2014年04月26日

ラジオ深夜便で幸田延の作品を聴いた

 金曜深夜のラジオ深夜便といえば、通常関西など地方局からの放送だが、連休間近ということもあってか、今夜はおなじみ遠藤ふき子アンカーで東京からの放送となっていた。

 で、11時台、0時台は、音楽評論家の萩谷由喜子を迎え、瀧廉太郎と幸田延に関する特集が組まれていたのでけれど、『荒城の月』の原曲(現行版は、山田耕筰によって音の変更が行われ、ピアノ伴奏が加えられている)が聴けた11時台も悪くなかったが、なんと言っても幸田延の作品が放送された0時台が聴きものだった。

 幸田延[1870−1946]は、幸田露伴の妹(露伴の娘幸田文が『小石川の家』で延についても触れていて、久世光彦演出でドラマ化されたときは、先年亡くなった淡島千景が延を演じていた)で、もう一人の妹幸(結婚して安藤姓に。ヴァイオリニスト)とともに、日本の洋楽受容史を語る際には決して忘れてはならない存在である。
 アメリカ、ドイツ、オーストリアへの留学経験があり、ヴァイオリニスト、ピアニスト、作曲家としてその才能を発揮したほか、東京音楽学校の教授として後進の指導にもあたった(瀧廉太郎も師事した)が、女性蔑視、男尊女卑、女性への嫉妬によるバッシングもあって(「上野の西太后」等と揶揄された)東京音楽学校を追われ、その後は楽壇と完全に距離を置いた。

 こうした彼女の経歴に関しては先日読了したばかりの青島広志の『クラシック漂流記』<中央公論新社>にも触れられており、そこでも高く評価されていた二曲のヴァイオリン・ソナタが今夜放送された。
 池辺晋一郎によって欠落部分が補われているというが、ブラームスやシューマンは無理としても、ブルッフやヘルツォーゲンベルクあたりの初期の作品と言われれば、へえなるほどと思ってしまえそうな、ドイツ・ロマン派の語法に沿った弾き栄えのする音楽で、青島さんが記していた通り、瀧廉太郎の作品よりも聴き応えがある。
(そうそう、池辺さんと長年『N響アワー』でコンビを組んだ檀ふみが『わが愛の譜 滝廉太郎物語』で幸田延を演じていたんだった。もしかしたら、『N響アワー』でもそのことに触れたことがあったかもしれない)

 それと、これまた青島さんが記していた、幸田延が作曲した神奈川県立高等女学校・現神奈川県立横浜平沼高校校歌(佐佐木信綱作詞)も聴くことができたのも大収穫だ。
 陰から陽への変化、特に陽のあたりのメロディには、ブラームスの合唱曲を想起する。
 また、冒頭の音型が『荒城の月』と全く同じで、その点青島さんは疑問を呈していたのだけれど、これは教え子の瀧廉太郎に対するオマージュという萩谷さんの見解に僕も与したい。

 ところで、今夜読み終えたばかりの『いつも私で生きていく』<KKベストセラーズ>の著者草笛光子も同校の出身(神奈川県立横浜第一高等女学校時代。ただし、松竹歌劇団に入ったため、草笛さんは卒業できなかった)が、その草笛さんの名前が出たのは、偶然ながら嬉しかった。
(ちなみに、遠藤ふき子アンカーも平沼高校の出身とのこと)

 残念だったのは、放送がラジオ第1でステレオ放送ではなかったことだが、まあ仕方あるまい。
 いずれにしても、ああ、面白かった!
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2013年11月21日

youtubeで昔の日本のオーケストラの演奏を聴いた

 音質的な問題はありつつも、古今東西の様々な音源に触れることができるのは、やはりyoutubeのありがたみの一つである。
 昨夜は、鑑賞用の名曲アルバム(LP)からの音源を中心に愉しんだ。

 まずは、「おやかた」近衛秀麿がフィルハーモニア交響楽団を振ったハイドンのセレナード(現在は、ホフシュテッターの作曲とされる弦楽4重奏曲第17番第2楽章の弦楽合奏版)。
 これは、子供の頃、両親に買ってもらって愛聴した日本コロンビア(学研)の名曲集「こどものクラシック」(25センチLP)中の録音で、録音用の寄せ集めのメンバーか既存の団体の変名によるアンサンブルだろうが、しっとりたっぷりと鳴らされた弦楽が美しく、とても懐かしかった。

 続いては海外の録音で、エドゥアルト・ファン・ルモーテル指揮セントルイス交響楽団が演奏したプロコフィエフの歌劇『3つのオレンジへの恋』から行進曲を聴く。
 ひょこひょこピコピコした音質演奏が幸いしたのか、この曲が『スター・ウォーズ』の帝国のマーチ(ダース・ベイダー・マーチ)の下敷き(の一つ)ということが今頃になってわかった。
 それにしても、いつもながらジョン・ウィリアムズは「いただき」が巧い。
 アメリカの久石譲だ。
 いや、逆か。

 「いただき」の巧さといえば、こっちもか。
 芥川也寸志指揮旧東京交響楽団が演奏したハチャトゥリアンのバレエ音楽『ガイーヌ』から剣の舞(この録音の存在は、知らなかった)を聴いて、思わず玉木宏樹が作曲した懐かしの時代劇ドラマ『大江戸捜査網』のテーマ曲を聴いてしまった。
(『大江戸捜査網』は、ミクロス・ロージャやラロ・シフリンっぽくもあるのだが、やっぱり大枠は剣の舞なんじゃないかな)
 ところで、玉木さんは旧東京交響楽団のヴァイオリン奏者だったんだけど、上述した剣の舞のセッションには参加していたのだろうか。
 もしそうだったら、ちょっと面白いんだけどなあ。

 エーリヒ・ベルゲル指揮読売日本交響楽団が演奏したシベリウスの交響詩『フィンランディア』とドビュッシーの牧神の午後への前奏曲は、残念な出来。
 一応れっきとしたプロの仕事ではあるのだが、個々の技量に加えて、アンサンブルがもっさいというか、粗いというか。
 フィンランディアの勇壮な部分など、昔々の特撮映画か何かの「防衛隊出撃!」的な雰囲気である。
 ちなみに小川昂編集の労作『日本の交響楽団』、並びに『新編日本の交響楽団』<民音音楽資料館>によると、1998年に亡くなったルーマニア出身の指揮者ベルゲルは、1975年7月と1986年11月に読売日本交響楽団の定期演奏会に登場しているので(あと、1982年11月にはNHK交響楽団の定期公演も指揮している)、そのいずれかの際の録音と思われる。

 そして、ガエタノ・コメリが旧日本フィルとコロンビア合唱団を指揮したヘンデルのオラトリオ『メサイア』からハレルヤ・コーラスは、予想通り、今ではめったに聴くことのできないオールド・スタイルの演奏だった。
 ムソリーニによって戦前派遣されたというコメリはイタリア出身の指揮者で、音楽教育に携わったほか、日本のオペラの基礎づくりに努めたり、皇紀2600年を記念した演奏会でピツェッティの交響曲を指揮したりもしていた。
(加えて、ジョセフ・ローゼンストック来日直前の1936年1月の新交響楽団=現NHK交響楽団の定期公演を指揮してもいる)
 ゆったりとしたテンポと一音一音を丁寧に歌う生真面目な合唱に、高校時代、長崎市内の県立五高校による連合音楽祭で歌った同じ曲を思い出した。
 あのときは速く歌おう、速く演奏しようとする未熟な合唱とオーケストラに、「走るな」とA先生がお怒りになったものだが、21世紀を迎えた今では走りに走って装飾音までつけたハレルヤ・コーラスが当たり前というのだから隔世の感ありだ。

 ほかに、昭和のヤマカズさん山田一雄指揮旧東京交響楽団が演奏したスッペの喜歌劇『軽騎兵』序曲と渡邉暁雄指揮旧日本フィルが演奏したヴォルフ=フェラーリの歌劇『聖母の宝石』間奏曲も聴けて、大いに満足。
 ああ、愉しかった
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2011年04月15日

モーツァルトの序曲集を聴きながら

 アンドレア・マルコンがスイス・バーゼルのピリオド楽器アンサンブル、ラ・チェトラを指揮したモーツァルトの序曲集<ドイツ・グラモフォン>に関しては、いずれCDレビューをアップするつもりでいるが、さすが劇場感覚に秀でたモーツァルトだけあって、序曲を聴いているだけでわくわくした気分になってくる。
 いや、やっぱり序曲だけだと物足りないかな。
 と、言うのも、マルコンはよい意味で煽る、メリハリのはっきりしたドラマティックな演奏を創り出しているので、序曲が終わると、つい次の曲目を聴きたくなってしまうのだ。
ダ・ポンテ三部作などは特にそう。
 だから、『フィガロ』だったら、チンクエと、『ドン・ジョヴァンニ』だったらノッテジョルノと、『コシ』だったらラミアドラベッラとついつい口づさんでしまいたくなるほどだ。
 そういえば、あまたあるオペラの中で、僕が本当に好きなオペラはモーツァルトのダ・ポンテ三部作だ。
(他は、リヒャルト・シュトラウスの『カプリッチョ』)
 『フィガロ』は全曲、ドン・バジリオのアリアはもちろん、レチタティーヴォにいたるまでたまらなく好き。
 でも、心がどうにも落ち着かなくなるのは、『ドン・ジョヴァンニ』かな。
 中でも、第一幕のフィナーレで、いくつかの音楽がばらばらに演奏されるあのシーンは、本当にたまらない気分になる。
 今手元にあるのはカラヤンのCDだが、できればもっと別の演奏で耳にしたい。
 例えば、マルコンが指揮した演奏とか一度聴いてみたいものだ。
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2011年04月11日

通崎睦美さんのコンサートのご案内

 4月15日19時から、京都芸術センターの講堂で、旧知のマリンバ奏者通崎睦美さんの震災支援コンサートが開催されます。

 入場は無料で、当日会場では東日本大震災の被災者の方々への義援金を受け付けられるとのことです。

 また、入場の際は整理番号が必要ですので、ご予約のほうをお忘れなく。

 詳しくは、こちら(通崎さんのブログ)のほうをご参照のほど。

 ご都合よろしい方は、ぜひとも足をお運びください!
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2010年09月17日

大阪センチュリー交響楽団の日本センチュリー交響楽団への改名を知って

 さる9月12日、大阪センチュリー交響楽団のコントラバス奏者奥田一夫さんが亡くなられた。
 コンサートは別にして、僕自身、奥田さんと直接お目にかかる機会はほとんどなかったが、そのお人柄とオーケストラにかける熱意については、友人知己から幾度となく耳にしていた。
 まだ57歳での死。
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷である。
(奥田さんがマウンテンバイクを運転中に事故で亡くなられたことを知ったとき、僕はすぐに、日本フィル事務局におられた中島賢一さんのことを思い出した。演奏者と事務方の違いはあったにせよ、お二人ともオーケストラをこよなく愛された方たちだったと思う)


 ところで、奥田さんが所属されていた大阪センチュリー交響楽団が来年4月から日本センチュリー交響楽団に名前を変えるということが、今朝の朝日新聞朝刊に報じられている。
 橋下大阪府知事の「改革」の名の下、大阪センチュリー交響楽団への補助金が打ち切られる中、なんとか楽団の生き残りをはかった結果が、今回のこの改名なのだろう。
 名称その他、様々に考えることはあるのだが、まずは大阪センチュリー交響楽団改め、日本センチュリー交響楽団の今後の活動を、一人のオーケストラファンとして応援していきたいと考える。


 ただ、「将来は76人編成への拡大を目指す」というオーケストラの目標に対しては、やはりどうしても疑問が残る。
 朝日新聞の記事にもあるように、センチュリー交響楽団の持ち味は、「55人編成と小規模だが、精密で透明度の高いアンサンブル」というところにあるのではないか。
 プログラムによって編成が拡大すること、エキストラを入れることは当然仕方ないとしても、何ゆえ常時76人の編成を目指さなければならないのだろう。
 もしそれが、前々からの発言の通り、現音楽監督小泉和裕さんの強い意志によるもので、彼がギャラの多くを返上し、この日本センチュリー交響楽団と心中する覚悟でそれを目指すというのであれば、僕はそれはそれで大いに納得するところであるが。
(オーケストラにかぎらず、自らが率先して何かを為そうとする場合は、その何かと心中するぐらいの覚悟、もしくは最後の最後になってちゃぶ台をひっくり返すぐらいの覚悟がなければ事は為せない、逆に言えば、ちょっとしたことで逃げを打つようでは事は為せない、と最近僕は強く思う。もちろん、これは僕自身の自省の言葉であるのだけれど)
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2010年05月08日

セミ物神崇拝主義者の告白  もしくは、僕が手に入れたいCD

 物に執着し始めると際限がないとわかっているので、基本的に○○マニアだの○○コレクターだのにはならないよう常日頃から注意を払っているのだけれど(だって、財布の中身には際限があるじゃないか)、ときに物神崇拝主義者の血が騒ぎ出すことがある。
 特に、昨日みたく前々から気になっていたCDを中古で安く手に入れたあとなどでは。
 で、金に糸目をつけず、ではない、つけながら、欲しい欲しい、手に入れたいと思っているクラシック音楽のCDについて記しておきたい。
(なお、いずれも輸入盤、それもヨーロッパでリリースされた初出盤に限る。そういうところが、ちょっとコレクター的であるような…)

 まずは、バーバラ・ボニーが独唱陣に加わった、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団他の演奏によるメンデルスゾーンの交響曲第2番<TELDEC>。
 ボニーのベスト・アルバムでこの曲の一部を聴いてからというもの、マズア髭むくじゃら親父や他の歌手はどうでもいいけど(いや、よくないか)、なんとか手に入れたいなと思っている一枚。
 実は、六角通にあるポコ・ア・ポコで1200円で出ているのを見つけ、ちょうど手持ちがなくて、翌日行ってみたらもう売れてしまっていたという経験があり、未だに悔しい想いをしている。

 同じ、ボニーのベスト・アルバムがきっかけとなって欲しくなったCDが、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン他によるモーツァルトの孤児院ミサ&エクスルターテ・イウビラーテ<同>。
 ボニーのエクスルターテ・イウビラーテといえば、トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサートの伴奏によるARCHIV盤もあるけど、劇場感覚に満ちたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの演奏もあって、このTELDEC盤を僕はとる。
 アメリカ盤なら今も現役らしいが、上述した如く、僕が欲しいのはヨーロッパ(ドイツ)製の、それも初出盤だ。

 声のCDが続くが、今は亡きルチア・ポップが歌った二枚のリヒャルト・シュトラウスのアルバムはこの10年近く、中古CDショップを探しまわって見つけられないでいるもの。
(そうそう、僕はネットショップではCDを買わないことにしているのだ。いろいろ思うところがあって)
 クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの伴奏で4つの最後の歌を録音したEMI盤(交響詩『死と変容』がカップリングされている)と、ホルスト・シュタイン指揮バンベルク交響楽団の伴奏で『ばらの騎士』、『アラベラ』、『カプリッチョ』のハイライトを録音したEURODISC盤がそれで、結局実演に接することができなかったルチア・ポップのリヒャルト・シュトラウスをせめてCDでよいから聴いておきたいと願い続けているのだけれど。
 残念ながらそうは問屋が卸さない。

 まあ、こうやって欲しい欲しい、手に入れたいと思っているうちが、本当は一番愉しいのかも。
 なあんて書いてるようじゃ、本物の物神崇拝主義者にはなれませんな、全く。
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2010年05月01日

招待するならゲネプロに?  もしくは、中瀬宏之の本音を申せば

 中学の3年生以来だから、ほぼ25年もの間コンサートに足を運び続けていると、だいたいコアなクラシック音楽ファン(コンサート・ゴア)と呼ばれる人種の心の動きは、手に取るようにわかるようになってくる。
(ちなみに、僕は自分自身のことをコンサート・ゴアだとは思っていない。もう一つ言えば、シアター・ゴアとも思っていない)

 例えば、招待客へのちょっとしたジェラシーだとか。
 いわゆる関係者に対してもそうだけど、新聞やらホームページやらのプレゼントコーナーで運よく招待券を手にした、あまりクラシック音楽に通じていなさそうなお客さんに対する、「なんであんたらここにおんの」と軽く突っ込みを入れたくなるような気持ちは、身銭を切ってコンサートに通い詰めている人ならば、一度は感じたことはないだろうか?
 それも、チケット料金がけっこう高くて、しかもファンなら絶対に聴き逃せないあの指揮者やあのソリストが登場するコンサートならば。
(ことこのことにかぎらず、生身の人間だもの、ジェラシーがあること自体、僕は仕方がないことだと思う。問題なのは、それを面と向かって陽性に毒づくこともできず、かといって、自分の気持ちを隠しおおせることもできず、結局正論を装ってねちねちねちねちと相手を攻撃することではないか。あと、一番怖いのが、自分にはジェラシーなんて一切ないと信じ込んでいる人間の無意識のジェラシー!)

 だから、今回の読売日本交響楽団の大阪公演の招待状で問題が起こったとき、読売日本交響楽団のチケットセンターや昨夜の読売新聞大阪本社の企画事業部の方との電話で強調したのは、いったん招待客のための席は設けられないと決まったのであれば、無理に割り込んでまで自分の席を確保したいわけではないということだった。
(いやごとめかしてここには書いたが、そこらあたりに関しての自分の判断は、一応記しておいたつもりだ)

 ただ、一方で、シルヴァン・カンブルランの読売日本交響楽団の常任指揮者就任のお披露目コンサートを聴けるという願ってもないチャンスをみすみす棒に振るのも悔しいかぎり。
 僕がどうにも残念に感じたことも、それこそコアなクラシック音楽ファン、特にオーケストラのファンの方なら、ある程度は理解してもらえるものとも思う。

 そこで、手ごねハンバーグじゃあるまいしごねごねごねて自分だけコンサートに潜り込むような卑劣漢となることなく、なおかつ当日券を手に入れたいと願う人たちの想いをできるだけ適える(なぜなら、招待客が減れば、その分当日券に回せるので)という方法はないかということで、一つ思いついたことがあった。
(というか、はじめに電話をもらった段階ですぐにひらめいたのだけれど、担当のYさんに説明してもたぶんわかってもらえなさそうだったので、改めて直接読売日本交響楽団のほうに電話をしたのである)

 で、このことは昨夜読売新聞の方にも話したことだし、もはや実現の可能性もなさそうなのでこの場で明かしてしまうと、それは、招待状や招待券を送った人たちにかぎってゲネプロを公開するということだ。
 むろん、ゲネプロだから、まるまるコンサートのままというわけにはいかないし、指揮のカンブルランや読売日本交響楽団のメンバー、さらには関係者一同の承認が必要なことは重々承知しているが、招待状や招待券を持った人を門前払いにしたり、逆に当日券が出なくなってしまうよりも、まだましなのではないかと僕は思ったのである。
(加えて、このコンサートではテレビ撮影も予定されているから、その「プロ―べ」に接する愉しみまであるわけだ)

 それと、ここでみそなのは、(こうやって中瀬宏之が提案者であるにもかかわらず)これを、招待状や招待券に関する一連の経緯を耳にしたシルヴァン・カンブルランが自分から「ゲネプロを公開したらどうか?」と提案したという体にするということだった。
 そうすれば、招待状・招待券に関する読売新聞側の不手際を謝罪しつつ、「カンブルランの決断」といった記事をホームページに掲載できるだろうから、「カンブルランってええ人やん」と新常任指揮者のイメージも上昇し、まさしく災い転じて福となすこともできる。
 もちろん、やらせっちゃやらせだけど、これぐらいなら「メディア戦略」の一端、許容範囲のうちなんじゃないかな。
(しかも、あくまでもこれって僕の妄想だしね。それに、カンブルランが「そんな嘘はつけない」といえばいったで、彼の人柄がわかるチャンスになるし)

 それにしても、昨夜読売新聞の方とも少し話しをしたが、チケットの売れ行きを読むというのは大切なことだ。

 単に読売新聞の購読者(あまりクラシック音楽を聴かない)に読売日本交響楽団というオーケストラの存在を知らしめるためだけなら、例えば外山雄三や手塚幸紀、円光寺雅彦や梅田俊明といった手堅い日本人指揮者を起用してもなんの問題もない。
 それこそ心おきなく招待状や招待券を送りまくればいい。
(あっ、これは読売新聞の方には話したことではないので)
 けれど、残念ながらここに挙げた指揮者の顔触れだと、クラシック音楽の熱心なファンが集まりにくいだろうから、今度は読売日本交響楽団のコンサートが事業として成り立たない。
 まあ、上記指揮者のコンサートであれば、一般学生問わず、開演10分前から全ての残席を1000円で売り出せばいいと、僕なんかは思ってしまうけど。
(それだったら、僕も並ぶし)
 でも、そうしたらそうしたで、前売り券を購入したお客さんがジェラシーを持つだろうからなあ。
 ほんと、物事は簡単ではない。

 いずれにしても、今回の読売日本交響楽団の大阪公演は別として、オーケストラのコンサートの招待状や招待券を出すならばゲネプロに、というアイデア、関係者の皆さんにご高察いただければ幸いである。


 *追記
 過去のあれこれを僕も全く知らないわけではないし、僕自身、実はあまりそういう「売り方」は好きじゃないんだけど、今読売日本交響楽団が指揮台に上げるべき日本人の指揮者は、もしかしたら山岡重信なのではないかとふと思う。
 ただし、万一実現しても、定期演奏会ではなく、東京芸術劇場でのコンサートや深夜の音楽会の公開録音ということにはなるだろうが。
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2010年04月30日

速報:読売日本交響楽団大阪公演の招待状は無効じゃなかった!!

 今さっき、読売新聞大阪本社の企画事業部の方(昨夜のYさんの上司にあたる)から電話が入り、ホームページで当選した招待状は無効ではないということがわかった。

 詳しく述べると、今回の読売日本交響楽団の大阪公演に関して、当初読売新聞のほうから多数の招待状や招待券を送っていたが、終盤チケットが完売状態となり、できるだけ多くの方にコンサートを聴いていただきたいこともあり、招待状や招待券を得た人たちが5月3日当日、どれだけ来場するのか確認する意味合いが昨夜の電話は大きかったと、企画事業部の方から説明があった。
(その意味で、今回のコンサートのチケットの売れ行きに対する見込み違いがあったことは事実と謝れられてもいた)

 そして、昨夜の電話では「立ち見か入場できない場合もある」ので、別の展覧会の招待券を送るという代替案も提示をしたが、今回のコンサートを心から愉しみにしている人がいることも当然事業部のほうでも承知しており、読売日本交響楽団側の対応もあるかもしれないが、招待状や招待券を持って実際コンサートに来られた方の来場をお断りすることはできないという話もされていた。

 で、こちらは、こちら側の勘違いももちろんあるかもしれないが、昨夜のYさんの口調やニュアンスからはどうしてもそのように受け取ることができなかったことや、電話をかけ直したあとの説明もあまり丁寧でなかったことを指摘した上で、昨夜の電話の真意並びに招待状の取り扱いに関しては承知しましたと伝えておいた。

 いずれにしても、招待状の件がこういう形で明瞭になってまずはほっとした。
 そして、5月3日の読売日本交響楽団の大阪公演を心から愉しみたいと思う。


 *追記
 ただし、いくら招待状や招待券を持っていたとしても、開演直前にホールへ到着した場合は、立ち見や来場できないケースもありうると思う。
 遅くとも、開演45分前ごろには、ホールにお着きになられんことを。
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2010年04月20日

新世紀管弦楽団に関して調べてみた

 『ぶらあぼ』5月号を拾い読みしていたら、東京北西部・埼玉県を拠点とし、モダン楽器とピリオド楽器、モダン奏法とピリオド奏法の両方を取り入れたドイツ・オーストリアスタイルのオーケストラを目指すという「新世紀管弦楽団」なるプロのオーケストラが楽団員を募集していたので、早速そのホームページをのぞいてみることにした。
(同じ段に広告が掲載されている、埼玉県を拠点とした「新世紀オペラ」というオペラカンパニーも含めて「新世紀プロジェクト」という組織が運営しているようだ)

 で、新世紀管弦楽団といえば、どうしても創価大学の学生オーケストラを想起してしまうのだけれど、ホームページをのぞいたかぎりでは、そことは関係ないらしい。
 管弦楽団のほうは、今年の8月7日に三鷹市芸術文化センターの風のホールで第1回目の演奏会を予定していて、指揮はリンツ歌劇場の指揮者森内剛氏(国立音大出身のようだ)が務めるとのことだ。
(700前後の席数のホールで演奏会を行うと記してあるので、三鷹やさいたま芸術劇場などでコンサートを行う予定なのではないか)

 いずれにしても、今後の展開を注視しておきたい。
(もしかしたら、またぞろ電話かメールでさらなる情報収集を行うかもしれない)
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2009年10月19日

京都市交響楽団の事務局に電話をかけてみたが…

 昨日河原町通のライフカード京都店のぴあステーションで、京都市交響楽団の第529回定期演奏会(10月30日)のチケットを調べてみたのだが、あいにく希望の3階左側LBブロックのチケットは扱っていなかった。
 実は、以前ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクスの『メサイア』をここで聴いて以来、僕はこのLBブロックがとても気に入っているのである。
 と、言うことで、今日思い切って(これは大げさだけど)京都市交響楽団の事務局まで電話をかけてみた。
 で、結果は、LBブロックは定期会員のためにとってあるとのこと。
(ただし、来季からは変更するかもしれないのでこれからずっとということではないとの言葉もあったが)
 まあ、これは予想の通りで仕方ない。
 事務局の人は、丁寧にLCや反対側のRBなら手に入ると教えてくれたのだが、RBのほうは大野和士の回で金管群の強い響きにいくぶん辟易したし、LCのほうも3500円を出してまで聴きたいとは思えない。
 結局、これもP席を買いそびれた自分自身が悪いのだ。
 10月、並びに11月ともに京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行くのは諦めることにした。

 ちなみに、第529回定期演奏会の目玉、井上ミッチーの振るブルックナーの交響曲第9番では、暴力性全開になるだろう第2楽章がまずもって面白いんじゃないかな。
 あと、第3楽章はマーラーの第9番ばりの祈りの音楽になるような気がするなあ。
 いずれにしても、僕のように席にあまりこだわりがない人、そして財布の中身に余裕がある人は、ぜひとも京都市交響楽団の定期演奏会に足を運んで下さいませ!
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2009年10月09日

大阪センチュリー交響楽団の来季の定期演奏会のプログラムを知って

 来季(2010−11)の大阪センチュリー交響楽団の定期演奏会のラインナップが、楽団ホームページに発表された。
 先日来、民間への身売り説も取り沙汰されているだけに、その内容は非常に気になるところだが、小泉和裕主導の大曲路線に変化はなく、個人的にはがっくりきたというのが正直な感想である。

 と、言っても、小泉和裕が指揮する4回の定期演奏会を含め、個々のコンサートのプログラム自体に大きな不満があるわけではない。
 まずもって、レオシュ・スワロフスキーの指揮するマルティヌーの交響曲第3番(10年12月、第157回)は大きな目玉だろうし、アレクサンドル・ドミトリエフの登場、並びに王道チャイコフスキーの「悲愴」(10年9月、第154回)も、通には嬉しいコンサートになるだろう。
 また、アラン・ブリバエフによるフランス物(11年2月、第158回)も面白そうだし、沼尻竜典指揮のシューマンの交響曲第2番(10年11月、第156回)や、小泉さんの振るニールセンの「不滅」(10年4月、第150回)、ショスタコーヴィチの交響曲第5番(10年7月、第153回)、ルトスワフスキとバルトークの両オケコン(10年10月、第155回と11年3月、第159回)だって、たぶんそれなりの仕上がりになるはずだ。
 僕自身、物理的な事情が許すならば、上述した全てのコンサートに足を運べればと思っている。

 けれど、こういった大曲先行のプログラムを、どうして今の大阪センチュリー交響楽団が組まなければならないかという点に関しては、全くもって理解ができない。
 かつて小泉さんは大阪センチュリー交響楽団の三管編成化=拡大を口にしていたようだが、もともと大阪センチュリー交響楽団は大編成化を目的として創立されたオーケストラではないのだし(そもそも、本来の売りは、室内オケ編成で密度の濃いアンサンブルという部分にあったのではないか?)、いわゆる橋下路線を肯定するつもりは毛頭ないとはいえ、この期に及んで八八艦隊、じゃない三管編成もへったくれもないだろう。

 結局、何はなくとも(オケはなくなっても)、小泉さんの意向(と、言うよりも一部の音楽事務所の意向か? 定期演奏会10回のうち、小泉さん4回、沼尻さん2回、ドミトリエフさん1回と、同一事務所所属の指揮者が7回も登場している)が優先されるように見えるオーケストラ運営が継続されるかぎり、状況の変化は全く期待ができない。
 まあ、いずれ大阪センチュリー交響楽団の四管編成化に諸手を挙げて賛成してくれるような物わかりのよい民間大企業が現れないともかぎらないけれど。
 いずれにしても、なんだかなあ、である。
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2009年09月16日

『最新 世界のオーケストラ名鑑387』を僕はお薦めしない

 作家の宮脇俊三は、かつて時刻表を「不言実行。桃李言わざれど、下自ら蹊を成す」と高く評価した。
 旧国鉄の全区間走破、さらには最長片道切符の旅の断行と、いわゆる鉄ちゃんの大先達たる宮脇さんのことだから、そこは身びいきが一切ないとは言えないものの、データが命、データで勝負の時刻表のあり様には、確かに宮脇さんならずとも、ときに感嘆の念を抱かざるをえないことも事実である。
 そして、時刻表ほどではないにせよ、世のムックや名鑑と呼ばれる類いの書物もまた、データが命であり、データで勝負すべきものだと、僕は思う。
 特に、インターネットの普及にともない、大量の情報をスピーディーに入手することができるようになった現在では、なおさらのこと、しっかりと裏付けのとれた信憑性の高いデータの集積と提示が、ムックや名鑑と呼ばれる類いの書物には求められるはすだ。

 そうした観点からいって、今日読み終えたONTOMO MOOK『最新 世界のオーケストラ名鑑387』<音楽之友社>は、残念ながら大きく不満が残る。
 この『最新 世界のオーケストラ名鑑387』は、1990年代に発行された同じONTOMO MOOK『世界のオーケストラ123』を継承したもので、確かに掲載オーケストラ数は387と約倍増しているし、これまで詳しく語られることのなかったラテン・アメリカやアジア、中東、アフリカのオーケストラにも少なからぬスペースが割かれている。
 だから、世界のオーケストラのおおまかな現状を把握し俯瞰するという意味では、それなりに適した一冊と評することができるだろう。
 が、しかし、データの正確さ、掲載オーケストラの選択のバランス、編集の誠実さという意味では、やはり強い疑念を持たざるをえない。

 まずもって、イングリッシュ・バロック・ソロイスツの項目に、誤ってイギリス室内管弦楽団の解説が掲載されている点は単純なミスとしても、「世界のメジャー・オーケストラ50」に選ばれたシュトゥットガルト放送交響楽団が、「世界の主要オーケストラ210」に南ドイツ放送交響楽団をして再度選ばれているのは論外だし、本来NHK交響楽団の自主定期公演会場ではないオーチャードホールをその中に加え、N響から抗議を受ける形で『音楽の友』誌などに訂正記事が掲載されたことにも呆れかえる。
 ほかに、フィルハーモニア管弦楽団の歴代指揮者の中に、同時期ロンドン・フィルの指揮者であったはずのクルト・マズアが加えられていたり、新日本フィルの定期公演会場からサントリーホールが抜けていたりと、細かいミスを言いだせばきりがない。
(オーケストラの本拠地=ホールについては、各オーケストラのホームページを丹念にあたれば、だいたいの見当はつくはずだ。ところが、相当数のオケの本拠地に関し、ただ都市名が書かれているだけというのは、いったいどういう了見か?)

 また、個々のオーケストラの解説の文章に関しては、彼我の好みの違いもあるから、踏み込んで云々かんぬんすることはしないけれど、「世界のメジャー・オーケストラ50」などで、実演に接したことのない筆者がそのオーケストラの文章を担当している点は、やはり問題だろう。

 そして、そもそもの世界のオーケストラ387、中でも「世界の主要オーケストラ210」を選択する基準には、非常に不信感を抱く。
(なお、目次によって、「世界のトップ・オーケストラ10」、「世界のメジャー・オーケストラ50」、「日本のオーケストラ31」は、浅里公三、諸石幸生、山田治生の三氏が選定したことがわかる。それじゃあ、「世界の主要オーケストラ210」は誰が選定したんだ?)
 例えば、ザルツブルク・カンマー・フィルやザルツブルク・ユンゲ・フィルが選ばれているにもかかわらず、何ゆえ同じザルツブルクを本拠地にし、世界的にもより著名で活発な活動を行いレコーディング数も少なくないカメラータ・ザルツブルクが選ばれていないのか?
 ストラビンスキー室内管弦楽団やパガニーニ室内管弦楽団が選ばれているにもかかわらず、何ゆえ香港フィルやヘルシングボリ交響楽団、スウェーデン室内管弦楽団、スタヴァンゲル交響楽団、マドリード交響楽団、スコットランド室内管弦楽団が選ばれていないのか?

 ここからは邪推だけれど、上述したような問題が発生した原因の一つは、この『最新 世界のオーケストラ名鑑387』が、音楽之友社の編集部員によって直接編集・制作されたものではなく、木杳舎という別の会社に下請けさせたことにあるのではないかと僕は考える。
(さらに邪推を重ねれば、「世界の主要オーケストラ210」の選定には、前作『世界のオーケストラ123』に掲載されたオーケストラを中心に、残りは、ここ5〜10年間のレコード・イヤーブック巻末の「新しくレコードに登場した主な演奏家」のアンサンブルの項目に含まれた団体の中から、各レコード会社との兼ね合いで選定しておけという安易な発想が働いたのではないだろうか? それなら、パガニーニ室内管やイエヴレ交響楽団が選ばれても不思議ではない)

 いずれにしても、この『最新 世界のオーケストラ名鑑387』のように、読者の幅が限定されるはずのムックや名鑑といった類の書物ほど、痒いところに手が届く気配り、「神は細部に宿る」という真摯な心構えが必要なのである。
 むろん、現在の出版界の状況の厳しさはわからないわけではないが、「損して得とれ」という言葉もあるではないか。
 コストパフォーマンスの削減を優先して、結果として中身の充実を疎かにした、『最新 世界のオーケストラ名鑑387』を、僕は買わずに読んで本当に正解だったと思う。
 この本をお薦めすることは、僕にはできない。
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2009年07月06日

朝日新聞夕刊「立ち見席 オーケストラの風景A」 新日本フィルハーモニー交響楽団に関し

 朝日新聞夕刊、「立ち見席 オーケストラの風景」(星野学署名記事)は、今日で2回目。
 大阪フィルハーモニー交響楽団に続いて、今回は新日本フィルハーモニー交響楽団の登場で、このオーケストラの近況がコンパクトにまとめられている。

 ただ、
>1972年の創立以来、小澤征爾との関係が深い<
という一文は、新日本フィルの成り立ち、いわゆる旧日本フィルハーモニー交響楽団の分裂を知る人間には、いささか白々しく感じられた。

 むろん、新日本フィル自身がホームページ等で、1972年の旧日本フィルの分裂に関する詳細ないきさつをぼかしてしまいたくなることは、たとえ『日本フィル物語』<音楽之友社>を高校生の頃から愛読し、なおかつ今は亡き日本フィル事務局の中島賢一さんとちょっとした親交もあった、「日本フィル寄り」に位置する僕ですら、充分理解のいくことだ。
 すでに、日本フィルもフジ・サンケイグループと和解しているのである。
 自ら無理をして過去の傷をほじくり返す必要はない。

 だが、だからと言って、この記事の執筆者である星野さんまでが、旧日本フィルの分裂に関して一切触れないというのは、どうしても何かが違うと思う。
 特に、オーケストラの在り方が厳しく問われる「今」だからこそ、そのことに関して何か言葉があってもよかったのではないか。
(だいたい、星野さんがこの連載を始めたのも、「今」だからこそだろうに)
 まあ、今後の連載で日本フィルが取り上げられることもあるだろうから、僕はそのときを待ちたいとも考えるが。

 それにしても、新日本フィルに「民主主義の音」という惹句は、僕にはなんともしっくりこないな、やっぱり。


 余談だけれど、神山征二郎監督によって映画化もされた今崎暁巳の『友よ!未来をうたえ 日本フィルハーモニー物語』<労働旬報社>は、日本フィルとフジ・サンケイグループが「闘争中」だったということもあってか、小澤征爾や山本直純、新日本フィルの側がいくぶん、いや、だいぶんあくどく(ひどい言葉をあえて使えば「資本家の走狗」的に)記述されているような気がして、僕には仕方がない。
 このことは以前にも記したことがあるはずだが、せっかく新日本フィルや日本フィルのことについて書いたので、改めて付け加えておくことにした。
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2009年04月07日

今日の収穫

 今日は、久しぶりにCDや書籍などをだだっと買い込んでしまった。
 と、言うことで、これはその反省を込めた簡単なメモランダム。
(「って、買い物自慢をするつもりなんやないか?」、と呼ぶ声あり。そんなことありまっかいな!)

 で、まずはタワーレコード京都店で、イーヴォ・ポゴレリッチの弾いたドメニコ・スカルラッティのソナタ集<DG/435 855-2>を購入する。1290円なり。
 ポゴレリッチの弾くスカルラッティのソナタ集は、FMなどで何度か聴いていたこともあり、前々から欲しいと思っていたもの。
 本当は、フォーレ4重奏団の演奏したブラームスのピアノ4重奏曲集を買うつもりだったが、こちらのほうがセールになっていたので速効買ってしまったのである。
 もしかしたら、近々ミドルプライス化されるんじゃないだろうか。
 うがった見方だけど。

 続いて、ブックオフ京都三条駅ビル店の2階で、レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番&大学祝典序曲<DG/410 082-2>、ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団の演奏した同じくブラームスの交響曲第2番<EMI,DHM/CDC7 47871 2>、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィルの演奏した同じくブラームスの交響曲第4番&悲劇的序曲<EMI/CDC7 54060 2>の中古CD3枚、並びにレコード芸術2000年4月号を購入する。CDのほうが1枚500円で、レコ芸が105円だから、あわせて1605円なり。
 ヴァントのブラームスはたぶん旧録音の初出盤で、以前950円のときに買おうかどうしようか迷ったものだが、これは待っておいて正解だった。
 バーンスタインのほうは、ライヴ録音による全集中の一枚。
 CD初期の分売分である。
 サヴァリッシュは、一瞬躊躇したが、500円ということと、同じコンビの第2番を持っていること、そして第4番のCDが今一枚も手元にないことから買っておくことにした。
 あと、レコ芸は、ちょうど2000年度は今は亡きグラモフォン・ジャパンを購読していたためこの頃のデータがなく、落ち穂拾い的意味合いで。
 加えて、ニコラウス・アーノンクールへのロング・インタビューに興味を持ったこともあり。

 さらに同じブックオフの3階で、名越健郎の『クレムリン秘密文書は語る 闇の日ソ関係史』<中公新書>と、小田豊二による福本清三の聞き書き『おちおち死んでられまへん 斬られ役ハリウッドへ行く』<集英社文庫>を購入する。1冊105円で、あわせて210円なり。
 『クレムリン、以下省略』は、今世紀の日本史を踏まえ直すシリーズ中の一冊。
 『おちおち死んでられまへん』は、今や日本を代表する斬られ役となった福本清三への聞き書きシリーズの第2作目。
 その副題通り、『ラストサムライ』出演のエピソードなどが語られていて、愉しみだ。
 それに、大映(伊達三郎)と東映の違いはあるが、昨日書き始めた『館佐武郎を探して』の参考にもできるのではないか?

 それにしても、これだけ買って3105円とは、我ながらいい買い物ができたなあ。
 いやあ、鼻高々だ。
(「って、結局買い物自慢やないか!」、と呼ぶ声あり。あっはっはあっはっは)
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2009年03月29日

踊る人・山田一雄

 熱狂的なファンの方には申し訳ないが、朝比奈隆という指揮者の造り出した音楽に対して、僕にはそれほど強い思い入れがない。
 京阪電車に乗り遅れて後半のアルプス交響曲しか聴くことのできなかった定期演奏会を加えると、都合5回(その中には、ブルックナーの交響曲第4番、第5番、第8番が含まれている)、僕は朝比奈隆の指揮した大阪フィルの実演に接したことがあるのだけれど、がっちりして硬質な音楽だなあとそれなりに感心したものの、だからと言ってもっとずっと生の彼の演奏を聴いておくべきだったという強い想いにとらわれることはない。
 ただ、まさしく「指揮者=立つ人」とでも評したくなるような、朝比奈さんのすっくと立った指揮姿の美しさを目にしておいてよかったなとは今でも思っているが。

 もっとずっと実演に接しておきたかったと、僕が心底思っている今は亡き日本の指揮者は、ヤマカズさんの愛称で知られた山田一雄である。
 京都会館の食堂で偶然かちあった(字義通り)演奏会前のヤマカズさんの小ささと、舞台に上がって踊りに踊り狂う大きな姿の対比。
 生み出されるドラマティックな音楽。
 京都市交響楽団の定期演奏会で聴いたフランクの交響曲のように、一度ツボにはまれば大熱演となるが、一歩間違うと、団員おちまくりの関西フィルのブラームスの交響曲第1番のような悲惨な結果となってしまうその落差の激しさ。
 朝比奈隆のどっしりとした感じとは全く対照的な、ちょこまかちょこまかと動きまくっているような躍動感。
(そこには、笛吹いて踊るから皆踊ってくれよという、どうにもたまらない気持ちがあったのかもしれないが)
 その一つ一つに、僕はぎゅっと心をつかまれてしまったのだった。

 と、ここで、確かに山田一雄は亡くなってしまったけれど、そうした彼の性質は、しっかり彼の弟子たる小林研一郎に受け継がれているではないか、と言葉をかけてくれるむきもあるかもしれない。
 だが、あいにく、ヤマカズさんとコバケンさんでは大きく何かが違っているのだ。
 極論を承知でいえば、それは久保田万太郎と井上ひさしの違いとでも言えるのではないか。
(忘れてならないのは、井上さんがその違いを十二分に認めた上で「歌いながらう(打・撃・討・射)つ人」であるとすれば、コバケンさんはその違いをあまり考えず「歌いながら泣く人」であるということだろう)

 ところで、僕はブラームスの大学祝典序曲を、山田一雄の指揮で聴いておきたかったと本当に思っている。
 入学式の景気づけや名曲コンサートの添え物として演奏されがちのこの曲が本来持っている、抒情的な美しさや魂の高揚、大いなる喜びを、ヤマカズさんならしっかり表してくれたような気がして、僕には仕方がないからだ。
(なお、昨年亡くなった小川昂の労作『日本の交響楽団』によると、山田一雄は1978年9月26日の神奈川フィルの第18回定期演奏会で大学祝典序曲を指揮している)
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2009年03月27日

リヒャルト・シュトラウスづくし もしくは、インテルメッツォ

 レビューをアップした、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルの演奏によるツァラトゥストラはかく語りき&死と変容に始まって、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏によるツァラトゥストラ、ドン・ファン、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏による『町人貴族』組曲&メタモルフォーゼン、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルとウィーン・フィル団員の演奏によるオーボエ協奏曲、ホルン協奏曲第1番、第2番、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲、そして今聴き始めたハインツ・ホリガー指揮ヨーロッパ室内管弦楽団管楽ソロイスツの演奏による管楽合奏のためのセレナードと、昨日から今日にかけてリヒャルト・シュトラウスの作品をずっと聴き続けている。
 まさしくリヒャルト・シュトラウスづくしといったところだが、正直、クラシック音楽を聴き始めたころは、彼の作品はなんとなく苦手だった。
 と、言うのも、なあんかオーケストラをばりばり鳴らして大仰というか、確かにオーケストレーションの凄さはわかるんだけど、それがどうしたと尋ねたくなるような感じで。
 だから、LP時代はリヒャルト・シュトラウスのレコードは一切買うことはせず、てか、CD時代になっても、ほとんどと言っていいほど彼の作品の録音には手を出すことはしなかった。
 そういえば、ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏したブラームスの交響曲第4番にドン・ファンがカップリングされてたくらいじゃないかな。
 よりにもよって、メンゲルベルクとは!

 そんなアンチ、とまではいかないけれど、非リヒャルト・シュトラウス陣営に所属していた人間が、いやいやリヒャルト・シュトラウス馬鹿にはできんぞ素晴らしいぞ、と心を入れ換える契機となったのは、大学院に入ってしばらくしてから何気なく購入した、カール・ベーム指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による、リヒャルト・シュトラウスの最後の舞台作品『カプリッチョ』を聴いたことで、いやあ、これには参りましたね。
 だって、こんな巧みに巧まれた音楽をものするんだもの、一流どころか超一流の作曲家と慕って間違いない、リヒャルト・シュトラウスは。

 で、それからというもの、それまで苦手にしていた英雄の生涯やツァラトゥストラはかく語りきなんかも迷わず聴くようになったわけだけれど。
 まあそれには、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィル流とは異なる、すっきり見通しのよいリヒャルト・シュトラウスの演奏が、1990年代以降の潮流となってきたことも大きいんじゃないのかなと思ったりなんかしたりして。
 いずれにしても、今では立派なリヒャルト・シュトラウシアンの一人となった中瀬宏之です。

 ちなみに、上述したディスクのほかに、ルチア・ポップが歌った歌曲集、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『インテルメッツォ』、ベルナルト・ハイティンク指揮バイエルン放送交響楽団他の演奏による『ダフネ』などが、僕のリヒャルト・シュトラウス愛聴盤。
 残念なのは、ルチア・ポップが『ばらの騎士』と『アラベラ』のセッション録音の全曲盤を遺さなかったこと。
 これは、惜しみてなお余りあり!
(ポップが歌ったバイエルン州立歌劇場の『アラベラ』の来日公演をNHKが録画していて、実際放映もされたはずだけど、あれは発売されないのかな?)
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2009年01月08日

思い出せないもどかしさ

 アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管弦楽団の演奏した、セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲のCDを聴きながら、魚の小骨が喉に刺さったような、なんとも言えないもどかしさを覚えている。
 セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲は、もちろんグリーグ同様、イプセンの戯曲のために作曲された音楽の中から、いわゆるおいしい部分を取り出してまとめたものだが、祖国の先達グリーグの直球剛速球勝負を踏まえてのことだろう、セヴェルーはこれを曲球変化球を多用した一筋縄ではいかない作品に仕上げている。
 で、ラ・マルセイエーズやアルプス一万尺といった、おなじみの旋律がところどころ確信犯的に引用されているのだけれど、ある作曲家の有名な旋律(音型)がその中にあって、前々からよく知っているのに、それが誰のなんという曲だったか、ぱぱっと思い出せない。
 思い出せば、なあんだあれだったかということになるし、とっかかりは頭の中にうごめいているのだが。
 ああ、くやしいくやしいもどかしい。
 ほんと、なんだったかなあ。


 *追記
 やっと思い出せた、ワーグナーのワルキューレの騎行だったんだ!
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2009年01月07日

PCで音楽を聴く愉しみ

 パソコンを買い換えてよかったと思うことは数々あって、よかったことばかり数え上げているものだから、前の旧式のマックに申し訳ないなどとも思ったりするのだが、よかったことはよかったことに違いなく、それで、やっぱり買い換えてよかったと痛感しているのだけれど、中でも、CDの試聴やウェブ上のラジオ等々、PCで音楽をまともに聴くことが出来るようになったことは、大の音楽好きの僕にとっては、よかったもよかった、二重丸三重丸源五郎丸、ならぬ、三重よかった出来事である。
 で、昨日の晩、日付的には今日に変わっていたが、パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団(hr交響楽団)の演奏した、マーラーの交響曲第9番のライヴ録音を聴けたのにも、そうしたパソコン買い換えが大きくものを言っていることは言わずもがなのことだろう。
(もちろん、そうして手軽に音楽が聴けるのも、おかか since 1968 Ver.2.0さんあってのことで、その労作には深く深く感謝する他ない)
 で、冒頭部分を聴き逃したり、途中何度か音が途切れたりしたものの、ほぼ全曲を聴くことができたパーヴォ・ヤルヴィとフランクフルト放送交響楽団のマーラーの交響曲第9番だけれど、基本的にはパーヴォ・ヤルヴィらしいシャープでスタイリッシュ、まとまりのよい音楽になっていたのではないだろうか。
 実際にライヴで接すると、その受け取り方も大きく変わってしまうような気もしないではないが、深夜ヴォリュームを絞って耳にするにはぴったりの演奏だったと思う。
 それにしても、残念なのは、その何時間か前、前々から聴きたい聴きたいと思っていた、パトリシア・プティボンとニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンのコンサートのライヴ録音を聴きそびれてしまったことである。
 演奏者も魅力的ならプログラムも魅力的だっただけに、これは本当に悔やんでも悔やみきれない。
 再放送はされないものだろうか。
 まあ、それはそれとして、パソコンで音楽を愉しむ機会は、これからますます増えそうだ。
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2008年10月05日

至福の時 『フィガロの結婚』を聴き比べて

 先日購入した、ゲオルク・ショルティ指揮ロンドン・フィル他の演奏によるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』ハイライト<DECCA>をつまみ聴きしたあと、ほぼ同じ部分を、ニコラウス・アーノンクール指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団他の演奏<TELDEC>と聴き比べてみた。
(加えて、第2幕のアルマヴィーヴァ伯爵のアリアに関しては、トーマス・ハンプソンが歌った異版も聴いてみた。これも、同じくアーノンクールの指揮によるが、オーケストラはコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンに変わっている)
 非常にざっくりとした物言いにはなるが、先日記した如く、ショルティ盤が『フィガロの結婚』の持つ音楽の流れのよさを優先した演奏だとすれば、アーノンクール盤はそうした流れに配慮しつつも、さらにその根底にある文脈を掴み取り、一つ一つを浮き彫りにしていく姿勢に貫かれた演奏と呼ぶことができるのではないだろうか。
 例えば、両者の違いは、まずもって序曲から表れている。
 軽快かつ流麗、テンポのよさに重心を置いたショルティに対し、アーノンクールは、なんだか不穏で一筋縄ではいかないこの『フィガロの結婚』という作品の性質を明らかにするかのような解釈を行っている。
 つまり、金管楽器の鳴らし方やアクセントのつけ方、テンポのとり方において、アーノンクールは非常に綿密で細かい音楽の読み込みを行っているのだ。
(そしてそれは、時にグロテスクにさえも聴こえかねない)
 また、第3幕の6重唱に関しても、ショルティのあくまでも音楽のバランスを重視した行き方とは異なり、アーノンクールは伯爵とドン・クルツィオに激しい「反唱」を行わせることによって、フィガロ・スザンナら4人との感情的な違い(対立)をはっきりと示すことに成功している。
 その他、言い始めたら本当にきりがない。
 で、もちろん、個人的な好みというものはある訳だし、逆に同じ一人の人間でも今日はショルティ、明日はアーノンクールということもあって、絶対にこうだと言い切ることはできないのだけれど、僕自身としては、『フィガロの結婚』を一つの人間の感情変化のドラマとして聴いた時、アーノンクールの解釈により心をひかれるということは記しておかなければならないとも思う。
(それと、アーノンクール盤は、バーバラ・ボニーとトーマス・ハンプソンという二人の名歌手の最盛期の貴重な記録であるということも、付け加えておきたい)
 それにしても、こうやって大好きな『フィガロの結婚』を聴き比べることの、なんと愉しく幸せなことか。
 まさに、至福の時だった。
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2008年09月27日

得手勝手極私的音盤企画

 中学に入ったあたりだから、クラシック音楽を熱心に聴き始めて、すでに25年以上にもなる。
 もともと長崎という地方都市に育ったということもあって、初めはラジオのFMやテレビ、レコードでクラシック音楽を聴く割合のほうが断然多かったものの、それでも長崎交響楽団や長崎大学管弦楽団、長崎県オペラ協会といった地元のアマチュア団体も含めて、実演に接する機会もできるだけ持つようにしていた。
 当時はそれほど自覚化できていなかったけれど、たぶんFMなりテレビなりレコードなりだけでクラシック音楽に慣れ親しむことに、なんとなく嘘臭さというか、危なさを感じていたのかもしれない。
 だから、以前ここでも記したように、中古レコード屋に入り浸っては廃盤LPを漁りつつも、しょせんレコードは音の缶詰、生の音楽には適わないという気持ちも抱き続けていた。
(一つには、その頃熟読した、『世界の名指揮者』<新潮文庫版>や『音楽 展望と批評』<朝日文庫>といった吉田秀和の一連の文章の影響も大きかったのだろうが)
 ただ、そうは言っても、音の缶詰には音の缶詰ならではの魅力もある訳で、例えば、今は亡き巨匠たちはもちろんのこと、現在活躍中の演奏家でも、実演に接する機会はどうにも得難い場合など、ついつい音の缶詰のほうに手を伸ばしてみたくなる。
 特に、かつて一年半ほどCDショップでクラシック音楽の担当をした時は、それが仕事ということもあって、かなりの数の音盤に親しんだものだった。
 加えて、そうやっていわゆる「業界」の端っこの端っこにでも連なってみると、それまで単に受け身で聴くばかりであったクラシック音楽のCDというものに対して、自分なりの考え方というものが培われてくるもので、各社各レーベルの録音企画の善し悪しすら、大まかに判断がつくようにもなっていった。
(正直、こんなもの発売して誰が買うのだろう、と、録音を企画したプロデューサーやそれにゴーサインを出したレーベル・トップの見識を疑いたくなるようなCDもあったりして、実際すぐに市場から姿を消した時は、ほら見たことかと内心大喜びしたものである)
 その後は、再びただのクラシック音楽愛好家に戻ってしまったから、以前ほどには身を入れてCD業界の動きを追うこともなくなったが、それでも自分ならこんなCDを発売してみたいという自分勝手な録音企画を思い描いたりすることはある。
 当然のことながら採算は度外視、あくまでも脳内企画ということを承知で、その一部を紹介すると。
 まずは、独唱にパトリシア・プティボンを配した、ダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバーオーケストラによる、ベートーヴェンの劇音楽『エグモント』全曲。
 語りは、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの別録りで、カップリングはメユールやケルビーニの序曲など。
 同じくベートーヴェンで、クリスチャン・ゲルハーヘルとゲロルト・フーバーのコンビによる歌曲集。
 さらに、ゲルハーヘルには、シューベルトの歌曲集(管弦楽伴奏に編曲されたもの)、マーラーの声楽曲集(デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の伴奏)も録音してもらいたい。
 歌もの続きで、ダニエル・デ・ニースとウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンにはモーツァルトのアリア集(エクスルターテ・イウビラーテももちろん含む)。
 ニコラウス・アーノンクールとヨーロッパ室内管弦楽団には、ストラヴィンスキーの『プルチネッラ』全曲を。
 で、ここで愛京響心、じゃない愛郷心を発揮して、広上淳一&京都市交響楽団による、ブラームス=シェーンベルク編曲のピアノ4重奏曲第1番他と、ショスタコーヴィチのバレエ音楽抜粋集の二枚を挙げてみよう。
 そうそう、同じ日本人指揮者では、かつてのリカルド・ムーティの向こうをはって、大野和士とミラノ・スカラ・フィルによるヴェルディの序曲集なんて悪くないんじゃないだろうか。
 加えて、大野さんならば、ドイツの放送交響楽団と、リヒャルト・シュトラウスのオペラからの管弦楽曲集といった企画もありかもしれない。
 と、一度書き出したらきりがない。
 まあ、今のところ、夢のまた夢、夢想もいいところだけれど、箸にも棒にもかからない企画じゃないはずで、どこかのレーベルで実現してもらえないものか。
 てか、自分で動いてみるか?
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2008年09月19日

看板に偽りあり オリジナルじゃないORIGINALS

 ひと頃の勢いは薄れたとはいえ、ドイツ・グラモフォンとデッカは未だ世界を代表するクラシック音楽の二大レーベルだ。
 そして、その両レーベルがあまたあるLP時代の名盤、佳盤の中から特に選り抜きの録音を選んで再発売を重ねているのが、ORIGINALSというシリーズである。
 もちろん、ORIGINALSというからには、カップリングもLP同様、オリジナルのまま…。
 と、思ったらこれがとんだ大違い。
 いやいや、LPと同じオリジナルのカップリングというCDがない訳でもない。
 例えば、ドイツ・グラモフォンでは、カルロス・クライバーがウィーン・フィルを指揮したシューベルトがそうだし、デッカでは、チョン・キョンファが独奏をつとめたチャイコフスキーとシベリウスのヴァイオリン協奏曲がそうだ。
 だが、しかし、その大半(中でも一枚物)は、他のLPから持って来た録音が付け加えられていたり、逆に1曲間引かれていたりと、残念ながらオリジナルとは言い難いカップリングでの再発売となっている。
 まあ、これにはオリジナルのカップリングでは収録時間が短か過ぎるという親心、ならぬレーベル心もあるのだろうが、曲数目当てでCDを買っている訳ではないCD愛好家、コレクターとしては、そんなの余計なお世話だとついついこぼしたくもなってくる。
 そう、ORIGINALSなどと大仰に名乗るのであれば、まずもってLP同様のカップリングにしてもらいたい。
 それが、LP時代からのレコード愛好家でありコレクターである人間の切なる願いなのだ。
(かてて加えて、版権の関係だろうか、ORIGINALSのブックレットの表紙は、オリジナルのLPのジャケットが斜めに倒れた不細工なものになっている。これまたオリジナルなどとはとうてい言い難い代物だ)
 いずれにしても、ORIGINALSはオリジナルではない、看板に偽りありと断ずる他あるまい。

 ところで、最近僕がLPと同じオリジナルのカップリングでCD化してもらいたいと思っているレコードは、ゲオルグ・ショルティがロンドン・フィルを指揮したエルガーの『威風堂々』全曲と序曲『コケイン』、そしてイギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』という一枚である。
 はっきり言って、LP通りのカップリングでは収録時間が非常に短くなるのだが、だからと言って、同じロンドン・フィルとの『南国にて』(これは、交響曲第1番の添え物としてORIGINALSから再発売されている)とか、シカゴ交響楽団とのエニグマ変奏曲をくっつけて欲しくはないんだよなあ。
 2012年はショルティの生誕100年にあたるから、そこらあたりで何とかならないものか。
 って、4年先は長いぞ、やっぱり。
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2008年09月11日

廃盤狂時代

 以前レコード芸術の読者投稿欄で、16歳かそこらの少年が「僕の人生最高の一枚」などと記していたのには大笑いしてしまったが(だって16歳だもの。60歳の人が同じことを語っているんなら、充分納得がいくけどさあ)、最近の若いクラシック音楽ファンがかつての巨匠たちの遺した古い録音を熱心に聴き込んでいるということに関しては、あんまりとやかく言えないなという気持ちになってくる。
 と、言うのも、クラシック音楽にはまり始めた今からちょうど25年前頃の僕も、思いきり過去の録音に熱中していたからだ。
 つまり、当時の僕は、中古レコード屋に入り浸っては、廉価盤シリーズを中心に、いわゆる廃盤のLPを買い漁っていたのである。
 一つには、地元の長崎にはクラシック音楽に詳しい中古レコード屋というものがなくて、そういった廃盤のレコードがやたらと安かったということも大きな理由ではあるのだけれど。
 しかしながら、パウル・ヴァン・ケンペンがベルリン・フィルを指揮したエロイカ・シンフォニーやブラームスのハンガリー舞曲集(これは25センチの初期盤)、クレメンス・クラウスがウィーン交響楽団を指揮した『真夏の夜の夢』の音楽、トマス・シッパーズがニューヨーク・フィルを指揮したシベリウスの交響曲第2番、などを買い求めた背景には、やはり昨今の若者たちと同様、今はもうこの世に存在しない音楽家たちの録音に触れてみたいという思いや、自分はクラシック音楽通なんだぞという思い込み、その他口には言い表せない、諸々の感情が強くあったことも事実だろう。
(そういえば、病高じて、ブルーノ・ワルターがロンドン交響楽団を指揮したハイドンの交響曲第86番のSPレコードを買ったこともあったっけ。蓄音機もないのに)
 ただ、今の若い人たちと異なる点があるとすれば、ムックだのなんだのといった便利な指南書が少なかったせいで、自分の勘を頼りにレコードを買いまくったということで、その分すかを掴んでしまう確率も非常に高かった。
 まあ、そうやって玉石混交あたるを幸い様々な演奏様々な録音に慣れ親しんだからこそ、自分自身の音楽の好みもしっかりしてきた訳で、全く恥ずかしがることではあるまいとも思っているが。
 それにしても、実家に置いたままにしてある廃盤コレクションの数々をいったいどうしたものだろう。
 中古屋に売っても今では二束三文だし、ましてや捨ててしまうのはもったいないし。
 大いに悩むところで、何かいいアイデアはないものか。
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2008年08月22日

カーテンコールに表れなかったリッダーブッシュ

 今、カール・ベームがバイエルン放送交響楽団を指揮して録音した、リヒャルト・シュトラウスの音楽劇『カプリッチョ』*1を聴き終えたところだ。
 『カプリッチョ』は、シュテファン・ツヴァイクのアイデアをもとに指揮者のクレメンス・クラウスが執筆した台本を、リヒャルト・シュトラウスが作曲した、彼にとっては最後の音楽劇で、音楽と言葉の関係を登場人物の心理的葛藤に仮託した、非常に通向きな作品に仕上がっている。
(音楽的にも、リヒャルト・シュトラウス自身のかつての作品をはじめ、数々の作曲家の旋律が引用されており、こういった点でも通向きな作品と呼ぶことができるだろう)
 ただ、1940年代初頭というその作曲や初演の時期から、『カプリッチョ』が現実からの逃避と批判されていることも事実で、現在この作品が上演される際には、第二次世界大戦中という作曲当時の状況を反映した演出が施されることも少なくないという*2。
 しかしながら一方で、『カプリッチョ』の中に、リヒャルト・シュトラウスの抵抗精神を見出す人が少なからず存在することもまた事実である。
 例えば、『第三帝国のR・シュトラウス 音楽家の<喜劇的>闘争』<世界思想社>の「第6章 延長戦」中で山田由美子は、第九場における劇場支配人ラ・ローシュの台詞を引きながら、『カプリッチョ』の持つ現状への鋭い批判を指摘している。
 確かに、初めて『カプリッチョ』を聴いた時、
>こうした下劣な行為を軽蔑するといいながら、それを許しているのは諸君ではないか。
 みんな沈黙によって、同じ罪を犯しているのです<
というラ・ローシュの台詞には、僕もはっとなったものだ。

 ところで、僕は、ベーム指揮の『カプリッチョ』の録音でラ・ローシュを歌っているカール・リッダーブッシュの生の舞台に、一度だけ接したことがある。
 それも、リヒャルト・シュトラウスの音楽劇で。
 ただし、残念ながら接した出し物は『カプリッチョ』でなくて、『アラベラ』だったのだが。
 1994年の2月2日というから、かれこれ14年近く前になる。
 デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラの『アラベラ』公演で、僕はヴァルトナー伯爵(主人公アラベラの父)を歌う、リッダーブッシュに接したのだ。
 当時、国際交流基金のケルン日本文化会館で業務実習(という制度が大学院にあった)を行っていた僕は、地の利を活かして近隣のデュッセルドルフやボンのオペラハウスにもちょくちょく足を運んでいた。
(余談だけれど、デュッセルドルフでは、今大阪シンフォニカー交響楽団のシェフをつとめる児玉宏が指揮をした『フィガロの結婚』を観聴きしたことがある)
 この日の『アラベラ』も、何がなんでも是が非でも、などということは一切なく、まあ他にぱっとするようなコンサートもオペラもケルンではやってないからデュッセルドルフまで足を伸ばしておくか、程度の軽い気持ちで観たのではなかったろうか。
 と、言うのも、その頃のデュッセルドルフのオペラハウスでは、経済不況のあおりを受けてか、レベルの高くない上演ばかりがやられていて、はなから期待のしようがなかったのである。
 実際、タイトルロールのアラベラをはじめ歌手陣はあんまりぱっとしないし、指揮もグーガーバウアーといって見るからに若手の修業中のような人だった。
(そのグーガーバウアーが今度読売日本交響楽団に客演すると知った時は、ちょっとびっくりした)
 加えて、舞台美術はウィーンと似ても似つかぬ安っぽいものだし、演出もオーソドックスを狙っているのか新しいことをやりたいのか今ひとつわからなかった。
 そんな、だれきった公演の中で、リッダーブッシュだけは、昔とった杵柄というか、腐っても鯛というか、正直相当くたびれてはいても、かえってそれが貧乏貴族の退廃ぶりやみじめさとぴったり重なり合っていて、さすがはかつてドイツ・グラモフォンで数々の名盤に名を連ねた大物だけはあるなと感心したものだ。
 だから、彼がカーテンコールに表れなかった時も、そりゃこんな連中といっしょにカーテンコールに出て来たくなんかないだろうよ、とリッダーブッシュの気概を勝手に想像したりもした。

 彼の訃報を目にしたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 そうか、あの日リッダーブッシュがカーテンコールに表れなかったのは、体力の衰えからくる極度の疲労が原因だったのか、とその時はそう考え直したのだが、こうやって彼の朗々とした歌声を聴いてしまうと、いやいや、もしかしたら最初に自分が感じたことのほうが、事の真実に近いのかもしれないぞ、などとも思えてきてしまう。
 そういえば、本国ドイツでリッダーブッシュの死はどのように報じられたのだろう。
 この国での扱いは、それほど大きなものではなかったように覚えているが。
 いずれにしても、僕は晩年のリッダーブッシュの舞台に接することが出来て、今さらながら本当によかったと思う。


*1:正式には、「クレメンス・クラウスとリヒャルト・シュトラウスによる音楽についての1幕の対話劇」。

*2:岡本稔「悲しいほど美しく響いてくるシュトラウス最後のオペラ」『クラシック・ディスク・コレクション301』<音楽之友社>から。
posted by figaro at 21:45| Comment(0) | TrackBack(1) | クラシック音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

服部正小伝

 さる8月2日、作曲家で指揮者の服部正が亡くなった。
 1908年の3月17日の生まれというから、ちょうど100歳の誕生日を迎えてしばらくしてからの逝去ということになる。
 もともと慶應義塾大学の出身で、在学中にマンドリン・オーケストラで活躍したという点は、かの古賀政男を想起させるが、こちらは日本のフランス印象楽派菅原明朗を師としたこともあってか、それこそ明朗快活、陽性で耳なじみのよい音楽の書き手だったというのが、僕の第一の印象である。
(そうした彼の音楽性は、教え子の一人小林亜星にうまく受け継がれているのではないか)
 そして、付け加えるならば、すでに1930年代の初めより管弦楽曲を発表したり、山本薩夫監督の『田園交響曲』(1938年)や島耕二監督の『次郎物語』(1941年)等の映画音楽を手がけるなど、戦前から世に知られてはいたのだけれど、その音楽の持つムードから、戦後、特に敗戦直後の日本を象徴するような作曲家だったという印象も非常に強い。
 実際、『虎の尾を踏む男達』(これは敗戦直前に撮影が開始されていた)、『わが青春に悔なし』、『素晴らしき日曜日』といった黒澤明監督の一連の初期作品の音楽や、NHKの『向こう三軒両隣り』の音楽、変わったところでは、伴淳三郎主演の戯作『アジャパー天国』や『名探偵アジャパー氏』の音楽、そして服部正によって書き換えられたおなじみラジオ体操第一の音楽を耳にすれば、僕の言わんとすることがわかってもらえるのではないだろうか。
(なお、服部正と黒澤明の作業に関しては、西村雄一郎の労作『黒澤明 封印された十年』<新潮社>の374頁〜376頁「指揮はあんたの方がうまいよ」にその一端が記されている。中でも、服部正が『素晴らしき日曜日』で未完成交響曲を指揮する沼崎勲を特訓したのだけれど、これが「あんまりひどい」ので電報を打って黒澤明を呼び寄せたところ、黒澤明が棒を振り出し、そちらのほうが「はるかに」うまかったというくだりは、とても面白い)
 服部正は、その後も『やん坊、にん坊、とん坊』や『バス通り裏』の音楽を作曲したが、主流は次世代(例えば、団伊玖磨や黛敏郎、芥川也寸志)、さらにその次の世代(武満徹、林光ら)に移り、彼の仕事の中心は、国立音楽大学での後継者の育成や日本のマンドリン・オーケストラの発展へと変わっていった。
 いずれにしても、服部正が戦後日本において果たした役割は、決して小さなものではないと、僕は考える。
 ちょうど日本の敗戦から63年目の今日、服部さんが作曲したラジオ体操第一や『素晴らしき日曜日』の音楽を思い起こしながら、彼を偲びたい。
 深く、深く、深く黙祷。

 そう言えば、上述した『黒澤明 封印された十年』で西村雄一郎は服部正のことを、「血色がよく、陽気で、その声もからからとよく響いた」と書き留めている。
 やはり音楽もまた、作り手その人の全てを体現したものなのだ。
posted by figaro at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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