2012年10月05日

大滝秀治を悼む

☆大滝秀治を悼む


 舞台やキャメラの前に立つと、どうしても巧く演じよう巧くやろうと妙な欲目が出てしまい、かえって目も当てられぬ愚演凡演を繰り返してしまうのだが、これが単に観る側一観客の立場に身を置くと、やはり俳優役者というものは、上っ面の巧さ、表面的な技術だけでどうこうなるもんじゃないと強く思うことがままある。
 志村喬しかり、笠智衆しかり。
 特に年齢を重ねるほど、その人の人生そのものが演技の端々から透けて見えてきて、伝わるものの強弱がはっきりとわかってしまう。
 高倉健が新作『あなたへ』の現場で、たった一言の台詞に強く心を動かされたという大滝秀治など、それこそ彼の日々のたゆまぬ努力と演技への強い想い、そして魅力的な人柄が、表面的な技術の巧拙を超えた素晴らしい演技に結びついているように思う。

 その大滝秀治が亡くなった。
 87歳という年齢もあって、療養中という言葉にもしかしたらと思ってもいたが、敬愛してきた役者さんだけに、その死は哀しく辛い。

 1925年生まれの大滝秀治は東京で育ち、敗戦後しばらくして東京民衆芸術劇場の養成所に入り、劇団民藝にも参加した。
 だが、当初は俳優としての芽が出ず、裏方を主に務める日々が続く。
 特に、民藝の中心人物である宇野重吉からはその独特の声を厳しく批判され、俳優を続けるか否かの岐路にも立たされた。
(その頃、同じく民藝の代表的な俳優である滝沢修からは「(俳優を)辞めるのも才能」といった趣旨の言葉を与えられたが、宇野重吉は「続けるのも才能」といった趣旨の言葉を大滝に投げかけたという。このエピソードに関しては、NHKのラジオのトーク番組で大滝さん自身が山本晋也監督にさらりと語っていたのだけれど、その頃の葛藤たるや想像に難くない)
 それでも、舞台で研鑚を重ねた大滝さんは、今井正監督の『ここに泉あり』や今村昌平監督の『にあんちゃん』、黒澤明監督の『天国と地獄』等、映画に出演する機会を少しずつ得ることになっていく。
 はじめ大滝さんの持ち役となったのは、山本薩夫監督の『金環蝕』や『不毛地帯』、テレビの必殺シリーズなどでの、ぬめぬめとした感じのする偽善家的風貌の悪役で、熊井啓監督の『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』におけるフィクサー役は、その線での総決算とでも呼ぶべき演技だったように記憶している。
 そんな大滝さんの転機となったのは、倉本聰脚本による東芝日曜劇場『うちのホンカン』シリーズだった。
 このシリーズの扇の要となる、人柄がよくて滑稽、ときに激しい怒りをあらわにする駐在役で大滝秀治は注目されることとなる。
 その後、『特捜最前線』の船村刑事役で人気を確立した大滝さんは、ほかに『犬神家の一族』の大山神官(市川崑監督自身のリメイクでも同じ役を演じた)、『北の国から』シリーズの北村清吉、大河ドラマ『独眼竜正宗』の虎哉和尚と当たり役も多く、舞台、映画(金田一耕助シリーズや伊丹十三監督の一連の作品)、テレビドラマで得難い俳優の一人となった。
 また、晩年には、岸部一徳とのコンビネーションと「つまらん!」のフレーズが印象深い金鳥のCMでブレイクを果たした。
(ほか、舞台の『坐漁荘の人びと』や映画、テレビドラマで西園寺公望を何度か演じた)

 大滝さんといえば、関根勤の十八番の一つで、『特捜最前線』の船村刑事を真似た関根さんには大いに笑ったものだが、実は関根さんが物真似のレパートリーに加えるだいぶん前から、僕は大滝秀治の物真似を得意としていて、確か高校三年の音楽部(コーラス)の発表会の前に虎哉和尚の真似をやり過ぎ、耳鼻咽喉科に通院してしまったほどだ。
(それ以来、喉のつっかかるような感じはとれない。未だに大滝さんの物真似をやってしまうからかもしれないが…)

 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。
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2009年06月14日

C.T.T. vol.83を断念する

 東京の劇団shelfがイプセンの『私たち死んだものが目覚めたら』を上演するということもあって、前々から愉しみにしていた、C.T.T. vol.83・2009年6月試演会(アトリエ劇研)だが、胃腸の調子が朝からどうにもかんばしからず、観に行くことを断念せざるをえなくなってしまった。
 いわゆる夜型の不規則な生活に加え、数日来精神的に若干安定を欠いていることもその大きな原因だと思う。
 残念だけれど、仕方がない。
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2008年12月31日

今年観たもの、聴いたもの

 2008年も大つごもり。
 と、言うことで、今年観たもの聴いたもの、さらには読んだものの中から「これは」と思ったもの(人)を振り返ってみたい。
 なお、2008年は痛風が発覚するなど体調が芳しくない状態が続いたり、そこから派生して経済的にも相当厳しい状況に追い込まれたこともあって、例年に比べて、演劇、コンサート、映画、ともに接する数が残念ながら減ってしまったことを付記しておく。

 まずクラシック音楽のコンサートからいくと、何と言っても、パトリシア・プティボンの来日リサイタルから挙げなければなるまい。
 これはプティボンの歌い手として、さらには役者としての魅力が十二分に発揮されたコンサートで、足を運んで本当によかったと思えるものだった。
(後述、ドイツ・グラモフォンからリリースされた彼女の新譜アルバムにはそこまで心を動かされなかった。やはり、彼女はライヴ向きなのではないか)
 また、広上淳一の常任指揮者就任のお披露目公演ともなった京都市交響楽団の第511回定期演奏会、特にリムスキー=コルサコフのシェエラザードは、広上さんと京響の今後の充実した共同作業を予想させるに十分な密度の濃い演奏で、強く印象に残った。

 続いて、演劇に移るが、ここではベトナムからの笑い声の第24回公演『レストラン・ザ・ペガサス』、中でも、オムニバスの前半二つの作品を第一に記したい。
(余談だけど、ベトナムは、荒木千恵さんの存在が今後の小さからぬ「鍵」になるような気がする)
 下鴨車窓の一連の公演(『旅行者』再演、『農夫』、『書庫』)では、田辺剛さんの劇作家としての力量を再確認することができた。
 これからの田辺さんの作品が、ますます愉しみだ。
 他に、同志社大学関係での、二口大学さんや広田ゆうみさんの地道な活動、諸々の公演での川上明子さんの舞台美術、魚森理恵さんの照明、小早川保隆さんの音響も忘れてはなるまい。
 演技者では、ベトナムからの笑い声の鉄壁な男性陣、『いつか、すべて消えてなくなる』での樋口美友喜さんの演技と得田晃子さんのナレーション、『着座するコブ』での武田暁さん、『かえるくん、東京を救う』での豊島由香さん、『書庫』での大熊ねこさん、CTT4月試演会・ぬるり組合での柳原良平君、同8月試演会・てんこもり堂での藤本隆志さん、同11月試演会・ルドルフ(仮)での岩田由紀さんその他。

 映画は、コスタ=ガヴラスの娘、ジュリー・ガヴラス監督の『ぜんぶ、フィデルのせい』がベスト。
 特に、主人公の女の子が図書館で何かを見つけるシーンには、非常に心が動いた。
 これはマストである。
 マストといえば、ステファン・ルツォヴィツキー監督の『ヒトラーの贋札』もそうだった。
 伝えたいことと映画としての面白さのバランスがよくとれていて、これまた多くの方にお薦めしたい。
 邦画では、川島雄三監督の諸作品や、田中徳三監督、と言うよりも、市川雷蔵の『眠狂四郎女地獄』を観ることができたのが収穫だった。
 後者は、市川雷蔵に加え、伊藤雄之助、田村高広の演技が素晴らしい。
(そうそう、『相棒』の蟹江敬三がゲストの回に、殺される評論家の役で伊藤高が出ていたが、雰囲気が父親そっくりになってきたなあ。たぶん、『相棒』では狙ってやってたんだろうけど)

 美術関連では、ギャラリー・ニュートロンでの中比良真子展が僕の好みに合っていたとだけ記しておく。
(ここでは、大好きな大田ゆら展を観逃したのが痛い!!)

 CDは、ディアナ・ダムラウ、パトリシア・プティボンの両アルバムとも水準以上の出来だったが(前者では、ジェレミー・ローラー&ル・セルクル・ドゥ・アルモニーも識ることができたし)、改めて云々かんぬんすることはしない。
 興味がおありの方は、CDレビューをご参照のほど。

 最後は読書だけれど、これは作家(著者)名とタイトルを挙げるに留める。
 宮部みゆき『誰か Somebody』、筒井康隆『銀齢の果て』、『巨船ベラス・レトラス』、『壊れかた指南』、『ダンシング・ヴァニティ』、小林信彦『うらなり』、『東京少年』、町田康『告白』、伊坂幸太郎『死神の精度』、『魔王』、西條奈加『金春屋ゴメス』、『芥子の花』、北村薫『瑠璃の天』。
 井上ひさし『闇に咲く花』。
 水谷良彰『サリエーリ』、樋田慶子『つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり』、繁田信一『殴り合う貴族たち』、通崎睦美『天使突抜一丁目』、吉田秀和『世界の指揮者』、鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』、高崎通浩『歴代アメリカ大統領総覧』、色川武大『なつかしい芸人たち』、橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』、高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』、保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』、服部龍二『広田弘毅』、石田衣良『I LOVEモーツァルト』(モーツァルトそのものに関しては×)、長谷川如是閑集第二巻、第四巻。

 いずれにしても、来年2009年も、さらによいもの心の動くものに巡り合いたいと強く思う。
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2008年09月06日

開けよ、さらば演じられん

 いくら取り繕ってみたところで、その人の人となりというものは、必ずどこかで表れてしまうものだ。
 例えば、日頃気品があるかのようにすました顔つきをしていても、笑ったとたん口元に卑しい皺が寄るとか、逆に悪党悪人を気取っていても、書いた文章語った言葉の節々から人のよさが滲み出てくるとか。
 当然、演じるという作業も同じことで、確かに自分自身とは異なる他人を演じる訳だから、演じる対象、与えられた役柄に対して全く無頓着無意識無思考であるという風にもいかないのだけれど、だからと言って丸きり丸まま自分自身とは違う誰かを完全完璧に演じ切ることができるかと言えば、残念ながらそうは問屋がおろさない。
 つくり顔につくり声、はては特殊加工のメイキャップ。
 そんなことをいくら重ねてみたところで、つまるところ、最後は演じる自分自身が顔を出すのだ。
 隠そうとすれば隠そうとするほど、馬脚は表れる。
 だからこそ、演じるという作業においては自分自身を隠さずオープンにするという作業が重要になってくるのではないか。
 言い換えれば、臆することなく、そして無理をすることなく自分自身であることを素直に開いてみせることからしか、他人を演じることは始まらないのではないか。
 最近、とみに僕はそう感じるようになってきている。
(と、言っても、開きに開かれた演技者その人の本質本性を好きになれるかどうかは、また別の話だけどね。今日も、ネット上で京都小劇場界のある若手の女性の演技者のインタビュー記事を目にしたのだけれど、彼女の無神経なまでの「健康さ」にはなんとも言えない気持ちになったもの、僕は)
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2008年08月19日

松尾スズキの思い込み 『盗まれたリアル』における

 1998年9月初版発行というから、今からちょうど10年前に刊行された長谷部浩の演劇対論集『盗まれたリアル 90年代演劇は語る』<アスペクト>は、岩松了、野田秀樹、宮沢章夫、デヴィッド・ルヴォー、いのうえいでのり、平田オリザ、松尾スズキという目配りの届いた人選もあって、その副題の如く1990年代の日本の演劇を語るとともに、その後の10年間の演劇界の変遷を考える上でも貴重な一冊となっている。
(個人的には、これは誉め言葉でもあるのだけれど、平田オリザの「悪人」ぶりがくっきりと浮かび上がっている点が非常に面白かった)

 ただ、そうした対論の中でどうにも気になる箇所があったことも事実だ。
 それは、松尾スズキの「リーダーシップないし、もともと末っ子だし」中の、
>(前略)よく、小林信彦とかが「(コメディアンには)由利徹の生き方と、森繁久弥の生き方がある」、「みんなが森繁久弥のまねをして、失敗していく」みたいなことを書いていますけど、逆にいうと由利徹のような生き方をするのは、激しく難しいわけですよね、きっとね。だから、シリアスにいくっていう気持ちはわからないでもないですよね。ただ、それを嘆くっていうことで終わらせてしまっていいのかっていうのが、僕にはあるんです。いつでも僕は、シリアスに戻れる準備をしておきたいなと思うんですけど。慎重派ですからね(後略)<
という言葉である。
 小林さん、これを読んだら、たぶん激怒するだろうなあ。
 いや、「やれやれ、またか」と呆れ返るだろうか。

 と、言っても、この対論で松尾スズキが言わんとすること自体を否定するつもりはない。
 それどころか、松尾スズキが笑いというものの難しさを明確に自覚している点も含めて、彼の認識そのものには大いに納得がいくし、強く刺激を受ける。
 問題なのは、そうした自分の考え方を述べるにあたって松尾さんが、小林信彦が語ってもいないことをさも彼がそう語ったかのように口にしていることだ。
 確かに、小林信彦は『日本の喜劇人』<新潮文庫>の「第三章 森繁久弥の影」で、森繁久弥と同時代を生きたコメディアンたちの多くが、森繁久弥の存在を意識するあまり、その成功のプロセスを模倣して、いわゆる<森繁病>とでも呼ぶべき症状に陥ったという指摘を行っている。
 だがそれは、コメディアンがシリアスな方向を目指すこと自体を否定しているものではない。
(この点に関しては、『映画を夢みて』<ちくま文庫>所収の「エルンスト・ルビッチとビリー・ワイルダー/序説」の冒頭で、小林信彦自身が念押ししている。と、言うよりも、ここで小林さんは、自分自身の言葉が独り歩きしてしまうことへの危惧の念をはっきりと示している)
 また、同じ『日本の喜劇人』で、小林信彦は由利徹の喜劇人としての在り方を特異な個性として好意的に評価しているが、松尾スズキの言葉にあるような、コメディアンとしては由利徹の生き方が高いというようなニュアンスで彼を評価しているのではない。
(由利徹の評価に関しては、小林信彦の『最良の日、最悪の日』<文春文庫>所収の、由利徹への追悼文「タイム・トンネルの向こうの笑い声」と、『天才伝説横山やすし』<同>「第九章 1982秋」の123、124頁をあたって欲しい)
 いずれにしても、小林信彦に関する限り、松尾スズキの言葉はある種の思い込みから発した事実誤認であると断ずる他ないのである。
(果たして、松尾さんは『日本の喜劇人』に直接触れたことがあるのだろうか。もしそうだとすれば、あまりにもテキストの読み方が浅薄に過ぎる。松尾さんは、伝聞をもとにした思い込みで、先に取り上げた言葉を口にしたのではないか)
 まあ、松尾スズキがどうこうと言う前に、こうした事実誤認をそのまま公にしてしまった長谷部浩の「勉強不足」こそが本当はより問題なのかもしれないが。

 それと、僕が松尾スズキその人の思い込み以上に気になるのは、熱狂的な松尾スズキファンをはじめとした『盗まれたリアル』の読者が、「原典」にあたることもせずに、「小林信彦って人間はこういう考え方してるんか(ほな、あかんやん)」と思い込んでしまうことである。
 あえて、『松尾スズキの思い込み』なる題名の一文をものしたのも、この一文がそうした思い込みの連鎖への小さなシグナルにでもなればと考えたからだ。

 それにしても、何事にせよ、伝聞ばかりで物事を断じることは危険ではないか。
 疑問を呈し疑念を呈するのではなく、何かを断言するのであれば、必ず事の「原典」にあたる必要があるのではないか。
 だから、この一文を読んだ皆さんは、「松尾スズキは小林信彦に関して嘘をついた!」などとすぐさま断じずに、ぜひとも上述しておいた「原典」に目を通して欲しい。
 断じるならば、それからだ。
posted by figaro at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月13日

批評に関する私的なメモ

 批評とは、自らが接した対象の本質を見抜くことであり、その見抜いた本質と自分なりの方法で向き合っていくことだと思う。
 もちろん、対象の本質と向き合う方法は千差万別であり、例えば、他者の思考の枠組を自分なりに咀嚼して活用していくことも、当然そのうちに含まれているだろう。
(と、言うよりも、この世に生きているかぎり、「私」は社会的存在であり歴史的存在なのであり、そうであるのであれば、根本的には、「私」は上述したような形でしか、対象の本質と向き合う方法はないのだ)
 つまり、他者の思考の枠組、言い換えるならば、理論や知識は、自らが対象の本質と判断したものと自らとの関係を第三者に知らせるための、優れた道具に過ぎない。
 ところが、えてして道具は道具としての機能を離れ、時に対象の本質を見抜くことができない批評者の隠れ蓑となり、さらには、崇拝の対象とすらなる。
 それは、たとえ自覚的意識的に為されたものであったとしても、結局は本末転倒した作業であり、究極的にはなんら意味を為さない作業である。
 ネット上の「劇評」を読んでいて、しばしば不満に思うことは、そうした本末転倒した作業が、なんのためらいもなしに、それどころか当為のこととして繰り返されていることだ。
 だからこそ僕は、そうした状態に陥ることなく、なおかつ、自らがどうしてそう判断したかを説明することもなしにただ好悪の感情だけを書き流すことに終始することもなく、自らが接した個々の対象の本質と向き合っていきたいと強く思う。
posted by figaro at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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