスト1200という廉価盤シリーズで再発されたクリスチャン・フェラスのヴァイオリン小品集を、基本的に国内盤は敬遠している僕が思わず購入してしまったのも、そうしたあれこれを思い出して、どうにも懐かしかったからである。

 で、愛の喜び、愛の悲しみ、ベートーヴェンの主題によるロンディーノ、ウィーン奇想曲というクライスラーのおなじみの小品と、シューマンのトロイメライ、シューベルトのアヴェ・マリア、ディニクのホラ・スタッカート、ドヴォルザークのユモレスク、マスネのタイスの瞑想曲、サン=サーンスの白鳥という粒ぞろいの選曲に、フェラスの弾く艶やかで澄んだヴァイオリンの美しい音色があいまって、何度聴いても聴き飽きない、非常に聴き心地のよいアルバムに仕上がっていると改めて感心した。
 それと、過ぎ去った時間への想いを誘うというか、ノスタルジーがこのアルバムの大きなテーマになっているだろうことも、やはり指摘しておきたい。
 1960年代末の録音だが、演奏を愉しむという意味では全く問題のない音質だし、1200円という手ごろな値段ということもあって、音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。

 そうそう、ただ一点大きな不満があるとすれば、ブックレットのデザイン。
 せっかくオリジナル(国内LP)と同じ写真を使っているというのに、枠を囲って、中央下にThe Best 1200なんて無粋なロゴを入れている。
 輸入盤と違って、国内盤には帯が付いているんだから、ロゴなんてそっちですませておけばいいじゃないか。
 なんとも面白くない話だ。
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2012年05月12日

ブレンデルが弾いたベートーヴェンの初期ピアノ・ソナタ集

☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番〜第3番

 ピアノ独奏:アルフレッド・ブレンデル
(1994年2月/デジタル・セッション録音)
<PHILIPS>442 124-2


 一言で表わすならば、手堅い演奏ということになるか。
 ベートーヴェンにとって初期のピアノ・ソナタ、作品番号2の3曲を収めた一枚だが、アルフレッド・ブレンデルは細部まで丁寧に考え抜いた演奏で、各々のソナタの特性をきっちりと表現している。
 例えば、大好きな第1番の第1楽章に感じるじりじりとした焦燥感など激しい心の動きや、逆に一音一音磨き切った音色の美しさには欠けるものの、作品の全体像を識るという意味ではまずもって問題のない演奏ではないか。
 この三つのピアノ・ソナタになじみのない方に、特にお薦めしたい。
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2012年03月31日

ジンマン指揮によるシューベルトの交響曲第1番&第2番

☆シューベルト:交響曲第1番&第2番

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2011年2月/デジタル・セッション録音)


 デヴィッド・ジンマンが手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団と進めているシューベルトの交響曲全集の第二段として、初期の二つの交響曲、第1番と第2番の2曲が新たにリリースされたが、いやあこのCD、想像していた以上に聴き応えがあったなあ。
 もともとシューベルトの交響曲のうちでも、この第1番と第2番の2曲はそれほど好みじゃなくて、第1番の第4楽章なんて、昔のTBSのホームドラマの「奥様、お日柄よろしくて」といったのりの軽いメロディがどうにも苦手だったんだけど、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管にかかればなんのなんの。
 メリハリをしっかりつけて、きびきび快活に演奏してくれるんだから、全く無問題(モーマンタイ)。
 いわゆるピリオド奏法を援用したスピーディーでスマートな演奏だが、いずれの交響曲とも第2楽章では、シューベルトらしい旋律の美しさや歌唱性、叙情性がべたつかない形で適確に再現されている。
 録音には、いくぶんがじがじじがじがした感じがないでもないけれど、音楽に親しむという意味では、それほど気にならない。
 音楽を聴く愉しみに満ちあふれた一枚で、シューベルトの交響曲第1番と第2番にあんまりなじみのない方にも大いにお薦めしたい。
 そして、残りの交響曲のリリースが本当に待ち遠しい。
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2012年03月28日

ラルキブデッリのブラームス

☆ブラームス:弦楽6重奏曲第1番&第2番

 ラルキブデッリ
(1995年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY>SK 68252


 15年以上も前に国内盤を手に入れて、事あるごとに聴き返してきたCDだから、今さらレビューをアップするのもなんだかなあという気持ちなのだけれど、今年に入って輸入盤を購入したことも事実なわけで、一応文章を記しておくことにする。
 ピリオド楽器による演奏ゆえ、音の厚みに不足するとか、どこか刺々しい感じがするというむきもあるかもしれないが、個人的にはピリオド楽器だからこその音の見通しのよさ、清潔感あふれる音色がとても好きだ。
 特に、第1番の第1楽章のじめじめとしない清々しいノスタルジーや、同じく第1番の第2楽章(ルイ・マル監督の『恋人たち』で効果的に使用されている)の劇性に富んで透徹した叙情性には強く心魅かれる。
 失った時間を噛み締めたくなるような一枚で、大いにお薦めしたい。
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2012年03月26日

バルビローリとベルリン・フィルのマーラーの交響曲第9番

☆マーラー:交響曲第9番

 指揮:ジョン・バルビローリ
管弦楽:ベルリン・フィル
(1964年1月/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<EMI>6 78292 2


 先週、京都文化博物館のフィルムシアターで、黒澤明の『酔いどれ天使』、『野良犬』、『生きる』を三日続けて観たんだけれど、いやあ凄いっていうかなんていうか、ああだこうだと語りたいことがいっぱいあり過ぎて、結局映画記録をアップするのをやめてしまった。
 自分一人でしんねりむっつりPCの前に向かうよりも、人とああだこうだとおしゃべりしているほうが面白いんだもの、そりゃ仕方ない。

 で、ジョン・バルビローリがベルリン・フィルを指揮して録音したマーラーの交響曲第9番のCDも、黒澤作品同様、同好の仲間とああだこうだとおしゃべりしているほうが愉しい一枚ということになるのではないか。
 だいたい、前年のコンサートの出来があまりに素晴らしく、ベルリン・フィルのメンバーが録音を希望したってエピソードからして、話の種になりそうだもの。
 録音のかげんもあってか(とはいえ、リマスターのおかげで言うほど音質自体気になるわけではないが)、細部の粗さが気になる箇所があったり、より肌理が細やかな演奏や斜に構えた演奏を好むむきもあるだろうなとは思ったりもするのだけれど、作品の叙情性や諧謔性、劇性をストレートに表現した実にわかりやすく伝わりやすい演奏であることも事実だろう。
 ベルリン・フィルの面々もバルビローリの解釈によく応えているのではないか。
 非常に聴き応えのある演奏だ。
 それにしても、輸入廉価盤ゆえ、この演奏が1000円以下で手に入るというのは、本当に申し訳ないかぎりである。
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2012年03月07日

デュトワ&モントリオール交響楽団のメンデルスゾーン

☆メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』ハイライト他

 指揮:シャルル・デュトワ
管弦楽:モントリオール交響楽団
(1986年5月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>417 541-2


 もぎぎ、の愛称で知られるNHK交響楽団の首席オーボエ奏者茂木大輔の著書『はみだしオケマン挑戦記』<中公文庫>の中に、「今回のデュトワはしごく、怖い」という一文が収められている。
 デッカ・レーベルによる、ウィーンでのプロコフィエフの交響曲第6番の録音に向けて、1997年のヨーロッパ・ツアー中、NHK交響楽団をしごきにしごくシャルル・デュトワの姿が活写されているのだが、そのデュトワがかつての手兵モントリオール交響楽団といれたメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』ハイライト他のCDを聴きながら、ふとその茂木さんの文章のことを思い出した。

 僕自身にとっては十数年ぶりの再購入となる、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団が演奏したメンデルスゾーンの作品集は、まさしくデュトワとモントリオール響の美質特性をよく伝える一枚ではないか。
 序曲、スケルツォ、間奏曲、夜想曲、結婚行進曲と、いわゆる一番美味しいところだけを集めた『夏の夜の夢』は、個々の音楽の魅力が適確に捉えられていて実に愉しいし、カップリングの『フィンガルの洞窟』、『美しいメルジーネの物語』、『ルイ・ブラス』の三曲の序曲も、音楽の持つ劇性がよく再現されていると思う。
 また、モントリオール交響楽団も、ソロという点でもアンサンブルという点でも均整がとれていて、粗雑さを全く感じさせない。
 と、言っても、茂木さんの一文に触れることがなければ、デュトワの猛烈なしごきなど思い起こすこともない、スマートでスピーディーで活き活きとした演奏でもあるのだけれど。

 デッカ・レーベルの初期のデジタル録音は、今となってはちょっとじがっとした感じをさせないでもないが、それでも音楽を愉しむという意味ではそれほど気にはならないだろう。
 『夏の夜の夢』に加えて、三つの序曲の、モダン楽器のオーケストラによるオーソドックスな演奏として、安心してお薦めできるCDだ。
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2012年03月01日

アナトール・ウゴルスキが弾いたピアノ小品集「ショートストーリーズ」

☆ショートストーリーズ(ピアノ小品集)

 独奏:アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)
(1994年11月/デジタル・セッション録音)
<ドイツ・グラモフォン>447 105-2


 旧ソ連出身のピアニスト、アナトール・ウゴルスキの実演に接したのは、かれこれ20年近くも前になるか。
 半年間のケルン滞在中、地元WDR交響楽団の定期演奏会でブラームスのピアノ協奏曲第1番のソロを弾いたのだが(ちなみに、指揮は先年亡くなったルドルフ・バルシャイ)、その透明感を持った音色と巧みな語り口には強く心魅かれたものだ。
 加えて、アンコールのドメニコ・スカルラッティのソナタも素晴らしかった。
 グールド流の鍵盤に身体を近づけるようなスタイルだったか、はっきりと思い出せないのがもどかしいのだけれど、一風変わった姿勢から紡ぎ出される音楽の表情の豊かで美しいこと。
 ああ、もっと彼の演奏を聴いていたいと心底思わざるをえなかった。

 そんなウゴルスキの一連の録音の中で、彼の魅力特性を過不足なく知ることができるのが、今回とり上げる「ショートストーリーズ」と題されたピアノ小品集である。
(と、こう書くと、なんでそんなことを言えるんだと訝るむきもあるかもしれないが、実は前回とり上げたブラームスのピアノ協奏曲第2番同様このCDもまた、以前国内盤を所有して長い間愛聴していたのだった)

 モーツァルトのジーグと『フィガロの結婚』第3幕の婚礼の場での舞踏曲を結び合わせたブゾーニのジーグ、ボレロと変奏曲を皮切りに、リストの愛の夢第3番、ドビュッシーの月の光、シューマンのトロイメライ、ショパンの幻想即興曲といった有名曲や、スクリャービン、ラフマニノフといった自家薬籠中の小品が、「ショートストーリーズ」(掌篇小説集)というタイトルに相応しい、旋律の美しさや音楽の劇性等々の作品の肝を適確にとらえた細やかで詩情豊かな演奏で再現されていく。
 中でも、人生の深淵が陽性な音楽の隙間からのぞき見えるウェーバーの舞踏への勧誘が強く印象に残る。
 また、メンデルスゾーンのカプリッチョやウェーバーの常動曲と、速いパッセージを聴かせ場とする作品も収められているのだけれど、ここでもテクニカルな側面より、音楽の表情をいかに素早く変化させるかという表現的な部分に演奏の主眼が置かれているように、僕には感じられた。

 いずれにしても、音楽の持つ様々な表情を味わうことのできる一枚ではないか。
 人生は一回きりということを日々噛み締めている人に強くお薦めしたい。
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久しぶりに聴いたブレンデルとアバド&ベルリン・フィルのブラームスのピアノ協奏曲第2番

☆ブラームス:ピアノ協奏曲第2番

 独奏:アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
 指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィル
(1991年9月/デジタル・セッション録音)


 実をいえばこのCD、同じ演奏者の第1番とともに今から15年ほど前に購入して、しばらくの間愛聴していたものだ。
 ただ、CDのコレクションを初出時の輸入盤(フルプライス盤)に絞り始めたことに加え、ちょうど同じ時期に京都市交響楽団の定期演奏会でこの曲をいっしょに聴いた、その頃親しくしていた女性との仲がもわもわもやもやとなってしまったこともあって、えいままよと手放してしまったのである。
 で、それからずっとこのCD、ばかりかブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD自体、買いそびれていたのだけれど、一つには、ぐいぐい鋭く刺すような第1番の激しく強い曲調と対照的な、第2番の緩やかで穏やかな曲調にそれほど魅力を感じていなかったからかもしれない。
 今回久しぶりにブレンデルとアバド&ベルリン・フィルが演奏したこの曲を聴いて思ったのは、まずもってその緩やかで穏やかな曲調が非常にしっくりくるということだった。
 そして、ゆっくりたっぷり音を紡いでいきながら、それでいて、じっくり耳を傾ければ作曲者の様々な心の動きが透けて聴こえてくるような作品の結構が、とても興味深い。
 一方、ブレンデルとアバド&ベルリン・フィルは、非常に安定した演奏を行っていると思う。
 当然、枠をはみ出さない安定ぶりに不満を覚えるむきもあるだろうが、CDとして繰り返し聴くという意味では、やはりその安定した演奏は充分高い評価に値するのではないか。
 第1楽章のホルンや第3楽章のチェロ独奏(ゲオルク・ファウスト)など、ベルリン・フィルもすこぶる達者だし。
 ブラームスのピアノ協奏曲第2番のベーシックなコレクションとして安心してお薦めできる一枚だ。
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2012年02月13日

ペーテル・ヤブロンスキーが弾いたショパンのワルツ集

☆ショパン:ワルツ集(19曲)&ポロネーズ第6番「英雄」

 ピアノ:ペーテル・ヤブロンスキー
(1995年4月/デジタル・セッション録音)
<DECCA>448 645-2


 そんなに嫌いってわけでもないのに、気がつけば手元にショパンのCDがない。
 あるのは、ネルソン・フレイレが弾いた練習曲集(別れの曲とか革命が入ってるほう)&ピアノ・ソナタ第2番「葬送行進曲」<DECCA>きりで、ピアノ協奏曲もない、ピアノ・ソナタ第3番もない、スケルツォもない、バラード、マズルカ、ワルツもない、と吉幾三じゃないけれど、こんなCDラックいやだの状態がずっと続いていた。
 一つには、高校時代に愛聴していたサンソン・フランソワの名曲集のLP<東芝EMI>がずっと頭にこびりついていて、どうしても他のピアニストの演奏になじめなかったことも大きいのかもしれないが。
(ところで、フランソワやグレン・グールドでそのピアノ曲に初めて触れるってことは、志ん生でその噺に初めて触れるってことにつながりやしませんかね?)

 で、これではならじ、だって、ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」はあまたあるピアノ曲の中でも大好きな一曲だからと、ブックオフで中古CDが500円で出ているのをよいことに、スウェーデン出身の若手(と、言っても録音当時)ピアニスト、ペーテル・ヤブロンスキーが弾いたワルツ集(全19曲)&ポロネーズ第6番「英雄」を購入することにした。
 って、実はこのCD、ずいぶん前に国内盤をある人からもらったことがあるのだが、きちんと聴く間もあらばこそ、別のある人に譲ってしまったのだ。
(まあ、その事情に関してはあえてここでは省略)
 だから、ほぼ初めての気持ちで聴いてみたのだけれど、大好きな華麗なる大円舞曲など、フランソワのくだけた感じと対照的な、率直、ソリッド、ストレート、スマートな演奏で、正直ちょっと素っ気ないのではと思ってしまったものの、この調子ですとんすとんと曲が進んでいくこともあり、耳もたれせずに最後の英雄ポロネーズまで聴き終えることができたことも確かである。
 時折、あたりがきついなと思わなくもないが、清々しさと若々しさに満ち満ちた演奏であることに間違いはないだろう。

 演奏にぴったりなクリアな録音ともども、へっ、ショパンなんて甘っちょろい音楽がなんだい、なんて思っている方にこそお薦めしたい一枚だ。

 なお、国内盤にはボーナス・トラックとして夜想曲第20番も収められている。
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2012年02月10日

シュポアの序曲集

☆シュポア:序曲集(8曲)

 指揮:クリスティアン・フレーリヒ
管弦楽:ベルリン放送交響楽団
(1991年1月/デジタル・セッション録音)
<CPO>999 093-2


 先日別宮貞雄が亡くなった際、しばらしくして思い出したのが、彼が音楽をつけた本多猪四郎監督の『マタンゴ』であり、その『マタンゴ』で重要な役回りを果たしていた久保明のことだった。
 久保さん、どうしているのかなあ、弟の山内賢(僕らの世代には、日活の諸作品より『あばれはっちゃく』の担任の先生と言ったほうが通りがよいのでは)は亡くなってしまったけど。
 そう思って、ネットで調べたところ、僅かではあるが最近も出演作があるようだし、どうやら日本俳優協会の理事として俳優の地位向上に努めてもいたらしい。
(その点で、同じ東宝出身の小泉博のことを想起する)
 ただ、一時は東宝の青春スターとして将来を嘱望され、黒澤明の『蜘蛛巣城』や『椿三十郎』にも出演していた久保さんが、その後徐々に活躍の場を狭めていったことも事実で、繊細でどこか翳りのある久保さんよりも、加山雄三のような線が太くて大柄で、陽性に見える人間のほうがスターの地位を占めるのだなあと改めて感じたりもした。

 前々回CDレビューで取り上げたフェスカよりも5年前の1784年に生まれ、33年のちの1859年に亡くなったシュポアの序曲集(『マクベス』、『試練』、『アルルーナ、醜い女王』、『ファウスト』、『イェソンダ』、『山の精霊』、『ピエトロ・フォン・アバーノ』、『錬金術師』の8曲)を聴くと、どうしてもそんな久保明のことが思い起こされる。
 古典派の全盛期から初期ロマン派を経、ロマン派盛期の入口頃まで生きたシュポアの作品は、音楽の構成という意味でも、劇場感覚という意味でも全く聴き応えのないものではない。
 メロディラインだってそれなりに美しいし、曲調の激しい展開(一例を挙げると、『錬金術師』)だってよくツボが押さえられている。
 2曲目の『試練』がモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の、3曲目の『アルルーナ』が同じくモーツァルトの『魔法の笛』の、それぞれの序曲にどことなく似ているのはまあご愛嬌だろう。
 いや味ではなく、モーツァルトとシュポアのこれらの序曲をコンサートのプログラムに並べてみても面白いと思う。
 ただ、例えば近い時期に作曲されたメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の音楽などと比べると、どうしても物足りなさが残ってしまうことも否めない。
 言い換えれば、何かが足りていなかったり、何かが余計であったりという感じというか。
 で、結局そういった印象を与えてしまうことこそが、メンデルスゾーンとシュポアの音楽の受け入れられ方の違いにつながっているように、僕には思われてならないのだ。
 とはいえ、上述した如く、シュポアの序曲そのものの出来が悪いということではない。
 特に、ドイツの初期ロマン派作品が好きな方には安心してお薦めすることができる。
 クリスティアン・フレーリヒが指揮したベルリン放送交響楽団も手堅い演奏で、作品を愉しむという意味では、まず問題がない。

 それにしても、衝撃のラストともども『マタンゴ』の久保さんは忘れられないなあ。
 少なくとも、加山雄三にあの役柄は似合わないだろう。
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2012年02月03日

ブラームスのセレナード第1番&第2番

☆ブラームス:セレナード第1番&第2番

 指揮:アンドレアス・シュペリング
管弦楽:カペラ・アウグスティナ
(2005年9月/デジタル・セッション録音)
<CPO>777 300-2


 先日亡くなった玉木宏樹が、以前ツイッターでブラームスのオーケストレーションの拙さについてツイートしていたことがあった。
 さすがはオーケストレーションの妙手玉木さん(厭味じゃないよ)と感じつつ、あばたもえくぼじゃないけれど、玉木さんが指摘するような拙い部分も含めてブラームスの管弦楽作品が好きなんだよなあと改めて思ったりもした。
 そう、どこかごつごつぎくしゃくしておさまりの悪さを感じる構成だって、欲求不満突然爆発のきらいなきにしもあらずのはっちゃけはきはきステレオ全開ファインオーケー的な部分だって、しっとりしとしととウェットでリリカルな旋律同様、聴けば聴くほど魅力的に思われてならないのである。

 で、そんなブラームスの管弦楽作品のプロトタイプと言ってもよい、セレナード第1番ニ長調作品番号11と第2番イ長調作品番号16(ちなみに、この曲ではヴァイオリンが使われていない)を、アンドレアス・シュペリング指揮カペラ・アウグスティナの演奏で聴いたんだけど、上述したようなブラームスの長所と短所がよく表われていて個人的にはとても面白い一枚だった。
 大好きな第1番の第楽章は、若干もたつき気味でそれほどわくわくしなかったものの、ゆったりとした楽章ではピリオド楽器の素朴で淡々とした音色もあって、作品の持つインティメートな雰囲気や旋律の美しさが巧く表現されていたような気がする。
 その分、音質的なくぐもった感じや音楽的な野暮ったい感じが垣間見える(聴こえる)のは否定できないが、第2番の終楽章の軽やかな愉悦感など聴きどころも少なくないのではないか。
 ブラームスの二つのセレナードのファーストチョイスというよりも、二枚目、もしくは三枚目あたりにお薦めしたいCDだ。

 ところで、玉木さんだったら、このCDをどう評価しただろうな。
 ぜひともその感想を聴いてみたかったのだが。
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2012年02月01日

フェスカの交響曲第1番他

☆フェスカ:交響曲第1番他

 指揮:フランク・ベールマン
管弦楽:ハノーヴァーNDRフィル
(2002年2月、3月/デジタル・セッション録音)
<CPO>999 889-2


 昔、『知ってるつもり』というテレビ番組があったが、名前だけは知っているものの、改めて考えてみると、はていったいどんな人だっけと悩んでしまうことがままある。
 さしずめ、CPOレーベルを中心に、近年その作品のCD録音が少しずつ増えているフリードリヒ・エルンスト・フェスカという作曲家など、その最たるものだろう。
 HMVのサイトなどで、交響曲や室内楽曲の新譜がリリースされたことを目にしているから、フェスカの名前はずいぶん前から知っていて、ああフェスカね、などと「知ってるつもり」でいたのだけれど、実際どんな音楽の書き手なのかと問われたら、これが全く答えようがない。
 新年のJEUGIA三条本店の輸入盤半額のセールのワゴンで、今回取り上げる1枚を見つけて購入し、ようやくフェスカという人物が1789年(フランス大革命の年だ)に生まれ、ドイツ諸邦でヴァイオリニストとしても活躍し、1826年に30台の若さで亡くなったドイツの作曲家ということを知った。

 ほぼ、ベートーヴェンやウェーバー、シューベルトと同時代の作曲家ということで、その音楽も古典派から初期ロマン派のとば口に足を踏み入れかけた、といった内容となっている。
 まず、1810年から11年頃に作曲されたと考えられ、12年に初演された交響曲第1番変ホ長調作品番号6は、古典派の様式に則った四楽章形式の交響曲。
 ブックレットの解説にも記してあるが、第1楽章には同じ調性であるモーツァルトの交響曲第39番第1楽章とそっくりなテーマが登場する。
 加えて、これまた同じ調性のハイドンの交響曲第91番の第1楽章も想起させるなど、どこかで耳にしたことがあるような既視感、ならぬ既聴感は否めないが、構成的な破綻もなく、躍動感も兼ね備えていて、聴き心地のよい交響曲に仕上がっているとは思う。
 続く、作品番号41のニ長調、作品番号43のハ長調の二つの序曲も、明朗で快活な音楽で、それこそコンサートの開幕の序曲としてプログラミングされても全くおかしくないのではないか。
 後者の序曲では、ベートーヴェンの交響曲第5番とつながるようなダダダダンという音型が何度も登場するのが面白い。
 1822年に作曲された歌劇『オマールとイリア』の序曲は、冒頭のものものしい曲調がオリエンタル調であるとともに、まさしく初期ロマン派的で、もしもフェスカが長生きしていれば、いったいどのような作風に変化しただろうかと大いに興味が湧く。
 途中、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の「地獄落ち」を思わせる旋律も表われるが、華々しく堂々たる終曲で、これまた非常に聴きやすい音楽だ。

 フランク・ベールマン指揮ハノーヴァーNDRフィルは、音楽を知るという意味でも、音楽を愉しむという意味でもあまり不満を感じさせない。
 少し粗さを覚えないでもないが、ソロ、アンサンブル、ともに満足のいく演奏である。

 「知ってるつもり」の人はもちろん、フェスカを知らない人にもお薦めしたい。
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2011年12月25日

ムーティ指揮ウィーン・フィルが演奏したシューベルトの交響曲第3番&第5番

☆シューベルト:交響曲第3番&第5番

 リカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル
(1988年/デジタル・セッション録音)

<EMI>CDC7 49850 2


 実演で接したことがないこともあってか、リカルド・ムーティという指揮者に対して、正直あまり思い入れがない。
 録音で聴くかぎり、細かいところまでいろいろ考えていそうで、それが今ひとつ効果を発揮していないというか、全体として同じ調子に聴こえるような感じがするし、逆に曲目によっては力任せとまではいかないものの、エネルギッシュでパワフルな雰囲気ばかりが目につき耳につくという結果に終わってしまっている場合すらある。
 それじゃあ、なんでそんな指揮者のCDを買うんだよと聴かれたら、大好きなシューベルトの交響曲第3番&第5番が500円(ブックオフ・中古)で出ていたからだと答えるばかりだ。

 で、それほど期待せずに聴き始めたCDだったんだけれど、これは予想に反して当たりの一枚だった。
 確かに、ムーティのそれいけずーんずーん的な前進志向はいつもの通りなのだが、それが第3番の陽性な音楽にはぴったりと合っていて、実に心地よいのだ。
(一つには、第3番がイタリア的な曲調を持っていることも大きいのかもしれない)
 一方、モーツァルトの交響曲第40番を下敷きとした思しき第5番のほうは、あとちょっと細やかさが欲しいなと感じはつつも、それが大きな不満につながるということはなかった。
 加えて、シューベルトの音楽の持つ歌謡性もけっこう巧くとらえられているのではないか。
 さらに、個々の奏者、そしてアンサンブルともにウィーン・フィルの音色が美しい。

 この二つの交響曲を一度も聴いたことがないという人にも安心してお薦めできるCDだ。
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2011年12月24日

ケルビーニの弦楽4重奏曲第3番&第4番

☆ケルビーニ:弦楽4重奏曲第3番&第4番

 ハウスムジーク
(1998年7月/デジタル・セッション録音)


 アンソニー・アーブラスターの『ビバ リベルタ!』<法政大学出版局>を読んでいると、フランス革命やベートーヴェンの『フィデリオ』との関係から、ケルビーニの『二日間』といった脱出劇(オペラ)について詳しく触れられていて、なるほどと思った。
 ドイツ・オーストリア圏の、それも特定の作曲家ばかりが尊重されてきた日本ではなおのこと、イタリア生まれでフランスで活躍した(それもオペラで有名な)ケルビーニの作品に接する機会は未だに多くないが、それこそあのベートーヴェンがケルビーニの音楽を高く評価していたということは、やはり留意しておく必要があるのではないか。

 で、そんなケルビーニが遺した弦楽4重奏曲6曲のうち、第3番と第4番の2曲が収められたCDを聴いてみた。
 82年という当時としては非常に長い人生のうち、その後半生にケルビーニは弦楽4重奏曲を作曲したというが、第3番、第4番ともに、確かに長年の作曲経験が活かされた、よく練れて、しかも肩肘張らない余裕のある作風だと思う。
 加えて、音楽のドラマティックな表情やアリアのような歌謡的な旋律(一例を挙げれば第4番の終楽章など)からは、ケルビーニの劇場感覚の豊かさを思い知らされる。

 ヴァイオリンのモニカ・ハジェット、パヴロ・ベズノシウク、ヴィオラのロジャー・チェイス、チェロのリチャード・レスターと、イギリスの腕扱きピリオド楽器奏者が寄り集まったハウスムジークは、録音場所のデッドな音響もあって若干塩辛い音質が気になるものの、基本的にはバランスがよくとれて、なおかつ劇性にも富んだアンサンブルを披歴していると思う。
 看板にとらわれず、なんでも聴いてみたい、と思う音楽好きにはなべてお薦めしたい一枚だ。
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2011年12月21日

ベートーヴェン&シューマンのピアノ4重奏曲

☆ベートーヴェン&シューマン:ピアノ4重奏曲

 エマニュエル・アックス(ピアノ)
 アイザック・スターン(ヴァイオリン)
 ハイメ・ラレード(ヴィオラ)
 ヨーヨー・マ(チェロ)
(1992年3月/デジタル・セッション録音)

<SONY>SK53339


 実演録音問わず、室内楽を愉しむにはいくつかの選択肢がある。
 例えば、かつての百万ドル・トリオのようなその名も轟く名人上手が寄り集まってここぞとばかりに挑む真剣勝負を選ぶ手もある一方、フォーレ・カルテットのような常設団体のじっくりしっかりと練れたアンサンブルの妙味を選ぶ手だってあるわけだ。
 ただし、各々一長一短あって、前者はときに我が我がの力任せな演奏に終わる危険性がなきにしもあらずだし、後者はちんまりちょこちょこと小さくまとまってしまうおそれもなくはない。

 で、今回取り上げるCDは、ちょうどその真ん中ぐらいに位置する演奏ということになるのではないだろうか。
 ヴァイオリンのスターンやチェロのマと、確かに名だたる名手であるけれど、実演録音と何度も演奏を重ねているだけに、アンサンブルとしてのまとまりも思っていた以上に悪くない。
 カップリングの二曲のうち、まず挙げるべきは躍動感にあふれたシューマンで、非常にエネルギッシュな演奏ともなっているが、清潔感に満ちた初期のベートーヴェンのインティメートな雰囲気にも僕は強く心魅かれた。
 録音もクリアで、室内楽好きには安心してお薦めできる一枚だ。
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2011年12月20日

コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:フランス組曲集

 独奏:トン・コープマン(チェンバロ)
(1994年4月/デジタル・セッション録音)

<ERATO>4509-94805-2


 以前どこかで記したことがあるけれど、どうにもヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が苦手である。
(これが、息子のヨハン・クリスティアンの作品なら大好きというのだから、なんとものりが軽いやね)
 と、言って、何がなんでもバッハは聴かぬ槍でもてっぽでも持って来い、などと喰わず嫌いならぬ聴かず嫌いを決め込むほどには頑固じゃない。
 それで、チェンバロのトン・コープマンが弾いたバッハのフランス組曲集の中古CDがブックオフで500円で出ていたので、迷わず購入した。

 で、僅か1枚の中に全6組曲を押し込んだというだけである程度予想はついていたことだが、このCD、僕にはしっくりくるな。
 あっけらかん、と表現すれば言い過ぎかもしれないけれど、長調のみか短調の曲すら、軽い調子ですっきりすらんすらんと流れていく。
 正直、バッハとまじめに向き合いたい人たちには、あまりお薦めできないかもしれないが、個人的には何度聴いても耳にもたれないコープマンの演奏が気に入った。
 バッハを気軽に愉しみたい、それもピアノ演奏はやだ、という方には大いに推薦したい一枚だ。
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2011年11月25日

ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による未完成交響曲他

☆シューベルト:交響曲第7(8)番「未完成」他

 指揮:デヴィッド・ジンマン
 独奏:アンドレアス・ヤンケ
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(録音:2011年5月、9月/デジタル、セッション)

<RCA>88697953352


 わが恋の成らざるが如く、この曲もまた未完成なり。
 というウィリー・フォルスト監督の『未完成交響楽』の記憶が尾を引いて、などと言えば大げさに過ぎるかもしれないが、つい30年ほど前までは、この国でのシューベルトの未完成交響曲の人気は非常に高かった。
 中でも、ベートーヴェンの運命交響曲とのカップリングなど、LPレコードの定番の一つとなっていたほどだ。
 僕自身、高校生活三年間のうちに、カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィル、アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィル、マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル、ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン音楽祭管弦楽団、ペーター・シュヴァルツ指揮東京フィルと、5種類の未完成交響曲のレコードを手に入れて、とっかえひっかえ愛聴していたんだっけ。

 それがCD化が進み、いつの間にか第8番から第7番へと番号が呼び改められる中で、未完成交響曲の人気はずいぶん陰りを見せるようになった。
 いや、今だってコンサートではよく演奏されているし、CD録音だってコンスタントに続いている、
 しかしながら、第1番から第6番の交響曲がLP時代に比べて相当身近な存在に変わった分、シューベルトの交響曲は何がなくとも未完成交響曲という状況ではなくなってきたこともまた大きな事実だろう。

 そんな中、もともと第1番と第2番のカップリングとアナウンスされていた、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集のリリース第一段が未完成交響曲他に変更されたと知ったとき、僕はちょっとだけ驚いた。
 そうか、売れ筋を考えるならば、未だに未完成交響曲を優先させるのだなあと。


 まあ、それはそれとして、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が演奏した交響曲第7(8)番「未完成」は、確かに彼彼女らのシューベルトの交響曲全集の劈頭を飾るに相応しい充実した内容となっているように、僕には感じられた。
 ジンマンらしくピリオド・スタイルを援用した速いテンポのきびきびした造形は予想通りだったし、第2楽章での管楽器のソロなど、これまたジンマンらしい音楽的な仕掛けにも不足していない。
 ただし、そうした点はそうした点として愉しみつつも、僕はシューベルトの内面の嵐が張り裂け出たような激しく、厳しい(録音の加減もあってか、ときに塩辛くも聴こえる)表現により心を魅かれた。
 特に、第1楽章のこれでもかと叩きつけるような強音の連続が強く印象に残った。

 一方、カップリングの独奏ヴァイオリンと管楽器のためのロンド、ポロネーズ、コンツェルトシュトゥックは、アンドレアス・ヤンケの清潔感があって伸びやかなソロもあって、交響曲との間によいコントラストを生んでいるように思う。


 いずれにしても、ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集の完成が待ち遠しい。
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2011年11月14日

ヌリア・リアルが歌うテレマンのオペラ・アリア集

☆テレマン:オペラ・アリア集

 独唱:ヌリア・リアル(ソプラノ)
 独奏:ユリア・シュレーダー(ヴァイオリン)
管弦楽:バーゼル室内管弦楽団

 録音:2010年10月、デジタル/セッション
(ただし、トラック14、15のみ2011年1月ライヴ録音)
<ドイツ・ハルモニアムンディ>88697922562


 あれは高校に入ってすぐの頃のことだから、もう25年以上も前のことになるか。
 FMから流れてくる、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンが演奏したモーツァルトのレクイエムを聴いて、僕はなんとも言えない不可思議な感情にとらわれた。
 なんじゃこの針金を擦り合せたみたいな弦楽器の音は、それに管楽器だって鼻の詰まったような粗汚い音だし。
 そう、いわゆるピリオド楽器による演奏を初めて耳にして、僕はアーノンクールの解釈云々かんぬんよりも前に、モダン楽器とのあまりの音色の違いに度肝を抜かれてしまったのだ。

 で、それからだいぶん時が経ち、慣れとはおそろしいもの(?)で、今ではピリオド楽器による演奏もピリオド・スタイルによる演奏も当たり前、バロック期はもとより、古典派、初期ロマン派ですらピリオド・スタイルじゃないとしっくりこないなあ、といった感覚の持ち主になってしまった。

 そんな人間からすれば、今回取り上げるソプラノのヌリア・リアルがヴァイオリンのユリア・シュレーダー率いるバーゼル室内管弦楽団(ピリオド、モダン、両刀使いのオーケストラだが、このアルバムではピリオド楽器を使用)の伴奏で歌ったテレマンのオペラ・アリア集は、それこそ好みのど真ん中、どストライクということになるのではないか。
 と、言うと、残念ながらこれが、そういうわけにもいかない。
 いや、CDの出来自体は、大いに推薦するに値する。
 しばしば職人芸と呼ばれるテレマンの音楽だが、このアルバムで選ばれた作品も、そうした彼の腕達者ぶりが充分に示されたものばかりだ。
 同時代のバッハの厳粛さやヘンデルの華美華麗さには及ばないものの、その分聴き手の心をくすぐる快活さ、聴き心地のよさに満ちている。
 そうしたテレマンの音楽を、透明感があって清潔感あふれたリアルと、歯切れがよくてしっかりとまとまったバーゼル室内管弦楽のアンサンブルが丁寧に再現していく。
(そうそう、楷書の技とでも呼ぶべきシュレーダー独奏によるヴァイオリン協奏曲2曲もこのCDの聴きものの一つだろう)
 まさしく、今現在のピリオド楽器による演奏、ピリオド・スタイルによる演奏の成果と評するに足る一枚と言えるのではないか。

 ただね、哀しいかな僕の声のストライクゾーンは異様なほどに狭いのである。
 そう、リアルの声や歌い口のちょっとした癖が、どうしても気にかかってしまうのだ。
 もうこれは、自分の頑なさを恨むしかあるまい。
 いやはや、なんともはや。
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2011年10月30日

プティボンのメランコリア

 ☆『メランコリア』

  独唱:パトリシア・プティボン
  伴奏:ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団

<ドイツ・グラモフォン>477 9447


 大好きだったJUDY AND MARYの『クラシック』を聴いてため息を一つ。
 ああ、JAMにとっての旬は、やっぱりOver Drive、ドキドキ、そばかす(含むステレオ全開)、クラシック、くじら12号の頃だったんだよなあと改めて思う。
 そう、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、食べ物に旬がある如く、ジャンルを問わず芸術芸能芸事の世界にも旬があるのだ。

 で、それじゃあ、パトリシア・プティボンの声の旬はいつだったんだろうと、彼女の新譜、『メランコリア』を聴きながら今度は考える。
 何をおっしゃるうさぎさん、プティボンの旬は今じゃん、今中じゃん、あんたバカ?
 と、呼ぶ声が聴こえてくるのもよくわかるし、芸の一語でいえばプティボンの旬はまだまだ今、それはこの『メランコリア』を聴けばよくわかる。
 でもね、声の一語にかぎっていうとどうだろう。
 これは彼女の大阪でのリサイタルを聴いたときにも感じたことだけど、プティボンの声の旬は、ウィリアム・クリスティとの一連のCD、フランスのバロック期のアリア集、そして『フレンチ・タッチ』を録音した頃にあったんじゃないかと僕は思う。
 そして、プティボン本人もそのことをわかっているから、フランス・バロック期のアリア集でドラマティックな自分の歌の特質を試し出しし、あの『フレンチ・タッチ』のはっちゃけ具合全開に到った、言い換えれば、声そのものから歌での演技を一層磨くことにシフとするに到ったのではないか。
(その意味で、欧米の一流の音楽家たちがそうであるように、プティボンには相当優秀なブレーンがついているような気がする。むろん、彼女自身賢しい人だろうとも想像がつくが)

 と、こう書くと、全てが計算づく、そんなのおもろないやん、と呼ぶ声も聴こえてきそうだが、計算がきちんとあった上で、なおかつその枠をはみ出すものがあるから愉しいわけで、『メランコリア』のトラック3。モンセルバーチェの『カンテ・ネグロ(黒人の歌)』やトラック6、ヒメネスの『タランチュラは悪い虫だ』など、プティボンの首が飛んでも歌って愉しませてみせるわの精神がよく表われている。
 特に後者の「アイ!」の地声は、全盛時の篠原ともえを思い出すほど。
 これだけでもプティボン・ファンにはたまらないはずである。

 いずれにしても、『メランコリア』(表題作につながるバクリの歌曲集『メロディアス・ドゥ・ラ・メランコリア』はプティボンのために書かれている)は、詠嘆調の歌、官能的な歌、悲歌哀歌、おもろい歌を取り揃えてイメージとしてのスペインの光と影(なぜならヴィラ=ロボスのアリアやアフロ・ブラジルの民謡も含まれているので)を醸し出すとともに、プティボンの魅力持ち味が十二分に活かされた見事なアルバムだと思う。
 ジョセプ・ポンス指揮スペイン国立管弦楽団の伴奏も堂に入っていて、歌好き音楽好きには大いにお薦めしたい一枚だ。

 それにしても、JAMのファンとなるきっかけがYUKIのオールナイトニッポンで、あの番組では彼女のお茶目さと強さ、弱さ、心の動きがよく出ていてはまってしまったが、パトリシア・プティボンなどラジオ・パーソナリティーにぴったりなんじゃないか。
 ただし、彼女の場合だと、中島みゆきのオールナイトニッポンのようになってしまう気もしないではないが。
(と、言うのは冗談。それはそれとして、プティボンのインタビューなどにも一度目を通していただければ幸いである)
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2011年10月14日

アバド&シカゴ響のチャイコフスキーの交響曲第1番他

☆チャイコフスキー:交響曲第1番「冬の日の幻想」、『くるみ割り人形』組曲

  指揮:クラウディオ・アバド
 管弦楽:シカゴ交響楽団

  録音:1991年3月(デジタル/セッション)

<SONY>SK48056


 チャイコフスキーの交響曲といえば、どうしても第4番、第5番、第6番「悲愴」という三つの作品を挙げざるをえまい。
 美しい旋律に劇的効果、管弦楽技法の妙と、いずれをとっても「名曲」と呼ばれるに相応しい充実した内容となっている。
 そうした後期の三つの交響曲に比べると若干分が悪いとはいえ、第1番から第3番(他にマンフレッド交響曲もあるが)の初期の三つの交響曲もなかなかどうして、捨て難い魅力が潜んでいるのではないか。
 特に、チャイコフスキーにとっては初めての交響曲となる第1番「冬の日の幻想」は、ロシア民謡を想起させる伸びやかなメロディや、ときに前のめり感はあるものの、若書きだからこその清々しい突進力にあふれている。
 当然肌理の粗さや密度の薄さを感じる部分もないではないが、個人的にはかえってそれが、左右両隣が空いた映画館で映画を観ているようなリラックスした気分につながっていて嬉しい。
 アバドとシカゴ交響楽団にはところどころ粗さや、逆に喰い足りなさを覚えたりもするのだけれど、作品の全体像を識るという意味では適切な演奏を行っていると思う。

 小気味よくってチャーミングな小序曲に始まって、華麗な花のワルツでフィナーレを迎える『くるみ割り人形』組曲は、チャイコフスキーという作曲家の魅力特性が十二分に発揮された作品。
 隅から隅まで目配りの届いた、さらなる名演を期待したくもあるが、CDで繰り返し聴くということを考えれば基本的にお薦めできる演奏だろう。
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2011年09月28日

ヘンゲルブロックのメンデルスゾーン&シューマン

☆メンデルスゾーン:交響曲第1番&シューマン:交響曲第4番他

 トーマス・ヘンゲルブロック指揮NDR交響楽団
<SONY>88697940022


 手兵のピリオド楽器アンサンブル、バルタザール・ノイマン・アンサンブルに留まらず、ドイッチェ・カンマー・フィル等モダン楽器オーケストラとも積極的に活動を進めてきたトーマス・ヘンゲルブロックが、(ハンブルク)NDR交響楽団の新しいシェフに選ばれた。
 メンデルスゾーンの交響曲第1番とシューマンの交響曲第4番(初稿)を並べたこのアルバムは、そうしたヘンゲルブロックとNDR響の今がストレートに表現された一枚といえる。

 すでにドイッチェ・カンマー・フィルとのシューベルトの交響曲第1番&ヴォジーシェクの交響曲<ドイツ・ハルモニアムンディ>でも示されていたように、いわゆるピリオド奏法を援用するばかりか、金管楽器など一部の楽器にはピリオド楽器を用いており、まずもってNDR響の変容ぶりに感心する。
(特に、シューマンの交響曲の第3楽章の入りのファンファーレが印象的だ)

 個人的には、冒頭から狂おしいばかりの焦燥感にあふれたメンデルスゾーンの交響曲に心魅かれた。
 と、言うより、この曲がこんなに面白く、こんなに聴きどころの豊富な作品だったのかと正直びっくりしたほどである。
 先述したようなぐいぐい激しく迫ってくるような部分には心掴まれるし、逆に、第2楽章や第4楽章の終結直前のゆっくりとした部分の抒情性、旋律の美しさも実に魅力的だ。
 そして、機械仕掛けの神があたふたと落下してくるようなラスト!
 また、同じメンデルスゾーンの弦楽8重奏曲のスケルツォ(管弦楽版)では、『夏の夜の夢』にも通じるこの作曲家ならではの飛び跳ねるような音楽の愉しさがよく表わされている。

 なお、HMV等のCD紹介ではセッション録音となっているが、曲が終わったあとに拍手とブラボーが収録されていることからもわかるように、少なくともシューマンの交響曲はライヴ録音のようだ。

 いずれにしても、ヘンゲルブロックとNDR響の今後に大いに注目し、大いに期待したい。
 メンデルスゾーンの交響曲全集の録音なんて無理かなあ。
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2011年05月18日

リープライヒのロッシーニの序曲集

☆ロッシーニ:序曲集

 指揮:アレクサンダー・リープライヒ
管弦楽:ミュンヘン室内管弦楽団
 録音:2010年6、7月(デジタル/セッション)
<SONY/BMG>88697771412


 日本のオーケストラともたびたび共演を果たしている、ドイツの若手指揮者アレクサンダー・リープライヒによるロッシーニの序曲集。
 いわゆるピリオド奏法を援用した演奏だが、モダン楽器のオーケストラということもあって、ピリオド楽器特有のざらついた音色とは異なり、肌理の細かい滑らかな響きとなっている。
 劇場感覚には若干不足するような気もしないではないけれど、非常にテンポ感のよいスタイリッシュな音楽造形で、繰り返し聴いてもくどさを感じない。
 ソロ、アンサンブルの両面で、ミュンヘン室内管弦楽団は本来の実力を発揮しているのではないか。
 少なくとも、リープライヒの音楽づくりとオーケストラの若々しさが、よく合っているように、個人的には思われた。
 収録曲は、『絹のきざはし』、『ブルスキーノ氏』、『幸運な錯覚』、『アルジェのイタリア女』、『イタリアのトルコ人』、『マティルデ・ディ・シャブラン』、『セビリャの理髪師』、『ウィリアム・テル』の8曲。
 大好きな『どろぼうかささぎ』や『ラ・チェネレントラ(シンデレラ)』の序曲が含まれていないのは残念だが、あまりとり上げられる機会のない作品が選ばれているのでそこは我慢しよう。
 コアなオペラ好きの方よりも、ロッシーニの音楽を「器楽的」に愉しみたい方にお薦めの一枚ではなかろうか。
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ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団のベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」他

☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他

 指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール交響楽団
<SONY/BMG>88697857372


 あまたあふれんばかりのラーメン屋が並ぶ激戦区。
 さて、いったいあなたはそのうちのどの店を選ぶのか。
 名店ガイドでもおなじみのあの老舗か。
 それとも、麗々しい看板を掲げたこの新入りか…。

 うぬぬ、ラーメン屋とクラシック音楽のCD、それも偉大なる楽聖ベートーヴェンの交響曲のCDを比べるなどとは不敬不遜の極み、てめえは人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ、などと目は血走り口走る原理主義的クラシック音楽愛好家の方がいらしたら本当に申し訳ないが、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団が演奏したバレエ音楽『プロメテウスの創造物』ハイライト&交響曲第3番「英雄」のCDのブックレットの表紙に掲げられた「GODS, HEROS, AND MEN(神々、英雄たち、そして人間)」というタイトルを目にしていると、どうしてもそんなことを思い起こしてしまうのだ。
 つまり、前回の『エグモント』全曲(ただし、『ザ・ジェネラル』というタイトルで物語が現代に置き換えられている)&交響曲第5番同様、あまたあふれんばかりのベートーヴェンの交響曲録音の中で、できるだけ多くのファンの耳目を集めんための営業努力の必死さというかなんというか。

 いや、「神々、英雄たち、そして人間」というテーマで、『プロメテウスの創造物』と交響曲第3番「英雄」を並べたこと自体に無理はない。
 それに、『プロメテウスの創造物』のフィナーレ(トラック5)の旋律は、まんま交響曲第3番の終楽章(トラック9)に転用されているから、音楽としての関係性も悪くない。
 ただ、ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の演奏を聴くかぎり、ちょっとその看板は大仰すぎるんじゃないのかな、と思ってしまうことも事実なのである。

 と、言っても、個人的にはこのCDの演奏が好みに合っていないというわけではない。
 いわゆるピリオド奏法を意識した早めのテンポをとりながらも、打楽器などに過度なアクセントをつけることなく、バランスよくスリムに、しかもシンフォニックな性質もしっかりと活かしつつ音楽を造り上げるケント・ナガノの手腕には感心するし、モントリオール交響楽団もそうした指揮者の意図によく沿った演奏を行っていると思う。
 だから、繰り返し聴くというCD本来の目的から考えれば、悪くない仕上がりのアルバムだと言えるんじゃないだろうか。

 まあ、要は、そういう演奏であり録音だからこそ、あんまり神々やら英雄やら(そこには、人間宣言した現人神を加えてもいいかもしれない)についてイメージできないということで、それこそ指揮者が神であり英雄だったころの演奏を好む方たちには受け入れられないんじゃないかと思ったりするのだ。

 なお、このアルバムはエンハンスドCDとなっていて、そちらに、上述した「神々、英雄たち、そして人間」に関する朗読つきの演奏が収められている。
 ご興味ご関心がおありのむきは、ぜひご一聴のほど。
(ケント・ナガノとモントリオール交響楽団の一連の録音が、カナダ本国ではAnalektaレーベルからリリースされており、このアルバム朗読部分こみの2枚組として発売されているようである)
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2011年04月29日

ボーウェンの交響曲第1番&第2番

 ☆ボーウェン:交響曲第1番、第2番

  指揮:アンドリュー・デイヴィス
 管弦楽:BBCフィル
  録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<CHANDOS>CHAN10670


 人に慣れ親しまれた役回りを受け継ぐということほど難しいものはない。
 これはあくまでも個人的な感じ方だと断った上でのことではあるけれど、例えば雨森雅司の声に慣れた耳からすると富田耕生のバカボンのパパはあまりにももっさく聴こえて仕方がないし、その後船越英二、高島忠夫、名古屋章(スペシャルでは神山繁、伊東四朗)とベテランどころにバトンタッチされた『暴れん坊将軍』の爺も、有島一郎演じる初代加納五郎左衛門の飄々とした中に時折かつての軽演劇時代のやってるやってる感をにじませた演技を知る者からすれば、なんともしっくりこない。
(付け加えると、『暴れん坊将軍』はシーズンを重ねるごとにレギュラー陣のキャスティングの劣化が激しくなり、どんどんアンサンブルとしての面白みに欠けていったような気が僕にはする)
 その点、イギリスのCHANDOSが、自国の作曲家のオーケストラ作品を任せるメインの指揮者に、ブライデン・トムソンやリチャード・ヒコックス(本当はヴァーノン・ハンドリーも挙げたいところだが、彼の場合、他のレーベルでの活躍もあったりしてCHANDOS印と言う感じがあまりしない)の後継者として、すでにTELDECでブリティッシュ・ライン・シリーズを成功させたアンドリュー・デイヴィスを起用したことは、パワフルで明快明晰、それでいて繊細さにも不足しないといった音楽性の継続という意味でも、非常に適切な選択だったのではないだろうか。
(ただし、TELDECの際のBBC交響楽団に対して、こちらCHANDOSでは、同じBBCでもマンチェスターに本拠を置くBBCフィルとアンドリュー・デイヴィスはコンビを組んでいるが)

 そのアンドリュー・デイヴィスとBBCフィルの演奏によるヨーク・ボーウェン(1884年〜1961年)の交響曲第1番、第2番がリリースされたので、早速聴いてみることにした。
 なお、生前の高い評価が嘘のように一時期忘却の彼方に置かれていたボーウェンだけれど、ダットンで室内楽作品がまとめて録音されたり、hyperionからピアノ・ソナタ集がリリースされるなど、近年復活の兆しを見せていて、今回の交響曲の録音は、さらにそのはずみとなるかもしれない。

 で、世界初録音という1902年に作曲された交響曲第1番ト長調作品番号4は、3楽章構成。
 冒頭の軽く飛び跳ねるような感じからして、パリーやスタンフォードに始まるイギリスの交響曲らしい作風だなあと思っていたら、あれあれ30秒から1分を過ぎるあたりになると、なんだかチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の小序曲っぽい曲調になっているじゃないか…。
(加えて、第3楽章=トラック3の2分55秒あたりは同じくチャイコフスキーの交響曲…)
 まあ、確かに他者の影響を言い出せばほかにもいろいろと言えてきりがないのだけれど、基本的には軽快でスタイリッシュでよくまとまった、耳なじみのよい交響曲に仕上がっていると思う。
 アンドリュー・デイヴィスもそうした作品の性質をスマートに描き込んでいて、全く嫌味がない。

 一方、第1番の7年後に作曲された第2番ホ短調作品番号31(こちらは4楽章形式)は、「イギリスのラフマニノフ」という日本語カバーの惹句そのもののような冒頭のファンファーレにおおっと思うが、そのまま情念音塊一直線と突っ切らないところが、ボーウェンという人の弱さでもあり魅力でもあるのかもしれない。
 エルガーを想起させる部分もあれば、同時代の別の作曲家の作風を想起させる部分もあるが、第1番に比してオーケストラの鳴らせ方が一層こなれている点も当然指摘しておかなければなるまい。
 アンドリュー・デイヴィスとBBCフィルも、力感あふれた演奏でそうしたボーウェンの変化をよくとらえているように感じた。

 BBCフィルの録音にはいつも感じる、レンジの狭さというか音のせせこましさ、何かすっきりしない音のもどかしさは正直好みではないが、イギリス音楽愛好家や後期ロマン派好きにはご一聴をお薦めしたい一枚だ。
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2011年04月22日

夕べの調べ(リスト:ピアノ作品集)

 ☆夕べの調べ(リスト:ピアノ作品集)

  独奏:ネルソン・フレイレ
  録音:2011年1月(デジタル/セッション)
 <DECCA>478 2728


 聴き始めればそれなりにきちんと聴くのだけれど、自分から好んで聴こうとは思わない作曲家がいる。
 パガニーニやラフマニノフ、そして今年生誕200年を迎えたリストなど、その最たるものだろう。
 こうやって名前を挙げてみればはっきりするが、華麗なる技巧を散りばめたいわゆるヴィルトゥオーゾ・タイプの作品がどうにも僕の好みには合わないらしいのだ。
 だから、パガニーニにしてもラフマニノフにしてもリストにしても、積極的にCDを買ってはこなかった。
 例えば、パガニーニのCDは今一枚も手元にないし、ラフマニノフとてもらい物の交響曲全集があるだけ。
 そしてリストもまた同様で、ゾルタン・コチシュが独奏を務めたピアノ協奏曲集を譲って以来、一枚たりとて自分のCD棚に加えたことがなかった。

 そんな人間が、リストのピアノ作品集のCDを購入にしてみようと思ったきっかけは、ひとえにネルソン・フレイレが自分自身の愛着の深い作品を選りに選って録音するという解説文に心魅かれたからである。
 と、言うのも、僕は何年か前にたまたまフレイレが弾くショパンの練習曲集とピアノ・ソナタ第2番他<DECCA>を購入して、その誠実で丁寧な演奏に感心したことがあったからだ。

 実際、森のささやき、巡礼の年第2年『イタリア』から「ペトラルカのソネット第104番」、忘れられたワルツ第1番、ハンガリー狂詩曲第8番、バラード第2番、巡礼の年第1年『スイス』から「ワレンシュタットの湖畔で」、ハンガリー狂詩曲第3番、6つのコンソレーション、超絶技巧練習曲集から「夕べの調べ」、と並べられたプログラミングを目にするだけで、このアルバムが単なるこれ見よがしの技巧のひけらかしではないことがわかるのではないか。
 もちろん、二つのハンガリー狂詩曲や、アルバムのタイトルとなっている「夕べの調べ」など、フレイレのテクニックのあり様もしっかりと示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、比較的淡々としていて、しかしリストの音楽の持つ抒情性やインティメートな感覚をしっかりととらえた彼の音楽の歌わせ方にまずもって魅了された。
 中でも、6つのコンソレーションの優美で繊細な感情表現が強く印象に残った。

 いずれにしても、リスト=けばけばしい音楽、と誤解している方々にこそお薦めしたい一枚である。

 そういえば、CD初期(と、言うよりLP末期)に今は亡きホルヘ・ボレットが、リスト編曲によるシューベルトの歌曲集を録音していたが、できることならフレイレにも同じようなアルバムをつくってもらいたい。
 シューベルトとフレイレの音楽性はとても相性がよいように思うのだが。
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2011年04月18日

アンドレア・マルコンのモーツァルトの序曲集

☆モーツァルト:序曲集

 指揮:アンドレア・マルコン
管弦楽:ラ・チェトラ
 録音:2010年10月(デジタル/セッション)
<DG>477 9445


 アンドレア・マルコンといえば、手兵ヴェニス・バロック・オーケストラとの様々なアルバムで知られるバロック音楽のスペシャリストだが、その彼がモーツァルトの序曲集を録音したというので迷わず購入した。
 ただし、今回の録音は、スイス・バーゼルに本拠を置くピリオド楽器アンサンブル、ラ・チェトラを指揮したもので、このマルコン&ラ・チェトラが伴奏を務めたドイツのソプラノ歌手モイカ・エルトマンのモーストリー・モーツァルトというタイトルのアリア集(モーツァルトやサリエリ、パイジェッロ、ヨハン・クリスティアン・バッハやホルツバウアーらの)がちょうど同じタイミングで発売されている。

 イタリア出身のバロック系の指揮者によるモーツァルトの序曲集では、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団のCD<Naïve>をすぐに思い出すのだけれど、あちらが『皇帝ティトゥスの慈悲』や『フィガロの結婚』の行進曲を埋め込むなどカップリングに工夫をこらしていたのに対し、こちらマルコン盤のほうは、『アポロとヒュアキントス』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『偽ののろま娘』、『ポントの王ミトリダーテ』、『救われたベトゥーリア』、『アルバのアスカニオ』、『ルーチョ・シッラ』、『羊飼いの王様』、『クレタの王イドメネオ』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』、『魔法の笛』、『皇帝ティトゥスの慈悲』と、ほぼ作曲順(ケッヘル番号順)に序曲を並べた非常にオーソドックスなプログラミングで、例えばハッセやホルツバウアー、ヨハン・クリスティアン・バッハといった同時代の作曲家たちの影響を受けながら、いかにしてモーツァルトが劇場感覚を磨きオリジナリティを確立していったかが理解できるような仕掛けとなっている。
(『偽の女庭師』と『レ・プティ・リアン』の二つの序曲が抜けているのは本当に残念ではあるが、その代わり、『救われたベトゥーリア』や『羊飼いの王様』のような比較的珍しい序曲を聴くことができるのでよしとしたい)

 また、金管楽器やティンパニを強調したり、速いテンポで激しい感情表現を繰り広げるなど、マルコンはバロック奏法を援用した楽曲解釈を行っており、モーツァルトの序曲の持つ劇(激)性や快活さをよく示していると思う。
 個人的には、悲劇性と喜劇性が混交した『ドン・ジョヴァンニ』の序曲の目まぐるしい動きが、中でもマルコンの性質に合っているような気がして、それこそエイトマンをキャスティングした全曲盤を録音してはどうかとすら感じた。

 録音は、若干すっきりしない感じがしないでもないが、作品と演奏を愉しむという意味では、まず問題はないだろう。

 適うことならば、マルコン&ラ・チェトラのペアによるハイドンやヨハン・クリスティアン・バッハの序曲集の録音も願いたいところだ。
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2009年07月02日

アレッサンドリーニ指揮のモーツァルトの序曲集

 ☆モーツァルト:序曲集

  リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団
  2008年5月、ノルウェー国立歌劇場(オスロ)/デジタル録音

  <naïve>op30479


 鮨屋やおでん屋は、玉子でその味のよしあしがわかるというが。
 さしずめ、オーケストラの演奏のよしあしは、モーツァルトの序曲でわかるんじゃないかと、僕は思う。
 なんてことを書くと、またまた好き勝手なことを言っちゃって、「執筆業ですか。大丈夫ですか?」などといらぬ気遣いをさせそうだけど。
 でも、モーツァルトの序曲の演奏を聴けば、その指揮者なりオーケストラなりの劇場感覚のあるなしや、音楽の本質のつかみ方の巧さ手際のよさ、弦楽器管楽器さらには打楽器のソロイスティックな魅力(もっと意地悪を言えば、演奏者たちの手の抜きかげん)がばっちりわかってしまうことも事実で。
 あながち的外れなことを言っているつもりはない。

 で、その伝でいけば、リナルド・アレッサンドリーニ指揮ノルウェー国立歌劇場管弦楽団によるモーツァルトの序曲集は、それこそアレッサンドリーニという指揮者やノルウェーのオペラのオーケストラの魅力や実力を十二分に示したアルバムになっていると評することができるのではないか。
 『皇帝ティトゥスの慈悲』、『フィガロの結婚』、『魔法の笛』、『後宮からの逃走』、『劇場支配人』、『クレタの王イドメネオ』、『ポントの王ミトリダーテ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『レ・プティ・リアン』、『バスティアンとバスティエンヌ』、『コジ・ファン・トゥッテ』という選曲自体はそれほど珍しいものではないとはいえ、各々の音楽の性質をよく踏まえた構成がとられていると思うし、『ティトゥス』や『フィガロ』、『魔法の笛』などの行進曲が収められている点が実に興味深い。
(アルバムの選曲や作品の解釈については、ブックレット中のアレッサンドリーニへのインタビューが詳しい。ここでは、ニコラウス・アーノンクールの影響などにも言及されているが、「簡にして要を得た」という言葉がぴったりのインタビュー記事になっている)

 演奏は、ヴィヴァルディをはじめとしたバロック音楽を得意としてきたアレッサンドリーニだけに、打楽器の強調や弦楽器の独特なアクセントの付け方など、強弱のはっきりとした音楽づくりで、モーツァルトの序曲の持つ劇的な性格が明確に表されていると思う。
 個人的には、本来「ささいなもの、つまらないもの」という意味のあるバレエ音楽『レ・プティ・リアン』序曲(トラック16)がやけに威勢よく鳴らされていたことと、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』第1楽章の第1主題に旋律がそっくりな『バスティアンとバスティエンヌ』序曲(トラック17)が、いつも以上に「それらしく」聴こえたことが面白くて仕方なかった。
 また、ノルウェー国立歌劇場管弦楽団も、いわゆるピリオド奏法の援用に対して全く無理を感じさせない表現で、これまでのアレッサンドリーニとの共同作業が充実したものであったことを推測させるに充分な演奏内容だった。

 歌劇場での録音ということもあってか、若干セッコな(乾いた)感じがしないでもないけれど、音質自体はクリアで聴きやすいものだから、作品と演奏を愉しむという意味では基本的に問題はないだろう。
 特に、ピリオド奏法によるモーツァルト演奏に親しんだ人には大いにお薦めしたい一枚だ。

 それにしても、このCDを聴くと、またぞろ彼と我との違いを痛感してしまうなあ。
 どうしても。
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2009年05月31日

気軽に聴けるモーツァルト

☆モーツァルト:交響曲第12番〜第14番他

 ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
 1989年&90年、デジタル録音
 <CAPRICCIO>10 329


 ライヴじゃなくて、CDという音の缶詰だからこそしっくりくるという演奏がある。
 はじめて耳にしたときは、ううんと首を傾げ、ありゃりゃこれ外れかな、とがっくりきたりもするのだが、何度か繰り返して聴いているうちに、おやおやけっこういけるんじゃないのと耳になじんでくるようなCDの場合が、特にそうだ。
 いろいろ事情があって今は手元にない、ナクソス・レーベルから出ている、ミヒャエル・ハラスがハンガリーのアンサンブルを指揮したシューベルトの交響曲などそのわかりやすい例だけれど、今回取り上げる、ハンス・グラーフとザルツブルクのオーケストラが演奏したモーツァルトの交響曲集も、そんな一枚に加えることができると思う。

 このCD、確か、1991年のモーツァルト没後200年にあてこんで比較的短いスパンで録音された全集中の一枚ということもあって、演奏そのものは、正直すこぶる見事、というようなものではない。
 よくいえば流麗だけど、ハンス・グラーフ(アーノンクールの代役としてウィーン国立歌劇場の『魔法の笛』来日公演を指揮したり、ウィーン・フィルの定期に登場したり、NHK交響楽団の定期公演も振ったりしたことのあるこの指揮者は、今どうしているんだろう? デンマークのオーケストラのシェフをやってるように記憶しているが、これは間違いかもしれない)の解釈は、いわゆるオーソドックスな、「シンフォニックに流しておきました」の典型だし、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団も、例えば、アイヴァー・ボルトンとの最近の録音ほどには目が詰まっていない。
 でも、これが聴けばきくほど、耳になじんでくるのだからあら不思議!
 まあ、これには、モーツァルトのこの頃の音楽が、彼らしいきらめきはありつつも、まだまだ円熟の閾には達していずに、同時代のヨハン・クリスティアン・バッハの交響曲なんかと比べると、やたらと饒舌に聴こえるのと関係しているのではないだろうか。
 実際、ヤープ・テル・リンデンがピリオド楽器のオーケストラ、モーツァルト・アカデミー・アムステルダムを指揮した同じ曲の演奏を聴くと、作品の持つ仕掛けははっきりわかるんだけど、その分、煩わしさも強く感じてしまったりするもの。
 つまり、「無欲」の勝利ってわけだね。
(誰だ、たなぼた式だなんて言ってる輩は!)

 いずれにしても、個人創作誌『赤い猫』第2号の発行作業でわじゃこじゃわじゃこじゃしていた人間には、非常にありがたかった一枚。
 真のモーツァルティアンじゃなくて、音楽を気軽に愉しみたいという人たちには大推薦だ。


 なお、カップリングの交響曲第48番は歌劇『アルバのアスカニオ』序曲、交響曲第51番は歌劇『にせの女庭師』序曲によるものである。
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2009年04月20日

最高級の音の缶詰  イーヴォ・ポゴレリチのドメニコ・スカルラッティのソナタ集

 ☆ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ集(15曲)

  イーヴォ・ポゴレリチ(ピアノ)
  1991年、デジタル録音
  <DG>435 855-2


 前回のCDレビューで記した如く、畢竟CDは音楽の缶詰。

で、あることに間違いはないのだけれど、同じ缶詰でも、演奏される音楽の種類によってはそれとのつき具合、なじみ具合も変わってくるわけで。
 例えば、同じクラシック音楽のくくりの中でも、演奏者しめて何人おんねんと突っ込みを入れたくなるようなマーラーの一千人の交響曲と、クラヴィコードの独奏によるバッハの器楽曲では、当然缶詰度合い、もとい自然不自然の度合いというものは大きく違ってくる。
 一つには、音楽を聴くスペースと音量の関係もあって、確かに当方のようなワンルーム暮らしの人間には、四管編成のオーケストラの録音をフルヴォリュームで聴くことなどどだい無理な話だ。
(「いいじゃん、聴きなよ!」、と呼ぶ声あり。ばあか、近所迷惑だしょうが!)
 加えて、管弦楽曲や合唱曲だと演奏者は多勢、こちらは一人と、多勢に無勢、ちょっとばかりしらけた気分にもなるが、相手が少人数の演奏ならばこちらも気がねなく音楽が愉しめるし、まして相手が一人なら、彼彼女の奏でる音楽に一対一で向き合える…。
 って、まあ、これはそれこそ気分の問題なんだけど。

 イーヴォ・ポゴレリチの弾いたドメニコ・スカルラッティのソナタ集は、まさしく一人スピーカと向かい合う人間にとっては、最高級の音の缶詰ということになる。
 イーヴォ・ポゴレリチといえば、例のショパン・コンクールでの騒動に始まり、最近の仏門にでも帰依したのかと思わされるような風貌にいたるまで、どこかミステリアスで尋常ならざるピアニストで、実際一筋縄ではいかない音楽の造り手であることも確かなのだが、一方で、彼の演奏には、楽曲の把握、テンポ感、音色等々、聴く人をひき込むに十二分な魅力に満ちあふれていることも、また否定できない事実なのである。
 このドメニコ・スカルラッティのソナタ集も、そうしたポゴレリチの魅力、個性がいかんなく発揮された一枚となっている。
 表面的にはしごく平明で、ひとつ間違うと無味乾燥にも陥りかねないドメニコ・スカルラッティのソナタだが、ポゴレリチは個々の作品が本来持っている音楽的な仕掛けや美しさを鮮やかに描き分けているのではないか。
(個人的には、一番最後に収められたカークパトリック番号380のソナタが、とても好きだ)
 何度聴いても聴き飽きない、そして聴けばきくほど発見のある一枚。
 大いにお薦めしたい。

 それにしても、タワーレコードのセールで購入したから、このCDがたったの1290円。
 いくら生とはいえ、あの×××やこの×××××が●●●●円。
 無理して不味いものを「外食」なんかするよりも、家でとびきり美味しい缶詰ですましておこうかという気になっても、やっぱり不思議じゃないよね…。
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2009年04月19日

畢竟、CDは音の缶詰である  バーンスタインのブラームス

 ☆ブラームス:交響曲第2番、大学祝典序曲

  レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
  1982年、デジタル・ライヴ録音
  <DG>410 082-2


 ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタイン、カルロス・クライバー、カルロ・マリア・ジュリーニ、ラファエル・クーベリック。
 いずれも、僕が実演に接したことのない、そして、もしかしたら実演に接することができたかもしれない、今は亡き世界のトップクラスの指揮者たちだ。
 中でも、レナード・バーンスタインの場合は、その最後の来日となった1990年7月のロンドン交響楽団大阪公演(フェスティバルホール)のチケットはきちんと手に入れていて、あとは彼の登場を待つばかりだったのだけれど、残念ながら体調不良でキャンセルとなり、結局バーンスタインの生の演奏に触れる機会は永遠に失われてしまった。
(なお、その際の代わりの指揮者は、当時ロンドン響のシェフだったマイケル・ティルソン・トーマスだったが、確か東京公演のほうでは一部の曲を別の指揮者=大植英次?が指揮することになって、ちょっとした騒ぎになったんじゃなかったか)
 レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番のライヴ録音を聴きながら思ったことは、まずそのことであり、音楽はやっぱり生じゃないとなあ、ということだった。

 もちろん、今回取り上げるCDに収められた、レナード・バースタインとウィーン・フィルによるブラームスの交響曲第2番もまた、作品に対するバーンスタインの心の動き、感興が忠実に表された、実に「動的」でかつ「抒情的」な、聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
(ここで注意しなければならないのは、バーンスタインがしっかりとした楽曲解釈の上でこうした演奏を行っていることで、あえてエネルギッシュという言葉を使わなかったのも、それが単純に「それいけどんどん」的なものと受け取られるのが嫌だったからだ)
 また、カップリングの大学祝典序曲も、作品の持つ高揚感がはっきりと示されていて、非常に愉しい。
 加えて、ウィーン・フィルの音色の美しさを存分に味わうことができるということも、このCDの大きな魅力の一つだろう。
 ただ、だからこそ、そしてこの演奏が録音されたムジークフェラインザールの実際の響きの美しさを知っているからこそ、バーンスタインとウィーン・フィルのブラームスの交響曲第2番と大学祝典序曲を生で聴くことができていたら、とどうにももどかしい気持ちにもなるのである。

 畢竟、CDは音の缶詰でしかない。
 缶詰には缶詰なりの美味しさ、使い勝手のよさがあって、僕はたぶんこれからずっと音の缶詰に親しみ続けるだろうけれど。
 でも、やはり音楽は生があってのものだということを思い知らされるのだ、こういう充実した内容のCDを聴けば聴くほど。
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2009年04月18日

ギュンター・ヴァントのブラームス

 ☆ブラームス:交響曲第2番

  ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
  1983年、デジタル録音
  <EMI/DHM>CDC7 47871 2


 今から15年以上昔、ちょうどヨーロッパに向かう半年ほど前、その頃はまだ出来たてだった名古屋の愛知県芸術劇場のコンサートホールで、ロリン・マゼール指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演を聴く機会があった。
 プログラムは、ブラームスの交響曲第1番と第2番の2曲だったが、前者のいわゆるオーソドックスな音楽づくりに対して、後者の音楽の進行のギクシャクとした部分をやけに強調したそれこそマゼールらしいやり口が、とても印象に残った。
 むろん、とても印象に残っているからといって、何もそれに同調しているわけではない。
 それどころか、いくらブラームスの音楽にそうしたギクシャクとした性質がひそんでいるからといって、無理からそれを目立たせる必要もあるまいに、といつもながらのマゼールの露悪趣味に内心うんざりしたほどだった。
 ただ、ヨーロッパのケルンという街で生活し、それこそ「ヨーロッパ的」な演奏に日々触れる中で、大いに賛同はしないけれど、何ゆえマゼールがああした確信犯的な楽曲解釈に走りたがるのかという理由の一端を感じ取れたような気がしたことも事実である。
 そして、マゼールという一人の音楽家の、若き日のアン・ファン・テリブルな行き方と、現在の偽悪家的なやり口とが一つの線でつながっていることにも疑いようはないと確信するにいたった。

 今回取り上げる、ギュンター・ヴァントが手兵ハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮して録音したブラームスの交響曲第2番は、そうしたマゼールの演奏の対極に位置するものと評することができる。
(本当は、コインの裏と表と評したい気持ちもあるのだけれど、ここではそこまで断定できない)
 確かに、作品の構造、構成、性質に対する把握の細かさ、その徹底ぶりは共通するものがないとは言えないが、マゼールがデフォルメにデフォルメを重ねていく、言い換えると、作品の持つ齟齬を強調するのに反し、ヴァントのほうは、作品の持つバランス、均整の美しさに大きく重心を置いている。
 だから、演奏の本質からすれば全く適当でない「自然な」という言葉を当てはめたくもなるのである。
(「自然な」という言葉が、どうして適当でないかはあえて記さない。それと、こうした言葉を使いたくなるのは、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団が、同じドイツのオーケストラでも、ベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団などと比べて、よりくすんだ音色を有しているからかもしれない)
 いずれにしても、全体を一つの音のドラマとしてしっかりと造り上げたという意味でも、細部の美しさ、魅力を丁寧に描き分けたという意味でも、実によく出来た、そして聴き応えのある演奏だと僕は思う*注。
 指揮者とオーケストラのつき具合、音楽の完成度という面では、後年のRCAレーベルへのライヴ録音に譲るものの、ギュンター・ヴァントという音楽家の本質を識るという点でも、大いにお薦めしたい一枚だ。
 多少の不満は残るが、音楽そのものを愉しむという意味では、録音もまず問題はあるまい。

 余談だけれど、冒頭のバイエルン放送交響楽団のコンサートでは、指定席のチケットを持っているにもかかわらず、
「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」
と、わけわからんちんな言葉を絶叫する係りの青年の言うがままに4列に並ばされて、粛々とホールへ入場させられるはめになった。
 「You Know? You Know?(前回のCDレビューをご参照のほど)」と「バイエルンきょうそうほうそう楽団」とのあまりの違い!
(と、言って、僕は名古屋での出来事を全否定するつもりはない。けれど、「彼」と「我」とは大きく違う土壌にあること、そしてその中で「我」われは「彼」らのものに接している、という認識はやはり必要なのではないかと、僕は強く思うのだ)


 *注
 本当は、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番(<EMI>CDC7 54059 2)と比較して少し詳しく記しておこうかと思ったのだが、サヴァリッシュのほうを耳にしてやめておくことにした。
 だって、一方を誉めるために他方を貶めるなんて、やっぱり芸がないもの。
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2009年04月17日

もしもテンシュテットが振れてたなら

 ☆ブラームス:交響曲第4番、悲劇的序曲

  ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィル
  1989年、1990年、デジタル録音

  <EMI>CDC7 54060 2


 今からちょうど15年前のこと、ケルン滞在中の僕は、イギリスまで数日間足を伸ばしたことがあった。
 当時ウォーリック大学に留学していた院生仲間の大塚陽子さん(現立命館大学政策科学部准教授)を訪ねることがその大きな目的だったのだけれど、他に、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのマスネの『シェルバン』公演初日と、ロンドン・フィルの定期演奏会を僕はスケジュールに組み込んでもいた。
 と、言っても、今ほどネットでささっとチケット予約ができる時代ではなかったから、いずれも当日券目当ての行き当たりばったりの計画だったが、二つの公演とも難なくチケットを手に入れることができた。
 なぜなら、ロイヤル・オペラのほうはひとまず置くとして、ロンドン・フィルのほうは、予定されていたクラウス・テンシュテットが体調不良でキャンセルし、指揮者がロジャー・ノリントンに変更されていたからで、当日のチケットを下さいとロイヤル・フェスティヴァル・ホールの窓口に行ったとき、係りのおじさんから「You know? You Know?」と、そのことを何度も念押しされたほどだった。
 僕自身は、あくまでもノリントン聴きたさの選択だったが(前年の秋、ケルンで聴いたヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートの印象が非常に鮮烈だったので)、ロンドンにおけるテンシュテットの絶大な人気に、こちらがどう見ても「東洋人」であるということも加味して考えれば、おじさんの反応もむべなるかなで、そのときも、そらそう念押ししたなるやろな、と内心大いに納得したものである。

 で、ヴォルフガング・サヴァリッシュがロンドン・フィルを指揮したブラームスの交響曲第4番を聴きながら、ふとそんなことを思い出したのにはわけがあって、実は、ノリントンが指揮したコンサートのメインのプログラムもブラームスの交響曲第4番だったのだ。
 むろん、サヴァリッシュとノリントンの演奏には4年間の開きがあるし、だいいち、二人の音楽の造り方、楽曲の解釈には、それこそ天と地ほどの開きがある。
 ただ、それでも両者がはっきりと頭の中でつながったのは、単にオーケストラが同じロンドン・フィルだからということだけではなく、サヴァリッシュもまたテンシュテットの代役だったのではなかろうかと推測することができたからだ*注。

 演奏自体は、よくも悪くもサヴァリッシュという指揮者の持つイメージにぴったりと添った内容になっていると思う。
 作品の骨格はきちんと押さえられているし、歌うべきところもそれなり歌われているし、第1楽章や第4楽章の終わりの部分をはじめ、ドラマティックな表現にだって不足していない。
(それは、サヴァリッシュの「劇場感覚」の表れだとも言える)
 加えて、ロンドン・フィルも機能性に優れたアンサンブルを披歴している。
 レビューを書くまでに、10回以上このCDに接したが、聴けば聴くほど演奏のプラスの面が見えて(聴こえて)くる録音だと言い切ることができる。

 だが、何かが足りない、ような気もするのだ。
 ううん、なんと言ったらよいのか。
 行き方でいうと、たぶんギュンター・ヴァントに近いものがあるのだろうが、彼ほど徹底しきれていないというか。
 かと言って、テンシュテットのようなパトスは当然感じられない。
 いいところまでいってるんだけれど、そこから先がというもどかしさが残るのである、この演奏には。
 一つには、EMIの、それもアビーロード・スタジオでの録音ということに起因する音質の悪さ(それが言い過ぎなら、音質のデッドさ)が大きく影響していると言えないこともないが。

 個人的には、カップリングの悲劇的序曲のほうが、サヴァリッシュの劇場感覚が冒頭よりたっぷりと発揮されていて、聴き応えがあるように思われる。

 いずれにしても、本物の初心者、つまり初めてこの曲を聴くという人よりも、日本のプロのオーケストラによるこの曲の生の演奏(それも指揮者は、秋山和慶とか小泉和裕、円光寺雅彦、梅田俊明、小田野宏之、大友直人、十束尚宏、外山雄三といった人たち)に何度か触れたことのある人たちにお薦めしたい一枚だ。


 *注
 『レコード芸術』1998年3月号の、浅里公三によるクラウス・テンシュテットの追悼記事中に、
>(テンシュテットが)もし病魔に侵されなかったら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどの交響曲全集も完成できたろう<
という言葉がある。
 やはり、サヴァリッシュによるロンドン・フィルとのブラームスの交響曲全集は、テンシュテットの代役だったようだ。
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2009年03月26日

アンドレ・プレヴィンのN響首席客演指揮者就任を祝しつつ

 ☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』、『死と変容』

  アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィル
  1987年、デジタル録音
  <TELARC>CD-80167


 かつてコント55号で売れっ子時代の萩本欽一が小林信彦から実験映画の企画を持ちかけられて、
「本当にやりたいことは、一度、人気が落ちないとできませんね」
と、語ったことがあるという。
 小林さんの労作『テレビの黄金時代』<文春文庫>の第十三章「萩本欽一の輝ける日々」に記された一挿話だが、そういえば、僕にも似たような経験があった。
 もう15年近く前になるだろうか、名前を出せばあああの人ね、と多くの人が首肯するだろう人気作家の一人と一度だけお会いする機会があった際に、徹夜明けの仮眠後で少しくたびれた様子の氏が、
「書きたいと思うことを書くには、あまり売れ過ぎないこと」
という趣旨の言葉をぽつりと漏らしたのだった。
 まあ、ここで気をつけておかなければならないのは、一度人気が落ちるにせよ、あまり売れ過ぎないにせよ、そこそこには認められていなければならない、言い換えれば、歯牙にもかけられないどん底状態にあっては元の黙阿弥、それはそれでやりたいこともやれない苦境に追い込まれるだろうということだけれど。
 で、なぜこんなことを思い起こしたり考えたりしたかというと、アンドレ・プレヴィンがウィーン・フィルを指揮したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』と『死と変容』を聴いているうちに、今度彼がNHK交響楽団の首席客演指揮者に就任するということを思い出したからである。
 すでにプレヴィンとN響には15年以上の関係があるわけだから、フランス・ブリュッヘンと新日本フィルの組み合わせほどには、この期に及んで感はないものの、それでもやっぱり「おそかりし由良之助」ならぬ「おそかりしプレヴィンよ」という感情、感慨を抱かざるを得なかった。

 さて、そんなアンドレ・プレヴィンにとって、彼がウィーン・フィルと組んでテラーク・レーベルに録音した一連のリヒャルト・シュトラウス作品は、プレヴィンという指揮者のピークを代表する仕事の一つと数え上げることができるのではないか。
 特に、今回取り上げるツァラトゥストラはかく語りきと死と変容が収められた一枚は、歌うべきところをよく歌わせたプレヴィンのツボを押さえた音楽づくりと、ウィーン・フィル及び録音会場であるムジークフェラインの音色の豊かさを活かした優れた録音技術とがあいまって、実に聴き心地のよい仕上がりとなっている。
(ただし、音楽のつかみ方という意味では、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によるシャープでクリアな演奏のほうが、より作曲家自身のそれに近いような気もするが)
 ところどころ、映画音楽っぽいというか、ちょっと詰めが甘いかなと感じてしまう部分もなくはないが、「リヒャルト・シュトラウスなんだから、ただ鳴ってりゃいいじゃん! ズビン・メータ最高!!」なんてことを口にしない人たちには、安心してお薦めできるCDだと思う。

 ところで、『ぶらあぼ』4月号の小耳大耳などによると、アンドレ・プレヴィンは今後N響と自作自演を含む意欲的なプログラムを予定しているそうだ。
 それこそ、本当にやりたいことができるようになったということかな、アンドレ・プレヴィンも。
 いずれにしても、アンドレ・プレヴィンにとってNHK交響楽団との共同作業が、彼の指揮活動の集大成となることを強く期待してやまない。
(「なんで、そうなるのっ!」、と呼ぶ声あり)
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2009年03月25日

ピリスのシューベルト

 ☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、即興曲Op90−3、4

  マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
  1985年、デジタル録音
  <ERATO>ECD88181


 皮か餡子か。
 形式か中身か。
 文芸音楽演劇その他諸々諸事万端、あらゆる表現行為というものを考える際に、しばしば問われるのが、表現者が上記のいずれに重きをなすかということである。
 なあんて、それらしい言葉で始めてみたが、これ以上続けると、朝日新聞の斎藤美奈子の文芸時評の受け売りっぽくなりそうだからやめておく。
 まあ、どっちも大事、要はバランスじゃん、というのが個人的な考えなんだけれど、言うは易く行うは難し、二兎を追って一兎も得ずの喩え通り、欲張り過ぎると、あっちもだめならこっちもだめという悲惨な結果に陥らないともかぎらない。
 というか、真っ当な表現者ならば、そこら辺、事の軽重はありつつも、自分なりにきちんと折り合いをつけているような気がするのだが。

 今回取り上げる、マリア・ジョアン・ピリスの弾いたシューベルトは、明らかに内実重視の演奏ということができるのではないか。
 もちろん、だからと言って、作品の構成に対する意識が欠如しているだとか、ましてや技術的に大きく難があると言いたい訳ではない。
 ただ、彼女の演奏を聴いていると、そうした皮の部分、外側の部分よりも、シューベルトの作品と対峙して自らの心がどう動いたのかを表現すること、自らの内面を表すことのほうに、よりピリスの関心があるように僕には感じられるのだ。
 その分、ソナタのほうでは、表現にぶれが聴き受けられるような箇所があることも事実で、僕自身は、ピリスの意識とシューベルトの音楽がぴたりと添ったり逆に離れたりする様を面白いと思ったりもしたが、堅固なシューベルトを求めるむきにはあまりしっくりとこない演奏かもしれないなと思ったりもする。
 その点、余白に収められた、二つの即興曲のほうが、よりピリスの特性、本質と合っているのではないだろうか。

 それでも、自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある最近のピリスにはない清鮮さを噛み締めることができるという意味も含めて、僕はこのCDを繰り返し聴き続けると思う。
 特に、夜更けにゆっくり聴きたい一枚だ。
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2009年03月22日

フォークフォークフォーク

 ☆MINO meets フォーク&ニューミュージック

  加羽沢美濃(ピアノ)
  <DENON>COCO-80811


 学生時代、学部の後輩といっしょにフォーク・グループを組んでいたことがある。
 と、言っても、ゆずだとかなんだとか、ストリートミュージシャンののりはしりを期待されるとちと困る。
 トリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースというグループ名からも明らかなように、フォークはフォークでも、元来のフォークミュージック(民俗音楽・民衆音楽)、とまではいかないが、そこから派生して60年代を席巻した、いわゆる社会的な意識の強いフォークソングを歌うことを目的として結成されたグループで、実際、レパートリーもウィ・シャル・オーバー・カムだとかダウン・バイ・ザ・リバーサイド、風に吹かれてだとか戦争の親玉、受験生ブルースだとか自衛隊に入ろうといった、今から20年近く前のこととしても、いささか時代遅れの感は否めないものだった。
 まあ、それでも、なんとか集会だのなんとかチャリティーの集いだのに呼ばれたりして、あちらの「いか焼けたよー!」の屋台のおばちゃんの声や、こちらの「お兄ちゃんがたたいたー!」の子供の声にもまれつつ、なんやかんやと歌っていたことは、今さらながら懐かしく思い出される。

 で、今回取り上げる加羽沢美濃のピアノ・ピュア・シリーズ中の一枚、「MINO meets フォーク&ニューミュージック」は、そんなトリオ・ザ・ポンチョス・ブラザースの歌ったフォークソングとは対照的な、それこそ流行歌・ヒットナンバーと呼ぶに相応しい有名曲の数々を加羽沢さんがピアノソロにアレンジしたものである。
 基本的には、耳なじみのよさが身上、聴き流しにもってこいのCDで、くだくだくどくどといちゃもんをつける必要はないんじゃないのかな、というのが僕の正直な感想だけど、曲の性格に合わせた加羽沢さんのアレンジの妙については一言付け加えておくべきかとも思った。
(個人的には、小坂明子の『あなた』や、杏里が歌った『オリビアを聴きながら』が気に入った。逆に『時代』は、中島みゆきというより薬師丸ひろ子的な雰囲気が濃厚だ)

 そういえば、左翼の闘士としても知られた作曲家ポール・ジェフスキは、かつてダウン・バイ・ザ・リバーサイドをピアノ・ソロ用にアレンジしたが(マルク・アンドレ・アムランが弾いたハイペリオン盤を所有)、加羽沢さんにも受験生ブルースや自衛隊に入ろうを…。
 いや、彼女にそれを期待するのはあまりにも酷というものだ。
 つまるところ、よくも悪くも、そういうことなのである。

 えっ、何を言っているかわからないって?
 友よ、答えは風に舞っている。
 風に吹かれて舞っている。
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2009年03月07日

我を忘れた二人の男 リヒャルト・シュトラウスのドン・ファンとドン・キホーテ

 ☆リヒャルト・シュトラウス:ドン・ファン、ドン・キホーテ

  フランツ・バルトロメイ(チェロ)
  ハインリヒ・コル(ヴィオラ)
  ライナー・キュッヒル(ヴァイオリン)
  アンドレ・プレヴィン指揮
  1990年、デジタル録音
  <TELARC>CD-80262


 我を忘れる。
 と、いう言葉がある。
 俺のものは俺のもの、他人のものも俺のもの、俺は俺様俺流イエイ、俺俺オーレオーレ俺イエイ! と、いつもかつも自分は自分、俺は俺と唯我独尊我が道を行く自同律の権化のような人間は、まさしく不快の極みで、落語の粗忽長屋のサゲよろしく、「死んでる俺は俺だけど、抱いてる俺は誰だろう」とたまにはあんたも自分自身を疑ってみなさいよと教え諭してみたくもなるけれど、それはそれ。
 過ぎたるは及ばざるが如しの喩え通り、我を忘れることも度を過ぎると、これまたたいへん難儀なことになってしまう。
 忘れた我を求めて、赤の他人に頼る、金に頼る、マリファナアヘンに頼る、はては神様や宇宙人、マルクス=レーニン主義に頼る。
 もしくは我を忘れて、自分が自分でないもののように思い込む。
 それでも、ラミパスラミパスルルルルルー、と鏡の前で呪文を唱えているうちはまだ可愛げもあるが、原始女は太陽だった私は卑弥呼よおほほほほ、だとか、我は征夷大将軍足利銀行なんめり、だとか、イエスウイキャンアイアムオボモ、だとか、あっそう朕はたらふく喰ってるぞ…。
 やめておこう、我を忘れていた。
 いずれにしても、我を忘れると自分ばかりか他人にも迷惑な話だ。

 で、今回取り上げるCDは、我を忘れた二人の男に関する物語。
 かたや我を忘れて女性遍歴を繰り返し、結果自滅してしまうドン・ファンと、こなた我を忘れて自分を偉大な騎士だと思い込み、騎行ならぬ奇行、ばかばっかを繰り返すドン・キホーテの、いずれも面白うてやがてかなしきなんとやら。
 じゃない、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテは少々勝手が違って、原作と同じく銀月の騎士が登場し、主人公が治ってしまうところがみそなんだけど、ここらあたりは山田由美子の『第三帝国のR・シュトラウス』<世界思想社>に詳しく記されているので、ぜひご一読のほどを。
(ちなみに、この著書は、これまでナチスの御用楽者とばかり思い込まれてきたリヒャルト・シュトラウスの抵抗者としての側面に強い光を当てていて、とても興味深い。リヒャルト・シュトラウスの愛好家を自認するならば、必読なんめり!)

 さてと、演奏演奏。
 ドン・ファンのほうは、ソフトでメロウなタッチの演奏で、いくぶんしまりのなさも感じない訳ではないが、その分ウィーン・フィルの音色の魅力やアンサンブルのあり様(よう)がよく伝わってくる仕上がりになっているとも思う。
 てか、ミア・ファローやアンネ・ゾフィー・ムターといった女性たちを奪ってきた、というより、多分に彼女たちに圧されてきたとおぼしきアンドレ・プレヴィンという一人の人間の私小説的な演奏であり、そこがなんとも「おかかなしい」by色川武大。
(できれば、あのウッディ・アレンにもこの曲の指揮をしてもらいたいものだと思ったりなんかしちゃったりして)
 一方、ドン・キホーテは、あざとさの感じられないナチュラルなタッチの演奏。
 カラヤン流儀のこれでもかこれでもかという音楽づくりに慣れたむきには少々物足りなく感じられるかもしれないが、先述した『第三帝国のR・シュトラウス』でも指摘されている第二変奏の「羊の鳴き声」をはじめとした意地悪な仕掛けをふんだんに盛り込んだ作曲そのものに比して、さっぱりすっきり即物即物的な棒振りをよしとしたリヒャルト・シュトラウスなら、「これでいいんじゃないか」、と太鼓判ではなくとも、認印ぐらいは押すような気が、僕にはする。
 それに、ここでもまたウィーン・フィルのアンサンブルは光っているし。
(そういえば、ドン・キホーテのソロはウィーン・フィルのメンバーが務めているんだった)
 いずれにしても、ドン・ファンとドン・キホーテという二つの作品をCDで繰り返して聴くという意味ではまずもって問題のない演奏で、フルプライスでも大いにお薦めしたい一枚だ。
 テラーク・レーベルだけあって、音質もおつりが出るほどクリアなものだしね。

 ところで、僕はドン・キホーテの終曲あたりを聴きながら、ふと最近の仲代達矢のことを思い出した。
 黒澤明の一連の名作を持ち出さずとも、仲代さんが日本を代表する屈指の名優であることは今さら口にすることでもあるまい。
 あの迫真の演技、鬼気迫る表情。
 でも、僕はこの人が舞台ではなく、映画やテレビドラマで見せる大柄で大仰で、心がこもり過ぎた演技に、始終息苦しさを感じてきたことも残念ながら事実なのだ。
 加えて、仲代さんにそっくりな雰囲気、というより、そっくりな眼(まなこ)の持ち主がやたらと寄り集まった無名塾の同質性、没我性に対しても、なんとも言えない息苦しさを感じてきた。
 ところが、最近NHKがらみで素の(素に近い)仲代さんの風貌容姿を観、言葉を聴く機会が増えて、ちょっとずつその印象が変わってきたのである。
 単にまじめな俺まじめな俺まじめな俺だけではなく、ちょっと以上に滑稽な俺、が滲み出ているような。
 何か心のおもしがとれてきたような。
 むろん、そこは仲代達矢のことだから、死ぬまで役者の旗自体を降ろすことはないだろうけれど、よい意味で老いを加えた仲代さんの硬軟バランスとれた演技を、僕らはこれから観ることができるのではないか。
 実に愉しみだ。

 そうそう、役者って、我であるべき部分とそうでない部分とのバランスが…。
 って、これはいったいなんの話だ。
 しまった、ドン・ファンとドン・キホーテのCDレビューだったんだ。
 ついうっかりして、またも我を忘れていた!
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2009年03月06日

ただより嬉しいものはない!(ヴェーグのモーツァルト2)

 ☆モーツァルト:ディヴェルティメント第15番、第7番

  シャーンドル・ヴェーグ指揮CAMS
  1988年、デジタル録音
  <CAPRICCIO>10 271


 ただより高いものはない。
 と、言うけれど、経済状況厳しい折、やっぱりただより嬉しいものはない!
 例えば、ドラッグストアでもってけドロボー、じゃないもってってお客さん的に置かれている試供品の栄養ドリンク、ちっちゃなねり歯磨きエトセトラエトセトラ。
 例えば、書店のレジ下に山積みされている出版社発行の小雑誌や、ぴあステーションのカウンター脇に山積みにされている『ぶらあぼ』。
 そして、京都は寺町通にある中古CDショップ、Avisで、傷が入っているからエラーが出るかもしれないので「0円」のシールが貼ってあるクラシック音楽の中古のCD。

 で、Avisではこれまでも、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏したリヒャルト・シュトラウスのツァラトゥストラはかく語りきとドン・ファン、シャーンドル・ヴェーグ&カメラータ・アカデミカ・デス・モーツァルテウムス・ザルツブルク(以下、CAMSと略)の演奏したモーツァルトのカッサシオン第1番と第2番をありがたくちょうだいしてきたけれど、今回取り上げるCDはその第三弾で、前回と同じくシャーンドル・ヴェーグの指揮した一連のモーツァルト・シリーズのこちらは第5集、ディヴェルティメント第15番と第7番が収められた一枚である。
(ちなみに、これまでの2枚同様、今回のCDにエラーは起こらず全く無問題=モーマンタイ。ありがとうございます!)

 すでにシャーンドル・ヴェーグ&CAMSに関しては、以前のCDレビューである程度詳しく触れているので、ここでは省略。
 前回のCDではアンサンブルの粗さを云々かんぬんしたが、弦楽器とホルンを中心にした編成の作品ということもあってか、今回はその点でそれほど不満を感じることはなかった。
 いわゆるオーソドックスな解釈のモーツァルトで、特に第15番のアダージョなどではロマンティックで濃密な雰囲気がたっぷりとかもし出されている。
 ただし、重ったるくてべとべとの演奏かというとそうではなくて、硬からず柔らかからずの、バランスが巧くとれた演奏になっていると思う。
 また、音楽的に均質というか、音楽的なまとまりのよくとれたアンサンブルそのものの魅力をたっぷりと愉しむことのできる演奏に仕上がっているとも思う。
 ピリオド・スタイルのモーツァルト演奏でないと物足りないという方以外には、安心してお薦めできる一枚だ。
 聴いていて、全く疲れないモーツァルトですよ。

 それにしても、やっぱりただより嬉しいものはない!
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2009年02月28日

バーバラ・ボニーが歌ったオペレッタ・アルバム

 ☆オペレッタ・アルバム

  バーバラ・ボニー(ソプラノ)
  ロナルド・シュナイダー(ピアノ)
  2002年、デジタル録音
  <DECCA>473 473-2


 あとから来たのに追い越され、泣くのがいやならさあ歩け。
 という、高度経済成長期根性丸出しの言葉は、おなじみ『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」の一節だ。
 と、言って、なにも藍川由美が歌った木下忠司作品集のレビューをここで始めようというわけじゃない。
 これはいわゆる話のマクラのマクラ、序の口序の入りである。
 で、この一節をよくよく考えてみれば、追われる側もそうだけど、あとから歩いている側も先行く者を追い越そうと必死ということで、これまた相当大変ということになる。

 そういえば、大塚愛がデビューしたときは、なんだこのaikoのばったもんはと鼻白み、aikoが異性との恋や愛を歌いながら同性に目を向けているのに比べて、大塚愛(を売ろうとする側)が同性に目を向けたふりをしながらちらちらと異性に視線をやっているように見えて仕方のない大人の男のやり口をやっていることにうんざりしたものだけれど、その後彼女がなんとか自分の位置を保とうと歌番組であくせくばたつく姿を観るに及んで、ああ、この子も頑張っているんだなあと後行者の苦しみを覚えるようになった。
(意識無意識は別にして、人としての計算がよく働いているのは、明らかにaikoのほうだろう、たぶん、きっと)

 その点、先行者と後行者の関係は厳然とあったとしても、また詰める革袋は似通ったものだったとしても、本来の個性の違いが明瞭でありさえすれば、逃げ切るだの、追い越すだのとはなから争う必要はない。
 ルチア・ポップとバーバラ・ボニーとの関係は、そのよい見本ではないか。
 確かに、透明感のある声質の持ったソプラノ歌手という意味で、両者は共通していて、実際今回取り上げるオペレッタ・アルバムをはじめ、ボニー(を売ろうとする側)がルチア・ポップを意識したとおぼしきCDを少なからず録音していることは事実である。
 けれど、かなたルチア・ポップは磨かれてなめされたような声が特徴だし、こなたバーバラ・ボニーはどちらかといえばナチュラルで柔らかな歌い口が魅力の歌手であって、どちらが上でどちらが下だなどと取り立てて軍配を挙げる必要もないだろう。
 それこそ、なすにまかせよ、ではなく好みにまかせよだ。

 さて、このバーバラ・ボニーのオペレッタ・アルバムだけど。
 正直言って、21世紀に入ってからのボニーの声の衰えは残念ながらいかんともし難い。
 むろん、凡百の歌い手たちに比較すれば、まだまだ澄んで伸びる歌声を披歴しているのだが、いかんせん若い頃の彼女の歌声を承知している分(僕は、CDばかりでなく、ジョン・エリオット・ガーディナーとハンブルク北ドイツ放送交響楽団のマーラーの交響曲第4番で、生の彼女の歌声に接しているのだ)、高音部その他、一層辛く感じられてしまうのである。
 それでも、『メリー・ウィドウ』のヴィリアの歌(トラック14)や、リート調の同じくレハールの「野ばら」(トラック15)、ツェラーの「桜の花の咲いた頃」(トラック6)などでは、彼女の声や歌唱の魅力を存分に味わえるし、おなじみアンネン・ポルカの旋律にのせたヨハン・シュトラウスの「ほろ酔い気分」(トラック8)では、とうのたち具合の面白さを愉しむことができるので、購入してよかったとは思っているが。
 それでも、このアルバムが少なくとも3、4年は早く録音されていればという想いはどうしても消えない。

 それにしても。
 歩き続けようが、立ち止まろうが、生ある者は必ず老い、そして死んでいくのだ。
 ピアノ伴奏によるこのアルバムを聴いていると、一見華美で賑やかに見えるオペレッタの世界の裏には、そうした人生への哀感や諦念が詰まっているような気がして、僕には仕方がない。
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アルテミス・カルテットの演奏したドヴォルザークとヤナーチェク

 ☆ドヴォルザーク&ヤナーチェク:弦楽4重奏曲集

  アルテミス・カルテット
  2003、04年、デジタル録音
  <VIRGIN>0946 353399 2 5


 ADOMIRATION(称賛)とは、他人が自分に似ていることを馬鹿ていねいに評価すること、とは、町田康の『夫婦茶碗』の解説で筒井康隆が記した言葉、ではなく、引用したビアスの『悪魔の辞典』中の一項目だが、アルテミス・カルテットの演奏したドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番を聴きながら、僕はふとそのことを思い出した。
 もちろん、他人が自分に似ているからといって、誰もが相手を称賛するわけではない。
 あまりに似すぎていて近親憎悪が発生、というケースはざらにあるし、場合によっては、彼と我との類似をたびたび指摘されても、「そんなバナナ」などと本気で応える無意識過剰の人間だって中にはいないともかぎらない。
 結局、似たものそっくりさんを称賛できるというのは、相手に対する尊敬の念か優越感のどちらか、もしくはその両方が、意識無意識に称賛する側の人間に存在するのではないか。
 果たして、ブラームスがドヴォルザークを高く評価した大きな理由というのは、そのうちのいずれに当てはまるのだろう。
 もしかしたらブラームスは、ドヴォルザークの似ている部分ばかりではなく、似て非なるところにも充分目をやっていたのかもしれないが。
 けれど、このアルテミス・カルテットの演奏を聴けば、やっぱりドヴォルザークってブラームスの影響が大きいんだなとは思ってしまう。
 ただし、だからと言って、僕はドヴォルザークの弦楽4重奏曲第13番がブラームスの亜流、エピゴーネンなどと評するつもりは毛頭ない。
 それどころか、有名な第12番「アメリカ」に比してポピュラリティには欠けるものの、この作品にも、いわゆるボヘミアの郷愁を想起させる美しくてノスタルジーに富んだメロディや、ドヴォルザークの粘っこくてどろどろとした性質気質がそこここにうかがえる。
 それに、先行者であるアルバン・ベルク・カルテットの技と覇気、ハーゲン・カルテットの技と鬼気に対して、技と熱気のアルテミス・カルテットだけに、それこそ切れば血が噴き出るような演奏に仕上がっているとも思う。
 だが、それでもなお、作品の構成や骨格の確かさがはっきりと示されていることに間違いはなく、僕はそこに先述したようなブラームスとの関係性を強く感じてしまうのだ。
(もう一ついえば、内面の粘っこいものやどろどろとしたものもまた、実はブラームスと相通じ合うものではないかと僕は思ったりもするが)
 一方、ヤナーチェクの弦楽4重奏曲第2番「ないしょの手紙」は、老いた作曲家のどうにもならない感情が音楽としてしたためられた作品だが、アルテミス・カルテットはそうした作品の持つ情熱や若さを力一杯表現しきっている。
 ドヴォルザーク同様、これまた民族性や民俗性を求めるむきには喰い足りなさや味気なさが残るかもしれないが、個人的には音楽の普遍的な本質をとらえた充分十二分に納得のいく演奏だと思う。
 いずれにしても、弦楽4重奏曲好き、室内楽好きには大いに推薦したい。

 って、僕とアルテミス・カルテットの造り出した音楽って、どこか似ているんだろうか?
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2009年02月27日

実に音楽的なベルリオーズの序曲集

 ☆ベルリオーズ:序曲集

  コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
  1997年、デジタル録音
  <RCA>09026-68790-2


 ドイツ文学者で、音楽評論家としても知られる岩下眞好の熱烈な賞賛と熱心な支持にもかかわらず、この国におけるコリン・デイヴィスという指揮者の評価は、今一つ高まらない。
 もちろん、クラシック音楽好き、特にオーケストラ音楽好きの人間ならば、ベルリオーズやシベリウスのスペシャリストとしてのコリン・デイヴィスの名前は一応記憶にあるはずで、最近のリストラ策でメジャー・レーベルからの新譜リリースはぱったり絶えてしまったけれど、現在でもロンドン交響楽団やザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音は定期的に発売されている。
 それでも、あれやこれやの巨匠連と肩を並べるにいたっていないのは、もしかしたら、まさしくジェントルオメという言葉がぴったりと合うそのイギリス紳士的な風貌が災いしているのではないかとついつい思ってしまいたくなる。
 僕自身は、バイエルン放送交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第9番だけはしっくりとこなかったものの、大阪のザ・シンフォニーホールとケルンのフィルハーモニーで聴いたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとのコンサートや、ウィーン国立歌劇場で観聴きしたモーツァルトの『クレタの王イドメネオ』という、都合三度の実演全てにおいて、「よい音楽に接することができた」と大いに満足することができた。
 中でも、ブラームスの交響曲を中心とした二回のコンサートは、軽重のバランスのよくとれたザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの魅力も加味されて、よい意味で安定感抜群の内容だったし、ワーグナーばりのジークフリート・イェルザレムの気張ったタイトルロールには辟易したとはいえ、『イドメネオ』も、コリン・デイヴィスの劇場感覚と音楽把握の確かさが存分に示された公演だったように覚えている。

 今回取り上げるベルリオーズの序曲集も、先述したようなコリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンとののコンビネーションのよさが十二分に発揮された録音となっているのではないだろうか。
 このCDには、有名なローマの謝肉祭とちょっと有名な海賊のほか、宗教裁判官、ウェーヴァリー、リア王、『ベアトリスとベネディクト』、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の計8曲の序曲が収められているが、音楽そのものはどれをとっても同工異曲、というか、ベルリオーズの音楽に対する根源的発想のヴァリエーションで、よくも悪くも極端には変わり映えがするものではない。
 ただ、そうした作品全てに通底するベルリオーズの個性や劇性を適切に押さえつつも、コリン・デイヴィスは個々の作品の性質の違いや、一個の作品内の表情の変化を巧みに描き分けていると評することができる。
 また、例えばピリオド・スタイルの雄、ロジャー・ノリントンとその手兵ロンドン・クラシカル・プレイヤーズの演奏した宗教裁判官の録音を聴けば、ピリオド楽器のすっきりとした響きの中からベルリオーズの持つ毒っ気のようなものが滲み出てくるように感じられるのに比して、コリン・デイヴィスのアルバムでは、ベルリオーズのクラシック性(古典派的、と記すよりも、あえてこういう言葉を使ってみたくなる)がよりはっきりと表れているように思える。
 そして、そこに、音色という意味でも、アンサンブルという意味でも非常に「音楽的」なザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの存在が大きく貢献していることは、改めて言うまでもあるまい。
 ベルリオーズの序曲を繰り返して愉しみたいという方には、フルプライスでも安心してお薦めできる一枚である。

 そうそう、このCDの最大のネックは、RCAレーベルのつくり物めいてざらついた録音だと、僕は考える。
 個人的には、聴いているうちにだいぶん慣れてきたけれど、それでも、ぺらくてざらくて薄い音だなという印象はどうしても払拭しきれていない。
 ライナーやミュンシュの古いステレオ録音から、マイケル・ティルソン・トーマスの新しい録音にいたるまで、概してRCAレーベルの音質には親しみが持てないでいるが、せっかくソニー・クラシカルといっしょになったのだから、そろそろ悪しき伝統から脱却してはもらえないものか。
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2009年02月21日

ピリオド・スタイルのムローヴァ

 ☆モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番、第4番、第1番

  ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン、指揮)
  エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
  2001年、デジタル録音
  <PHILIPS>470 292-2


 マルコン&ヴェニス・バロック・オーケストラやアントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコとの競演など一路ピリオド路線をひた走る最近のヴィクトリア・ムローヴァだが、今回取り上げるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集は、そうしたムローヴァのピリオド路線のはしりとなった一枚と言えるだろう。
 いわゆるオーソドックスな楽曲解釈に添った部分がない訳ではないし、時折モーツァルトの音楽の持つ「いびつ」さが聴き受けられる部分がない訳でもないが、基本的には線が鋭くて流れのよいムローヴァのソロと、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の達者な伴奏とで、耳馴染みのよい演奏になっていると思う。
 僕自身は、ジュージヤ三条本店のセールで、税込999円で入手することができたが、ピリオド楽器やピリオド・スタイルの演奏に違和感を持たれない方には、フルプライス2000円程度でもお薦めできる一枚だ。
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2009年02月08日

粗忽の試聴者

 ☆ボッケリーニ:弦楽5重奏曲集作品番号27(6曲)

  ラ・マニフィカ・コムニタ
  2007年、デジタル録音
  <BRILLIANT>93774


 ええ、毎度の馬鹿馬鹿しいおはなしでございまして。
 往来で大声を出す方がございますが、あれは迷惑でございますな。
 酒に酔ってくだをまいてる奴も困りものですが、自分の話に酔って大声を出している奴もはた迷惑極まりないもので、位相がどうしたとか、チェホフがこうしたとか、演劇人ぶりもはなはだしい。しまいには、自分の出ている芝居の演技までしだすんだから、これは相当なきちがいで。
 まあ、往来で黙って音楽を聴いてる分には、まだ罪もないものでしょうな。
「十字屋さんの番頭さん、こんちは」
「ああ、びっくりしたこりゃはっつあんじゃないか」
「ほらね、そんな風にヘッドフォン耳にして歩いてるからあたしのこと気がつかないんですよ」
「確かに、そりゃそうだけど、今聴いてる録音がなかなかいいもんだからさ」
「へえ、いい録音、どんな録音なんです」
「うん、ボッケリーニのね」
「えっ、番頭さんそんなもの聴いてるの。悪い人だね、黒シャツ着て大騒ぎしないで下さいよ」
「そりゃ、ムッソリーニだろ、あたしの聴いてるのはボッケリーニの」
「あたし、岩井志麻子の小説嫌いなんです」
「そりゃ、ぼっけえきょうていじゃなかったっけ。だから、これはボッケリーニ」
「ああ、ボッケリーニ。あなたの頭もボッケリーニ」
「呆けてんのは、はっつあんの頭のほうじゃないか」
「あっはっはあっはっは」
「だめだよ、横溝正史みたいな笑い方でごまかしても」
「へへ、ボッケリーニっていやミヌエットで有名でしょ」
「そうそう、ボッケリーニっていやミヌエットで、弦楽5重奏曲の中の一楽章だけど、これはおんなじ弦楽5重奏曲のCD録音でも、作品番号27の6曲を収めたものなんだよ」
「ははあ、弦楽5重奏曲が6曲っていや、相当な時間になりましょう」
「ううん、全部2楽章形式だから、全部で半時、一時間とちょっとかな」
「へえ、で、演奏してるのは」
「ラ・マニフィカ・コムニタ」
「アンニョンハシムニタ」
「違うよ、ラ・マニフィカ・コムニタって、イタリアのピリオド楽器アンサンブル」
「へえ、イタリアの。やっぱり黒シャツ着て」
「着るわけないよ」
「で、どんな感じの演奏なんですかい」
「そうだねえ、ピリオド楽器っていうと、よくいえば情熱的、悪くいえば騒いでなんぼの演奏が多かったけど、これは結構落ち着いた演奏かなあ。とびきりの腕っこきってわけではなさそうだけど、こうやって繰り返し音楽を愉しむ分には悪くないと思うけど」
「なら、相当なお値段がするんじゃないですか」
「ううん、これ一枚でたったの680円」
「えっ680円!」
「そう680円」
「そりゃ安いや。ねえ番頭さん、ちょっとあたしにも確かめさせてもらえませんかね」
「ああ、いいよ、はい」
「こらどうも。おっ、これはしっとりとしてなかなかいい音楽じゃないですか。部屋で音楽聴いてるみたいにくつろげそうだ」
「って、往来で座り込んじゃだめじゃないか。スキップスキップ」
「スキップスキップらんらんらん」
「あんたがスキップするんじゃないよ、機械をスキップさせるの」
「ああ、機械ね。よいしょっと。今度はトラック8でも聴いてみましょうか。おんや、これはなあんかハイドンのチェロ協奏曲みたいな雰囲気ですねえ」
「まあね、ボッケリーニもハイドンと同世代人だからねえ。ついでに、トラック10も聴いてごらんよ」
「トラック10っと。おっ、こっちはハイドンとモーツァルトのあいのこみたいに軽やかでチャーミングな曲だ」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「はっつあん、危ないよ牛車が通るって言ってるよ」
「ああ、ふげふげふがほげふげふげふがほげってリズムが面白い」
>牛車がとおおるぞお、牛車がとおおるぞお<
「危ないよはっつあん、危ないってば」
「ふげふげふがほげふげふげふがほげ」
>とおおるぞお!<
「あいててて」
「ほら、言わこっちゃない転んじゃったじゃないか、はっつあん大丈夫かい」
「えっ、あたしのこと心配してくれてんだ」
「当たり前じゃないか」
「ああよかった、やっぱりもろこしだった」
「何言ってんだよ。ほんと、注意しなくちゃだめだよ、往来なんだからさあ」
「へへすいません、ボッケリーニだけに、もおー見ぬえっと(干支)でした」
 おあとがよろしいようで。
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2009年01月22日

原節子、アルゲリッチ、モーツァルト、そして上野樹里

 ☆モーツァルト:2台・4手のためのピアノ作品集

  マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
  アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)
  1992、93年、デジタル録音
  <TELDEC>4509-91378-2


 小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男らの映画から受ける印象とは異なり、原節子という人は実生活では相当姐御肌でさばけた性格の持ち主だったようだ。
 確か、煙草をふかしながら麻雀を打つのが好きだと以前何かで読んだことがあるし、アルコールもけっこういける口だったのではないか。
 それに、『ふんどし医者』か何かの撮影の際には、遅刻常習犯の森繁久弥を叱り飛ばすという一幕もあったという。
 もちろんそれとて仮面の一つと言えないこともないだろうけれど、例えばその雰囲気や存在感の大きさ豊かさに比して、小津作品でも成瀬作品でも黒澤作品でも、演技の上手下手以前に、どこかしっくりこない感じをふと覚えてしまうのは、演じる役柄と原節子の本質との間に、歴然とした齟齬があったからのように僕には思えてならない。
 実際、彼女が小津安二郎の死ととともに、映画界を去っていったのも、ただ年齢がどうしたとか自らの美貌がこうしたといった表面的な問題よりも、自らと演じる役柄の齟齬を補って余りある最高で最大の存在がいなくなってしまったからではないだろうか。

 自らの本質とどう向き合うか、だけではなく、自らの本質と対象との関係をどう切り結んでいくかは、当然役者演技者だけの問題ではない。
 共同作業を主とするか否かの違いはあっても、それは音楽家、演奏家においても大きな問題であり課題であり、高じてそれは重い桎梏にすらなる。
 傍目には得手勝手自分勝手を押し通しているように思われ、現にそうした行動を繰り返している音楽家、演奏家とて、それは同じことだ。
 特に、一対一で作品と向かい合う機会の少なくない器楽奏者、それも豊かで高い才能を持った器楽奏者ほど、そのきらいは大きいのではないか。
 ホロヴィッツ、グールド、リヒテル、ミケランジェリ、近くはポゴレリチ…。
 なんとかとなんとかは紙一重ではないけれど、彼彼女らの追い詰められようあがきようは、極言すれば自業自得とはいえ、やはり鬼気迫るものがある。
 そして、そのことはやれ奔放だなんだと、時にゴシップの種にすらなったマルタ・アルゲリッチにもあてはまる。
 確かに、彼女の演奏はよく言えば自由自在、悪く言うと奔放極まりのない、その人生と基を一にしたものだ。
 けれど、その奔放さは無神経や鈍感さから生まれたものだろうか。
 否、もし彼女が臆面なんて一切ない、ただの無神経で鈍感な人間だったら、一人ピアノと向き合い、ソロで演奏活動を行うことから遠ざかることはなかっただろう。
 そう、彼女もまた何かと向き合ってきた一人なのだ。
 彼女がある時から、コンチェルトや室内楽、そして今回取り上げるようなデュオのみで演奏活動を行うようになったこともその帰結以外のなにものでもない。
(僕は、ケルン滞在中に一度だけ彼女の実演に接したことがある。その時は、アルミン・ジョルダンの指揮したスイス・ロマンド管弦楽団をバックにバルトークのピアノ協奏曲を演奏していたが、アルゲリッチの愉しそうなこと。演奏の素晴らしさばかりでなく、彼女の「いっしょに」音楽することの喜びもはっきりと伝わってきて、僕も本当に愉しかった。そういえば、自分の出番が終わったあとも、アルゲリッチは客席に座って嬉しそうにオーケストラの演奏を聴いていたっけ)

 アレクサンドル・ラビノヴィチと組んで録音したこのモーツァルトの2台・4手のためのピアノ作品集も、アルゲリッチの愉しくって嬉しくって仕方のない心情がストレートに表された一枚だと僕は思う。
 正直、形式だとか様式だとか、演奏の整い具合だとか、そういうことばかりを言い出すと、突っ込みどころはいくらでもあるような気がするが、愉しくって嬉しくって仕方がないというモーツァルトの音楽の本質、全部ではないだろけどその大きな側面がよくとらえられていることも疑いようのない事実だろう。
(だから、モーツァルト自身がこの演奏を聴いたら、負けてはならじとアルゲリッチに「勝負」を挑むんじゃなかろうか。どうもそんな気がしてならない)
 中でも、『のだめカンタービレ!』で一躍有名になった冒頭の2台のためのソナタ(てか、原作者の二ノ宮知子はアルゲリッチの演奏を聴いてたんじゃないか? のだめを描くときに)もそうだし、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」そっくりの音型が第1楽章に顔を出すラストの4手のためのソナタなど、その極だ。
 と、言うことで、演奏するという行為を楽譜を撫でなぞることとしか受けとめられない人以外には、強くお薦めしたい一枚。
 むろん、のだめにはまった人にも大推薦だ。

 そうそう、のだめといえば、どうしても上野樹里を思い出してしまうが、彼女もまたどこかで向き合い続けている一人なんじゃないだろうか。
 もしそうでなければ、『ラストフレンズ』のあの演技は生まれなかったはずだから。
 そして、21世紀の日本に小津安二郎や成瀬巳喜男はいないけれど、上野樹里の魅力を十二分に発揮させうる映画監督は、必ず存在すると僕は思いたい。
posted by figaro at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

王道を歩むコリン・デイヴィスのエロイカ

 ☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、「エグモント」序曲

  コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
  1991年、デジタル録音
  <PHILIPS>434 120-2


 グリーグ&セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集へのレビューで、メジャーとマイナーの話を落語のまくらよろしく語ったが、今回はテーゼとアンチテーゼの話から。
 って、メジャーとマイナーも、テーゼもアンチテーゼもおんなじじゃないの、といぶかしがるあなた、残念ながらあれとこれでは、ちょと話が違う。
 これは理念、それも、あくまでも僕個人の考えでいえば、メジャーとマイナーは個々に独立して存在しているものであって、お互いが即対立するというものじゃあない。
 たとえて言えば、「俺は俺、お前はお前」という感じ。
 ところがそれと異なり、テーゼとアンチテーゼは字義通り、「俺はいい!」「いいえ、あたしはいやだ!」という明確な対立状態にある関係、てか、対立抜きには存在しえない言葉であり構図であり関係だと思う。
 で、さらに理念系、それも独断専行のそれを突き進めば、世の中のことどもすべからく、ではないけれど、これまで当為とされてきたテーゼへのアンチテーゼが示され、それが新たな変化を促し、さらには…。
 ああ、ややこしい。
 哲学に関する素養もへったくれもない人間が、かつて読みかじり聴きかじったなんだかんだのアマルガムを悪用して何かかにかこねくり出そうとするほうが、土台無理な話。
 餅は餅屋、生兵法は大怪我のもとってやつだね。

 まあ、テーゼやアンチテーゼがどうのこうのなんて思い起こしたのも、コリン・デイヴィスがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が、実に堂に入った、王道中の王道を歩む演奏だったからなのだ。
 そう、コリン・デイヴィスの指揮したエロイカ・シンフォニーは、たぶんLP時代からこの作品に慣れ親しんできた人間には、「ああ、これだよこれ、英雄交響曲はこうでなくっちゃ」と強く思わせるような演奏に仕上がっているのではないか。
 テンポ的にも音の質感としても重心が低くとられているし、アクセントの付け方や楽器の鳴らし方も、それこそ20世紀半ば以降の演奏慣習に則ってくるいがない。
 しかも、音楽の持つ流れや劇性には充分配慮しつつも、カラヤンのような押しつけがましさやチェリビダッケのような極端さとは無縁である。
 加えて、ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンが、機能性と音色の自然さのバランスがよくとれたまとまりのよいアンサンブルでコリン・デイヴィスの楽曲解釈を見事に表現しているとも思う。
(そういえば、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの実演には、大阪とケルンで二度接しているが、その時聴いたベートーヴェンの田園交響曲やブラームスの交響曲も、両者の相性のよさと共同作業の充実ぶりを強く感じさせるものだったと記憶している)
 だから、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏したこのCDを、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の名演奏名盤として推すことに一切ためらいはない。

 けれど、一方でこうしたベートーヴェン演奏がある種の桎梏となっていたことも想像に難くはない。
 つまり、伝統の重みというか、慣習のおりというか。
 それに、全ての指揮者がコリン・デイヴィスほどの、そして全てのオーケストラがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンほどの音楽性を持っている訳でもない。
 ピリオド楽器によるベートーヴェン演奏やピリオド奏法を援用したベートーヴェン演奏が登場し、なおかつ現代の主流となってきた背景には、そうした桎梏や惰性への対立・反抗の意識や精神があったことはいまさら繰り返すまでもあるまい。
 そして僕自身は、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンのエロイカ・シンフォニーを素晴らしい演奏と認めつつも、ニコラウス・アーノンクールやフランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンらによるベートーヴェン演奏にも強く心をひかれるのである。
 むろん、彼らの演奏もまた、一つのテーゼとして対立・反抗の対象となるだろうことは、明らかなことだろうけれど。

 最後になるが、カップリングの『エグモント』序曲も、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの劇場感覚が発揮された聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
 中古で、税込み1200円程度までなら、安心してお薦めできる一枚だ。
(なお、エロイカ・シンフォニーはナポレオンがらみの作品だから、タイトルは「皇道を歩む」にでもしようかと思ったが、それじゃあ日本語として変だし、だいたい皇道なんていったらああた、荒木貞夫や真崎甚三郎じゃないんだから…)
posted by figaro at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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