2009年01月10日

『プレゼント』を読み終えて

 若竹七海の『プレゼント』<中公新書>を読了した。
 昨日の夕方買って読み始めて、今夜には読み終えたのだから、あっという間というほどではないが、けっこう速いスピードで読み進めてしまったということになる。
 一つには、若竹さんの筆致が非常に読みやすいということもあるだろうし、作品そのものの面白さがそうさせたと評することもできる。
 若竹さんの諸作品と同様、ミステリーとしての仕掛けがきっちりはかられている点ももちろん重要だけれど、のちの連作(『依頼人は死んだ』、『悪いうさぎ』<ともに、文春文庫>。実は、こちらのほうを僕は先に読んでしまっている)につながる葉村晶の「活躍」も嬉しい。
 ただ、それより何より僕は、若竹さんの人間観察の妙というか、「無意識の悪意」の描きっぷりに強く魅かれるのである。
 そして、それは臆面のなさへの嫌悪感、拒否感のはっきりとした表われと言い換えてもいいだろう。
 若竹七海という作家がこの国で「大」作家とはならない、全部ではないけれど、大きな理由は、そこにこそあるのだと僕は考える。
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2009年01月09日

『喰いたい放題』を読み終えて

 色川武大のエッセイ集『喰いたい放題』<光文社文庫>を読み終えた。
 そのタイトル通り、まさしく喰うもの喰うことに関して書き綴られた一冊で、もともとどこかの雑誌に連載された文章をまとめたものだろうから、どちらかと言えば軽め、それこそ佃煮か何かでお茶漬けをかっ込むような内容。
 と、言いたいところだが、そうは問屋がおろさない。
 もちろんそこは色川武大のこと、変に力が入ったり、妙に気取ってみたりなんてことは一切ないけれど、文章のありとあらゆる部分から、彼の凄味、もっと言えば、狂気が噴き出していて、やっぱり僕は圧倒されてしまった。
(しかも、ここで大切なことは、色川さん本人が自らの狂気を十二分に承知しているということだ。承知していて、それをそうしてしまう、さらにはこうやって文章にしてしまうところが凄い)
 いずれにしても、喰うものや喰うことのみに興味がある人にはあまりお薦めしたくない一冊である。
 なぜなら、喰うものや喰うことのみに興味がある人には、もっと適当な本が山ほどあるからだ。
 まあ、逆にそのような本には、ちっとも食指が動かないけどね、僕は。
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2008年09月13日

『わたしのグランパ』を再読しての簡単なメモ

 筒井康隆の『わたしのグランパ』<文春文庫>を再読した。
 作品の完成度の高さや、作家の趣味趣向の表れ具合については、今さらくどくどと繰り返す必要もあるまい。
 また、名演出家として知られた今は亡き久世光彦の、彼ならではの解釈についても、実際文庫本の解説にあたってもらえば充分かと思う。
 僕が今回読み直して再確認したことは、『わたしのグランパ』がいかに死すべきか、言い換えるならば、自らの消滅をいかに受け入れるかについて書かれた作品だということだった。
 そしてそのこと、自らの消滅をいかに受け入れるかということは、筒井康隆という作家が初期の頃から一貫して書き続けていることでもある、ということも強く思い起こした。
(ただし、最近の筒井康隆が、この『わたしのグランパ』や『敵』、『銀齢の果て』のような「老いと死」に関する作品を度々発表している点にももちろん留意しておくべきだろうが)
 なお、『わたしのグランパ』を再読することによって、僕が拙作『そこは私の席だ』(個人創作誌『赤い猫』第1号所収)に対する旧い友人の指摘の適確さを痛感したことに関しては、すでに昨日の日記に記したことでもあり、ここでは詳しく繰り返さない。

 そういえば、『わたしのグランパ』は、菅原文太や石原さとみの出演で映画化されたはずだが、そちらの出来はどうだったのだろう。
 一度観ておきたいような、観たくないような。
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2008年08月30日

『1809 ナポレオン暗殺』を再読して

 佐藤亜紀の『1809 ナポレオン暗殺』<文春文庫>を再読し終えた。
 文庫本巻末に記した初読時読了の日付は、2000年の8月14日だから、ほぼ8年ぶりの再読ということになるが、最初に読み終えた時同様、いやそれ以上に、僕は感嘆せざるをえなかった。
 作品の結構、展開等々については、福田和也が解説で詳しく語っているので、屋上屋を架すような真似はしないけれど、巧みに巧まれた物語の素晴らしいこと素晴らしいこと。
 知識が単なる知識蘊蓄として垂れ流されるのではなく、作品世界を豊かにし堅固にするための土台・背景として存在していることも見事だし(西洋史の知識が豊富な作家は他にもいるが、残念ながら佐藤亜紀と比べると、「小説」としてちっとも面白くない。そう言えば、その作家、佐藤さんと「同じ名前」だったんだ)、佐藤亜紀のその他の作品とも共通する、ある種清々しい余韻も強く印象に残る。
 そして、今回の再読で、この『1809 ナポレオン暗殺』とモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の深い関係を確認し直せたことも、僕にとっては大きな収穫だった。
 ただし、『ドン・ジョヴァンニ』との関係は僕自身の発見ではない。
 作中、『ドン・ジョヴァンニ』はしっかりと「登場」しており、主人公の一人であるウストリツキ公爵をして「この世界がこの先何世紀保つかは知らないが、あれ以上のオペラなど存在しないよ」と言わしめている。
(だから、作品の幕切れ間近でこのイタリア語が堪能なウストリツキ公爵が口にする「自由」という言葉は、ドイツ語のフライハイトでもフランス語のリベルテでもなく、『ドン・ジョヴァンニ』の中で万歳=ヴィヴァと称えられる「リベルタ」だと僕は思う)
 いずれにしても、この『1809 ナポレオン暗殺』が知情意の三拍子揃った優れた文学作品、読み応えのある面白い小説であることに間違いはあるまい。
 再読して本当によかったし、大いに満足がいった。
posted by figaro at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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