『江戸を斬る』パート3の『悪徳検校』という回の再放送(9月23日、KBS京都)を観ながら、やはり名は体を表すものなのだなといたく感心してしまった。
で、いったい誰に感心したのかはひとまず置くとして、『悪徳検校』は、藤村有弘演じる偽座頭の覚全が昔の悪仲間(松山照夫)らと結託して師匠の検校を謀殺し、自ら検校の座を手に入れたまではよかったが、長屋の娘(村地弘美)に執心する役人(田中明夫)の願いを適えようと無理をしたばかりに全ての悪事が露見するという、どこか勝新太郎主演の『不知火検校』や井上ひさしの『薮原検校』をも思い起こさせるストーリー展開となっている。
もちろん、そこはナショナル劇場、結局のところ勧善懲悪色の濃い、基本的には安心して観ていられる出来上がりでもあるのだけれど。
(これには、脚本が監督の山内鉄也によるものということも大きく関係しているかもしれない。同じ『江戸を斬る』でも、加藤泰が脚本を担当した回は、もっとひねりが効いているので)
とはいえ、僕個人としては、今は亡き藤村有弘や田中明夫、松山照夫、村地弘美、加えて関西芸術座の岩田直二といった面々の出演は、実に嬉しいものだった。
そして、何より忘れてはいけないのが、途中で殺されてしまう検校を永井智雄が演じていたということだ。
と、ここで冒頭の文章に戻ることにもなるのだが、この『江戸を斬る』の検校役でも永井智雄その人の智性がはっきり表れていて、それで名は体を表すものなのだなと、僕はいたく感心したのである。
ただ、いたく感心はしたものの、もしそうした智性がこの検校という役柄にそこまで必要だったのかと問われたとしたら、正直に言って、たぶんそうではないだろうと答えたくなることも事実だ。
と、言っても、永井智雄の演技が下手だなどと評したい訳では毛頭ない。
それどころか、先述した面々の中でも永井さんは別格というか、抜群の演技力の持ち主であったことは言わずもがなのことだろう。
にも関わらず、永井智雄の演技から彼本人の人柄性質が透けて見えたことに、僕は彼の限界を感じ、なおかつ彼の現在での評価のあり様の原因の一端を認る思いがする。
いや、こういう言い方をすると、まるで永井智雄という人間が自らの智性をひけらかす鼻持ちならないいやたらしい役者だと誤解する人がいるかもしれないからはっきりさせておくが、永井さんがそういった浅薄な才人たちとは一線、どころか二線も三線も画すことは、彼の出演作品を丹念に確認していけば自ずと明らかになるはずだ。
例えば、NHKのかつての人気ドラマで映画化もされた『事件記者』=相沢キャップは難しいとして(一応DVDは発売されている)、山本薩夫監督の『金環蝕』での、高橋悦史に心の内を吐露する場面や、市川崑監督の『黒い十人の女』における酸いも甘いも噛み分けた芸能局長の後ろ姿など、そのことのもっとも有効で具体的な証明になるのではないか。
また一方で、『続・忍びの者』の徳川家康をはじめ、山本監督の一連の作品で演じた冷徹で伶俐な権力者、もしくはそれに類する人物の造形に関しても、それが徹頭徹尾計算され手のうちに入ったものとなっているという意味から高く評価されてしかるべきもので、永井智雄を貶める材料とはなりえまい。
問題なのは、この『江戸を斬る』の検校や『大岡越前』の中山出雲守、その他プログラムピクチュア的なテレビ・ドラマにおいてさほど重要でない役柄を演じた時に、先に記したような永井智雄の智性が必要以上に表れてしまうことであり、それがかえって、彼の演技の巧さやフォルムの見事さばかりを目立たせる結果ともなってしまっていることである。
そして残念なことに、そうした演技のほうがより一般的に触れられる機会が多かったことが、永井さんに対する評価をある種偏ったものとし、特にその死後、彼を「知る人ぞ知る」的な存在へと追いやった原因となっているようにも、僕には思われてならないのだ*1。
(本当は、永井さんはそうしたさほど重要でない役柄を演じる時に意識的に力を抜いていたと断じたいのだけれど、僕はそう言い切るだけの確信は持てていない)
ところで、智性智性と何度も口にしたのだけれど、永井智雄がいわゆる世俗的な智性、もっとひらたく言えば、小賢しさ、狡さとは無縁の人であったことも、やはり付け加えておくべきではなかろうか。
なぜなら、青年時代には治安維持法に連座して学校を追われ、敗戦後は俳優座(新劇の中でも、特に批評性の強い集団)に所属するかたわら山本薩夫監督ら独立プロ制作の諸作品に出演し、さらには日本共産党の熱心な支持者であることを明確にアピールし続けた永井さんの人生は、とうてい世俗の智性とは相容れないものであったはずだから*2。
最後に。
永井智雄は、彼の芸名であって本名ではない。
彼の本名は飯沼修という。
何ゆえ、飯沼修が永井智雄という芸名を選び取ったかを僕は知らないが、少なくとも彼が永井智雄という名前を自ら名乗り続けたことは厳然とした事実である。
そこに、彼の強い意志を感じるのは、僕だけだろうか。
*1:わかりやすく言うと、そうした役柄での彼の演技は、人の心を動かすものではないということである。
例えば、志村喬という不世出の役者と、永井さんを比較してみれば、僕の言わんとすることの一端は理解してもらえるのではないか。
また、同じ左翼出身者でありながら、生涯飄々然としたとらえどころのない演技をし続けた嵯峨善兵と対比させて考えてみるのも面白いかもしれない。
*2:「時代の制約」ということはしっかり踏まえた上で、永井智雄が宮島義勇監督の『千里馬(チョンリマ)』という作品に出演していることも、指摘しておかなければなるまい。