2009年01月14日

重いドラマ

 以前にも記したことがあるかもしれないが、KBS京都では平日お昼の1時から時代劇ドラマの再放送を行っている。
 あくまでも個人的な好みと断った上でだけれど、萬屋錦之助の名演技が光る月曜日の『破れ傘刀舟悪人狩り』(「てめえら人間じゃねえや、たたっきってやる」というおなじみの台詞を、いっしょになって口にしてしまっている自分って…)は絶対に外せないし、市川雷蔵のニヒルさとは対照的な片岡義夫(現仁左衛門)の優しさがいい水曜日の『眠狂四郎無頼控』も悪くない。

 そして、これは掘り出し物、と思ったのが、火曜日の『半七捕物帳』だ。
 岡本綺堂の『半七捕物帳』といえば、それこそ捕物帳物の元祖とも呼ぶべき作品で、すでに何度も映画化・ドラマ化されてきたものだが、今KBSで再放送されているのは、1979年に朝日放送が放映していたシリーズで、しっとりしてしかも一本筋の通った尾上菊五郎の半七を皮切りに、生来のコメディエンヌぶりが愉しい若き日の名取裕子、粋で達者な浜木綿子、よい意味でつかみどころのない長門勇、酸いも甘いも噛み分けた下川辰平、初々しい坂東三津五郎(当時八十助)や森川正太、ぬーぼーとした小島三児ら、上質な商業演劇を観ているようなレギュラー陣のアンサンブルのよさが嬉しい。

 特に、先日放映された「蟹のお角」の回は、それに輪をかけた野川由美子と入川保則の重くて迫真の名演技も加わって、本当の観ものに仕上がっていたように思う。
 「蟹のお角」は、野川由美子演じる、今度捕まれば死罪になってしまうという入墨者の巾着切り(スリ)の女が、これまた入墨者の、入川保則演じる夫にほだされて再び他人の巾着を狙おうとするが、実はそれが夫のたくらみだったことを知って、逆上した女が夫を刺し殺すというとても悲しい物語なのだけれど、ラスト間際、包丁を持った野川由美子が入川保則を追いかけるシーンのリアルで真剣なこと。
 テレビドラマであるにも関わらず、野川由美子の狂気、そしてそれを受ける入川保則の怖れに本当に息を飲んでしまったほどだった。
 さらに、夫を殺してしまった野川由美子の放心した姿や、最後に飼っていた小鳥を放すその切なさ。
 監督があの山下耕作ということもあってだろうが、やはり役者の演技の持つ力を改めて考えさせられた。
(これが全てではないし、扱う作品の内容・質は当然違うのだけれど、京都小劇場界の面々には、こういう演技にもぜひふれてもらいたいものだ。少なくとも、安部聡子さんや内田淳子さんを目指すのであれば、また二口大学さんを目指すのであれば、上述した人たちの演技に接することを厭うては欲しくない)

 それにしても、30年前までは、この重さが当為のものとして受け入れられてきたのか。
 と、今の一連のドラマとついつい比較してしまう自分がいる。
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ぺらいドラマ

 軽佻浮薄には軽佻浮薄の意味があって、それこそ傲岸不遜の裏返しである慇懃無礼な物言い構えようへの鋭い批判にすらなることも稀ではない。
 そこから敷衍するならば、稲垣吾郎が演じる金田一耕助などは、横溝正史というととかく語られがちな、おどろおどろしさだとか、日本文化の底流云々かんぬんといった「それらしい」言説へのアンチテーゼとしてとびきりの存在と言えないこともないだろう。
 実際、横溝正史の原作にあたれば、金田一耕助なる人物は、戦前アメリカ生活を満喫し、たとえ身なりはオールドファッショとはいえ、時代時代の風俗に反応し、はてはアメリカへと再び旅立っていくという、よい意味で軽佻浮薄を地でいく人物であった。
 加えて、陰惨かつ強烈な殺人事件が繰り返されようと、時に「あっはっはあっはっは」と笑い声を上げ、さらには奇怪な言動や行動すら辞さないエキセントリックな性格の持ち主でもある。
 僕がかつてCXの『犬神家の一族』における稲垣金田一の演技を好評価したのも、彼のありていに言って深みのない演技が、原作の金田一耕助の持つ「おかしな」部分と巧く重なり合っているように感じられたからだ。
 そしてその後も、真面目くさって失敗した『八つ墓村』(よくも悪くも「近代能楽集」な藤原竜也の責任も大きい)は置くとして、原作通り衣笠宮(老いたな高橋昌也)が登場し栗山千秋のファムファタルぶりも見事なハーレークイン調の『女王蜂』というなかなかの観ものを、CX・星護・稲垣吾郎チームは生み出してきた。
 だが、過ぎたるは及ばざるが如し。
 いくら横溝正史の原作が軽佻浮薄や荒唐無稽の性質を有していたからといって、それをデフォルメし過ぎれば、事態は惨憺たるものとなる。
 それはもう、津山三十二人殺し、ではない、八つ墓村における大虐殺もびっくりというありさまだ。
 そう、年始に放送された、『悪魔が来たりて笛を吹く』(再放送)と『悪魔の手毬唄』の両ドラマなど、もはや軽佻浮薄という言葉ではおさまりのつかない、ぺらさもぺらしおそろししの極みだったと思う。
 ゑびす神社の残り福をいっしょにいただきに行った旧い友だち(見巧者なり)も、『悪魔が来たりて笛を吹く』は観ていて、そのぺらさのひどさで盛り上がったのだけれど、稲垣吾郎率いるぺらさチームの中で、国仲涼子(貴族の令嬢にしてはキュート過ぎるけど)と榎木孝明(狂気!)だけが大奮闘だったということで一致した。
(付け加えるならば、帝銀事件を彷彿とさせる天銀堂事件の再現場面も悪くない)
 ぺらいものをぺらいと断じるのは気がひけるが、稲垣吾郎はもちろん、ラストでフルートを吹く犯人もぺらいし(その点、ドラマ版の沖雅也はよかった。涅槃で待つ心境がよく出ていたから)、秋吉久美子も「お前ならそういう関係にもなるやろ」と言いたくなるぺらさ。
 これでは伊武雅刀の意図したぺらさが埋もれてしまって、なんのため彼を最後まで生かしたかわからなくなってしまった。
 一方、『悪魔の手毬唄』も辛かった。
 個人的な好みもあってだろうが、青池里子を演じた柴本幸の美しさと、原作の持つ二面性を表していた佐々木すみ絵(映画版の原ひさ子ではただただ善なる老女としか思えなかった)、三木のり平のかろみはないものの健闘した有薗芳記以外は、石田太郎も山口美也子もぎりぎり及第点。
(麿さんは悪くないのだが、どうしても中村伸郎と比較してしまうのだ、やっぱり僕は)
 せっかく登場した仁科亜希子は悲惨だったし(ああ、仁科明子…)、かたせ梨乃も「二時間サスペンスドラマ流儀の名演技」、そして山田優や村の青年団連中のぺらいことぺらいこと。
 特に山田優は彼女の持ついやたらしさが全面に出ていて、かえって、映画で仁科明子があの役を演じた意味がはっきりとわかったほどだった。
 まあ、そんな演者陣のぺらさより、事件の顛末を稲垣金田一に活弁調で語らせてしまった(正直、稲垣君にではなく、シチュエーションそのものに虫酸が走って仕方がなかった)演出家なりプロデューサーの結構のぺらさをまずもって責めるべきだろうが。
(そら、『笑の大学』も、映画にしてみりゃああいう代物になるわいな)
 いずれにしても、物事にはバランスというものが肝心だということだ。
 イデオロギーに翻弄されて重く重く重たるく物事を受け止めるのも困りものだが、軽佻浮薄が極まって必要以上にぺらさが勝るのも悲しい。
 ひるがえって考えてみれば、石坂浩二の金田一耕助も、古谷一行の金田一耕助も(ただし、彼の場合は毎日放送制作の1970年代のもの)、軽さと重さ、ユーモアセンスとシリアスさのバランスが巧くとれた演技を行っていたのだった。
 そして、もちろんそれは、市川崑をはじめとした、作り手の側のバランス感覚のよさの表れでもあったといえるのだろうが。
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2008年10月07日

とっておきの『とっておきの青春』 緒形拳の死に際して

 緒形拳が亡くなったという。
 最近たまたま彼の出演したドラマ(NHK放映『帽子』)を観る機会があって、緒形さんもめっきり老けてしまったなあ、それにしてもだいぶん痩せてしまったんじゃないか、と少し気にはなっていたのだけれど、まさかこんなに急に亡くなるとは思ってもいなかった。

 実をいえば、子供の時分、僕は緒形拳が好きじゃなかった。
 もっと詳しく言うと、緒形拳が演じるようなタイプのどぎつくて強引だったり、狡くて薄汚い感じのする人間を受け入れることができなかったのだ。
 例えば、いまへいさんこと今村昌平監督の『復讐するは我にあり』のあの主人公。
 小川真由美や三國連太郎といった共演者たちも凄かったけれど、緒形拳の演じた破滅一直線のあの主人公には、どうにも目を背けたくなるような息苦しさと力を子供心にも感じたものだ。
 一方、野村芳太郎監督の『鬼畜』もすさまじかった。
 特にラストにおける緒形拳の哀れさ情けなさ。
 あれは確か小学生の頃だったと思うが、テレビで放映されたその最後のシーン、我が手で殺そうとした子供に「勘弁してくれや」と泣き謝る彼の姿を観て、「なんじゃこりゃ」と作品の展開ともどもショックを受けてしまったことを覚えている。
(もちろん今では、この場面こそ、緒形拳の一世一代の名演技、少なくともそのうちの一つだと言い切ることができるが)

 そんな僕の緒形拳に対する意識を大きく変えたドラマが、1988年にNHKで放映された『とっておきの青春』である。
 『とっておきの青春』は、その当時ファンだった斉藤由貴目当てに観始めたドラマだったのだけれど、ここでの緒形拳の演技の魅力的だったこと。
 中でも、緒形拳演じる父と斉藤由貴演じる娘の超自然な掛け合いは、めったに接することのできない「観物」だったのではないだろうか。
 加えてこのドラマでは、小澤栄太郎演じるやりたい放題なじいさんが素晴らしく、山岡久乃との共演というスリリングなおまけまでついて、大いに満足したものだった。
 そういえば、小澤さんの遺作は、この『とっておきの青春』だったはずだ。

 話しが、少し逸れてしまったが、僕にとって緒形拳といえば、未だにどうしても『とっておきの青春』ということになる。
 そしてもう一つ付け加えておくと、ちょうどこの『とっておきの青春』の頃から、緒形拳は徐々にイメージチェンジをはかり、一人の演技者としてバブル期を乗り切っていったと僕は考えているのだが、果たしてどうだろう?
 いずれにしても、深く、深く、深く、深く黙祷。
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2008年10月06日

邪劇の予感 古谷一行の『三つ首塔』

 知人の好意で、横溝正史原作、古谷一行主演のテレビドラマ『三つ首塔』の再放送(2008年10月4日放映分)を観ることが出来たが、これがもう邪劇を予感させる怪しげでなおかつチープな内容となっていた。
 で、『三つ首塔』に関しては、小学生の頃読んだきりで、当時の自分にはエロティック過ぎたという印象ばかりが残っているだけだから、たいしたことは口に出来ない。
 と、言うより、何も言えない。
 それに、今回のドラマが、毎日放送で放映されていた横溝正史−金田一耕助シリーズの中の一篇だということ以外の詳しいことも、僕は知らない。
 ただ、パーティーに乱入した女二人(一人は絵沢萠子)の踊りのもさもさぶりや、「野獣」ぶりを発揮していた頃の黒沢年男の構えた演技からだけでも、この『三つ首塔』が原作の持つ邪劇性をいや増しに増した邪劇となるだろうことは予測することが出来る。
 加えて、おなじみ言語不明瞭な名優佐分利信を筆頭に、小松方正、小池朝雄、米倉斉加年、長門勇、ピーター、加藤和夫(なんだ怪しげな手は!?)といったやってるやってる感丸出しの役者陣も、その予測を煽りに煽る。
 諸般の事情で、続けて観ることは構わないことかもしれないけれど、これは目が離せないドラマではないか。
 邪劇好きには大いにお薦めしたい。
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2008年09月26日

智に働けば  − 永井智雄について −

 『江戸を斬る』パート3の『悪徳検校』という回の再放送(9月23日、KBS京都)を観ながら、やはり名は体を表すものなのだなといたく感心してしまった。

 で、いったい誰に感心したのかはひとまず置くとして、『悪徳検校』は、藤村有弘演じる偽座頭の覚全が昔の悪仲間(松山照夫)らと結託して師匠の検校を謀殺し、自ら検校の座を手に入れたまではよかったが、長屋の娘(村地弘美)に執心する役人(田中明夫)の願いを適えようと無理をしたばかりに全ての悪事が露見するという、どこか勝新太郎主演の『不知火検校』や井上ひさしの『薮原検校』をも思い起こさせるストーリー展開となっている。
 もちろん、そこはナショナル劇場、結局のところ勧善懲悪色の濃い、基本的には安心して観ていられる出来上がりでもあるのだけれど。
(これには、脚本が監督の山内鉄也によるものということも大きく関係しているかもしれない。同じ『江戸を斬る』でも、加藤泰が脚本を担当した回は、もっとひねりが効いているので)
 とはいえ、僕個人としては、今は亡き藤村有弘や田中明夫、松山照夫、村地弘美、加えて関西芸術座の岩田直二といった面々の出演は、実に嬉しいものだった。
 そして、何より忘れてはいけないのが、途中で殺されてしまう検校を永井智雄が演じていたということだ。

 と、ここで冒頭の文章に戻ることにもなるのだが、この『江戸を斬る』の検校役でも永井智雄その人の智性がはっきり表れていて、それで名は体を表すものなのだなと、僕はいたく感心したのである。
 ただ、いたく感心はしたものの、もしそうした智性がこの検校という役柄にそこまで必要だったのかと問われたとしたら、正直に言って、たぶんそうではないだろうと答えたくなることも事実だ。
 と、言っても、永井智雄の演技が下手だなどと評したい訳では毛頭ない。
 それどころか、先述した面々の中でも永井さんは別格というか、抜群の演技力の持ち主であったことは言わずもがなのことだろう。
 にも関わらず、永井智雄の演技から彼本人の人柄性質が透けて見えたことに、僕は彼の限界を感じ、なおかつ彼の現在での評価のあり様の原因の一端を認る思いがする。
 いや、こういう言い方をすると、まるで永井智雄という人間が自らの智性をひけらかす鼻持ちならないいやたらしい役者だと誤解する人がいるかもしれないからはっきりさせておくが、永井さんがそういった浅薄な才人たちとは一線、どころか二線も三線も画すことは、彼の出演作品を丹念に確認していけば自ずと明らかになるはずだ。
 例えば、NHKのかつての人気ドラマで映画化もされた『事件記者』=相沢キャップは難しいとして(一応DVDは発売されている)、山本薩夫監督の『金環蝕』での、高橋悦史に心の内を吐露する場面や、市川崑監督の『黒い十人の女』における酸いも甘いも噛み分けた芸能局長の後ろ姿など、そのことのもっとも有効で具体的な証明になるのではないか。
 また一方で、『続・忍びの者』の徳川家康をはじめ、山本監督の一連の作品で演じた冷徹で伶俐な権力者、もしくはそれに類する人物の造形に関しても、それが徹頭徹尾計算され手のうちに入ったものとなっているという意味から高く評価されてしかるべきもので、永井智雄を貶める材料とはなりえまい。
 問題なのは、この『江戸を斬る』の検校や『大岡越前』の中山出雲守、その他プログラムピクチュア的なテレビ・ドラマにおいてさほど重要でない役柄を演じた時に、先に記したような永井智雄の智性が必要以上に表れてしまうことであり、それがかえって、彼の演技の巧さやフォルムの見事さばかりを目立たせる結果ともなってしまっていることである。
 そして残念なことに、そうした演技のほうがより一般的に触れられる機会が多かったことが、永井さんに対する評価をある種偏ったものとし、特にその死後、彼を「知る人ぞ知る」的な存在へと追いやった原因となっているようにも、僕には思われてならないのだ*1。
(本当は、永井さんはそうしたさほど重要でない役柄を演じる時に意識的に力を抜いていたと断じたいのだけれど、僕はそう言い切るだけの確信は持てていない)

 ところで、智性智性と何度も口にしたのだけれど、永井智雄がいわゆる世俗的な智性、もっとひらたく言えば、小賢しさ、狡さとは無縁の人であったことも、やはり付け加えておくべきではなかろうか。
 なぜなら、青年時代には治安維持法に連座して学校を追われ、敗戦後は俳優座(新劇の中でも、特に批評性の強い集団)に所属するかたわら山本薩夫監督ら独立プロ制作の諸作品に出演し、さらには日本共産党の熱心な支持者であることを明確にアピールし続けた永井さんの人生は、とうてい世俗の智性とは相容れないものであったはずだから*2。
 
 最後に。
 永井智雄は、彼の芸名であって本名ではない。
 彼の本名は飯沼修という。
 何ゆえ、飯沼修が永井智雄という芸名を選び取ったかを僕は知らないが、少なくとも彼が永井智雄という名前を自ら名乗り続けたことは厳然とした事実である。
 そこに、彼の強い意志を感じるのは、僕だけだろうか。


 *1:わかりやすく言うと、そうした役柄での彼の演技は、人の心を動かすものではないということである。
 例えば、志村喬という不世出の役者と、永井さんを比較してみれば、僕の言わんとすることの一端は理解してもらえるのではないか。
 また、同じ左翼出身者でありながら、生涯飄々然としたとらえどころのない演技をし続けた嵯峨善兵と対比させて考えてみるのも面白いかもしれない。

 *2:「時代の制約」ということはしっかり踏まえた上で、永井智雄が宮島義勇監督の『千里馬(チョンリマ)』という作品に出演していることも、指摘しておかなければなるまい。
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2008年09月15日

沢田雅美について詳しく語ることはやめにした

 知人の好意で観ることの出来た、一昨日の土曜ワイド劇場(はっきり言って、ストーリー自体はサスペンスドラマの枠を出ることのない平凡なもの)における沢田雅美の演技の見事さについて詳しく語ろうかと思ったが、やめることにした。
 と、言うのも、真の意味での石井ふく子スクールの卒業生である沢田さんの演技については、観る人が観ればわかることだもの、今さら僕がなんだかんだと書き散らかす必要もあるまい。
(例えば、佐戸井けん太や佐藤二朗の類型的な演技と比べてみれば、それは一目瞭然だ。そう言えば、佐藤二朗は「正直しんどい」ドラマ、じゃない、オフビートなドラマ『33分探偵』でも似たようなことをやっているなあ。そうそう、『33分探偵』にはヨーロッパ企画の本多力君が出ていて、このままの有り様では彼は使い潰されてしまうんじゃないかとついつい心配になったり…。余計なお世話だ馬鹿!)
 まあ、それでも『渡鬼』以外の沢田雅美の演技に注意しておいて欲しいとだけは記しておくことにしよう。

 また、沢田さんがらみで、平岩弓枝と橋田寿賀子の違い(加えて、石井ふく子の「選択」)について語ろうかとも思ったが、これもやめておくことにする。
 以前、KBSで『ありがとう』の再放送を観て感じたこと(ホームドラマの典型と言われながら、実は『サザエさん』的な家族設定が意識的に避けられている点等々)や、『渡る世間は鬼ばかり』における橋田寿賀子の戦略(松竹大船調の巧妙な解体と再構築とか)と、語りたいことはいろいろとあるのだけれど、これもわかる人にはすぐにわかることだから、あえて僕が口にすることでもないだろう。
 ただ、橋田寿賀子のウェットで確信犯的な気質よりも、平岩弓枝のからっとして明朗な気質のほうが僕の好みに合っていることだけは一言しておきたいが。

 それにしても、京都小劇場界の若き演じ手たちには、ぜひとも『ありがとう』の再放送を観ておいて欲しかったと、今でも強く思う。
 山岡久乃や乙羽信子、伊志井寛(新派の代表的な役者の一人で、ふく子の親父さん)、奈良岡朋子らの演技を学ぶという点でもそうだけど、それより何より、かつて流行ったものにはそれなりの訳があるのだから。
 実に惜しい。
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2008年09月09日

『破れ傘刀舟悪人狩り』のDVDが発売されていた

 あまたあるテレビの時代劇の中で、お前が最も大好きな作品は何かともし問われたら、再放送に接して中学の同じ学年の友人たちと物真似ごっこに熱中した『暗闇仕留人』や、キャスティングのバランスのよい『大岡越前第4部』、社会性ばりばりでまさしく前進座らしい中村梅之助の『遠山の金さん』もいいけれど、やっぱり僕は『破れ傘刀舟悪人狩り』と答えたい。
 一介の町医者叶刀舟が、悪人連中(それも、老中をはじめとした幕閣などまで)をずばっと一刀両断してしまうあっけないほどの即物感、そしてその叶刀舟を演じる萬屋錦之助の硬軟取り混ぜた演技の見事さ、加えてかつてとんねるずの石橋貴明もたびたび真似をしていた「てめえら人間じゃねえや、たたっ斬ってやる」という決め台詞のインパクトの大きさ。
 また、マーラーの交響曲の旋律を日本風に縮めて歪めた木下忠司のテーマ音楽や、馬場雅夫の乾いたナレーションを含めた、ドラマ全体のすさみ具合も、僕の心を強く打つ。
 で、この『破れ傘刀舟悪人狩り』は、現在KBS京都で毎週月曜日の午後1時から放映されているのだが、あいにく諸般の事情から僕は、観たくったって観られない状況にあるのだ。
 ほんと悔しいあるね、と『破れ傘刀舟悪人狩り』のレギュラー陣の一人桂小金治が司会を務めた『それは秘密です』で中国がらみの出演者があった時の口調を模して一人ごちていたところ、昨日ひょんなことからあるものをネット上で見つけてしまった。
 なんと、『破れ傘刀舟悪人狩り』のDVDが発売されているではないか!
 1巻2話分入って980円という、以前から巷にあふれている時代劇のDVDのシリーズの中に、『破れ傘刀舟悪人狩り』も加えられていたのである。
 これで、僕も心置きなく『破れ傘刀舟悪人狩り』を愉しめるというものだ。
 今度、河原町に出た時に、JEUGIA三条本店でものぞいてみよう。
 いずれにしても、『破れ傘刀舟悪人狩り』との再会が待ち遠しい。
posted by figaro at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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