かつて古今亭志ん生は自らの高座で、落語のことをなくってもなくってもいいものと言い切ってみせたという。
むろんそこには、志ん生その人の恥じらいや、逆に矜持もあったのだろうが、落語、だけではなく、その他芸能芸術諸事万端の本質をずばり言い表した言葉だとも思わないでもない。
そもそも人間にとって必要とされるものは、衣食住、つまり食べるものであり着るものであり住む場所であって、それを得るために労働というものもある、という風にしごくシンプルに考えてみれば、落語なりお芝居なり映画なり小説なり音楽なり、そんなもの余りものも余りもの、あってもなくてもいいもの、どころか、本当になくってもなくってもいいものと、確かに思われるからだ。
(この場合、宗教的儀式には云々かんぬんといった事どもは全く考えないことにする)
それには当然、人間が生きていく上で、落語なりお芝居なり以下省略が精神衛生面で大きな役割を果たしているといった反論もあるはずだし、現に僕自身、上述したような諸々のものがこの世からなくなってしまったら、毎日が非常に味気なくなってしまうことは、まずもって疑いようがない。
それに、住居の問題はひとまず置くとしても、衣や食よりもなくってもなくってもいいもののほうを優先したいと考える人間の数は、この国においてもけっこう少なくないと思う。
例えば、食事代を削ってでも好きなアーティストのライヴのチケットやアルバムを手に入れたという経験を持つ人は、そんなに特異なケースではないのではないか。
とはいえそれは、たとえ「貧乏だ貧乏だ」と口にはしながらも、なんとかやりくりがつくからこそそうできることなのであって、自分の財政状態が本当に逼迫してくれば、それこそ背に腹は代えられぬ、夕餉のおかず朝(あした)のトイレットペーパーと、生活に必要とされるものへの支出が家計簿全体を占めるようになるのは、当然のことであろう。
まして、現在のような厳しい社会的経済的状況の中では、「何がなくってもなくってもいいものか。今はあっていいもの、あるべきものについてなんとかしていくべきところだろう」という動きが加速化されてなんら不思議ではない。
事実、大阪府の橋下知事が推し進めようとしている政策などは、その潮流の最たる表われの一つだと考えることができる。
いや、そんなことはない、俺は寒風吹き荒ぶ中ホームレスになろうが、飢えに苦しみ泥水啜り草を食もうが、なくってもなくってもいいもののために死ぬ、キリギリスは死んでもヴァイオリンを離しませんでした、と強弁広言してはばからない人間も中にはいるかもしれない。
そしてそれは表現者として、また芸術家としては、究極の理想の姿の一つなのかもしれない。
けれど、それは結局のところ、自らの狭い世界に惑溺することに夢中で、周囲との適切な距離感を失った稚拙な錯覚であると、僕は強く思うのである。
と、言っても、何も僕はなくってもなくってもいいものを生業にする人間や、それを愛好し支えていこうとする人間が、現在の諸状況に迎合せよ、と教え諭したい訳では毛頭ない。
このような状況だからこそ、なくってもなくってもいいものの持つ意味とはいったいなんなのかということを深く考え、自分の周囲にある人たちへとどう働きかけることができるのかをもっと突き詰めて欲しいということを、僕は言いたいのだ。
もう一つ言えば、今なくってもなくってもいいものの側に立つ人間に必要とされていることは、なくってもなくってもいいものなんて本当にいらない(それは、クビを切りやすい連中のクビを切って何が悪いという思考発想とも容易に直結する)と断じてはばからない人間に直訴嘆願することではなく、彼と我との間にある多数の人々の理解や納得を促し、その多数の人々と協働することだとも、僕は考える。
だいたい、先述したような私は芸術に殉ずる的なヒロイズムはご免こうむりたいが、自分の食いぶち、ならぬチケット料金を削ってでも多くの人たちに自分たちのなくってもなくってもいいものを観聴きしてもらいたいという気概はもっとあってもいいのではないか。
(言っておくが、これはただ働きをしろとか、芸術家は貧乏・イズ・ベストなどということを薦めているのではない)
ピンチはチャンスというが、今年はなくってもなくってもいいものの真価が大きく問われる一年となるはずだ。
僕はそのことを念頭に置きながら、日々頑張っていきたいと思う。
posted by figaro at 14:14|
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