いわゆる「原典」が手元にないので、詳しい理由に関しては省略するが、保坂和志は『書きあぐねている人のための小説入門』<草思社>の中で、日記形式の小説を書くのは避けたほうがよいと、小説を書きあぐねている人たち、小説を書こうとしている人たちに助言している。
その助言が即全ての人たちに当てはまるかどうかはひとまず置くとして、少なくとも保坂和志の小説というものに対する志向や思考、嗜好、さらには試行を考えれば、確かにそれはその通りだと、僕は大いに首肯することができる。
が、である。
そんな「物わかり」のいいはずの僕が、『鳥の日記』なる日記形式の小説をこの一月半ほど書き続けているのだから、世の中どうにも面白い。
むろん、僕の中に保坂さんに対して喧嘩を売ろうなんて意識はこれっぽっちもなくて、ただただ鳥が小さからぬ役割を果たす日記形式の小説のアイデアがひょこっと浮かんで来たので、ほいほいすいすい僕は書き始めただけなのだ。
ただ、そこには、去年から今年にかけて、ある種黒船来航じゃないけれど、「自分を開く」作業を積極的に行わなければならなかった、なおかつ、行いたいと思った僕自身の意識の変化が大きく関係していることも、僕はやはり否めない。
(個人誌『赤い猫』の発行だって、僕のこの意識の変化の表れの一つだ)
と、言っても、僕がそのまま「自分自身」をストレートに表現するには、まだまだ時間がかかる。
と、言うか、「自分自身」をそのまま語るよりも、僕は物語(フィクション)を造り出し、それを物語ることのほうにより喜びと生き甲斐を感じる人間なのだ。
だから、日記形式と言えども、結局嘘丸出しとなる。
一例として、4月5日(火曜)の分を挙げると。
>モリャキとエネルブロの間で大規模な鉄道事故が起きる。死者は400人を超えると。原因は現在のところ不明である。
午前中、リディアが大量のコピーミスをおかす。彼女らしくないミスだ。
帰りがけ、チェルケットの店で万年筆のインクを購入する。昨晩、日記を書き終えたところでちょうどカートリッジがなくなってしまったため。チェルケットの店は相変わらず黴臭い。
『言うほど不味くない!』を読んでいて、急にライスプディングが食べたくなった。
今夜も、路上で男が意味不明な言葉を叫んでいる。金貨一千枚で生ハム十年分食べられると思ってるんだとしたら大きな間違いだだとか、テニス選手はアルマジロ、サッカー選手はゴルゴンゾーラだとか。非常に気持ちが悪い<
また、5月8日(日曜)の日記はこのような具合。
>正午過ぎに外出し、カポレット座まで、ごった煮レビュー『百人姉妹』を観に行くが、あまりのひどさに休憩前で退席する。座主のゴーマット氏から案内を受けていたため足を運んだのだけれど、準備不足というか何というか、胸くその悪くなるような出来の悪さだ。特に、ナスターシャを演じたミイナ・ボウエルという新入りの女優の不愉快なこと。観ていて、いらいらが募る。だいたい、不愉快な役柄は不愉快さ丸出しに演じればよいというものではない。もちろん、演出のゴーマット氏の責任も大きいが、本人の認識不足がまずもって問題だろう。
腹立たしいので、カフェ・マーゴでエスプレッソを3杯続けて飲む。ここのエスプレッソは、本当に美味しい。
夕食後、オッコ・タンペレの短篇集を読了する<
まさしく、嘘丸出しだ。
でも、僕のブログ、CLACLA日記を継続的にお読みの方ならば、この『鳥の日記』が僕自身の投影・反映であることも、十二分にご理解いただけるのではないか。
(中欧のある国という設定は、カフカやカレル・チャペックからの影響によるものだが、当然、清沢洌の『暗黒日記』<岩波文庫>や林光さんの『歌の学校』<晶文社>、筒井康隆や小林信彦、殿山泰司の一連の日記作品との関係性を指摘することもまた容易だろう)
なお、上述した一部からもわかるように、この『鳥の日記』では、もしその設定をとるのであれば(絶対に)必要とされるものがことごとく避けられている。
これは、僕も書き始める前に相当悩んだところなのだけれど、僕はあえて全てを避けてしまうことにした。
(もしそれをそうするのであれば、それは「徹底」してそうしなければならないことだ。中途半端では、全く意味がない)
いずれにしても、僕は『鳥の日記』を書きながら、「自分自身」や「私」ということ・ものと、真正面から向き合うことを余儀無くされている。
ところで、『鳥の日記』と言いながら、その鳥は、いつになったら登場するのか?
残念ながら、それは今の僕にはわからない。
posted by figaro at 12:11|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
創作に関して
|

|