2011年08月02日

Hさんのこと

 昨夜、ふとしたきっかけからHさんのことを思い出した。

 Hさんは、僕の高校時代の放送部の一学年上の先輩である。
 細身で色白、おまけに丸縁の眼鏡をかけていたこともあって、見るからにまじめという感じの女性だった。
 加えて、その柔らかい口調から、よい意味で主張のはっきりした一学年上の女性陣の中では、どちらかといえば大人しめのタイプだと思われがちだったが、その会話のはしばしに注意を向けてさえいれば、なかなかどうして、Hさんが芯の強い女性であることがわかったはずだ。
(そうそう、歯切れがよくてスピーディーな部長のI女史とゆっくりゆるゆるとしたHさんの会話が、まるで落語の『長短』を聴いているようで妙におかしかったことを今思い出した)

 そんなHさんだが、数年後のOB会であったときの彼女の姿には本当に驚いた。
 大学デビューとでもいうのだろうか、デパートの化粧品コーナーの店員さんもここまではと思わせるほどの化粧のありようで、Hさんと久しぶりに会った面々、一瞬無言で顔を見合わせるという状態だったのだ。
 もちろん、今では物心両面でだいたいの理由の想像がつくから、20歳前後のHさんのその日の姿を微笑ましく、そして切なく思えるのだけれど。
 そういえば、Hさんとは、翌年ぐらいのOB会でも再会したが、そのときの彼女は以前のHさんらしさを残しつつ、ほんのりバランスのとれた化粧をしていたのではなかったか。

 Hさんが亡くなられたのを知ったのは、数年前に届いた高校の同窓会名簿を目にしたときだった。
(ほかにも、僕の前の前の代の生徒会長Nさんや同じ学年のUさんが亡くなられていたこともそのときに知った)
 僕はHさんに女性として好意を抱いていたわけではないが、人間としてはとても好感を抱いていた。
 関西の大学で学ばれていたこともあり、どうしてHさんとゆっくり話しをする機会を持とうとしなかったのか。
 Hさんのことを思い出して、改めてそのことが悔やまれてならない。
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2010年10月14日

夜に想うこと

 ここぞというときにこそ頼りがいのある人間になりたい。
 本当に。
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2010年10月09日

ゲームの法則

 絶対に無理とは言えないけれど。

 金銀抜きで格上の相手に勝とうなんて、虫のよすぎる話だ。
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2010年05月18日

社是(一方通行路1)

☆社是(しゃぜ)


 もう十年以上、いや十五年以上も前になるか、今は芸能界を引退した上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶の掛け合いを売りにした『鶴瓶上岡パペポTV』という深夜の人気番組があった。
 その中で、しっかり細部までは覚えていないのだけれど、上岡龍太郎が標語なんてものは、もとから守れるものではないことを標語にしてるんです、そやから「みんなで空気を吸いましょう!」なんて標語はないやないですか、といった内容の言葉を口にしていた。
 反骨精神といえばかっこいいが、ありていに言えばへんこな上岡さんらしいなと思いつつも、やはり一理、どころか二理か三理ぐらいはあるなと納得してしまったものだ。

 みんなで明るい社会をつくりましょう!
 お年寄りをいたわりましょう!
 人権を大切にしましょう!

 なるほど、確かに。

 ならば、「会社・結社の、経営方針や主張」と『広辞林』第五版<三省堂>で説明されている社是なんてものも、もとより守れるものではないからこその社是かもしれない。
 そういえば、先日元社長に有罪判決が下されたある会社の社是は、

 誠意と努力

 だ、そうだ。
 それならいっそのこと「企業利益増加への誠意と努力」とでもしたらどうだろうか。
 身も蓋もない話だが、そちらのほうが僕にはよっぽどしっくりくるし、ある意味誠実ですらあると考える。

 まあ、こと会社に留まらず、組織というものを維持し発展させるためには、対内的にも対外的にも、それが実現可能か不可能かは置くとして、高邁な理想を語った社是社訓、綱領標語、規約規範を掲げる必要があることぐらい、僕だって充分承知はしているのだけれど。
 少なくとも、僕個人としては、自分自身の身の丈に合った道徳律を心のうちに持っていたいと強く思う。
 それを、表に出すか出さないかは別として。
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2009年12月20日

峻別する力の必要性

 2009年も間もなく終わろうとしている。
 今年一年を振り返って痛感することは、自らの持つ物事を峻別する力の明らかな不足ということである。

 峻別する力。
 それは、自らの好みに合わずとも、自らが触れた対象、もの・ことの持つ魅力や水準、成果を高く評価する力と言い換えることができるかもしれない。
 逆にそれは、自らが親しいものであったとしても、つまらないものはつまらない、面白くないものは面白くない、水準が低いものは水準が低いと断じて憚らぬ力と言い換えることができるかもしれない。
 またそれは、何が自らにとって必要であり、何が自らにとって必要ではないか、何を付け加え、何を殺ぎ落とすかを見抜く力と言い換えることができるかもしれない。

 もちろん、他者を峻別するというのであれば、自らが峻別されることに対しても真摯であり、謙虚でなければならないということは、言うまでもない。
 そしてそれは、個人創作誌『赤い猫』をはじめとした自らの創作活動に止まらず、中瀬宏之という一個の人格に対する評価や批判、好悪の念を含んだものでなければ全く意味があるまい。
(当然、誰がどのような判断を自らに下したかについては、しっかり記憶しておかなければならないだろう)

 いずれにしても、与えられた人生は一回きりなのだ。
 惰性に流され、妥協を重ね、結果あれよあれよという間に一年を終えてしまうことほど虚しく馬鹿馬鹿しいこともない。
 来年こそは、もっと峻別する力を身につけていきたいと、心の底から強く思う。
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2009年11月10日

さらばモリシゲ!  森繁久彌翁を悼む

 日本を代表する役者の一人であり、芸能人の一人だった森繁久彌翁がついに亡くなってしまった。
 だが、まだ96歳。
 翁には100歳、いや150歳まで生きていていただきたかった。
 舞台人としてスタートし、戦中は満洲でアナウンサーとして過ごし、戦後は軽演劇の世界で鳴らし、藤山一郎とのラジオ番組『愉快な仲間』で一躍脚光を浴び、映画界でも、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』での森の石松、そして豊田四郎監督の『夫婦善哉』、さらには社長シリーズ等々大活躍、その後もテレビドラマをはじめ、森繁劇団や『屋根の上のヴァイオリン弾き』、『知床旅情』、向田邦子や久世光彦との仕事、加藤道子との『日曜名作座』と様々な分野で森繁翁ここにありの活動を続けた。
 また、芸能人の地位向上にもつとめ、日本の芸能界のゴッドファーザーと呼んでも過言ではない人脈を築いた人でもあった。
(親しみをこめて、森繁翁とその仲間、例えば、竹脇無我や今は亡き松山英太郎、藤岡琢也といった人々をまとめて、僕は「森繁一派」と呼んでいた)
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。

 上述した作品以外にも、森繁翁はたくさんの名作佳作を遺しているが、TBS系で放映されていた『おやじのヒゲ』を久しぶりに観てみたい。
 正直、竹脇無我その他、森繁一派が総出演の感あるドラマで、森繁翁はじめ台詞も演技もぐだぐだというか、相当むちゃがある内容だったのだけれど、今となってはそれが懐かしい。
 おもらししたのか汗をかいたのか、起きて「濡れちゃった」とつぶやくあたりなど、森繁翁ならではの演技満載のドラマでもあったし。

 それにしても、先日の三遊亭圓楽、南田洋子、浜田寅彦、さかのぼれば牟田悌三、渥美國泰、佐竹明夫、大木実、山城新伍、若杉弘、金田龍之介、中丸忠雄、忌野清志郎、加藤和彦、山田辰夫、川村カオリ…、と本当にこたえる。
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2009年06月12日

夜に想うこと

 今は、歯がみしてこの諸状況を乗り切ること。
 それが、僕の課題だ。
 奈落の底に吸い込まれるのは、いともたやすい。
 だが、やすきに流れてはならない。

 自分自身を笑え。
 鏡に映った自分を笑え。
 そのおかしさ、醜さ、卑しさを笑え。
 笑い、刻みつけること。
 それが、僕自身の武器になる。

 真夜中のトイレ掃除。
 おもしろい。
 真夜中の浴室掃除。
 おもしろい。
 真夜中の破れ傘刀舟の物真似。
 てめえら人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ!
 そいつは、近所迷惑だ!!
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2009年04月27日

『東京裁判への道 上』を読了しての簡単なメモ

 粟屋憲太郎著『東京裁判への道 上』<講談社選書メチエ>を読み終えた。
 以下は、同書を読みながら再確認した、僕個人の感覚的な考え方、認識だと受け止めておいていただきたい。
 それは、この日本という国に住む人々の心性=メンタリティ・マンタリテ(意識無意識両面における)の核となるものが、長い時間の経過の中でなお、強固なものとして維持されているのではないかということである。
 むろん、経済的、政治的、文化技術的環境、いわゆる社会的環境の変化に伴い、心性の表層的な部分は大きく変容しているが、しかし、核となるもの自体は、あまりにも強固なものであるように、僕には思えてならないのだ。
 ただ、ここでは、その核となるものを具体的に明言することは、かえって現在の諸状況を単純化して把握することにつながりかねないので、あえてそうしない。
 けれど、その核となるもの、不変であるものに如何に対峙していくかが、僕自身の今後の大きな課題であるとも強く考える。
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2009年04月15日

木も見る森も見る

 木を見て森を見ず。

 と、言うが、森ばかりを見ていて細部が疎かになってしまっても、それはそれで困ったことになる。

 木も見る森も見る。

 言うは易く行うは難し、ではあるけれど、少なくともそうあるように努めていきたい。
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2009年04月10日

多産の責

 敷居が下がり、間口が広くなるということは、何事につけ大切なことだ。
 いくらお高くとまったところで、それを支える人間がいなければ、早晩そんなものは亡びてしまう。
 が、しかし、敷居を下げ過ぎ間口を広げ過ぎて、縁なき衆生がどどっと舞い込むことも、当然迎える側は覚悟しておかなければならない。
 そして、玉石混交という言葉があるが、たとえ相手が玉にならざる石であれ、少なくともその石が軽石だの漬物石だのなんだのと、使い勝手のある石となるよう努めることが、その覚悟には含まれていなければなるまい。
 敷居を下げた、間口を広げた、あら厄介な連中までがやって来た、と顔を顰めているようでは、それこそ先が思いやられる。
 また、来る者は拒まず去る者は追わずと言うけれど、少なくとも去る者に関しては、努力に努力を重ねた上でなお、そうなってしまった時に口にすべき言葉だろう。
 だいたい、そうした言葉を何のひっかかりもなしに使って平然としているような人間には、敷居を下げ間口を広げる資格などないし、逆に、こういう無責任な人間にほいほいと近寄っていくような人間は、やっぱり度し難いと、僕は強く思う。
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2009年01月18日

まみむメモメモ 1:しあわせぶとり

 以前にも記したことがあるけれど、出版社が定期的に発行している小冊子の読み応えのよさは、当たり前っちゃ当たり前とはいえ、やっぱりなまなかなものじゃない。
 もちろん、これまた以前にも記したとおり、お金を払い込んでまで年間購読しようとは思わないものの、それでも、書店のレジの下あたりにこれが並んでいるときは、お客さんの途切れるタイミングを狙って、すかさずかすめとることとしている。
 まさしく、ただより安いものはない!

 で、そうした小冊子の中でも、僕が中身のバランスのよさと、見栄えのよさでとても気に入っているのが、マガジンハウスの『ウフ』である。
 まずもって、表紙があの篤姫で一世を風靡した宮崎あおいだし、おまけに彼女が文章を書いてるし(でも、この連載は確か篤姫以前からだったはず)、斎藤美奈子の書評「世の中ラボ」はいつもの如くいい意味でひねているし、逆に柴崎友香の「アイドルたち、女の子たち」はいい意味でわかりやすいし、舞台人からの影響丸出しの水野美紀のエッセイも面白いし、玖保キリコの「ヒメママ」だって彼女らしい内容だし。
 まあ、小説のほうはあんまり僕の好みに合わなくて、2月号の特集、林真理子の『マリコ・レシピ』はますます好みに合わないけどね(それでも、きちんと全部読みました)。
 僕の場合はただなんだから、それほど文句は言えないもん。
 まさしく、ただより弱いものはない!

 それにしても、2月号でとびきりおかしかったのが、ミムラの連載エッセイ「まみむメモ」のみりん。
(宮崎あおいに水野美紀にミムラ。さすがはマガジンハウスだなあ)
>帰宅途中に連絡をくれたオットに買い物を頼んだ<ものの、これがもうちっとも役に立たない。
 はては、頼まれたみりんは「ないみたい。よーく見たんだけど、ない」と答える始末。
 おっさん、なにやっとんねん…。
 って、なにやっとんねんもないもの、ただただミムラ、のろけてるだけじゃん。
(そうそう、おっさん、なにやっとねん…、のくだりは僕のオリジナル。ミムラは、そんなこと書いてないよ)
 ただね、おかしかったのはそこじゃない。
 この>普段しっかり三十九歳らしく<しているオットというのが、誰あろう、あの指揮者の金聖響だということだ。
 そう、あの金聖響が食材売り場で、「みりんはないみたい。よーく見たんだけど、ない」ってミムラ相手に電話してるなんて。
 そりゃ金さん、幸せぶとりもするはずだよ!!
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2009年01月06日

粗忽の政務官

 坂本哲志総務政務官の発言を耳にして、『赤ひげ診療譚』の、
「これまでかつて政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままに置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか」
という言葉を思い出した。
 それは、ちょうど今、同じ山本周五郎の『季節のない街』を読んでいることもあってのことだけれど、昨今のこの国の諸状況を見るに、赤ひげこと小石川療養所医長新出去定ならずとも、ついついそのような憤りの言葉を口にしたくなることは疑いようのない事実である。

 ただ、だからと言って、今回の坂本総務官の発言の中に一切の真理が含まれていないと言い切るつもりは、僕にはない。
 少なくとも、現在の経済システムを維持し強化しようとする、もっとありていに言えば、いわゆる大企業大資本の代弁者であり代理者たる彼の立場からすれば、真理も真理、思いのままを語ったまでと言うことになるのではないか。
 もちろん、社会的経済的な認識という意味合いから考えて、彼の発言は根本的には間違っていると僕は思うし、よしんば、今回の発言に含まれている事どもを彼の側の真理と認めたとしても、彼の発言は一個の政治家として大きく間違っていると思う。
 なぜなら、代議士であり総務政務官という公の立場に立つ人間が、それも公の場所であのような発言を行えば、それがたとえ長い発言の中の一部だったとしても、どのように報道されどのような反応が返ってくるかをわかっていない段階で、政治家失格であろう。
 まして、昨日の今日で発言を撤回し謝罪するとは、恥知らずもよいところだ。
(「政治家は本来貧困を…」といった正論は、あえてここでは記さない。それと、大平正芳存命ならば、今回の坂本発言にどのような感想を持つだろうか。失言癖で知られた池田隼人に対して語ったように、「どうせ同じことをいうのであれば、ヴォキャブラリーの選択に、一寸注意して欲しかった」と、もしかしたら口にするのではないか)

 そういえば、坂本総務政務官は以前ウェブサイト上の選挙の当選のお礼がらみで、公職選挙法を指摘されたことがあったはずだ。
 確かにそれは、本人が説明しているように「うっかり」していてついやってしまった凡ミスかもしれないが、そうした経緯のある人物が選挙とも大きく関係している総務省の政務官という地位にあることには、やはりどうしても疑問が残る。
(これは、任命者である麻生総理の問題でもあるけれど。てか、こういう政務官や総理大臣を許容しているのも僕ら自身であって、それこそ「自己責任」ということになる)

 それにしても、この坂本哲志という人物は、相当おっちょこちょいというか、うっかりが多い人のようだ。
 今回の発言があって、彼のホームページをのぞいてみたが、その日記*で、民主党を厳しく批判しながら、あのチェ・ゲバラを高く評価している。
 チェ・ゲバラとはいったいどのような人物か?
 それこそ、赤ひげのような憤りを胸にし、人々の病を治療することに留まらず、世の病社会の病を力づくでも治していくことにその生命を賭した人物ではなかったか。
 そのような人物を、あのような発言を行った坂本総務政務官が持て囃すとは、まるできちんと文章も読まずにブッシュの馬鹿息子がサイードを誉めそやすような、まさしく粗忽の極みであり、読んでいるこちらがたまらない気持ちになってくる恥ずかしい話である。

 林達夫ではないが、結局粗忽者につける薬はないし、粗忽者は粗忽なことしかしでかさない。
 そして、粗忽者を支える者こそが一番の大粗忽者ということだ。


 *ただし、この日記は当選のお礼がらみの部分やチェ・ゲバラの記述のある一月五日の項だけを読むべきではないだろう。
 過去の記述を読めば、この坂本哲志という政治家の別の側面も見えてくるのではないか?
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2009年01月01日

なくってもなくってもいいもの、だからこそ

 かつて古今亭志ん生は自らの高座で、落語のことをなくってもなくってもいいものと言い切ってみせたという。
 むろんそこには、志ん生その人の恥じらいや、逆に矜持もあったのだろうが、落語、だけではなく、その他芸能芸術諸事万端の本質をずばり言い表した言葉だとも思わないでもない。

 そもそも人間にとって必要とされるものは、衣食住、つまり食べるものであり着るものであり住む場所であって、それを得るために労働というものもある、という風にしごくシンプルに考えてみれば、落語なりお芝居なり映画なり小説なり音楽なり、そんなもの余りものも余りもの、あってもなくてもいいもの、どころか、本当になくってもなくってもいいものと、確かに思われるからだ。
(この場合、宗教的儀式には云々かんぬんといった事どもは全く考えないことにする)

 それには当然、人間が生きていく上で、落語なりお芝居なり以下省略が精神衛生面で大きな役割を果たしているといった反論もあるはずだし、現に僕自身、上述したような諸々のものがこの世からなくなってしまったら、毎日が非常に味気なくなってしまうことは、まずもって疑いようがない。
 それに、住居の問題はひとまず置くとしても、衣や食よりもなくってもなくってもいいもののほうを優先したいと考える人間の数は、この国においてもけっこう少なくないと思う。
 例えば、食事代を削ってでも好きなアーティストのライヴのチケットやアルバムを手に入れたという経験を持つ人は、そんなに特異なケースではないのではないか。

 とはいえそれは、たとえ「貧乏だ貧乏だ」と口にはしながらも、なんとかやりくりがつくからこそそうできることなのであって、自分の財政状態が本当に逼迫してくれば、それこそ背に腹は代えられぬ、夕餉のおかず朝(あした)のトイレットペーパーと、生活に必要とされるものへの支出が家計簿全体を占めるようになるのは、当然のことであろう。
 まして、現在のような厳しい社会的経済的状況の中では、「何がなくってもなくってもいいものか。今はあっていいもの、あるべきものについてなんとかしていくべきところだろう」という動きが加速化されてなんら不思議ではない。
 事実、大阪府の橋下知事が推し進めようとしている政策などは、その潮流の最たる表われの一つだと考えることができる。

 いや、そんなことはない、俺は寒風吹き荒ぶ中ホームレスになろうが、飢えに苦しみ泥水啜り草を食もうが、なくってもなくってもいいもののために死ぬ、キリギリスは死んでもヴァイオリンを離しませんでした、と強弁広言してはばからない人間も中にはいるかもしれない。
 そしてそれは表現者として、また芸術家としては、究極の理想の姿の一つなのかもしれない。
 けれど、それは結局のところ、自らの狭い世界に惑溺することに夢中で、周囲との適切な距離感を失った稚拙な錯覚であると、僕は強く思うのである。

 と、言っても、何も僕はなくってもなくってもいいものを生業にする人間や、それを愛好し支えていこうとする人間が、現在の諸状況に迎合せよ、と教え諭したい訳では毛頭ない。
 このような状況だからこそ、なくってもなくってもいいものの持つ意味とはいったいなんなのかということを深く考え、自分の周囲にある人たちへとどう働きかけることができるのかをもっと突き詰めて欲しいということを、僕は言いたいのだ。
 もう一つ言えば、今なくってもなくってもいいものの側に立つ人間に必要とされていることは、なくってもなくってもいいものなんて本当にいらない(それは、クビを切りやすい連中のクビを切って何が悪いという思考発想とも容易に直結する)と断じてはばからない人間に直訴嘆願することではなく、彼と我との間にある多数の人々の理解や納得を促し、その多数の人々と協働することだとも、僕は考える。
 だいたい、先述したような私は芸術に殉ずる的なヒロイズムはご免こうむりたいが、自分の食いぶち、ならぬチケット料金を削ってでも多くの人たちに自分たちのなくってもなくってもいいものを観聴きしてもらいたいという気概はもっとあってもいいのではないか。
(言っておくが、これはただ働きをしろとか、芸術家は貧乏・イズ・ベストなどということを薦めているのではない)

 ピンチはチャンスというが、今年はなくってもなくってもいいものの真価が大きく問われる一年となるはずだ。
 僕はそのことを念頭に置きながら、日々頑張っていきたいと思う。
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2008年09月23日

無知は恥

 最近映画化されたある漫画 − 今は亡き著名な作家の代表作を「剽窃」しているのではないかという疑念を持たれている − がらみでもそう思うのだけれど、やはり無知は恥(ち)であり、罪なのではないか。
 いくら、「おばか」が持て囃される時勢時流とはいえ、知らなかった聴いたことなかった、知らぬ存ぜぬわしゃ知りませぬ、ではすまないことが、世の中には厳然と存在するのである。
 少なくとも僕は、自分があまりにも物事を知らないという切実な想いを日々抱き続けていかなければならないと強く思っている。
 そして、切実な想いなしの創作活動や表現活動など、全く意味がないとも僕は考えている。
 繰り返すが、やはり無知は恥であり、罪なのだ。
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2008年09月16日

物真似の極意 平泉成を中心に

 物真似の極意、などと大仰なタイトルをつけてしまったが、なんのこたない、下手の横好き、自己満足の様を書き散らかしてみようという魂胆だ。
 で、最近プチ、じゃないミドル・ブレーク中の平泉成をモデルに語ろうと思う訳だけど、それにしても平泉さん、自分のポジションをしっかりキープするようになったなあ。
 いや、かつて平泉征と名乗っていた当時から、相当インパクトのある役者さんで、知る人ぞ知る存在はあったのだが。
 でも、あの頃みたいにぎらぎらぎすぎすばかりしていては、当然長持ちなんて出来ないもの。
 その点、いい意味でアクが抜けて、それでいて未だに腹の底に一物、どころか二物三物ぐらいはありそうな今の平泉成は、本当に使い勝手がいいんじゃなかろうか。
 加えて、ケーナづくりが趣味というあたりも意外性に富んでいて、実に面白い。
 いかんいかん、脱線トリオのてんぷくトリオになってしまった…。
 平泉さんのあのかすれたような声は、比較的物真似のし易い特徴のある声質で、実際それ専門の芸人ばかりか役者仲間(例えば、高橋克実とか)やタレントたちが、こぞって物真似のレパートリーに加えている。
 もちろん、平泉成の物真似一つ出来れば、もうそれだけで言うことはないのだけれど、ちょっと工夫をしたならば、あと二つはレパートリーを拡げることができるのである。
 まず、平泉成の声が自分なりに完成したと感じたならば、次は、その声をちょっと高めにし、きつくしめつけるようにしてみればいい。
 柳沢慎吾お得意の『太陽にほえろ』の山さん、僕の場合は、長年NHKで放映されていたシャーロック・ホームズ調でいくのだが、露口茂の物真似の出来上がりだ。
(ところで、露口さんって今どうしているんだろう)
 さらに、平泉さんの声をきつくしめつけるようにするのは同じだが、今度は声を低く下げてみる。
 それも、ちょっと興奮気味の口調がいいだろう。
 これで、関根勤の十八番でもある大滝秀治が物真似のレパートリーに加わるというものだ。
 あとは、自分の物真似した声をテープにでもとって微調整をすれば、ほぼ完璧なんじゃないだろうか。
 まあ、そこまでする必要があるかないかはひとまず置くとして。

 そうそう、これは余談だけど、高校時代、友人たちからうまいうまいとおだてられたこともあって、『伊達政宗』の虎哉和尚や『特捜最前線』の船村刑事、さらには『犬神家の一族』の大山神官と、大滝秀治の物真似を繰り返していて(と、いうから、関根勤が始める以前から、僕は大滝秀治の物真似をやっていたのだ)、喉の調子を悪くしてしまったことがあった。
 爾来、何かあるたびに、喉の異物感がつきまとって仕方がないのだけれど、平泉成、露口茂、大滝秀治といった喉しめつけ系の物真似を試みる方々は、そこのところよくよくご注意下さいませ。
 ある意味、喫煙よりも危険かも?
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2008年09月03日

いたって単純なこと

 日々をばたばたと、あるいは漫然と生きていると、とかく忘れがちなことだが。
 物事とは、本来いたって単純である。
 どうしても観たいものをこそ観ればいいし、どうしても聴きたいものをこそ聴けばいい。
 どうしても読みたいものをこそ読めばいいし、どうしても書きたいことをこそ書けばいい。
 そして、どうしても会いたい人とこそ会えばいい。
 つまるところ、自分自身が為したいと思うことをこそ、為していけばいいのだ。
 もちろん、世の中、そんなに単純にはいかないものではあることも事実だけれど、少なくとも僕は、そういう風に生きていきたい、生きていければ、と強く考えている。
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2008年08月26日

にゅうめんを食べる日々

 このところ、三度三度きちんと食事をとって、そのあと薬を飲むというような生活を送っている。
 まさしく健康的な食生活(あくまでも食生活が)、であるが、基本的には朝昼兼用と夜の二食だけですませてきた人間にしてみると、いわゆる腹具合という身体的な意味からも、いわゆる懐具合という経済的な意味からも、一日三食が少々厳しいことはやはり否定できない。
 と、言うことで、いろいろ考えた末に、お昼を極力切り詰めていくことにした。
 ただし、切り詰めると言ったって、塩分とりすぎにつながる塩っ辛いものや、油分とりすぎにつながる脂肪ぎとぎとのものは絶対に避けなけりゃあいけない。
 で、こうなると選択肢は自ずから狭まってくる訳で、僕の場合、近くの100円ショップでも手に入るそうめんを選ぶことにした。
 まあ、暦の上では秋とはいえ、まだまだ季節外れとは言えないだろうしね。
 でもって、毎日そうめんを湯がいて冷水にさらして薬味や錦糸玉子を用意して。
 なんて冷やしそうめんの段取りは一切とらず、僕はにゅうめんをつくる。
 手製の薄味の出汁を煮立ててそうめんを放り込み、待つこと2、3分、柔らかくなったらそれで出来上がりといういたってシンプル、いたって野蛮なにゅうめんだが、ねぎやすり胡麻、そして七味も入れるから、けっこう美味しく仕上がっていると自分では思う。
 少なくとも、不味くてどうにも食べられない代物じゃないはずだ。
 そう言えば、今は亡き母方の祖父は、「そうめんは喉に詰まる」と言って、冷や麦ばかりを食べていたっけ。
 子供の頃は、うどんでもそうめんでもない冷や麦の中途半端なありようがあまり好きになれなかったものだけれど、今では、いやいや冷や麦は冷や麦でいいんじゃないか、麺それぞれなんだもの、とどこかの書文家よろしく、そう思えるようになってもきた。
 たまには、祖父が好んだ冷や麦でも食べてみようか。
 ところで、暖かい冷や麦はなんと呼ぶのだろう。
 それもまた、にゅうめんと呼んで差し支えないのだろうか。
 今日のお昼のにゅうめんを食べてから、調べてみることにしよう。
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2008年08月25日

兵法

 かつて自らの外交策をマスコミに問われて、それをアヒルの水掻きにたとえた日本の政治家がいた。
(ちなみに、2008年8月25日現在、その政治家の息子がこの国の内閣総理大臣を務めている)
 まあ、リップサービスが非常に得意な人物だったから、このアヒルの水掻きとて当然そうした趣もあったのだろうけれど、それより何より自己満足、さらには自己満悦のきらいが十分十二分にあったような気がして僕には仕方がない。
 むろん、自己満足であろうとなかろうと、要は隠れたアヒルの脚がすいすいすいすい水を掻いてくれさえすればいい訳で、事は結局結果次第ということになる。

 だが、こういう自己満足や自己満悦は、えてして慢心というものにつながりがちで、思わず落とし穴に陥る危険が少なくないのではないか。
 例えば、戦国時代の桶狭間、より正式には田楽狭間の戦いにあえなく戦死した今川義元など慢心も慢心、大慢心の代表格で、単に強者の弱者に対する奢りどうこうというだけではなく、そこには己の戦力戦術に酔いしれた自己満足自己満悦の臭いがふんぷんとする。
 と、言っても、僕は織田信長流儀の奇襲戦法ばかりが正解だと断じたい訳では毛頭ない。
 アメリカとの不条理な戦いを強いられたベトナムの人民ならばいざ知らず、いつもかつも背水の陣、無手勝流のがむしゃら兵法で勝てると思ったら大間違いだ。
 もし、本気でそう信じ込んでいるのだとすれば、それこそ竹槍でB29式の稚拙な精神論だろう。
 特に大きな相手、自分よりも力強い相手に勝負を挑む時ほど、心の余裕の一つや二つ、どころか三つや四つは必要なのではないか。
(慢心と余裕が違うことは言うまでもあるまい。そして、田楽狭間の織田信長だとてベトナムの指導者ホー・チミンだとて、心の余裕が一切なかったとは思えない)

 まして、平時においておや、である。
 これ見よがしのファイティングポーズで臨むより、何食わぬ顔をして陣地をどんどん築き上げ味方を確実に増やし着実に敵を追い詰めることこそ、平時の兵法、平時のゲリラ戦法とは言えまいか。
 そして、その優れた例が、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』だと、僕は思う。
 美と調和を維持しつつ、なおかつ観る人の心に楔を打ち込み続ける巧みに巧まれた時限装置。
 確かにそれは、革命の激しい嵐の中で生み出された「時代の産物」ではあるが、嵐が過ぎ去った今もなお、いや今だからこそ、闘い方の極意というものをしっかりと教えてくれる。
 少なくとも、僕は『フィガロの結婚』のフィガロ、ではなくモーツァルトの姿勢に多くを学びたい。
(その意味で、美と調和と闘争の三者のバランスが見事に、あるいはいびつにとれたニコラウス・アーノンクール盤を、僕は『フィガロの結婚』の推薦盤として挙げたい)

 そうそう、アヒルの水掻きの成果について記すのを忘れていた。
 残念ながら、件の政治家の仕掛けたアヒルの水掻きは思った通りの効果を上げることはできなかった。
 そればかりか、件の政治家にとっては小さからぬ傷となったのである。
(彼が田中角栄に政権の座を先取りされた一因となったと言っても過言ではないのではないか、アヒルの水掻きは。今から思うに)
 まさしく、生兵法は大怪我のもとだったということだ。
posted by figaro at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月24日

ニュートラル

 パーシヴァル将軍に迫ったかの山下奉文ではないけれど。
 イエスか? ノーか?
 ニュートラルな立場などない。そのどちらかで決めてしまえ。
 という発想ほどうっとうしくて不愉快なこともない。
 もちろん、この世に生きているかぎり、絶対的な中立などというものがありえないということや、どんなに判断に窮する事柄でも、イエスかノーかの何れかを選びとらなければならないことがあるということは百も承知のうえである。
 それでも、いや、そうであるからこそ、有無も言わせぬイエスかノーかの強制にはたとえようもない拒否反応を示したくなるのだ。
 そしてそれは、単にイエスかノーの判断を強いる「システム」そのものに対してと言うよりも、そうしろそうしろそれが当為のことだと、まるでそれが最高善の絶対善であるかのようにはなから決めつけておかしがらない人間に対する拒否反応であり、不快感であると言い換えることもできるだろう。
 加えてそれは、人の生命に関わるような重大な判断(例えば、軍事的な戦略に関して、死刑制度に関して、脳死問題に関して等々)までを、何の躊躇もなく即断即決することができ、なおかつ自らと同様に為すことを他者に強いる人間への絶対的な不信感と大きくつながっているとも言える。
 ひるがえって、ニュートラルとは現にかく在る状態ではなく、どうしてもイエスかノーかの判断を行わざるをえない、結果としてどちらかに偏らざるをえない人間が、揺らぎ躊躇し迷いながらいったん留まって、自らの判断について深く考察しようとする強い意志をこそそう呼ぶべきなのではないかと、僕は思う。
 だからこそ僕は、我はニュートラルなり、と広言してはばからない人間に対しても、うさん臭さと嘘臭さを感じてしまう。
 ニュートラルって、それほど簡単なことじゃあるまいに!
posted by figaro at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月14日

自分の穴の外へ

 以前別のところにも記したが、自らをいわゆるクリエーターと称する人種の中に、「自分のオリジナリティーが損なわれてしまうから、過去の作品には触れない」と、臆面もなく口にしている人間がいるらしい。
 確かに、過去の作品に触れることには、創作活動を継続しようとする人間にとっていくつかの危険が伴っていることも事実である。
 安直な盗用、安易な流用は論外としても、自らが敬愛する作家の作品に触れることで、彼彼女らの影響を丸ごと受けてしまい、知らず知らずのうちに、自分自身が造り出すものが彼彼女らの模倣に終始してしまっているということは、あらゆるジャンルにおいてよく見受けられることだ。
 かくいう僕も、ある時は筒井康隆、ある時は小林信彦、ある時は花田清輝、ある時は殿山泰司、ある時は横溝正史、ある時は林光と、手を換え品を換え、大好きな先達の影響丸出しの文章を、残念ながら書き流してしまっている。
 けれど、個々の創作者がそのようにエピゴーネンに陥る原因は、あくまでも創作者自身の自己調整能力の弱さ、欠落にあるのであって、過去の作品、他者の作品に触れることそのものにあるのではなかろう。
 だいたい、おぎゃーと生まれてこの方、この世に生きる人間は、好悪の情に関係なく、なんらかの形で、過去や他者の影響を受けざるをえないのだ。
 そして、そうした様々な影響の中から造り出されたものこそが、その人固有の何か、それこそオリジナリティーではないのか。
 むろん、過去にはないもの、他者が造り出していないものを造り出していきたいという気概や意気はよい。
 それなしに、「革新」は訪れない。
 しかしながら、過去を知ることなしに、本当の「革新」は為しうるのか。
 例えば、よく「新しい試み」だとか「斬新な実験」といった惹句を演劇公演のチラシで見かけるが、蓋を開ければ、そんなこと1960年代に音楽のジャンルで何度も行われているよ、と呆れてしまうようなことが少なからずある。
 結局、「革新」とは、自分自身もまた歴史的存在であり、過去から逃れられないという断念、挫折、痛切な自己確認からしかスタートしないのではないか。
 少なくとも、自分が掘った底の浅い落とし穴に他人まで引きずり込んで、どうだ深いだろう、どうだ怖いだろうと大はしゃぎするような真似は、あまりにも無様に過ぎる。
 いずれにしても、自分が無知であるということを知らない人間こそが、もっとも愚か者ということだ。
 僕は、愚かな人間ではありたくない。
posted by figaro at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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