2008年09月30日

雨にこもれば

 昨日ほどではないが、今日も朝から雨が降り続いている。
 これがジーン・ケリーなら、雨の中を歩くばかりか、唄ってさえも様になるが、こちらはしがない痛風持ち。
 おんぼろ傘をさして、夕飯用の買い物に出かけるぐらいが関の山である。
 と、言うことで、結局部屋にこもって雨をやり過ごすということになってしまう。
 まあ、こもったらこもったでやるべきことはあれこれとある訳だから、こもったこもったと相撲の行司よろしく言い募ることでもないし、ましてや雨じゃ雨じゃと気鬱になることでもない。
 まさしく泰然自若、為すべきことを為していけばそれでいいのだ、これでいいのだby赤塚不二夫。
 ただ、そうは言っても、畳にべたりと腰を下ろして書き物調べ物に精を出していると、ああ書を捨て筆を捨て街に出かけたいとお尻のあたりがむずむずしてくることもまごうことなき事実であって、そこらあたりが、よくも悪くも僕自身の偽らざる本質なのだと痛感したりもする。
 なるほど、雨の日に部屋にこもれば、見えてくることもあるということか!
 などと、!つきで感心するほどのことでもないだろうけれど。
 いずれにしても、いまだに雨は降り続けている。
 早くやんではくれないものか。
 晴れるや?
 ハレルヤ!
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2008年09月20日

夢一夜

 子供の頃から、夢はよく覚えている。
 と、言うより、朝目が覚めても、しばらくは夢の続きをそれこそ夢想しているような性分である。
 いわゆる怖い夢の類いもしばしば観ていて、中でも、幼稚園の頃風邪をひいた時に観た蒸気機関車に追いかけられる夢(今思うと、あれは「といちの奈良漬」のコマーシャルが大きく影響しているのかもしれない)や、親しい友人と旅行をした時に東京のコープ・イン・シブヤで観た天井から能面が迫ってくる夢などは、未だに忘れることができない。
 それから、活劇スターさながらの大活躍もあれば、新派びっくりの悲恋悲嘆物もありと、けっこうバラエティに富んだ夢を観ていることこれ幸いとばかり、以前自分の観た夢をそれ相応に加工した『ひゃっけんもどき』という愚作をものしたことすらあった。
 そう言えば、かつては自分が大嫌いな人間、にくたらしく思っている人間、苦手に感じている人間が度々夢の中に登場し、現実顔負けの口論抗論激高劇高闘争党争を繰り返していたが、最近では、例えば亡くなった母方の祖父母(夢の中ではまだ生きている)とか、会いたくても会えない人、しばらく会うことが出来ないでいる人の夢を多く観るようになっている。
 今朝方観た夢も、そんな会いたくても会えない相手、少なくとも今すぐには会うことの出来ない相手の夢だった。
 それも、あとちょっとでその相手と話しが出来るというところで邪魔が入ってそれが適わないという、実に切ない内容の。
 ただ、そこで興味深いのが、そんな場面の一隅に、あの島田雅彦が座っていて、じっと僕と相手のあり様(よう)を観察しているという点である。
 たぶん、朝日新聞朝刊連載の『徒然王子』を僕が毎話欠かさず読み続けているからの登場なのだろうが。
 これは、現実において物事を冷静に観察をすべきだよという教えなのか?
 それとも?
 いずれにせよ、ぜひとも逆夢であって欲しいとつくづく思う。
posted by figaro at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | エチュード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月12日

草枕

 経済的理由もあってなかなか実現しないことだけれど、時々無性に旅に出たくなる。
 本当は海外、それもヨーロッパのどこか(スウェーデンとか、チェコとか、オランダとか)がいいのだが、こちらのほうは旅というよりも、少なくとも一年ぐらいはその地で生活したいということでひとまず置いておくことにする。
 人生は旅。
 などと、詩人めかしてみるつもりは毛頭ない。
 ただ、たまには違った土地の風景光景にのんびり触れてみたいし、ついでに美味しいものでも食べられりゃ言うことない、といった程度の考えではあるのだが、やっぱり旅に出たい。
 一人旅もいいが、気のおけない相手とだらだらおしゃべりしながら辿る二人旅も悪くない。
 特にこれから、秋の旅はいい。
 紅葉があればなおいいが、なくったって構わない。
 秋の雰囲気をたっぷり浴びながら、足の向くまま気の向くまま旅を愉しむことができたらなあ。
 いやあ、本当に旅に出たい。
posted by figaro at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | エチュード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

そろそろブラームスにするべえかア

 そろそろ万年床にするべえかア、と口にして、まだ暑い日があるからやめときイ、と言われたのは、我らがタイちゃん、殿山泰司だが(『JAMJAM日記』<ちくま文庫>より)、そろそろブラームスにするべえかアと自問自答しているのが、僕中瀬宏之である。
 と、言っても、夏の暑い盛りに全くブラームスの音楽を聴いていなかった訳ではなくて、なんやかんやと理由をつけては(って、無理から理由なんてつける必要もないか。聴きたい時は聴きたい音楽を聴け!)、ブラームスのCDをかけ続けちゃいたんだけれど、人間気分というものは大きくて、エアコンという人工的な涼しさの中で聴くブラームスには今一つ、どころか今二つも今三つもぴんとこない。
 その点、気温がだんだんと下がってきて、めっきり涼しくなってきた頃に聴くブラームスは格別だ。
 特に晩秋、もう間もなく冬が訪れようという頃に聴くブラームスの侘びしさ哀しさ美しさときたらああた、まさしくえも言われぬ素晴らしさ、そら涙のひと粒ふた粒出てこようてなもんだ。
 むろん、ブラームスだからって何でもかけりゃあいいってもんじゃない。
 それこそ交響曲第1番みたいな、ずずんべどどんべぷわーぷわー(by許光俊)と不細工に鳴り轟く騒々しい音楽にはご遠慮願って、ここは室内楽曲をじっくり愉しむことにする。
 中でも、弦楽6重奏曲第1番、弦楽5重奏曲第1番、ピアノ4重奏曲第1番、ホルン3重奏曲あたりの切なさしんねりむっつり感はたまらないなあ。
 何度聴き返しても飽きがこない。
 暮れ行く秋の夕陽や、色付く樹々の葉を眺めながらブラームスを聴けば、過ぎ去った日の想い出も甦ってきて、私もあなたもノスタルジーの時…。
 と、ここまで書いてきて、ブラームスの室内楽曲とはなんと似ても似つかぬ躁的文章かいなと我ながら愕然となってしまったが、よくよく考えてみればこれも当たり前。
 何せ、ブラームスの音楽自体が躁鬱気質丸出しなんだもの(例えば、ホルン3重奏曲なんてそのよい見本)。
 そら、文章だっておかしくなってきますわね。
 まあ、いずれにしても、これからの季節はブラームスの室内楽曲がお薦めということ。
 ブラームス、ブラームス、ブラームス渋いかしょっぱいか。
 やっぱりブラームスは秋にかぎる!
posted by figaro at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | エチュード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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