2014年02月15日

フライブルク・バロック・オーケストラの来日コンサート(ブランデンブルク協奏曲全曲)

☆フライブルク・バロック・オーケストラ
 J.S.バッハ:「ブランデンブルク協奏曲」全曲

 演奏:フライブルク・バロック・オーケストラ
 音楽監督:ペトラ・ミューレヤンス、ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ
 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階 LB−1列9番
(2014年2月14日19時開演)


 雪は降ったし、寒さは厳しいし。
 どうしよっかなあ、正直バッハって言うほど好みじゃないし。
 と、一応当日券の有無は確認しておいたものの、迷いに迷ったコンサートだったが、先頃ハルモニアムンディ・フランス・レーベルからリリースされたフライブルク・バロック・オーケストラが演奏したブランデンブルク協奏曲のCD録音のさわりをネットで試聴して、初志貫徹、これは聴いておくべしと決断した。

 で、やっぱり足を運んで大正解。
 音楽の愉しみに満ちあふれた、とっても聴き応えのあるコンサートだった。

 今日は、ホルン2にオーボエ3、ファゴットと編成の大きな第1番に始まり、ヴァイオリン抜きでヴィオラ・ダ・ガンバが混じった極小編成の第6番、トランペット、オーボエ、リコーダー、ヴァイオリンがソロを務める第2番(ここで休憩)、弦楽器のみの第3番、チェンバロ、フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリンのソロによる有名な第5番、そしてリコーダー2本とヴァイオリンがソロの第4番という順番で全曲が演奏されたが、ソロとリーダーを分けあったヴァイオリンのミューレヤンスとフォン・デア・ゴルツのもと、ピリオド楽器の腕扱き奏者が集まったフライブルク・バロック・オーケストラは、スタイリッシュでスポーティー、なおかつインティメートな雰囲気も豊かなアンサンブルでもって、バラエティに富んだブランデンブルク協奏曲の要所急所、音楽のツボ(例えば、音楽の舞踊性であるとか)を巧みに押さえた優れた演奏を生み出していた。
 また、トランペットやトラヴェルソ、リコーダー、チェンバロといったソロの名技に加え、それを支える楽器との掛け合いも見事で、ああもっともっとこの音楽、この演奏を聴いていたいと思ってしまったほど。
 2時間があっという間に過ぎてしまった。

 しかも、これだけ愉しめたというのに、チケット料金はたったの3500円!
 一番高い席でも4500円。
 お客さんの入りがあまりよくなかったのが、本当に申し訳ないくらい。

 ああ、面白かった!
 ああ、愉しかった!
 ああ、素晴らしかった!

 そして、できれば今度はフライブルク・バロック・オーケストラが演奏する古典派や初期ロマン派の作品にも接してみたい。
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2010年06月20日

京都市交響楽団第536回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第536回定期演奏会

  指揮:高関健

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P5列23番(休憩前)、3階LB2列3番(休憩後)


 高関健という指揮者の名前を耳にしてまず思い出すことといえば、かつての大阪センチュリー交響楽団時代の知的で洗練されたプログラムと演奏の数々である。
 その高関健が、京都市交響楽団の定期演奏会でウェーベルンの管弦楽作品とマーラーの交響曲第7番「夜の歌」をとり上げるというので、迷わず聴きに行って来た。

 会場に足を踏み入れて、舞台上の楽器やら何やらの数の多さに圧倒される。
 いや、演奏される作品が作品だけに、頭ではある程度想像していたのだけれど。
 やはり、百聞(百想)は一見に如かず、か。

 一曲目は、ウェーベルンの管弦楽のための5つの小品。
 ただし、管弦楽とは称しつつも、これは非常に刈り込まれた小編成による作品。
 ウェーベルンらしい点描画的短詩的な音楽を、高関さんと京響のピックアップメンバーが巧みに再現していた。

 続く二曲目は、同じくウェーベルンの大管弦楽のための6つの小品。
 こちらはタイトルに偽りなし。
 まさしく大編成による作品で、先の5つの小品と同様のスタイルなのだけれど、「大管弦楽」を活かして音量、音響、音色の面で、様々な仕掛けが施されている。
 音楽とのつき具合慣れ具合というものは感じさせつつも、作品の構造や聴きどころをしっかり押さえた演奏になっていたのではないか。
 てか、ウェーベルンをこうして生で聴くことができるだけでも嬉しいかぎり。

 そして休憩後は、本日のメイン、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」。
 「夜の歌」なんだから、夜に聴きたかった。
 なんて無茶なことは言わないことにする。
 なにしろ、ウェーベルンと同じく、この交響曲を生で聴くことができるだけでも嬉しいかぎりなのだから。

 そうそう、余談だけれど、細々と記し続けているオーケストラのコンサート記録のノートで確認したが、マーラーの交響曲第7番の実演に接するのは、1990年5月20日のギュンター・ヘルビッヒ指揮トロント交響楽団の大阪公演(どうにもバブルの臭いがする)以来だから、なんと20年ぶりということになる。
 それ以後も、CDでは何度も耳にした作品だが、これは生でないとちょっと白けてしまうというか。
 今では、大好きなブラームスの8つのピアノ小品作品番号76−2(カプリッチョ)にどことなく音型が似ていることもあって、第4楽章(二つ含まれた「夜の歌」のあとのほう)だけを聴くことが多くなった。

 で、マーラーの交響曲第7番に関して、ここで無い知恵を振り絞ってぐだぐだくどくどと書き記すことはしない。
 非常に大がかりで、非常に大げさ(フィナーレの狂躁ぶり!)、しかも過度にロマンティックで、先述した第4楽章のように親密な雰囲気を醸し出しつつ、一方で諧謔的な志向も事欠かない。
 まったくもって一筋縄ではいかない、実に厄介な交響曲だ。

 高関健と京都市交響楽団は、そうした作品の持つ魅力(それは音量的なものもあれば、旋律的なものでもあり、さらに構造的なものでもある)を丁寧に、なおかつ破綻なく表現しきっていたように僕は思う。
 作品が作品だけに、どうしてもとっちらかった印象を与えてしまう部分や、ライヴ特有の傷もなくはなかったが、終楽章の大騒ぎを聴きながら、「生きること、死ぬこと」についてあれこれ感じ考えていると、そんな細かいことどうでもよくなった。
 管楽器、弦楽器、打楽器(第4楽章のギターにマンドリンも含む。それと、ヴィオラのソロは菅沼準二さんだったのか。どうりで)、なべて大健闘。

 終演後の熱くて力強い拍手を耳にしながら、ああやっぱり生のコンサートはいいなと改めて痛感した次第。
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2010年05月22日

京都市交響楽団第535回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第535回定期演奏会

  指揮:広上 淳一
  独奏:ボリス・ベルキン(ヴァイオリン)

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P−4列32番(休憩前)、3階LB−2列4番(休憩後)


 私事で恐縮だが、ってここの文章そのものが私事だけれど、シューマンの交響曲第3番「ライン」を聴くと、どうしても15年以上前のケルン滞在中のことを思い出してしまう。
 と、言うのも、ケルンがライン河畔の大都市だから、ということももちろんあるが、それより何より、この曲の第5楽章のパパーパーパーパパーパーパーというファンファーレがケルンのフィルハーモニーの開演近くを知らせる音楽として使用されていたからだ。
 で、今日も「ライン」のその箇所を聴きながらケルンに住んでいた頃のことがいろいろと思い出されて、なんとも言えない気持ちになった。

 まあ、それはそれとして。

 今夜は、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第535回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は常任の広上淳一で、シューマンの交響曲第3番「ライン」にチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』、ボリス・ベルキンをソロに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲というプログラム。

 まずは、シューマンの交響曲第3番「ライン」だが、広上さんのプレトークによると、どうやら京都市交響楽団の自主演奏会では、今日が初めての演奏とのこと。
 それが原因ということもあるまいが、同じ広上さんの指揮で聴いた大阪フィルとの演奏(第399回定期演奏会。2006年6月15日)に比べると、あちらのそれいけどんどん調のパワフルなのりに対し、今日の京響はいくぶん重心が低く、細部まで丁寧に腑分けが行われた演奏という印象を持った。
(例えば、第1楽章では、のちのブラームスへの影響がよくわかったりした)
 ライヴ特有の傷もなくはなかったが、一気呵成のフィナーレなど、広上さんらしいドラマティックで爽快な音楽が生み出されていたとも思う。

 休憩を挟んで、二曲目はチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』。
 ダンテの神曲中の愛憎もつれて嗚呼無情といったヨーロッパではおなじみのエピソードを音楽化した作品で、これはもうオーケストラの醍醐味を満喫することができた。
 CDなんかで聴くと、どうにもうるさくて心むなしうなることもときにあるのだが、そこは生。
 大団円のくどさもなんのその、オーケストラの全ての楽器が鳴りきる魅力は、やはり何物にも代え難いと痛感した次第。
 抒情的な部分での情感あふれるクラリネットをはじめとした管楽器のソロもなかなか見事で、硬軟・強弱両面で聴き応えのある演奏に仕上がっていた。

 そして、メインのブラームスのヴァイオリン協奏曲。
 ボリス・ベルキンといえば、今から20年以上も前に同じ京都市交響楽団の定期演奏会(第310回。1989年1月27日)でショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番を聴いたことがあるが、確かショスタコーヴィチのけっこう込み入った音楽を鬼気迫る勢いで演奏していたような記憶があるような、ないような。
(同じ日、ショスタコーヴィチの交響曲第15番の第1楽章で、指揮の井上ミッチーがいつもの如く踊り狂っていたことはより鮮明に覚えているのだが)
 今回のブラームスは、そのときに比べると、いくぶん落ち着いたというか、テクニックももちろんだが、それより音色と雰囲気で聴かせるという感じが強かったように思った。
 若干、音が細いように感じられもしたが、カデンツァなどの美しさはやはり印象に残る。
 広上さん指揮の京響は少し粗さを感じる部分がありはしたものの、ボリス・ベルキンのソロに伍して堂々たる演奏を行っていたのではないだろうか。

 いずれにしても、生でオーケストラを聴く愉しみを改めて強く感じたコンサートだった。
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2010年05月04日

読売日本交響楽団名曲シリーズ(大阪公演)

 ☆読売日本交響楽団名曲シリーズ(大阪公演)

  指揮:シルヴァン・カンブルラン

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階 RC列4番


 他人には開場45分前にはどうのこうのと偉そうなことを言っておきながら、いざ蓋を開けると自分がちんたらちろりろと遅れてしまってはいけないと思い、開場30分前の16時半ごろにザ・シンフォニーホールに着いたのだが、いや皆さんよくわかってらっしゃる。
 招待状のチケット交換窓口の前に並ぶわ並ぶわ、すでに30人ほどの人が列をつくって並んでいた。
 一瞬その列の長さと当日券売切れの立て札になんともいえない気持ちになりつつも(結局それほど多くはなかったが、最後までいくつか空席が残っていた)、主催者側による並ぶ人たちへの冷たいお茶のサービスという心遣いや、チケット交換を15分繰り上げて16時45分に開始するという機転には大いに感心した。
(「やはり読売やなあ」という声が他のお客さんから漏れていた)

 で、先日来の当方の言動も含めて、担当の方に一言詫びておかなければと思い、主催者側の男性の方(事務局の人か?)に声をかけたが、どうにも忙しそうなので休憩時にでもまたと断り、その場をあとにする。


 さて、読売日本交響楽団の新しい常任指揮者シルヴァン・カンブルランのお披露目公演でもある本日のコンサートの一曲目は、バルトークの2つの映像。
 どちらかといえば、後期ロマン派、フランス印象派の影響が色濃い作品で、第1曲の「花ざかり」は、カンブルランは音楽のアトモスフェアとムードをよく掴んでいるように思ったが、オーケストラとのさぐり合い状態というか、特に管楽器など若干アンサンブルのまとまりに欠ける演奏となっていた。
 一方、第2曲の「村の踊り」では、強奏時のパワフルな表現や軽快な音の動きを愉しむことができた。

 続いては、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。
 いわゆるピリオド・スタイルの援用に、フレーズの処理やパウゼにおける仕掛けなど、読売日本交響楽団はカンブルランの意図を表面的には適切に汲んでいて、例えば第4楽章ではスポーティーでスピーディーな表現を行っていたと思うし、管楽器のソロなども含めて、時折音楽の美しさに惹き込まれそうになるときもあった。
 その反面、これは座った場所の関係もあるかもしれないが、弦楽器がやけにきつく聴こえてしまったことも事実だし、それより何より、カンブルランが本来イメージしているほどには音楽の愉悦感や活き活きとした感情をオーケストラの側が表現しきれていないもどかしさを感じてしまったことも事実だ。
 むろん、こうした点は、今後カンブルランとの共同作業を重ねていくことで、徐々にクリアされていくものと信じてもいるが。


 休憩中、開演前に声をかけた男性に再び声をかけると、読売新聞の企画事業部の担当の方はすでに帰ってしまったとのこと、さらにこちらに電話をくれた上司の方も誰かわからないとの返事がある。
 別の男性が口を挟んだときの仕草や表情や、こちらがその場を離れたあとに偶然、その男性が別の男性に耳打ちをしているのを観てしまったことから、いろいろと察することはあったが、もとはといえばこちらの言動にも問題があることゆえ、終演後、別の女性に「よろしくお伝え下さいますよう」と伝言するに留めた。
 連休明けにでも電話をし、さらに手紙を認めておこうとも思う。


 休憩後は、メインのストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』。
 演奏開始とともに、おっさんとおぼしき人物の大きないびきの音が響いて、もしやこのおっさんは招待の客ではないだろうな、と少しいたたまれなくなったが…、これはまあ仕方ない。
(でも、テレビの放映時はどうするんだろう)
 その影響もあってか、はじめのほうでは若干アンサンブルが不安定だったが、徐々にエンジンがかかってきたようで重心の低い、力のこもった熱演を繰り広げていた。
 ただ、個人的には、ちょっと重たすぎるかなと感じた部分もあったりしたのだけど。
 重たさと言っても、ロシア的土俗的な重たさなんかではなく、もっと都会的な、言い換えれば、ヴァレーズの作品を思い出すようなとっちらかった重たさというか。
 いずれにしても、この曲の「現代性」と「難しさ」を再認識させられた。

 満場の拍手に応えて、アンコールは同じくストラヴィンスキーのサーカス・ポルカ。
 途中シューベルトの軍隊行進曲のいびつな引用も飛び出すユーモラスな小品で、肩の力が抜けた演奏ともども、よいアンコールのチョイスだったのではないか。


 なにはともあれ、カンブルランと読売日本交響楽団に一層密度が濃くて一層充実した関係が築かれることを心より祈りたい。
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2010年04月29日

読売日本交響楽団大阪公演の招待状が無効になった!!

 4日、5日と演劇関係のイベントもあるものの、なんと言ってもこの連休中のエンタテインメントの目玉は、5月3日の読売日本交響楽団の大阪公演だ。
 バルトークの2つの映像にモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、そしてストラヴィンスキーの『春の祭典』というクラシック音楽の熱心な聴き手にとってこたえられないプログラムが組まれた、新常任指揮者シルヴァン・カンブルランのお披露目公演ともなるこのコンサートのチケットを、僕は「YOL関西発」なる読売新聞系のサイトのプレゼント・コーナーに応募して見事招待状という形で手に入れたのである。
 ああ、なんと愉しみなことか!

 ところがである。
 今日の夕方、外出時、読売新聞の読売日本交響楽団担当のYさんから留守電のメッセージが入っていたので折り返し電話をかけたところ、これがあな度し難や、チケットが完売状態か何かで「来場いただいても座席がない」といった趣旨の言葉を宣うではないか。
 つきましては、ルノワール展となんたろかたろをどうのこうのとYさんは代替案を出してくれたものの、当方あくまでも読売日本交響楽団のこのコンサートのチケット欲しさにプレゼント・コーナーに応募したわけで、ルノワール展などいらぬお気遣いというほかない。
(だいいち、うじゃこじゃうじゃこじゃしたなかで絵画なんか観る気にはなれんもの)

 まあ、上述した如く、このコンサートがクラシック音楽ファンの耳目を集めるものであることは想像に難くないし、無い袖は振れぬ、無い席は座れぬと言われれば、もともとただでコンサートに招待してもらう身、萬屋錦ちゃん扮する破れ傘刀舟よろしく「てめえは人間じゃねえやたたっ斬ってやらあ!」と啖呵を切ることもできまいが。

 が、しかし、自分が主催(共催か)するコンサートのチケットの売れ行きを読むこともできず(「読み」「売り」の名前が泣きますぜ)、あたら招待状を配りまくった上でのこのていたらくは、やはり担当部署たる読売新聞大阪本社メディア戦略室・事業部、事業局・企画事業部の「戦略」ミス以外の何物でもないだろう。
(もう一ついえば、「チケット引き換え証」や「プレゼント当選のお知らせ」には、こういった事態が起こり得るということは一切記されていない)

 少なくとも、事の経緯は電話だけですませるのでなく、責任者の署名の入った書面かメールで送って欲しい(記録的な価値も高いので)、と再度電話をかけ直した。

 いずれにしても、残念無念の極みだ。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
 ナベツネ、じゃない、企画事業部憎けりゃ読売新聞まで憎い。
 誰が読売新聞なんか購読するもんか!
(「もともと購読する気なんかなかったくせに」、と呼ぶ声あり。いや、それはわかりませんよ…)


 *追記
 当方と同様、読売日本交響楽団大阪公演の招待状が無効となった方のブログを拝読したが、やはり電話一本で事をすませようとする担当のYさんや責任者の対応は問題があるのではないか。
 上述した如く、カンブルランと読売日本交響楽団の「価値」をわかっていなかったということも含めて、非常に残念だ。

 *追記の追記
 読売新聞企画事業部から連絡がないこともあり、読売日本交響楽団のチケットセンター(東京)に電話をかけたところ、事務局の大阪公演の担当者の方に連絡をするとのことだった。
 公演前の忙しいときに、本当に申し訳ない。

 *追記の追記の追記
 万一チケットが残っていればとフォルテ音楽事務所に電話をかけたところ、すでにチケットは完売状態。
 「関係者」がどれだけ来場するかによって当日券が出るか出ないかとのことだ。
(フォルテ音楽事務所は、読売新聞企画事業部と読売日本交響楽団の指示でチケット管理を行っているだけだそう)
 いずれにしても、招待状なんか当たらなければ、チケットを買っておいたかもしれないのに!
 せこい手段を選んだ自分の責任も大きいとはいえ。
 悔しいかぎり。
 それにしても、「関係者」ってどんな「関係者」なんだろうね。
 クラシック音楽が大好きな人ならいいけど。
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2010年04月24日

京都フィルハーモニー室内合奏団第170回定期公演

☆京都フィルハーモニー室内合奏団第170回定期公演

 指揮:大山平一郎
 独唱:晴雅彦(バリトン)

 会場:京都コンサートホール小ホール(アンサンブルホールムラタ)
 座席:1階3列22番(休憩前)、2階L列15番(休憩後)


 今は昔、大きいことはいいことだ! と気球に乗って踊り叫んだ御仁がいたが、高度経済成長期ならばいざしらず、いつもかつも馬鹿の一つ覚えみたくなんの考えもなしに大きいことばかり追い求めていても仕方がない。
 まして、手元不如意の折など身の丈にあった生活を…。

 なあんてことは全く関係ない、わけじゃないけど、シェーンベルクが第一次大戦後すぐに開催した「私的演奏会」のために室内アンサンブル用に編曲されたマーラーの『さすらう若人の歌』とブルックナーの交響曲第7番を京都フィルハーモニー室内合奏団が演奏するというので、北山の京都コンサートホールまでその定期公演を聴きに行って来た。
(なお、出演を予定していた村上寿昭がアイスランドの火山噴火の影響で帰国できず、急遽大山平一郎に指揮者が変更となった)

 で、まずは、ヴァイオリン2にヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、打楽器、ピアノ、ハルモニウム各1という編成の、シェーンベルク自身の編曲によるマーラーの『さすらう若人の歌』。
 実はこの編成による演奏は、クリスティアン・ゲルハーエルが歌ったCD<Arte Nova>を日ごろから愛聴していることもあって、ちっとも違和感を覚えない。
 フルオーケストラ版のような音色の厚みはないが、かえって音楽の持つ若々しさ、リリカルな性質が明確に示されているのではないかと思うほどだ。
 バリトン独唱の晴雅彦は、関西二期会を中心にオペラで活躍している人だけれど、ベストの状態ではなかったとはいえ、劇性に富んだ歌いぶりだったと思う。

 休憩後は、ハンス・アイスラー、エルヴィン・シュタイン、カール・ランクルの編曲によるブルックナーの交響曲第7番。
 こちらも、ヴァイオリン2をはじめ、ほぼ『さすらう若人の歌』と同様の編成(ただし、フルートと打楽器がホルン1に変わり、ピアノが2に増えている)で、「私的演奏会」自体が中断されたため実際に演奏されることはなかったとプログラムにはある。
 この室内アンサンブル版によるブルックナーの交響曲第7番も、確かリノス・アンサンブルが演奏したCD<CAPRICCIO>を以前一度だけ聴いたことがあるのだが、『さすらう若人の歌』のように聴き込んでいないこともあってだろう、正直、本来聴こえてくるべきものが聴こえてこないもどかしさ、なんともしっくりこない感じをそこここで覚えてしまった。
 もちろん、室内アンサンブルという編成だからこそ、ブルックナーの音楽進行の独特さや旋律(特に弦楽器の)の美しさ、抒情性を改めて認識することもできはしたのだけれど。
 大山平一郎と京都フィルハーモニー室内合奏団は、限られた時間で作品の持つ性格を的確に示すべく健闘していたが、ところどころアンサンブルとしてのまとまりに欠ける部分や個々の奏者に粗さを感じる部分があったことも残念ながら事実である。

 とはいえ、こうした珍しいプログラムでのコンサートを行った京都フィルハーモニー室内合奏団の積極的な姿勢に対しては、やはり高く評価すべきではないだろうか。
 今後も、室内オーケストラ、室内アンサンブルならではの面白いプログラミングを愉しみにしていきたい。

 つまるところ、大きいばかりが能じゃないってことなんじゃないのかな。
 いや、もちろん大きいものには大きいもののよさがあることは充分認めた上でのことだけどね。
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2010年04月11日

京都市交響楽団スプリング・コンサート

 ☆京都市交響楽団スプリング・コンサート

  指揮:広上 淳一
 管弦楽:京都市交響楽団

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:3階LB1列6番


 休憩明け、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の第1楽章が終わったときに会場からけっこう大きめな拍手が起こって、ああ今日は日ごろオーケストラのコンサートに接したことのないお客さんが相当来ているんだなと改めて思った。
 もちろん、なに拍手してんのかねありゃりゃ、などと舌打ちするわけがない。
 それどころか、こうして新しいお客さんがコンサートに足を運んでくれることで、京都市交響楽団というオーケストラの基盤が今まで以上にしっかりとしたものになっていくのだから、これまでのファンも大いに喜ぶべきことだと思ったほどだ。
(実際、今回のコンサートもチケットは完売。この調子でいけば、定期演奏会同一プログラム2回化も夢ではないかも)

 さて、昨年から始まった京都市交響楽団のスプリング・コンサート、二回目の今年は、「ヒーロー」というテーマのもと、第一部ではNHKの大河ドラマのテーマ曲が、後半第二部では上述した如くベートーヴェンの交響曲第6番「田園」がそれぞれ演奏されていた。

 まず、第一部は、現在放映中の『龍馬伝』のテーマ曲(佐藤直紀作曲)からスタートした。
 京都市立芸大の大学院生馬場菜穂子の独唱にはいささか硬さも感じられたが、広上淳一と京都市交響楽団の演奏は迫力満点で快調なすべり出し。
 加えて、広上さんの司会の豊田瑠依への突っ込みも快調なすべり出し。
 その後、『赤穂浪士』(芥川也寸志作曲)、『元禄太平記』(湯浅譲二作曲)、『花神』(林光さん作曲)、『翔ぶが如く』(一柳慧作曲)、『利家とまつ』(渡辺俊幸作曲)、『篤姫』(吉俣良作曲)、『天地人』(大島ミチル作曲)の各テーマ曲が途中おしゃべりを挟みながら演奏されたのだけれど、これは前衛音楽(の切れはし)からネオ・ロマンティシズムへの、言い換えれば、映画音楽よりの影響からポップス・歌謡曲、そしてゲーム音楽よりの影響への変化が示された、よく出来た選曲だったのではないだろうか。
(個人的には、『山河燃ゆ』と『武田信玄』のテーマ曲を聴きたかったんだけれど、これはまあ仕方ない)
 抒情味のかった『篤姫』よりも激性の強い『天地人』などのほうが一層広上さんの特性には合っているのではと思ったりもしたが、京都市交響楽団は生でしか味わえないフルオーケストラの魅力をたっぷりと発散していた。

 一方、田園シンフォニーは、基本的にオーソドックスなスタイルの演奏。
 第1楽章など、最近は非常にスピーディーなテンポの演奏が増えてきたが、今日の京響はたっぷりと旋律を歌い込んでいて、LP時代に聴きなじんだあの演奏やこの演奏を思い出してしまった。
 と、言っても、全篇こういった調子かというと、実はそうではなくて、第2楽章では早めのテンポがとられていたし、フレーズの処理など、細かい部分ではけっこう仕掛けが施されていたようにも感じはしたのだけれど。
 京都市交響楽団は、途中目立った傷もありはしたが、概ね広上さんの意図によく沿った演奏を行っていたと思う。

 アンコールは、ジョン・ウィリアムズの『スーパーマン』のテーマ曲。
 興奮のうちにコンサートを終えるという意味でも、大河ドラマのテーマ曲の源流をたどるという意味でも、これまたよく出来た選曲だったのではないだろうか。

 それにしても、スプリング・コンサートだけじゃなくって、サマー・コンサートもオータムン・コンサートも、ウィンター・コンサートもやってくれればいいのになあ!
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2010年03月30日

aimė室内管弦楽団第1回演奏会

 ☆aimė室内管弦楽団第1回演奏会

  指揮:川畑  隆
  独唱:大岡  紋(ソプラノ)
     加藤 裕子(メゾソプラノ)
     川崎慎一郎(テノール)
     高曲 伸和(バリトン)
     田主 容子(ソプラノ)
     中原 三幸(ソプラノ)


 指揮者の本多優之さんと練習を見学させてもらったaimė室内管弦楽団の第1回目のコンサートを、京都コンサートホールの小ホール(それにしても、ここのホールは本当に音響が悪い)で聴いて来た。
 aimė室内管弦楽団は、大阪音楽大学2年生の川畑隆君を中心に、関西各地の音大生や学生によって結成された、出来たてほやほやの室内管弦楽団で、オーケストラ初心者がその少なからぬ部分を占めている。

 で、練習を初めて聴いたときは、全く何もないところから「オーケストラをやりたい」という熱意によって生まれた団体だけに、ついつい本番までの道のりの厳しさを想像してしまったのだけれど、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタジンガー』第1幕への前奏曲、ビゼーの歌劇『カルメン』ハイライト(組曲版ではなく、音大生のソロによる歌つき)、ブラームスの交響曲第1番という耳馴染みはよいが一癖二癖、どころか三癖四癖もある曲目を、なんとか最後まで演奏し切っていた。
(ブラームスの交響曲第1番の冒頭部分をやり直すというアクシデントもありはしたが)
 また、ワーグナー、ブラームスとも、最近の主流となりつつある楽曲の解釈を基調に早めのテンポが心掛けられ、交響曲の楽章の終結部の処理など、いろいろと仕掛けが試みられていたりもした。
 しかしながら、個々の奏者としてもアンサンブルとしても様々な問題(技術的等)が存在することから、そうした川畑君の意図が充分に効果を発揮していたとは、残念ながら言い切ることはできない。
 個々の奏者やアンサンブルの精度を上げるという意味からも、川畑君の指揮者としてのバランス感覚バランス感覚を鍛えるという意味からも、できることならば、古典派の作品を集中して取り上げる必要があるのではないかと、僕は思った。
 加えて、弦楽四重奏や木管五重奏など、オーケストラメンバーによる室内楽アンサンブルの活動が、もっと積極的に行われてもいいとも思う。

 一方、『カルメン』の独唱陣では、見栄えのよさという点では、エスカミーリョを歌った高曲伸和君をまずもって挙げるべきだろうが、個人的にはミカエラを歌った大岡紋さん、ドン・ホセを歌った川崎慎一郎君の歌唱に好感を覚えた。
(カルメンを歌った加藤裕子さんは、強く張るときの声の美しさが印象に残る)

 いずれにしても、プロ・アマ・学生問わず、オーケストラは練習とコンサート(本番)を重ねることでしか変化し成長していかない。
 今回のコンサートで得た、オーケストラで演奏することの愉しさや感激を胸に強く刻んだ上で、個々の奏者やオーケストラ全体の課題をしっかり確認しながら、二回目、そして三回目のコンサートにのぞんでいって欲しいと、心から願う。
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2010年03月27日

京都市交響楽団第533回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第533回定期演奏会

  指揮:広上 淳一
  独奏:ラデク・バボラク
     垣本 昌芳
     澤嶋 秀昌
     寺尾 敬子

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P1列8番(休憩前)、R3列16番(休憩後)


 北山の京都コンサートホールまで、常任指揮者広上淳一が指揮する京都市交響楽団の第533回定期演奏会を聴きに行って来たが、今回もチケット完売の盛況ぶりでまずは何より。
(ただし、残念なことに会場にはちらほら空席も。これがヨーロッパだったら立ち見席なんて都合勝手のよいシステムがあるんだけど、我が国には消防法なるやかましい法律があるもので…)

 で、一曲目はプッチーニの交響的奇想曲。
 公演プログラムには記されていないが、途中のちに『ラ・ボエーム』の序奏部分となる音楽がまんま登場してきたりするなど、実にオペラティックで劇場感覚に満ちあふれた作品。
 座った場所が金管群の斜め後ろということもあってか、少々騒々しさを感じないでもなかったが、コンサートの幕開けの賑やかしには相応しい音楽であったことも確かだろう。
 広上さんは、ツボをよく押さえた音楽づくりを行っていたと思う。

 続く二曲目はプログラムに変更があって、ラデク・バボラクのソロによるリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番。
 いやあ、これは本当に素晴らしかった。
 あまりにも陳腐なたとえで申し訳ないけれど、音が軽々と空の彼方まで駆け上って雲の間を伸びやかに吹き抜けていくとでも評したくなるような美しいホルンの音色と、バボラクの優れたテクニックに完全に魅了された。
 できれば、もっともっと音楽が続いていて欲しかったくらい。
 京響の伴奏はバボラクのソロに比べると、若干重たさを感じないでもなかったが、ホルンと木管のソロとの掛け合いなど、よく健闘していたのではないだろうか。

 休憩を挟んだ三曲目は、バボラクに京都市交響楽団のホルン・セクションのメンバーを加えたホルン四人の独奏によるシューマンの4本のホルンのためのコンツェルト・シュトゥック。
 バボラク効果もあってか、京響のホルン奏者陣も過不足ないソリストぶりを発揮、広上さん指揮のオーケストラも歯切れがよく明解な伴奏で、全篇愉しい演奏に仕上がっていた。

 と、ここまでで充分に音楽を堪能した感じだったのだけれど、まだまだあるぞよ四曲目は、ベートーヴェンの交響曲第4番。
 これがまた、昔北欧の巨人に挟まれた可憐な乙女とかなんとかまことしやかに語られていたなんてエピソードがちっともほんとにゃ思えないぐらいの迫力満点、パワフルな演奏でボリューム満載。
 ただし、ピリオド・スタイルも意識しつつ、作品の要所急所をしっかり締めていたあたりは、広上さんならではか。
 ライヴ特有の傷もなくはなかったが、京都市交響楽団も広上さんの指揮によく沿った演奏を行っていたように感じられた。

 このあと三月定期恒例の卒団セレモニーがあって、さらにアンコールにバルトークのルーマニア民俗舞曲の第4曲と第7曲が演奏されて、もうおなかいっぱい。
 本当にごちそうさまでした!

 それにしても、広上さんのうなりっぷり、ますます激しくなってはいませんか?
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2010年03月16日

京都フィルハーモニー室内合奏団第169回定期公演

 ☆京都フィルハーモニー室内合奏団第169回定期公演『エスプリ!』

  指揮:野平一郎
  独奏:野平一郎(ピアノ)

  会場:京都コンサートホール小ホール(アンサンブルホールムラタ)
  座席:1階10列25番


 もう20年近く前になるだろうか、まだ僕が立命館大学の院生だったころ、ひょんなことから同じ立命館大学の須田稔先生とそのゼミ生たちに同道して、当時まだアートスペース無門館だったアトリエ劇研(MONOが稽古をしていた)を皮切りに、民間主体で運営している芸術関係のスペースや団体を見学させてもらったことがあった。
 考えてみれば、今小暮宣雄さんらが活発にやっているようなことのはしりだと思うのだが、そうして見学されてもらった中に、京都フィルハーモニー室内合奏団の事務局も含まれていた。
 その際うかがったことの大半は、記憶の中から失われてしまったのだけれど、当時日本音楽家ユニオンのオーケストラ協議会とちょっとしたつながりのあった僕だからこそ、一層その運営の厳しさ難しさ、逆に様々な可能性の存在を強く感じたということは覚えている。
 ただ、その後、何度かコンサートに足を運んだことはあったものの、個人的な紆余曲折(お芝居にのめり込んだりとか)もあって、京フィルの生の演奏に触れたのは、それから10年以上も経ってから、ニコラウス・アーノンクールの京都賞受賞のワークショップまで待たなければならなかった。

 そして、ようやく今回、久しぶりに京フィルのコンサートを聴くことになったのだが、それにはやはり、シェーンベルク編曲のドビュッシーの牧神の午後への前奏曲、ヴァレーズのオクタンドル、プーランクのオーバード(野平一郎さんの弾き振り)、ミヨーの世界の創造、イベールのパリという、関西どころか、日本全体でもめったに聴くことのできないプログラムに強く心を惹かれたからである。
(かつて野平さんと共演の経験もある指揮者の本多優之さんをお誘いしたのだが、野平さんらしいよく考え抜かれたプログラムだと感嘆するとともに、それを実際に受け入れた楽団の姿勢も高く評価されていた)

 で、プーランクのオーバードなど、アンサンブルの側にもう少し洒脱さが加わればと感じたりもしたのだが、野平さんの簡にして要を得たトークも含め、作品を識るという意味では、充分納得のいくコンサートだった。
 特に、ラストのパリでの盛り上がりでは、かつて体験した京フィルのフレンドリーな雰囲気を思い出すこともできた。

 個人的に好みの作品が並んでいることもあったりして、可能なかぎり京フィルの定期公演には足を運んでいきたいと思う。
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2010年02月27日

クリスティアン・ベズイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル

 ☆クリスティアン・ベズイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル

  会場:兵庫県立芸術文化センター小ホール
  座席:1階 PB列12番


 吉川潮との対談で、春風亭小朝が落語の本来のキャパシティは多くて200席程度といった言葉を口にしていたと記憶しているが、その伝でいくならば、フォルテピアノの本来のキャパシティは多くて500席程度ということになるのではないか。
 むろん、1000席だろうが2000席だろうが3000席だろうが、リサイタルを開きたいというのであれば、どうぞご随意にと演奏家だの興行主だのにお任せするしか手はないけれど、大ホールでフォルテピアノを聴いてみたいとは正直僕には思えない。
 で、フォルテピアノ奏者のクリスティアン・ベズイデンホウトが兵庫県立芸術文化センターでリサイタルを開くという。
 このホールの座席数は417。
 もちろん、迷わず聴きに行って来た。

 今回は、オール・モーツァルト・プログラムということで、途中休憩を挟みつつ、ピアノ・ソナタ第18番、幻想曲ハ短調、ピアノ・ソナタ第16番、「我ら愚かな民の思うは」による変奏曲の計4曲が演奏されたが、これは期待どおり、いや期待以上のリサイタルだった。
 プログラムされた作品もあってか、強弱の変化を激しく強調するバロック的なスタイルではなく、ベズイデンホウトは旋律の持つ美しさや歌謡性を丹念に描き込み、歌い込んでいたように思う。
 中でも、ソナタの第2楽章や幻想曲(静と動の見事なコントラスト)に、ベズイデンホウトの特質がよく表われていたのではないか。
 一方、ソナタの両端楽章や変奏曲では、ベズイデンホウトの技量の高さや作品の構成の把握の確かさが示されていて、こちらも充分に納得がいった。
 なお、今回のリサイタルに使用された楽器は、アントン・ワルター製のレプリカと公演プログラムにはあったが、演奏曲目とベズイデンホウトによく合った明解でクリアな音色のように感じられた。
(もう一ついえば、今回のリサイタルでは、モーツァルトが楽器の特長特性をよくつかんだ上で作品を創り出していることが再確認できた)
 これで、演奏途中の不用意な咳やアラームがなければ、さらに言うことなしだったのにと、その点だけが少し残念である。

 アンコールは、同じくモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番から第2楽章と第3楽章。
 こうなると、ベズイデンホウトの演奏したモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲がぜひとも聴きたくなってくる。
 次回のリサイタルが本当に待ち遠しい。
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2010年02月08日

聖響×OEK ベートーヴェン・チクルス第5回

 ☆聖響×OEK ベートーヴェン・チクルス第5回

  指揮:金聖響
 管弦楽:オーケストラ・アンサンブル金沢

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階LC−15(休憩前)、同LD−16(休憩後)


 金聖響といえば、テレビやCDでは度々目にし耳にしたことはあったが、実際の演奏となると、10年ほど前に、一度京都市交響楽団とのコンサート(定期演奏会などの自主公演ではなく、いわゆる依頼演奏会)を聴いたことがあるだけだ。
 確か日本人作曲家の新作とドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」という非常にシンプルなプログラムで、「新世界より」のシャープでスポーティな音楽づくりが今も記憶に残っている。
 で、そんな金聖響がオーケストラ・アンサンブル金沢と、大好きなベートーヴェンの『アテネの廃墟』序曲、交響曲第2番、交響曲第3番「英雄」を演奏する、『聖響×OEK ベートーヴェン・チクルス第5回』を聴きに、大阪のザ・シンフォニーホールまで行って来た。
(ホールに入ってまず感じたことは、空席の多さで、AB両席とも相当チケットが残っているようだった)

 全曲通しての感想は、金聖響という指揮者の賢さとテキストの読み込み具合がよくわかる演奏だったということだろうか。
 いわゆるピリオド・スタイルの援用やクライマックスの築き方など、金聖響の特質がよく示されていたと思う。
 ただ、第2番にせよ第3番にせよ、劇性や激情よりも、古典的な均整のほうに主眼が置かれているように僕には感じられたことも事実だ。
 また、オーケストラの機能性を活かすという意味で、両端楽章や第2楽章よりも、第3楽章のスケルツォ(第2番はメヌエットとなっているが、実質的にはスケルツォ)が個人的に面白く聴こえた。
(いつもの当てずっぽうになるけど、諸々を総合すると、表面的なスタイルは全く異なっているものの、金聖響のベートーヴェンは、アーノンクールやノリントンのそれよりも、実は朝比奈隆のそれにつながるもののほうが大きいんじゃないのかなあ。それと、金さんは様々な意味で安定しているんじゃないのかなあ)

 オーケストラ・アンサンブル金沢は、ところどころ肌理の粗さを感じる部分もなくはなかったが、基本的には、個々の奏者としてもアンサンブルとしても一定以上の水準を維持していたように思う。

 なお、アンコールは、同じくベートーヴェンの12のコントルダンスWoO14から第5曲。
 メインがエロイカ・シンフォニーということで、本来ならば、アンコールは終楽章の変奏曲の主題の原曲である同じコントルダンスの第7曲やバレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲ということになるのだろうが、この第5曲もエロイカ・シンフォニーの変奏曲とのつながりがそれとなく感じ取れる音楽で、これは巧いチョイスではなかったろうか。
 演奏そのものも、実にチャーミングだった。
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2010年01月22日

京都市交響楽団第531回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第531回定期演奏会

  指揮:外山雄三
  独奏:ガブリエル・リプキン(チェロ)

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:3階LE1列5番(休憩前)、同LB1列6番(休憩後)


 昨夜の大阪フィルのゲン直し、右膝の調子はいまひとつだったのだけれど、自分のセンサーがぴぴっと働いたこともあって、京都コンサートホールまで京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行って来た。

 指揮は、かつて京都市交響楽団の第4代常任指揮者を務めた外山雄三。
 岩城宏之、若杉弘と亡くなり、小澤征爾も食道癌のため療養中の今、一人気を吐くといっても過言でないのが、この外山雄三ではないか。

 で、一曲目は、フォーレの組曲『ペレアスとメリザンド』。
 どちらかといえば新古典派的なすっきりめの演奏を予想していたら、案に相違して厚い響きのする懐かしい感じの音楽づくりとなっていた。
 有名なシシリエンヌ(フルート・ソロの清水信貴が見事)をはじめ、旋律の美しさが強調されていたと思うが、少々昔の映画音楽のように聴こえたことも事実である。
(こういう季節だから仕方ないとはいえ、弱音のときの「ごほごほ」はなんとかならないものか…)

 続く、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番では、なんと言ってもガブリエル・リプキンのソロが光る。
 艶やかで流麗、なおかつドラマティックな演奏で、その容姿も含めて「エロス」(やらしい意味とちゃいまっせ)を強く感じた。
(そうしたリプキンの魅力は、アンコールの2曲、デュポーの練習曲第7番とバッハの無伴奏チェロ組曲第3番からブーレで、ひときわ表わされていたのではないか。ともに、ぞくっとする演奏だった)
 一方、外山雄三と京響は手堅い伴奏を行っていたと思う。

 休憩後のショスタコーヴィチの交響曲第10番は、外山雄三の十八番の一つ。
(公演プログラムによると、外山さんと京都市交響楽団によるこの曲は、1968年6月の第106回定期演奏会以来だから、なんと42年ぶりの演奏ということになる。また、1991年5月の第334回定期演奏会で井上道義の指揮で演奏されたこの曲を僕は聴いている)
 昨年7月の大野和士の指揮による交響曲第5番が抉り掘り下げる演奏だったとすれば、さしずめ今回のショスタコーヴィチは、ぎゅっと締めて強く固める演奏とでも評することができるのではないだろうか。
 一月のエンタメ情報でも記したように、若干「鋼鉄はいかに鍛えられたか」式の古めかしさが感じられないではなかったものの、その分、作品の持つ時代性や世界観がよく示されていたようにも思った。
 特に、フォルテッシモでの(よい意味での)教条主義的な音の炸裂ぶりや、弦楽器のぎりぎりきりきりする感じの迫真性は、外山さんならではのものだろう。
 ホルンをはじめ、管、打、弦なべて京響の面々も、外山雄三の解釈によく沿った演奏を行っていて、間然とするところがなかった。

 いずれにしても、ゲン直しにはぴったりのコンサートだった。
 重畳重畳。
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2010年01月21日

大阪フィル第434回定期(後半のみ)

 ☆大阪フィルハーモニー交響楽団第434回定期演奏会(後半のみ)

  指揮:尾高忠明

  会場:ザ・シンフォニーホール
  座席:2階LE列17番


 JR大阪駅付近の再開発なんてしょせん他人事、どんどん勝手にやってくれ!
 と、思っていたのが運のつき、そんな資本主義のスクラップアンドビルディングの魔の手に当方まんまとひっかかってしまった。
 いつもの如く、阪急を梅田で降りて、なんたろカメラの前を通ってザ・シンフォニーホールまで歩いて行こうとしたら、あれあれどうやら勝手が違う。
 で、こちらは行き止まり、あちらは反対側、とどんどん迷っているうちに、なんたること阪急の中津駅近辺まで出てしまい、近所の人に尋ねてみたものの、これがまた天下のザ・シンフォニーホールを知らぬというていたらく、結局阪急で梅田まで戻り、環状線で福島まで行って、ようやくザ・シンフォニーホールに着いた。
 最初梅田には18時14分に着いたのだが、ホールに入ったときはすでに19時5分。
 と、言うことで、一曲目のエルガーの『海の絵』はモニターで観聴きするはめにあいなりそうろう。
 まあ、メインのエルガー交響曲第2番が聴きたくて選んだコンサートだから、それが聴けただけでもよしとしなくちゃいけないんだけれど。
 でも、なんだかねえ。
 新年早々、げんが悪いや。
(あとで教えてもらったが、中津からザ・シンフォニーホールまでは歩いて行けるし、少しややこしくはあったが、梅田までも歩いて帰れた。ああ…)

 さて、エルガーの交響曲第2番は、今回指揮台に上がった尾高忠明にとって自家薬籠中の一曲。
 緩急のつけ具合、メリハリのきかせ具合、さらに旋律の歌わせ具合には、一日、どころか何日もの長があり、特に第2楽章の弦が歌う箇所や、終楽章のコーダの夕陽がゆっくりと沈んでいくような様など、流石と思わされた。
 ただ一方で、強奏の部分では、若干肌理の粗さを感じたし、全体的に一層精度が高ければと感じたことも事実だ。
 それには、ゆったりとした気分で音楽を愉しむことのできなかった自分自身の問題もあるのだけれど。

 いずれにしても、すこぶる残念なコンサートだった。
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2010年01月16日

コンチェルト・コペンハーゲンの来日公演に大満足

 ☆コンチェルトコペンハーゲン

  会場:兵庫県立芸術文化センター小ホール
  座席:1階PA列12番


 クラシック音楽を聴き始めたころのあたりが悪かったのか、正直言ってバッハという作曲家に対し若干苦手意識がある。
 バッハとヘンデル、どちらをとるかと問われれば、僕は断然ヘンデルをとるし、たとえロバの耳と後ろ指を指されようと、バッハはバッハでも息子のヨハン・クリスティアンの口当たり柔らかな音楽のほうがよっぽど好みに合っている。
 と、言っても、ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽は一切受けつけない、誰が聴くかい接するかい、というようなアンチ・バッハの原理主義者ではないわけで、音楽の捧げものを聴いたらほほうっと感嘆するし、ゴルトベルク変奏曲を聴いたらあまりの愉しさに眠気もひょひょいとすっとんでしまうし、マタイとヨハネの両受難曲を聴いたら心がどどんと打ち震えてしまうこともまた事実。
 まあ、そこが相当、ではなく、若干苦手意識と記した理由でもあるのだけれど。

 で、デンマーク出身のチェンバリスト、ラース・ウルリク・モルテンセン率いるピリオド楽器アンサンブル、コンチェルトコペンハーゲンが、コーヒー・カンタータと農民カンタータというバッハの二つの世俗カンタータをプログラムの中心に組んだコンサートを催すというので兵庫県立芸術センターまで足を運んだのも、そんな中瀬宏之の融通無碍さの表われ、じゃない常日頃のイメージとは異なる愉しいバッハが聴けそうだったから。
 ちなみに二つのカンタータ、コーヒー・カンタータ=カンタータ第211番『そっと黙って、おしゃべりしないで』のほうは、娘が当節流行りのコーヒーにのめりこんで親父怒るもどうにもならず(今風に言い換えれば、娘が携帯のメールに夢中で親父注意するもどうにもならず)といった内容で、農民カンタータ=カンタータ第212番『うちの新しい領主様』のほうは、新しい領主へのお祝いにこと寄せて農民生活のあれやこれやを歌い上げていくといった社会派喜劇タッチの内容。
 つまるところ、どちらも教会カンタータとは丸きり反対の、世俗も世俗、とびっきり俗っぽい内容だ。

 実際、これは足を運んで大正解のコンサートだった。
 まずは、youtubeで一応確認ずみだったソプラノ独唱のマリア・ケオハナが素晴らしかった。
 若き日のバーバラ・ボニーを彷彿とさせるような、清澄で伸びがあって、なおかつコケティッシュな声と歌いぶりで、一声目から魅了された。
 舞台後方の席だったので、しかとしっかり観ることはできなかったが、ちょっとしたしぐさや表情など、演技も実にチャーミング。
 また、バス・バリトン独唱のホーヴァード・ステンスヴォルドも、暖かみのある幅の広い声質と親父と農民を巧みに演じ分ける達者な歌唱を聴かせてくれた。
 一方、モルテンセン(雄弁で闊達なチェンバロ!)とコンチェルトコペンハーゲンも粒が揃ってしなやかな演奏で、例えば農民カンタータではこの作品の持つ多様な側面(民謡、民俗音楽の引用だとか)を描き出すなど、大いに満足がいった。
 二つのカンタータに挟まれた、テレマンのフルートとヴァイオリンのための協奏曲(これまたコンチェルトコペンハーゲンの演奏の流麗なこと)でも妙技を披露したフラウト・トラヴェルソのカティ・ビルヒャー、農民カンタータに登場しばっちり決めたナチュラルホルンのウルスラ・パルダン=モンベルグも、ともによい意味で過不足のない出来ではなかったか。
 なお、弦のピチカートにのってフラウト・トラヴェルソとヴァイオリンが歌う、上述テレマン作品のアダージョがアンコールだった。

 いずれにしても大当たりのコンサート。
 やっぱりバッハはいいなあ!
(「って、何が苦手意識があるだよ」、と呼ぶ声あり。だから、若干って書いたでしょ、若干って)


 ところで、コーヒー・カンタータで、テノール独唱のトマス・メディチがレチタティーヴォを普通の台詞として語っていたのは演出だろうか?
 それとも、声の調子が悪かったからか?
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2009年12月18日

京都ミューズ12月の音楽会  齊藤一郎指揮京都市交響楽団の「第九」

 ☆京都ミューズ12月の音楽会 「第九」コンサート

  指揮:齊藤一郎
 管弦楽:京都市交響楽団
  独唱:畑田弘美、福原寿美枝、竹田昌弘、三原剛
  合唱:京都「第九」をうたう会

  座席:1階16列6番


 応募していた招待券が送られてきたこともあり、北山の京都コンサートホールまで、京都ミューズ12月の音楽会、齊藤一郎指揮京都市交響楽団他の演奏による「第九」コンサートを聴きに行って来た。

 クラシック音楽にのめり込むきっかけが、中学校1年生の冬にNHKの教育テレビで観聴きしたベートーヴェンの交響曲第9番だったというのに、生で第九を聴くのは、1998年11月30日のフィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管弦楽団の来日公演(京都コンサートホール大ホール)以来だから11年ぶり、年末の「第九」にいたっては、1994年12月16日のトーマス・ザンデルリンク指揮大阪シンフォニカー交響楽団のコンサート(ザ・シンフォニー・ホール)以来だから、15年ぶりということになる。
(もちろん、CDやラジオ、テレビでは、何度も聴いてはきたけれど。何がどうしたか、生では10年以上も聴くことがなかったんだよなあ。年末にやられ過ぎててありがたみが薄れたからか? でも、ケルンで聴いたダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン他による年末の「第九」も、なんだかフルトヴェングラーっぽさが僕には鼻に、じゃない耳について、あんまりしっくりこなかったんだよなあ…)

 で、演奏では、京都「第九」をうたう会による合唱に一番好感を抱くことができた。
 当然、プロの合唱団ではないから、細かく言い出せばきりがないし、指揮者の解釈もあってか、陰影に欠けるというか陽性一本槍的な歌唱ではあったのだけれど、やはり人が集まって歌うことの力、声の力を実感することができたし、「第九」と向き合う真摯さや喜びが全面に表われていたと思う。

 一方、齊藤一郎指揮の京都市交響楽団には、一曲目の『エグモント』序曲を聴いたところで、これはあかんな、それが言い過ぎなら、自分の好みには合わんな、とついつい思ってしまった。
 と、言うのも、一応表側はめらめらと炎が立っているように見えるものの、その実内側はちっとも燃えていないというか、表面的にはエネルギッシュでスタイリッシュな造りなのだけれど、心にぐんと迫ってくるものをほとんど感じることができなかったからである。
 一つには、1階平土間の席だったことや、右隣りの席にやたらとおかしなおっさん(途中、指揮の真似までしていたし)が座っていたことも災いしたのかもしれないが。
 メインの第九に及んでも、音楽がただただ通り過ぎていくというもどかしさを払拭することはできなかった。
(そのおかげで、ベートーヴェンの交響曲第9番がブルックナーの交響曲第9番に及ぼした影響を再確認することができたりはしたけど。例えば、第2楽章とか)
 あくまでも個人的な好みと断った上で、僕が齊藤さんの指揮するコンサートを率先して聴くことは、これからないと思う。

 また、独唱陣についても、僕にはそれほどしっくりこなかった。
 バリトンの三原さんが、立派な歌唱だったと思った程度か。

 いずれにしても、音楽と向き合うということの意味を大きく考えさせられるコンサートだったと思う。
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2009年12月04日

大当たりだったフォーレ4重奏団のティータイムコンサート

 ☆ザ・フェニックスホール ティータイムコンサート74

  演奏:フォーレ4重奏団
  座席:2階AA列12番


 ぶらりひょうたん的な生き方をしている人間には、ぶらりひょうたん的な生き方をしている人間なりの葛藤というものがあって、その最たるものが、年がら年中一日たりとて休むことなく何かを考え続けているということである。
 むろん、考え続けている何かが世のため人のため、どころか自分自身のためにも有意義なものであるかはいたって疑わしいし、ぶらりひょうたん的な生き方を自ら選んだのだもの、我が命尽きるそのときまで何かを考え続けていければ本望だとは思うけれど。
 それに、かっちり定時で仕事をしている方たちと比べてぶらりひょうたん的な生き方をしている人間は、表面的には時間の融通がたっぷりときく。
 特に、平日のお昼過ぎに、人生の春を謳歌する若者たち(これは思ったほどいなかった)や、人生の秋、ではない人生の新たな春を迎えた先達たちに交じって上質な音楽を愉しむことができるのは、ぶらりひょうたん的な生き方をしている人間なればこそだろう。

 で、ドイツ・グラモフォンへのCD録音でも評判の高い、ドイツ出身の若手ピアノ・カルテット、フォーレ4重奏団が、金曜14時開演のザ・フェニックスホールのティータイムコンサートに出演するというので迷わず聴きに行ってきたが、これは当たりも当たり大当たり、足を運んで大正解のコンサートだった。

 まず、ティータイムコンサートだからといって、よくありがちな細切れ名曲プログラムを組むのではなく、マーラーのピアノ4重奏曲断章イ短調、メンデルスゾーンのピアノ4重奏曲第2番ヘ短調、そしてブラームスのピアノ4重奏曲第1番ト短調という至極真っ当で聴き応え充分なプログラミングが嬉しい。

 一曲目のマーラーは、彼がウィーン音楽院在学中、16歳のときに作曲した作品だと公演パンフレットにはあるが、ロマン派の影響が濃厚な、それでいて音型などにのちのマーラーらしさを感じる音楽となっている。
 フォーレ4重奏団は表現のふり幅の大きい演奏で、作品の持つ劇的な性格を巧みに表していたのではないか。
 特に、ラスト近くのヴァイオリン・ソロのあたりには、強く惹きつけられた。

 続く、二曲目のメンデルスゾーンのピアノ4重奏曲第2番も、作曲者の10代半ばに作曲されたものだというが、擬古典的というか、古典派の作曲家たちの強い影響を感じる音楽である。
 この曲では、フォーレ4重奏団は、いわゆるピリオド奏法を意識したレガートやヴィヴラートを抑制したクリアで歯切れのよい演奏を行うとともに、音楽の遊び、というか、作品の持つディヴェルティメント的な性格をよく再現していたように感じた。
 また、ピアノのデュルク・モメルツをはじめとしたアンサンブルのインティメートな雰囲気にも好感が持てた。

 休憩を挟んだ三曲目、お目当てのブラームスのピアノ4重奏曲第1番であるが、これも非常に魅力にあふれた演奏。
 第一に、フォーレ4重奏団のテキストの読み込みの深さ、鋭さを挙げておかねばなるまい。
 例えば、第2楽章の中間部を軽い感じで流したり、逆に第3楽章の行進曲調の部分では、それを強調してみたり。
 そしてなんと言っても圧倒的だったのが、終楽章。
 ジプシー風ロンドという言葉を十二分に意識した激しさと歌いぶり、さらにはパトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』で有名になった哀感たっぷりのメロディを登場するごとに歌い分けるなど、驚嘆させられた。
 と、言っても、フォーレ4重奏団が頭でっかちがちがちごちごちの団体などではないことは、言わずもがなのこと。
 劇的な部分は劇的に、優しく甘やかな部分は優しく甘やかに、結果、僕の心を躍らし僕の心を動かす演奏となっていた。
 大満足。

 満場の拍手に応えて、アンコールはシューマンとフーベルトの『フリー・タンゴ』の二曲。
 前者ではフォーレ4重奏団のアンサンブルの親密さが、後者ではのりのよさが発揮されていたと思う。

 いずれにしても、これにお菓子と飲み物がついて3500円(学生券なら1000円)とは安過ぎる。
 やっぱり、ぶらりひょうたん的な生き方も悪くない!
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2009年09月29日

エリーザ・カルテット京都公演

 ☆エリーザ・カルテット京都公演

  会場:京都コンサートホール小ホール(アンサンブルホールムラタ)
  座席:1階3列11番、4列11番(モーツァルト以降)


 ただより高いものはない!
 は、世の格言。
 ただより安いものはない!
 が、中瀬宏之の格言。
 と、言うわけではないけれど、京都イベントなびという文化芸術関係のサイトで招待券をゲットした、エリーザ・カルテットの京都公演を聴きに、京都コンサートホールまで行って来た。
(よくよく考えたら、小ホールのほうで音楽を聴くのは、約10年ぶりじゃないのかな?)

 エリーザ・カルテットは、イタリア出身の音楽家によって結成された弦楽4重奏団で、公演パンフレットによれば、第1ヴァイオリンのドゥッチョ・ベルッフィは現在ミラノ・スカラ座管弦楽団に所属しているという。

 一曲目、プッチーニの『菊の花』は、そうしたエリーザ・カルテットの名刺代わりというか、彼らの演奏の歌唱性やインティメートな雰囲気が巧く表われていたと思う。
(隣に座ったおばはんの革製のバッグがぎゅっぎゅぎゅっぎゅとわずらわしいので、この曲の演奏が終わったあと、一列後ろに移動する)

 続く、モーツァルトの弦楽4重奏曲第20番は、いわゆる「ハイドン・セット」と「プロシア王セット」に挟まれた作品で、出版社の名前から「ホフマイスター」と呼ばれることもある。
 知名度はそれほど高くないけれど、実にチャーミングな表情の音楽であり、特に第1楽章は何度繰り返し聴いても聴き飽きない。
 ところどころ、エリーザ・カルテットの個々の奏者の技術的な弱さを感じたりもしたが、第3楽章では、たっぷりと歌い込む彼らの特質がよく発揮されていたようにも感じた。

 休憩後のハイドンの弦楽4重奏曲第39番「鳥」(第1楽章に、鳥の囀りを思わせる旋律があるため)でも、モーツァルトと同様の印象を僕は受けた。
 技術的な面だけでいえば、当然不満も残るのだが、やはりその陽性で明るい歌い口と親密感に満ちたアンサンブルには好感を抱く。
 中でも、終楽章が聴いていて愉しかった。

 そして、アンコールは、ヴェルディの弦楽4重奏曲からアンダンティーノ、ボッケリーニの弦楽4重奏曲作品番号6−1からアレグロ、プッチーニの弦楽4重奏曲からスケルツォの3曲。
 まさしく美事(みごと)なドルチェだった。

 全体的にみて(聴いて)、心が激しく動かされることはなかったけれど、音楽を聴く心地よさを味わうことはできた。
 やっぱり、ただより安いものはない!
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2009年09月05日

京都市交響楽団第528回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第528回定期演奏会

  指揮:山下 一史
  独奏:田村  響(ピアノ)
  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P4列18番(休憩前)
     2階R2列01番(休憩後)


 劇音楽『マンフレッド』序曲、ピアノ協奏曲、そして大好きな交響曲第2番というオール・シューマン・プログラムが興味深く、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第528回定期演奏会を聴きに行って来た。

 指揮は、現在仙台フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める山下一史。
 2001年7月の大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスでのモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』公演以来だから、山下一史の実演に接するのは約8年ぶりということになる。
 山下さんの指揮では他に、1988年9月の関西フィルハーモニー管弦楽団の第69回定期演奏会、1990年4月の京都市交響楽団第323回定期演奏会、1996年2月の大阪センチュリー交響楽団第33回定期演奏会も聴いているが、大まかに言って、師匠のカラヤン譲りでもあるだろう、整っていて分厚い響きのするシンフォニックな音楽の創り手であるとともに、活力に満ちてエネルギッシュで躍動感あふれた(ときに「それいけどんどん」的)演奏を生み出す指揮者というのが、僕の印象である。

 で、どこか中村勘三郎を思い出させる山下さんのプレトークのあとは、一曲目の『マンフレッド』序曲。
 先述した山下一史の性質のうち、「整っていて分厚い響き」云々が前面に出た演奏だったように思う。
 僕自身は、第1ヴァイオリンの繊細な響きが強く印象に残った。

 続いては、ロン・ティボー国際コンクールのピアノ部門で1位を受賞した田村響をソロに迎えた、ピアノ協奏曲。
 田村さんは、非常にしっとりとして柔らか、一音一音を丁寧に弾き込むピアニストのようで、特に第2楽章でその特性がよく発揮されていたのではないか。
 逆に、これは個人の好みの問題だけど、両端楽章ではもうあとほんのちょっとテンポを速めてもらえればなあと感じたことも事実である。
(テンポ感という意味では、田村さんと指揮者の山下さんの本来の好みの間にちょっと開きがあるように聴き受けられた。それと、強奏部分では、オーケストラに若干、リズム的な「もっささ」を感じてしまったことも付け加えておきたい。これは、曲そのものの問題かもしれないが)
 なお、アンコールのショパンの小犬のワルツでちょっとしたミスがあったのだけれど、それが人間的というか、個人的には好感を抱いた。

 休憩を挟んで、メインの交響曲第2番は、山下一史の熱血漢ぶりが全開となった演奏。
 第1楽章や第2楽章は、山下さんの「それいけどんどん」性が功を奏して、作品の前のめり感、わけわからんちん切迫感が巧く表われていたように思う。
 一方、第3楽章や第4楽章では、その明解で陽性な解釈のせいで、この交響曲が持つかげりや影のようなものが浮き出てこないもどかしさを覚えたりもした。
 いずれにしても、よい意味でも悪い意味でも「健康的」なシューマンの交響曲第2番だったと評することができるだろう。
(あと、ところどころでオーケストラに粗さを感じたりもした。それで全体の印象が変わってしまうようなことはなかったが)
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2009年07月31日

小澤征爾音楽塾コンサート

 ☆小澤征爾音楽塾コンサート 〜若き塾生たちの協演〜

  指揮:Huang Yi、齋藤友香理、三ツ橋敬子、Yu Lu
  独唱:藤谷佳奈枝、清水華澄、浅井美保
 管弦楽:小澤征爾音楽塾オーケストラ

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:3階LC−2列2番


 恩師斎藤秀雄譲りのものだろうか、それとも生来のものだろうか、1994年に発行されたONTOMO MOOK『小澤征爾NOW』を捲っていてもそう思うが、小澤征爾という人は、後継者の育成に対して驚くほどの熱意を傾けている。
 母校桐朋学園の後輩たちへの積極的な指導もそうだし、若い音楽家たちにオペラの演奏を経験させようと2000年からスタートさせた「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」などその最たる表われの一つだといえる。
 現在のヨーロッパにおける演奏解釈の潮流から考えれば、その選曲や演奏スタイルには若干の疑問を僕は感じないでもないのだけれど、小澤征爾の強い熱意そのもには疑うべき点はないとも感じている。

 で、今日は体調不良から海外でのコンサートをキャンセルしたと報じられた小澤征爾が、無理を押して肝入りを果たすという「小澤征爾音楽塾コンサート 〜若き塾生たちの協演〜」を、京都コンサートホールまで聴きに行って来た。
 個人的には、齋藤友香理と三ツ橋敬子(昨年、アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクール優勝)という二人の新進気鋭の指揮者の指揮ぶりを目にし耳にしておきたいという心づもりもあってのことだったのだが、ホールに入ってぜいたくなつくりの公演プログラム(さすがはローム協賛!)を開いて驚いた。
 なんと、中国からやって来たHuang Yi(黄と、山へんに乞)、Yu Lu(兪と、さんずいへんに路)の二人が加わって、もともとの演奏曲目、フンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』のハイライトと、ベートーヴェンの交響曲第5番を四人で振り分けるというのである。
 ありゃりゃりゃりゃ。
 こちらは齋藤さんの「ヘングレ」と三ツ橋さんの「運命」を愉しみにしてきたのに、なんだいこりゃ。
 いくら小澤征爾が満洲の地で生れ、父開作氏の志を受け継ぐ人物であることは承知していても、突然のこの変更(てか、割り込み)はあんまりじゃないか。
 と、言っても、何も僕は反中や嫌中を決め込みたいわけではない。
 せっかくのコンサートなんだから、一人一人、きちんと何か一曲ずつでも振らせりゃいいだろうに、と思ってしまったのである。
 例えば、フンパーディンクつながりでいえば、ワーグナーの序曲や前奏曲(10分〜15分の曲。ジークフリート牧歌もあるな)をそれぞれ振らせるなんて、小澤征爾音楽塾の趣旨にもけっこう適ってるんじゃないのかな。
 まあ、休憩明けの小澤さんのべしゃりの達者さに、「運命」の四人まわし、じゃない四人振り分けもそれほど気にならなくなったけどね。
(そういえば、コンサートの作法に慣れぬオケや指揮者の面々に出はけの合図を客席から送っていた小澤さんが面白かった。やっぱり小澤さんは面倒見がいいなあ)

 プログラムの前半は、『ヘンゼルとグレーテル』から序曲(Huang Yi)、第1幕のヘンゼルとグレーテルのかけあい並びに前奏曲(齋藤友香理)、魔女の登場と、ヘンゼルとグレーテルが魔女を退治するあたり(三ツ橋敬子)が演奏されたが、ここでは歌い手たちも加わった、齋藤さんと三ツ橋さんの分が実に愉しい聴きものになっていた。
 特に、齋藤さんや三ツ橋さんの細かい表情づけに加え、ヘンゼルの清水華澄とグレーテルの藤谷佳奈枝の澄んで伸びと張り(声量)のある美声もあって、『ヘンゼルとグレーテル』がワーグナーにどれほど影響を受けた作品であるかがよくわかったのは、大きな収穫であった。
 兄と妹の二重唱なんて、まさしく…。
 また、魔女の浅井美保もコメディエンヌぶりをいかんなく発揮していて愉快痛快。
(余談だけど、15年ほど前のケルン滞在中、このオペラをケルンの歌劇場で観たと、現地のある人=ユダヤ系にあらずに話したところ、「あんなけったくその悪い話…」としかめ面されたことがあったっけ。その気持ちもわからないではない)

 後半は上述のごとく、「運命」の四人まわし、じゃない四人振り分け。
 第1楽章は、Huang Yiと三ツ橋敬子の計2回。
 三ツ橋さんのシャープでぎゅっと引き締まった感じの演奏に対し、Huangさんは昔の巨匠風というか、少し粘った感じのする演奏。
 第2楽章は齋藤友香理の指揮で、音の輪郭を明確に表わす丹念な音楽づくりだったが、しめの部分がところどころ甘いような気もしないではなかった。
 第3、第4の両楽章を受け持った、バレーボールの選手のように長身のYu Luは「体は演奏を表わす」とでも言いたくなるような、大柄で力強い指揮ぶりで、その分肌理の粗さはありつつも、大男総身に知恵はまわりかね式のもっさい演奏にはなっていなかった。

 学生主体の小澤征爾音楽塾オーケストラは、プロのオーケストラのような機能性には欠けるものの、若い指揮者たちによく添った、真摯な演奏を行っていたと思う。
(指揮者が変わるたび、ファーストとセカンドのヴァイオリンをはじめ、パートごとに楽員が場所を交替していた点も、コンサートの趣旨を考えれば大いに納得がいった)

 それにしても、できることなら小澤さんの指揮で何か一曲聴きたかったなあ。
 無理を承知で言えば。
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2009年07月24日

京都市交響楽団第526回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第526回定期演奏会

  指揮:大野 和士
  座席:3階 RB−1列5番


 大野和士という指揮者の実演に接したのは、1990年11月の関西二期会の公演が初めてだった。
 出し物は、ヴェルディの初期の傑作『リゴレット』で、伴奏の京都市交響楽団の音の日頃の演奏との大きな違いによい意味で驚くとともに、大野さんのテキストの読み込みの深さと音楽的な集中力の高さから、なみなみならぬ才能を強く感じたことを未だに記憶している。
 それから約20年。
 その大野和士が初めて京都市交響楽団の定期演奏会の指揮台に立つということで、喜び勇んで京都コンサートホールまで足を運んだ。
(なお、この間、2006年7月の大阪フィルの第400回定期演奏会で大野さんの指揮に触れて大いに満足したことは、かつて別のブログにも記したところである)

 まず、開演20分前からのプレトークでは、先日亡くなった若杉弘の追悼のためにバッハの管弦楽組曲第3番からアリアが演奏されることが伝えられ、大野さんと若杉さんとのかつてのエピソードが語られたほか、今回演奏されるラヴェルやショスタコーヴィチの演奏のツボについて簡にして要を得た解説が行われていた。
 特に、ショスタコーヴィチの交響曲第5番がらみで、自身のミラノ・スカラ座デビューを飾った歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』や、第9番までの一連の交響曲との関係性を的確に説明していた点が、個人的に興味深かった。

 さて、追悼にも関わらず拍手の起こったバッハのアリアののちに、本来のプログラムの一曲目であるラヴェルの『ラ・ヴァルス』が演奏されたが、この『ラ・ヴァルス』から、僕は大野和士と京都市交響楽団の演奏に心をぐっとつかまれてしまった。
 と、言うのも、ウィンナ・ワルツのパロディであり、それへのオマージュであり、さらには時代の反映でもあるこの曲の性格を明確に描き上げるとともに、音量の適切さ、強弱のバランス感覚という意味でも、大野さんと京響は優れた演奏を行っていたからである。

 続く二曲目、同じラヴェルの組曲『マ・メール・ロワ』は、一転して小編成での演奏となったが、大野和士と京都市交響楽団は、端正でコントロールのとれた演奏を重ねながら、作品の持つ幻想的な性格や繊細で洗練された雰囲気を見事に表現し切っていたと思う。

 そして、メインのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、これはもう、圧倒的な名演と評したくなるような素晴らしい演奏だった。
 ショスタコーヴィチのこの交響曲に関しては、これまで様々な解説や解釈が為されてきたが、大野さんはテキストを徹底的に読み込むことで、作品に潜む暴力性や諧謔性、恐怖の感情や痛切な感情、同時代性、「共通感覚」といった様々な性質を、過不足なく語り尽くしていたと言っても誤りではないだろう。
 また、ここで忘れてならないことは、そうした表現が分裂したものとして過剰に行われるのではなく、一つの線、一つの音のドラマとしてまとまりを持って行われていたということである。
 正直、音楽を聴いているだけで身体中が汗ばんでくるほどの求心力を持った演奏だった。
 中でも、第3楽章の真摯さと美しさには強く心を動かされた。
(この第3楽章のあとに来る第4楽章の、なんと嘘臭いこと! 大野和士はそのことをしっかりと演奏で示していた)

 今や世界的に活躍の場を拡げている大野さんのことゆえ、実は、京都市交響楽団の指揮台に立つのはこれが最後ではないのかとふと思ったりもするが、それはそれとして、本当に足を運んでよかったと記すことのできる素晴らしいコンサートだった。
 心から満足がいった。
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2009年06月27日

音楽的な、あまりに音楽的な  タカーチ・カルテット大阪公演

 ☆タカーチ・カルテット大阪公演

  会場:いずみホール
  座席:1階T列17番(招待)


 大阪のいずみホールまで、タカーチ(タカーチュ)・カルテットの来日公演を聴きに行って来た。
 だめもとで住友生命に送ったハガキが当たって招待券を手に入れることが出来たからだが、演奏のほうも、ハガキ同様当たりも当たり、大当たりだったと思う。

 プログラムは、ハイドンの弦楽4重奏曲第82番「雲がゆくまで待とう」、バルトークの弦楽4重奏曲第2番、モーツァルトの弦楽4重奏曲第21番「プロシア王第1番」の3曲。
 ハイドンは没後200年のメモリアル・イヤー、バルトークはお国もの(ただし、もともとブダペストのリスト音楽院出身者で結成されたタカーチ・カルテットも、今ではメンバーが入れ換わり、第1ヴァイオリンとヴィオラはイギリス人とアメリカ人が各々担当しているが)ということからの選曲だろうが、ハイドンやモーツァルトは、彼らが作曲した弦楽4重奏曲の中ではいわゆる超有名な作品ではないし、バルトークだって、それほど聴きやすい(弾きやすい)作品とはもちろん言えない。
 つまるところ、一筋縄ではいかないプログラミングであり、なおかつタカーチ・カルテットの自信のあらわれととらえてもまず間違いはないだろう。

 実際、タカーチ・カルテットは全ての作品において、彼彼女らの実力を十二分に発揮していたのではないか。
 これ見よがし、ならぬこれ聴きよがし的にばりばりばりばりと弾きこなすわけではないから、一聴したかぎりではわかりにくいかもしれないが、そのアンサンブルの密度の濃さ、きめの細かさはやはり並のものではあるまい。
 特に、バルトークの第2楽章における緊張感に満ちた音の重なり合いに、僕は強く惹きつけられた。
(これは全体にわたって言えることだけど、タカーチ・カルテットの演奏を聴いて、パウゼ=休止、休み、間もまた音楽なのだと改めて感じることができた。その意味で今晩のお客さんは少し…)
 また、ハイドンやモーツァルトでは、アンサンブルが紡ぎ出すインティメートな雰囲気に魅了された。
 加えて、旋律が過剰にはならぬほどに、しかししっかりと歌われることによって、その美しさが巧みに示されていたとも感じた。
 そして、忘れてはならないのがアンコールのベートーヴェンの弦楽4重奏曲第9番「ラズモフスキー第3番」の終楽章。
 うちらにゃベートーヴェンもありまっせ!
 とでも言いたいかのような熱のこもった演奏で、圧倒されてしまった。

 いずれにしても、非常に「音楽的」でとても愉しいコンサートだった。
 大満足!
 どころか、大々満足!!
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2009年03月31日

オーケストラの日、京フィル室内合奏団のリハーサルを聴く

 外出時、何気なく京都文化博物館に寄ったところ、別館ホールで何やら楽士たちがリハーサルをやっている。
 あっ、そうか。
 はたと思い出した。
 今日3月31日はオーケストラの日、ここ京都文化博物館の別館ホールでも、京都フィル室内合奏団のメンバーによるコンサートが開催されるんだった。
 舞台には、ヴァイオリン、コントラバス、ホルン、ファゴット、クラリネットの面々が並び、コントラバス奏者の男性が、ここはこうこうあそこはああああと、てきぱきだんどりをつけている。
 で、「死刑の…」というコントラバス氏の言葉でなんの曲だかぴんときた。
 リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の室内合奏版『もう一人のティル・オイレンシュピーゲル』だ。
 細・れ、中断中断でもかまわないから音を鳴らしてくれないかなあと待っていると、案の定、あの「昔々…」という旋律が流れ出し、なんとそのまま通しでやってくれた!
 ブラボー!!
 まあ、元来の交響詩に比べて音が細いのは仕方のないこと。
 反面、リヒャルト・シュトラウスがメロディストとしても優れていたことが再確認できたのは、リヒャルト・シュトラウシアンとしては嬉しく愉しいことだった。
 演奏もヴァイオリンの女性をはじめ、なかなかのものではなかったか。
 きっと本番ではいい仕上がりを見せる(聴かせる)だろうと思う。
(ただ、個人的には「死刑執行」直前の、たあたあたあたあたあーたたの部分がちょっと卒く聴こえてしまったことは記しておきたい。これは「編成」の問題ではなく、「解釈」の問題だろうから)
 それと、とても腹立たしかったのは、演奏が終わる少し前、アジア系とおぼしきカップルを引き連れた観光コーディネーターかタクシーの運転手かのおっさんが、大きな声でがなり始めたこと。
 こういう人物には、当然のことながら「練習中につきお静かに」という注意書きも目に入らない。
 それで、相手の顔を見据えて「しっ」と音を立てたが、そんなことなどどこ吹く風。
 カップルのほうがすまなさそうな顔をする始末。
 縁なき衆生は度し難し。
 死して屍拾う者なし、じゃない、死もまた社会奉仕と痛感した次第。
 それにしても、やっぱり生の音楽っていいもんですねえ!
(「だったら、コンサートも聴けよ!」、と呼ぶ声あり。返す言葉もない…)
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2008年09月14日

京都市交響楽団 京都の秋音楽祭開会記念コンサート

 ☆京都の秋音楽祭開会記念コンサート

   指揮:広上 淳一
   独奏:木嶋 真優(ヴァイオリン)
  管弦楽:京都市交響楽団

   座席:2階 L−3列44番


 京都市北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の京都の秋音楽祭開会記念コンサートを聴きに行って来た。
 指揮は京都市交響楽団の現常任指揮者広上淳一、ヴァイオリン独奏は木嶋真優で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、交響曲第5番、弦楽セレナードの第3楽章・エレジーの3曲が演奏された。
(なお、今回のコンサートは応募していた招待券が当たったので無料で聴くことが出来た。ラッキー!)

 一曲目のヴァイオリン協奏曲では、第1楽章終了後、会場から大きめな拍手が起こっていたが、残念ながら個人的にはそこまでするほどの演奏には思えなかった。
 現在ケルン音楽大学在学中という木嶋真優は、ウラディーミル・アシュケナージ指揮NHK交響楽団とラヴェルのツィガーヌを録音するなど、若き逸材として国内外で評価されているとのことで、実際僕も、2002年の第11回ABCフレッシュコンサートでその実演に触れて、彼女の清新な演奏には感嘆した覚えもあるのだが。
 いや、確かに木嶋さんの技術的な高度さを求める意志と音楽を歌おうとする意欲は感じ取れない訳ではない。
 中でも、第2楽章など、彼女の美質がよく表れていたとは思う。
 ただ、そうした意欲や意志が自らの内面の発露と言うよりも、誰かに与えられた歌を歌っているという風に感じられてしまったことも事実なのだ。
 たぶん、技術面での傷よりもそこのところのほうが僕には気になって仕方なかった。
(無理から喩えると、彼女と同じ年齢の頃の広末涼子の演技を観ている感じとでもなるか。違うかな?)
 それと、これは僕の受け取り方の問題かもしれないが、正直、木嶋さんのステージマナーには全く感心しない。
 カデンツァの始まりで首を捻ったことはひとまず置くにせよ、「三流」芸人のようにいつもかつもにやにやにたにたしろとまでは言わないが、彼女の周囲はその点についてしっかり注意すべきではないのか。
 僕がケルン滞在中に接した、トーマス・ツェートマイヤーやギル・シャハム、ワディム・レーピンといったひとかどのヴァイオリニストたちは、個性の違いは当然ありつつも、ステージマナーという一点ではなべて見事だったということを付記しておきたい。
 一方、広上淳一指揮の京都市交響楽団は、「鳴かぬなら俺たち鳴こうほととぎす」の勢いの伴奏で、特に終楽章、管楽器が民謡調の旋律を奏でるあたりから激しい幕切れまでの盛り上がりが強く印象に残った。

 休憩後の交響曲第5番は、広上淳一の指揮者としての能力が最大限に発揮された演奏で、この作品の持つ様々な魅力がエネルギッシュでドラマティックに、なおかつ適確なコントロールの下に描き尽くされていたのではないか。
 両端楽章はもちろんのこと、第2楽章や第3楽章のワルツにいたるまで、僕はたっぷりと愉しむことができた。
 最高のコンディションとは言えない中で、京響も広上さんの音楽づくりに十二分に応えていたと思う。
 大満足。

 アンコールも、できれば弦楽セレナード全曲を聴きたいと思えるほどの表現力豊かな演奏で、京都市交響楽団の弦楽器陣の魅力がよく伝わってきた。

 広上&京響コンビによるコンサートをもっともっと聴きたいものだ。
 その意味で、来シーズンのラインナップの発表がとても待遠しい。
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2008年09月04日

京都市交響楽団第516回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第516回定期演奏会

  指揮:井上 道義

  座席:2階  P1列8番(休憩前)
     3階 LB1列6番(休憩後)



 京都市北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第516回定期演奏会を聴きに行って来た。
 かつて音楽監督兼常任指揮者をつとめた井上道義の指揮で、モーツァルトのアダージョとロンド、クセナキスのノモス・ガンマ、ホルストの組曲『惑星』の3曲が演奏されたが、実は今から18年前の1990年7月27日、指揮者・プログラムともそのまま同じという演奏会が第326回定期演奏会(井上道義の就任披露演奏会でもあった)として開催されている。
(僕も、その18年前のコンサートを聴いているのだが、当時の演奏会場の京都会館の音響の劣悪さと、『惑星』の終曲で女声コーラスが2階の後方に立って「ああああ、ああああ」やっていた程度の記憶しか残っていない)

 一曲目のモーツァルトは、もともとグラスハーモニカのために作曲された作品だが、前回と同じく井上道義がチェレスタを弾き、清水信貴(フルート)、高山郁子(オーボエ)、柳生厚彦(ヴィオラ)、中西雅音(チェロ)という京響メンバーがアンサンブルを組んでいた。
 お客さんのくしゃみや咳が少々気になったが、モーツァルトの音楽の持つ哀しさと愛らしさ、優しさがよく表れた作品であり、演奏だったと思う。

 続く、クセナキスのノモス・ガンマは一転していわゆる現代音楽作品。
 舞台後方に張り巡らされた打楽器陣による「連射」や、通常とは異なる場所にばらばらに(本当はそうじゃないけど)配置された各楽器の断末魔の如き「悲鳴」「叫び声」、そして音響的爆発といった内容のすさまじい音楽で、一見(聴)殴り書き風な音楽づくりを行い、パフォーマンスが大好きな井上道義という指揮者にとっては恰好の作品だったのではないか。
(一方で、モーツァルトの音楽と通底する「何か」を感じ取ったことも事実だけれど)
 今日この曲を聴いていて、徐々に18年前の演奏を思い出していったのだけれど、単に技術的にどうこうというだけでなく、あの時に比べて今回は、より積極性の感じられる演奏に仕上がっていたのではないだろうか。

 休憩後のホルストの『惑星』も、最近の京都市交響楽団の充実具合が十二分に発揮された演奏となっていた。
 コンサートプログラムにおける中原昭哉の楽曲解説の素っ気なさにはどうにも悲しくなってしまったが、ホルストの『惑星』は、明らかに第一次世界大戦の予兆・危機意識の産物であり、クセナキスのノモス・ガンマ同様、「同時代性」が全面に押し出された作品である。
 ただ、井上道義はことさら作品の持つそうした「社会性」、もしくは「神秘性」のみに拘泥するのではなく、よい意味で音楽的というか、『惑星』という作品の持つ音楽的魅力、音楽のツボを押さえた音楽づくりを行っていたように、僕は感じた。
 そのため、「火星」ではあまりにもかっこよく鳴りすぎて『スター・ウォーズ』の音楽をついつい思い起こさせてしまったり、『惑星』が同時代の自国や他国の作曲家の作品の強い影響のもとに作曲された作品であることを明らかにしてしまっていたりもしたのだけれど。
(『惑星』が、第一次世界大戦の予兆・危機意識の産物であり、「同時代性」を全面に押し出した作品であるのであれば、意識して無意識でかはひとまず置くとして、結果的に同時代の作曲家の作品と密接な関係を持つことは必然であるのかもしれない)
 京響は、管楽器をはじめとした個々のソロも見事だったし、アンサンブルとしてもパワフルでドラマティック、なおかつ機能性に富んだ演奏を行っていた。
(18年前と同じく、女声コーラスには、ちょっとぴんとこないものもあったが、これはまあ仕方あるまい)

 それにしても、18年という歳月の長さを今日は痛感した。
 そして、いろいろと問題はありつつも、京都に住むクラシック音楽愛好家にとって、京都市交響楽団と京都コンサートホールが存在することの重みもまた今日は痛感した。
 いずれにしても、本当に足を運んでよかったと思えるコンサートだった。
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