2014年04月05日

蟹江敬三を悼む

★蟹江敬三を悼む

 昭和の世代論の快作、坪内祐三の『昭和の子供だ君たちも』<新潮社>を読んだばかりなせいか、3月30日に胃癌のために亡くなっていた蟹江敬三の生年月日(1944年10月28日)を確認して、ああこの人もまた時代を象徴するような生き方をしていたのだなあと改めて痛感した。

 蟹江さんは東京都の出身で、都立新宿高校卒業後、劇団青俳に入団し本格的な演劇活動を始めたが(当時の新宿高校は超進学校の一つで、蟹江さんが大学に進学せずに青俳を選んだ点も実に興味深い)、その青俳で出会った演出家の蜷川幸雄や俳優の石橋蓮司とともに青俳を脱退し、現代人劇場を結成する。
 青俳では適わなかった、清水邦夫(そういえば、夫人の松本典子も亡くなったばかりだ)の戯曲『真情あふるる軽薄さ』を蜷川演出で上演することがその大きな理由ではあったのだけれど、そこに固定化された劇団運営に対する強い反発があったこともまた当然の事実だろう。
 そして、その『真情あふるる軽薄さ』で、蟹江さんは反抗精神もあらわな、真情あふれる軽薄さを持ち、結果権力によって圧殺される青年を好演した。
 以降、現代人劇場から櫻社と劇団組織は変わりつつも、蟹江さんは清水邦夫と蜷川幸雄の過激で痛切な政治劇で重要な役割を果たし続けたが、政治の時代の終焉(蜷川幸雄の商業演劇での活動開始が表面的な要因とされているが)とともに、櫻社は解散してしまった。

 と、見て来たように記してはいるが、こういった諸々については、扇田昭彦の名著『日本の現代演劇』<岩波新書>の第一章「4 闘う叙情」や、その頃の実際の舞台に接していたある人(彼は、正統派左翼=日本共産党ってこと、に籍を置いていた人で、彼彼女らの「活動」には否定的な見解を示していた)の昔話といったあとづけの知識によるものだ。

 物心ついた僕にとって蟹江敬三といえば、ブラウン管やスクリーンの中での、あの陰湿でぬめっとして凶暴で、それでいてどこか滑稽で、でも心身ともに怒りや憤り、狂気をためたような姿が強烈に印象に残っている。
 野村芳太郎監督の『鬼畜』(ラストの緒形拳だけでも必見の邪劇)でのなんとも胡散臭い男だとか、勝新太郎の『御用牙』シリーズでの情けない役回り(早世した草野大悟とのコンビ。勝新は、こういった当時の若手演劇人を巧く起用している)だとかも忘れられないけど、もっとも怖さを感じたのは、『Gメン75』で若林豪(CXのドラマで復活)と島かおり(可憐な人だったが、『キッズ・ウォー』ではどこかネジの外れた姑役を熱演していた)を執拗に追い詰める殺人鬼、望月源治だった。
 これはドラマだ、フィクションだとわかっているからこそ、この人は凄いなと子供心に感嘆し感心したものである。

 その後、時代の変化や年齢を重ねたこともあってか、蟹江さんは、そうした人間の負の部分は残しながらも、人柄の善さやおかかなしさ、がさつさを装っているがその実非常にナイーブで神経質な感じを押し出し、さらに幅広い役柄を演じるようになっていく。
 中でも、演劇的な経験という蟹江さん本人の人生と、盗賊から密偵への「転向」という演じる役柄の人生とが密接に重なり合う『鬼平犯科帳』の小房の粂八は、蟹江敬三を代表する当たり役の一つと言っても過言ではあるまい。

 それにしても、現代人劇場や櫻社はもちろんのこと、竹下景子、成田三樹夫、嶋田久作という物凄い顔触れが揃った『ハロルド・ピンター・コレクション』(小田島雄志の『舞台人スナップショット』<朝日文庫>の竹下景子の章をご参照のほど)、あの風船おじさんを演じた一人芝居『風船おじさん』(山崎哲作)と、蟹江さんの生の舞台に接することができなかったのは、悔やんでも悔やみきれない。

 なお、長女(栗田桃子)、長男(蟹江一平)ともに、演劇活動を行っている。

 深く、深く、深く、深く黙祷。

 そうそう、蟹江さんの声の良さを知るという意味で、三島由紀夫の『真夏の死』の朗読を挙げておきたい。
 読みの端整さも見事だけれど、蟹江さんの繊細さを透かし聴くことができるような点でも聴いて損のない朗読だ。
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2014年03月20日

中瀬宏之と『父のこころ』を観る会

 昨年、中瀬宏之が制作応援として現場に参加した(エキストラとしてワンシーン出演もしています。中瀬を探せ!)、谷口正晃監督の『父のこころ』の公開が、3月22日より京都は京都シネマ、大阪は十三の第七藝術劇場で始まります。

 で、それを記念して、公開第一週の26日(水)、27日(木)、28日(金)の連日、京都シネマで「中瀬宏之と『父のこころ』を観る会」を開催します。
 なお、上映開始は17時15分。
 平日の夕方ということで、お忙しいこととは存じますが、ご高察いただければ幸いです。

 前売券(1300円)も扱っておりますので、ご興味ご関心がおありの方は、中瀬のほうまでご一報くださいませ。
 なお、26日は映画ファンデーで、入場料金1000円!

 皆様のご高覧、心よりお待ちしております。
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2014年01月17日

めし

☆めし(1951年、東宝、モノクロ)

 監督:成瀬巳喜男
 原作:林芙美子
 脚色:井手俊郎、田中澄江
 美術:中古智
 音楽:早坂文雄
(2014年1月17日18時半上映の回、京都文化博物館フィルムシアター)


 久しぶりに成瀬巳喜男監督の『めし』を観たが、やっぱり面白かったなあ。

 大阪に暮らす初之輔と三千代夫妻のもとに、家出をした初之輔の姪里子が急にやって来る。
 日々の生活に倦んでいた三千代は、初之輔と三千代の親密な姿が引き金となって…。
 と、『めし』は、林芙美子の未完の小説を井手俊郎と田中澄江が脚色し成瀬巳喜男が監督したもので、原節子演じる三千代の疲れ切った日常と感情の嵐や当時の女性の置かれた状況、男の情けなさ、狡さが、ときに滑稽さを交えながら丹念に描かれていく。
(って、実はこの『めし』へのオマージュとして、僕はある作品のシナリオを書いたんだけど、成瀬さんの世界観の再現は、とても難しかったんだよね。技芸においても、精神においても)

 小津作品とは対照的なやつれてヒステリックにもなる原節子や、しょたくたびれた初之輔役の上原謙はじめ、杉村春子、島崎雪子、二本柳寛、小林桂樹、杉葉子(大好きな女優さん)、中北千枝子、花井蘭子、進藤英太郎、滝花久子、浦辺粂子、大泉滉、長岡輝子、山村聰、田中春男といった役者陣も役柄によく沿った演技を行っている。
 また、中古智の美術には、いつもながら目を見張らされる。
 なお、今回は特集「生誕100周年記念 早坂文雄の映画音楽世界」の一環としての上映だが、若干甘やか過ぎるというか、早坂文雄はオーソドックスな音楽をつけているのではないか。

 いずれにしても、一見の価値ある作品だと思う。
 ああ、面白かった!
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2014年01月16日

少女は自転車に乗って

☆少女は自転車に乗って WADJDA(2012年、サウジアラビア・ドイツ)

 監督・脚本:ハイファ・アル=マンスール
(2014年1月16日、京都シネマ・1、13時10分上映の回)


 とても明快な作品だ。

 どうしても自転車の欲しい10歳の少女ワジダがあの手この手を使って奮戦努力する…。
 どうして彼女が自転車を欲しくなったのかも、どんなに彼女が自転車を手に入れることが難しいかも、どれだけ彼女が変わらないものに対して抗っているかも、手に取るようにわかる。
 そしてそうしたあれこれがこれ見よがしの説教なんかじゃなくて、シンプルだけど安易じゃないストーリーだとか、コーランの引用だとか、映画的映像的暗喩(簡単に言うと、「絵」を通して伝えたいことを巧く伝えるってこと)だとかで表現されているのもよい。
 物語の背景というか、家庭環境など主人公が置かれた状況にはさらに考えることもあったりして(それは、いわゆる欧米ではない地域の政治的社会的変革を誰が担うかってことともつながってくる。当然、僕たちにも無関係じゃない)、観てよかったと思える一本であることも確かだ。
 主人公の少女を演じたワアド・ムハンマドはじめ、役者陣も役柄にぴったりで好演。

 今の世の中に暗澹たる気分となっている人にこそお薦めしたい。
 ああ、面白かった!

 そうそう、邦題もシンプルだけど、原題はワジダとさらにシンプルである。
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2014年01月11日

生きる

☆生きる(1952年、東宝、モノクロ)

 監督・脚本:黒澤明
 脚本:橋本忍、小国英雄
 音楽:早坂文雄
(2014年1月11日17時上映の回、京都文化博物館フィルムシアター)


 京都文化博物館で『生きる』を観るのは今回で三度目だが、いやあ何度観てもこの作品は面白いなあ。
 冒頭、『ゴンドラの唄』を引用したテーマ音楽が流れ出しただけで、ぐっとスクリーンにひき込まれてしまう。
 官僚主義への批判や親子間、世代間の断絶、そして何より、いかに生きていかに死ぬかという大きな命題が、胃癌のために余命僅かとなった市役所の市民課長渡辺勘治と彼を取りまく人々のあれやこれやを通してくっきりと描かれていく。
 むろん、そうしたあれやこれやが道徳の教科書風にしんねりむっつりと語られるのではなく、ストーリーの跳躍といった映画的趣向や表現主義の影響、渡辺と善意のメフィストフェレスを自認する作家(伊藤雄之助)との通俗的で邪劇的なめくるめく彷徨、さらには乾いた滑稽さ(左卜全や小堀誠がコメディリリーフの役割を果たしている)等々が盛り込まれているからこそ、大きなテーマがよりひき立ってくるのだろうけれど。

 今回は、特集「生誕100年記念 早坂文雄の映画音楽世界」の一環としての上映だが、上述した『ゴンドラの唄』の使用とともに、黒澤明と早坂文雄ならではの「対位法」(シリアスな場面に陽性の音楽をあえてつける。例として、『酔いどれ天使』での「カッコウワルツ」が挙げられる)の素晴らしさを指摘しておかなければなるまい。
 市役所の元部下(小田切みき。表情がとてもいい)に渡辺が自分が胃癌で残された命が短いことを告白する場面でのイェッセルの『おもちゃの兵隊の行進』(この曲を速く回転させたものが、キューピー3分クッキングのテーマ曲)と、渡辺が生きることの意味を気づいたそのときに重なる『ハッピーバースデー』(再生)は、映像と音楽の相乗作用の白眉の一つだと思う。

 渡辺勘治を演じた志村喬はもちろんのこと、脇役端役に到るまで作品によく沿った演技を繰り広げていて観るたびに感心感嘆するばかり。
(一人だけとり上げると、はじめてテレビでこの作品を観たとき、警官役の千葉一郎のことを「この人、ほんと下手だなあ」と思ったのだけれど、この人の訥々とした善良で真摯な感じがあの場面でとても大切だったのだと今では痛感している。新聞記者を演じている永井智雄では、この役はやっぱり駄目なのだ)
 また、神は細部に宿るというが、細かい部分まで造り込んだ美術にも感嘆した。

 そしていつもながら、渡辺勘治にはなれなくとも、渡辺のようにあれればと思い続けている市民課員の木村(日守新一)程度にはありたいと改めて思った。
 ああ、面白かった!
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2014年01月09日

生きている画像

☆生きている画像(1948年、新東宝、モノクロ)

 監督:千葉泰樹
 原作、脚本・脚色:八田尚之
 音楽:早坂文雄
(2014年1月9日18時半上映の回、京都文化博物館フィルムシアター)


 京都文化博物館のフィルムシアターでありがたいのは、おなじみ邦画の傑作名作とともに、「知る人ぞ知る」といった作品にも接することができるということなのだけれど、千葉泰樹監督の『生きている画像』がかかるというので、迷わず足を運んだ。

 『生きている画像』は、自身の作品『瓢人先生』を八田尚之が脚本化したもので、画家牧野虎雄をモデルとした瓢人先生や、彼の弟子で帝展等の万年落選画家田西と美砂子夫妻を中心に物語は進んでいく。
 で、メロドラマ的要素や大らかな滑稽さがドラマの中心を占めているのだけれど、その根幹にあるものはやはり、芸術や表現活動と如何に向き合っていくかということではないだろうか。
 作品の展開や設定にはどうしてもひっかかる部分もあるのだけれど、表現することの切実さが訴えられる場面では、強く心を動かされたことも事実だ。
(もしかしたらそこには、政治性を強めていた東宝へのアンチテーゼがこめられていたのかもしれないが。と、言うのも、新東宝の事のはじまりは、この作品の出演者である大河内傳次郎や藤田進、花井蘭子らによる「十人の旗の会」にあるわけだから)

 役者陣では、当然ながらまずもって大河内傳次郎。
 瓢人先生の優しさと厳しさ、飄々とした雰囲気を見事に出しきっていて、とてもしっくりとくる。
 また、田西役の笠智衆の小津作品とは異なるやってる感満載の演技や、惜しくも早世してしまった花井蘭子の清楚な美しさも印象深い。
 ほかに、芸術にとりつかれることの「怖さ」をユーモリスティックに演じてみせた河村黎吉(表情の変化が愉しい)をはじめ、古川緑波、藤田進、江川宇礼雄、杉寛、清川虹子、田中春男、鳥羽陽之助、清川荘司らも出演。

 そうそう、今月は「生誕100年記念 早坂文雄の映画音楽世界」という特集なのだけれど、メロドラマ的なシーンによく沿った甘やかな音楽を早坂文雄はつけていた。

 いずれにしても、古い邦画好きには一見をお薦めしたい作品である。
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2014年01月06日

ブランカニエベス

☆ブランカニエベス Blancanieves(2012年、スペイン・フランス)

 監督・脚本:パブロ・ベルヘル
 撮影:キコ・デ・ラ・リカ
 音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ
 美術:アラン・ベイネ
(2014年1月6日、京都シネマ・3、16時40分上映の回)


 先日『アメリ』を満席で観損ねたとき、少し待てば『ブランカニエベス』の上映が控えていたんだけど、ポスターをちら見して、「うわっ、黒いし暗いじゃん、正月三日だよ」とパスしてしまった。
 でもね、なあんか心にひっかかるものもあってネットで確認してみると、モノクロサイレント、しかも年末『撮影されない三本の映画』ってエッセイ風の短篇小説でこちらが題材に使ったグリム童話の『白雪姫』がネタ元になってるてんだから、これってちょっと面白そうじゃない。
 と、言うことで、新年一本目の映画にこの『ブランカニエベス』をチョイスしたんだけど、いやあこの作品、想像していた以上、実に面白かった。

 上述した如く、おなじみ『白雪姫』を1920年代のスペイン・アンダルシア地方に置き換えて(勘違いかもしれないが、当時のスペイン国王アルフォンソ13世の名前がプレートに書かれていたのでは)、そこに闘牛やらフリークス(なにせ、『白雪姫』っていえば、七人の小人ですから。ん?七人?)やらと諸々盛り込まれた物語で、1時間40分があっと言う間に過ぎていく。
 どきどきわくわくさせられる場面やぐっと心動かされる場面と、ドラマのつくりがはっきりしている上に、先達たちへのオマージュやグロテスクな笑い、ずらしそらしにも欠けていない。
 かてて加えて、思考の鍵というか、物語の設定やキャスティング等、アクチュアリティに満ちたスリリングな仕掛けにも富んでいて、一粒で何度も美味しい映画に仕上がっていた。
 役者陣の豊かな表情に、アルフォンソ・ヴィラロンガの作品によく沿った音楽(管弦楽はブリュッセル・フィル)もあって、サイレントであることをついつい忘れてしまいそうになったほどだ。
 また、光と影のコントラスト、空に雲に風景にと、モノクロの魅力も存分に発揮されていた。

 主人公のブランカニエベス(白雪姫)、実はカルメン、を演じたマカレナ・ガルシア(滝川クリステルっぽい)や、その子供時代を演じたソフィア・オリア(かわいい)、滑稽ですらある悪役ぶりが印象的な継母エンカルナを演じたマリベル・ベルドゥはじめ、小人の闘牛士たちらメインばかりか、端役黙役にいたるまで役者陣は存在感があって好演。
 寓話的な作品にリアリティの重みを与えていた。

 ラストを含め、好みは大きくわかれるかもしれないけれど、僕は観ておいて大正解だったとつくづく思う。
 ああ、面白かった!
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2013年06月06日

『ベルリン・アレクサンダー広場』第1話

☆『ベルリン・アレクサンダー広場』第1話

 監督・脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
 原作:アルフレート・デーブリーン
(2013年6月6日13時上映の回/元・立誠小学校特設シアター)


 あれは、院生時代の海外実習でのケルン滞在中のことだから、ちょうど20年前のことになる。
 ひょんなことから知り合ったある人物の部屋を訪ねることがあって、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(亡くなってから10年ほど経っていた)についてあれこれ話を聴くことになった。
 まあ、聴くと言っても、ドイツ語ばかりか英語の会話能力も劣る人間ゆえ、両方ちゃんぽん、それも超スローモーな会話だったにもかかわらず、いかほど相手の話を理解できたかは怪しいかぎりであるが。

 で、その会話の中で、相手が熱心に薦めていたのが、『ベルリン・アレクサンダー・プラッツ』であった。
(確か、ほんの一部をその際に見せてもらった記憶がある)
 「長い」、けれど、「観ておけ」という相手の言葉に頷きはしたものの、ケルン滞在中からこの方、『ベルリン・アレクサンダー・プラッツ』を観る機会を、僕は残念ながら逸してきた。

 その『ベルリン・アレクサンダー・プラッツ(広場)』<「13話とエピローグ」によるテレビ映画>が、6月1日から元・立誠小学校の特設シアターでかかっているということで、今日になってようやくその第1話を観た。

 1920年代末のベルリン、ある罪で4年間服役していたフランツ・ビーバーコップ(ギュンター・ランプレヒトの存在感!)という男が刑務所を出所する。
 ところから話は始まるのだけれど、さすがはファスビンダー、第1話からとばすとばす。
 って、これは物語の展開のことじゃなくって、映画の造り、表現という意味で。

 ファスビンダーの描き出す諸々は、正直僕の好みには合わないものでもあるのだけれど、フランツ・ビーバーコップが体現する暴力性や狂気は、他人事他所事ではすませられない心のざわつきを僕に強く与える。

 果たして、フランツ・ビーバーコップの運命や如何?
 そして、ファスビンダーのあの手この手にも大いに興味が湧く。
 残る12話とエピローグをなんとか観ておきたい。
(21日まで上映中)
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2013年05月04日

『太秦ヤコペッティ』

☆『太秦ヤコペッティ』

 監督:宮本杜朗
(2013年5月4日15時上映の回/元・立誠小学校特設シアター)


 4月27日にスタートした木屋町通の元・立誠小学校3階特設シアターまで、宮本杜朗監督の新作『太秦ヤコペッティ』(シマフィルム制作、京都シリーズの一本)を観に行って来た。

 予告篇から、苦手なシーンの多い作品なのではと感じていて、実際けっこうえぐい描写もあったりして、うえへとなったりもしたのだけれど、そこだけに目をやって大事な部分を観落としたならもったいないや、というのが正直な感想だ。
 刺激的でグロテスク、映像面でも音楽面でも攻めの姿勢がとられた作品だが、単にやたけたむちゃくちゃやりたい放題ととらえるのは間違いだろう。
 現代現在の諸々の問題にもちゃんと目配りが届いているし、京都出身の宮本監督だからこその際どい内容と、和田晋侍演じる百貫省二が体現した滑稽さ、おかかなしさ、すっとぼけた味わいは忘れ難い。
 端々の粗さ等、気になった点もなくはないのだけれど、今という曠野の中を生きる逆説的な聖家族の姿は、やはり一度目にしておいて損はないと強く思う。

 役者陣では、上述した和田さんのほか、劇団子供鉅人のキキ花香が大奮戦。
 子供鉅人のファンは必見だろう。
 元グレチキの北原雅樹や子供役の小沢獅子丸も重要な役回りを果たしている。
 ほかに、福本清三が彼ならではの演技を披歴していた。

 元・立誠小学校の特設シアターで先行上映中のほか、シネ・ヌーヴォや第七藝術劇場でも上映される。
 皆さん、よろしければぜひ。


 そうそう、5月18日(土)〜24日(金)の連日12時〜14時の間、この特設シアターで、「ヤコペッTea Party!!」という交流企画も予定されているとのことだ。
 お茶と軽食、さらに秘蔵レポートフィルム付きの交流会で、参加費は1000円とのこと。
 こちらも、よろしければぜひ。
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2013年01月03日

シェフ! 〜三ツ星レストランの舞台裏へようこそ〜

☆シェフ! 〜三ツ星レストランの舞台裏へようこそ〜<2012年/フランス>

 監督・脚本:ダニエル・コーエン
(2013年1月3日、京都シネマ2)


 美食に対する自負自慢に加え、人が集まる場所・集団作業の場所=人と人とのドラマ、という図式が組みやすいこともあってか、レストランを舞台にした作品がフランスでは時折生み出されている。
 中でも、ローラン・ベネギ監督の『パリのレストラン』(1996年)など、三ツ星レストランの派手さ大仰さとは無縁の、小じんまりとしたレストランで繰り広げられる人間模様を丁寧に描いた心にじわっとくる佳品だった。

 一方、この『シェフ!』は、「三ツ星レストランの舞台裏へようこそ」という副題からもわかる通り、パリで指折りの三ツ星レストランを中心にストーリーは展開する。

 自らの料理にこだわるばかりに次々とレストランをくびになったジャッキー(ミカエル・ユーン)が、ひょんなことから尊敬尊崇してやまない三ツ星レストランのシェフ、アレクサンドル(ジャン・レノ)の助手を務めることとなり…。

 といった感じで物語は始まるのだけれど、テレビドラマっぽい処理というか、意図された以上の軽さ俗っぽさを感じる部分もなくはなかったのだが、非常に明快でわかりやすい筋立てに、ときに邪劇すれすれの笑いの仕掛けもあったりして、約1時間半、観飽きることがなかった。
 また、「三ツ星」という格付けのあり様や料理の流行、食の業界におけるグローバル化の問題などがちくりちくりと刺されている点は興味深いし、それが実は創作活動や表現活動とだぶって感じられるとこも面白い。

 フランス流ウェルメイドの好例と呼ぶべき一本なのではないか。
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2012年12月12日

カミハテ商店

☆カミハテ商店<2012年、北白川派>

 監督:山本起也
 脚本:水上竜士、山本起也
 撮影:小川真司
 音楽:谷川賢作
(2012年12月12日/京都シネマ)


 京都造形芸術大学映画学科の学生たちと、プロの俳優スタッフ陣が共同して映画を撮影製作する北白川派の今年度の作品で、山本起也にとっては初の劇映画となる『カミハテ商店』を観たが、まずもって強く印象に残ったのは、主人公を演じる高橋惠子だった。

 高橋惠子。
 関根恵子。
 あれはアフタヌーンショーだったろうか。
 バンコクへのいわゆる「恋の逃避行」から幾日、帰国して旅客機のタラップを降りる彼女に、芸能リポーターたちがわっと群がり集まる情景が、僕は未だに忘れられない。
(余談だが、関根恵子がすっぽかしたのが福田陽一郎プロデュースの舞台で、彼女の穴を見事に埋めたのが市毛良枝であったことなどを、福田さん自身が『渥美清の肘突き』<岩波書店>で書き遺している)
 けれど、僕が高橋惠子という女優に好感を抱くようになったのは、高橋伴明監督と結婚したのち、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の伯爵夫人にぴったり(ちなみにアルマヴィーヴァ伯爵は林隆三)と言いたくなるほど、透徹してノーブルな美しさを見せ始めてから、例えば、NHKの『とっておきの青春』や同じNHKの大河ドラマ『信長』あたり以降である。

 まあ、それはそれ。
 高橋惠子にとって20年ぶりの主演作品にあたる『カミハテ商店』は、夫の高橋伴明監督が造形芸大の映画学科の学科長なこととの兼ね合いが大きなキャスティングであることは、高橋さん自身、週刊文春の阿川佐和子によるインタビューでも触れていたことだけれど、そうした裏の事情を知っていたとしても、彼女の演技者役者としての魅力が揺らぐことはないように思う。
 そしてその魅力とは、表面的な巧さというより、高橋惠子その人の芯のようなものの魅力と言い換えることもできるのではないか。
 老け役云々という言葉も「売り」になっているようだが、それより何より高橋惠子のあり様そのものに僕は強く魅かれた。

 加えて、作品の肝となる断崖絶壁をはじめ、ドキュメンタリー的に置かれたロケ地、隠岐海士町の自然の美しさ厳しさも、この作品の見どころの一つと言えるのではないか。

 上映中ゆえ、作品そのものについてはあえて詳しく触れないが、本来のモティーフ(学生の原案)より、主人公の「老い」、「孤独な生活」のほうにより重点が置かれていたような気がしないでもなかった。
 言葉を換えれば、同じ山本監督のドキュメンタリーの佳品『ツヒノスミカ』(山本監督の90歳になるお祖母さんの日々の生活を追った)のフィクションによる再現、変奏となるか。
 そのこと自体は興味深いことなのだけれど、一方で、一つの物語という意味から、何かが埋まりきらないもどかしさを感じてしまったことも事実だ。

 役者陣では、寺島進が大奮戦。
 少しでもよい作品、よい現場にしたいという熱い想いが伝わってくる演技だった。
 それと、あがた森魚の助演も嬉しい。
 ほかに、水上さん、松尾貴史、映画学科生(深谷健人、平岡美保/卒業生、土村芳、ぎぃ子、大西礼芳ら)が出演。

 それにしても、高橋惠子っていいなあ!
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2012年10月01日

『BUNGO 〜ささやかな欲望〜』(告白する紳士たち編)

☆『BUNGO 〜ささやかな欲望〜』(告白する紳士たち編)

(2012年10月1日、梅田ガーデンシネマ1)


 もう20年も近く前になるか。
 『文學ト云フ事』という深夜番組がフジテレビ(関西テレビ)で放映されていた。
 日本の文豪たちがものした名作佳作の中から毎回一作品をとり上げて、映画の予告編風な映像を交えながら解説していくという内容で、若き日の大高洋夫の活躍(『みずうみ』の回)や、フレンチポップ『T’en va pas』をカバーした原田知世の鼻にかかったエンディングの歌声が、どうにも懐かしい。
 「文豪が残した傑作短編を、将来を担うキャストと、気鋭の映像作家たちが描く、6つの恋物語」という惹句のついた『BUNGO 〜ささやかな欲望〜』のうち、「告白する紳士たち」編を観始めてすぐに思い出したのも、その『文學ト云フ事』だった。
 もちろん、あちらはあくまでも予告編風の映像であって、こちらはまごうことなき本編なのだけれど、だからこそあの頃感じた、ああ本編が観たいのに、という物足りなさがようやく埋められた気がしないでもない。

 で、「告白する紳士たち」編などと名乗っているからといって、「俺はお前が好きなんだ! アイウォンチュー! アイニーデュー!」、なんてべたな展開を想像したら大間違い。
 まあ、岡本かの子の『鮨』に坂口安吾の『握った手』、林芙美子の『幸福の彼方』ってラインナップを目にしただけで、単純なラブストーリーでないことは、すぐにわかってしまうだろうが…。

 まずは、『鮨』(関根光才監督、大森寿美男脚本)。
 橋本愛演じる鮨屋の娘と、リリー・フランキー演じるちょっと謎めいた中年紳士(皆から、「先生」と呼ばれている)の一瞬の感情の交差、というか齟齬が切ない。
 回想シーンが効果的で、特に少年役の男の子が魅力的なのだけれど、若干文学を(戦前を)コスプレしているように感じたことも事実だ。
(一つには、市川実日子のキャラクターもあるのでは。リリー・フランキーのキャストも含め、原作を超えて岡本かの子と岡本太郎の関係が意識されているのかもしれないが)
 高橋長英、佐藤佐吉、マギーなども出演。

 続く、『握った手』は、山下敦弘の監督に向井康介の脚本。
 短編集という映画のつくりや向井さんの脚本という枠をまもりつつ、山下監督らしい仕掛けもけっこう施されていたのではないか。
 その分、原作の持つ歯噛みしたファルス的な要素が、少しウェットなものに変化していたような気もするが。
 山田孝之、成海璃子に加え、黒木華が重要な役回りを演じていた。

 最後は、谷口正晃監督、鎌田敏夫脚本による『幸福の彼方』。
 正攻法というか、非常にオーソドックスな、そして細やかで丁寧な演出であるからこそ、造り手の側の伝えたいことがよく伝わる作品になっていたように感じた。
(映画オリジナルのエピソードがもっとも書き加えられているのは、この『幸福の彼方』のような気がするが、造り手の意図を考えればそれも充分に納得がいく。そしてその点からも、同じ林芙美子原作による成瀬巳喜男監督の諸作品を思い起こす*)
 波瑠(とてもとても魅力的)、三浦貴大という若い二人や、でんでんばかりでなく、その他の出演者たちも強く印象に残る。

 今回は諸々の事情があって残りの三作品(「見つめられる淑女」編)を観ることができなくて、とても残念だった。
 いずれにしても、数々の制約の中で文藝作品や近過去(戦前や戦後すぐ)を扱った作品を製作することについて考える上でも、非常に興味深い作品だと思う。

 そういえば、夏休み中の公開だったら、「読書感想文」とちょうど重なって、高校生なんかにぴったりだろうにと思ったんだった。
 なんだかもったいないな。


 *追記
 『鮨』、『握った手』、『幸福の彼方』、いずれも「青空文庫」に入っているので、ご興味ご関心がおありの方は、そちらのほうをご一読いただきたい。
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2012年08月15日

おとし穴

☆おとし穴<1962年、勅使河原プロ・ATG>

 監督:勅使河原宏
 原作:安部公房
 脚本:安部公房
 音楽監督:武満徹
 音楽:一柳慧、高橋悠治
(2012年8月15日、京都文化博物館フィルムシアター)


 勅使河原宏にとって初の長篇劇映画となる『おとし穴』は、死者の目を通して観た寓話とでも呼ぶべき結構となっている。

 炭鉱を逃げ出したある坑夫が鉱山あとにおびき出されて殺されるが、これにはいろいろ裏があって…。
 と、作品は続いていくのだけれど、勅使河原宏と安部公房の二人が、芸術的にばかりか政治的にも「前衛」の側に組していたことを考えれば、表面的なストーリーの意味するところは、実にわかりやすい。
 つまりは、誰が「おとし穴」に落とされ続けているのかということだ。
 むろん、そういった事どもを大上段に振りかざすのではなく、殺されてしまった人(幽霊)たちの視点を交えつつ、滑稽かつ不気味に描き上げている点が、安部公房らしいとも言えるのだが。
 また、モノクロということを十二分に意識した光と影の表現をはじめ、随所に挟み込まれる勅使河原監督の映像的実験も非常に興味深かった。
 加えて、音楽監督の武満徹や一柳慧、高橋悠治の点描的で無機的な音楽も、作品のドライな性格によく合っていたように思う。

 殺される坑夫と第二組合長を巧みに演じ分けた井川比佐志や中年女性の色気を感じさせた佐々木すみ江のほか、田中邦衛、佐藤慶、観世栄夫、矢野宣、袋正、金内喜久夫らが出演していた。

 ああ、面白かった!
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2012年08月10日

蜘蛛巣城

☆蜘蛛巣城<1957年、東宝>

 監督:黒澤明
 原作:シェイクスピア『マクベス』より
 脚本:小国英雄、菊島隆三、橋本忍、黒澤明
(2012年8月10日、京都文化博物館フィルムシアター)


 ううん、今さら黒澤明の『蜘蛛巣城』の感想もないものだけれど…。

 シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代に移し変え、心の奥底にある疑心を妻に煽られて分不相応なむらっ気を起こし主君と友人を殺した武将が辿る悲劇を、静と動のコントラストをはっきりとつけながら描き切った作品。
 って、まとめてしまうと、なあんか面白くないんだよなあ。
 だって、この『蜘蛛巣城』って、表現が強い分、どこか邪劇臭がするんだもん。
 いや、それが言い過ぎなら、表現主義的な雰囲気、アヴァンギャルドな雰囲気がするって言い換えてもいいけど。
(そういや、『蜘蛛巣城』には佐々木孝丸も出演してるんだった。余談だけど、佐々木孝丸の娘は千秋実の夫人だから、義理の父子共演ってことになるんだよなあ。特撮物でおなじみ佐々木勝彦は千秋実の息子だから、佐々木孝丸の孫にあたるわけか)
 で、そういう部分がまた『蜘蛛巣城』の見どころでもあるんだよね。
 主人公の妻役の山田五十鈴の迫真の能面っぷり(いやな血だねえ!)、浪花千栄子のもののけ婆っぷり(なんだこいつの声は!)と特別出演、中村伸郎、宮口精二、木村功の幻の武者っぷり(なんだこいつらの声は!)、そして追い詰められた三船敏郎の狂いっぷり(アロウズが矢って来る 矢ァ!矢ァ!矢ァ!)。
 いずれにしても、何度観ても、ぞくぞくがくがくわくわくする一本だ。

 ところで、「黒澤明との素晴らしき日々」という副題のある土屋嘉男の『クロサワさーん!』<新潮文庫>の中に、『蜘蛛巣城』のエピソードが記されている。
 伝令役の俳優の演技が嘘っぽくて仕方がない、ついては俳優座の養成所の同期だからと推薦した責任をとって、代わりに演じてくれと突然現場に呼び出された土屋さん。
 伝令役の俳優の手前、一度は勘弁してくださいと断ったが、そこは「粘りのクロサワ」、根負けした土屋さんは代役を引き受けて…。
 あとは、『クロサワさーん!』の「殺意があった」という章をあたって欲しい。
 そして、このとき深い屈辱を味わっただろう伝令役が誰かもすぐにわかったのだけれど、その俳優さんが存命で、しかも大好きな人ということもあって記さないでおくことにする。
 強いてお知りになりたい方は、『蜘蛛巣城』の冒頭部分にご注意いただければと思う。
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2012年08月09日

東海道四谷怪談

☆東海道四谷怪談<1959年、新東宝>

 監督:中川信夫
 原作:鶴屋南北
 脚本:大貫正義、石川義寛
(2012年8月8日、京都文化博物館フィルムシアター)


 俳優役者がいわゆるトークバラエティ番組を席捲し始めたのは、いったいいつ頃のことだったか。
 黒沢年男に高橋英樹、江守徹に中尾彬、村井国夫に地位武男。
 映画やドラマ、舞台で二枚目二の線をはってきた人たちが、お茶目というかなんというか、陽気で気さくな人柄を表わすようになったのは。

 1985年の7月にくも膜下出血のため54歳の若さで亡くなった天知茂だって、あと10年程度長く生きてさえいれば、もしかしたら件のトークバラエティ番組でけっこう愉しいべしゃりを披歴していたかもしれない。
 と、言うのも、テレビ草創期のコメディ刑事ドラマ『虎の子作戦』(日活が映画化したが別キャスト)や、地元名古屋弁をまくし立てたというテレビ版『次郎長三国志』の桶屋の鬼吉に関しては、残念ながら伝聞でしか知らないものの、亡くなる少し前に出演した『オールスター家族対抗歌合戦』での家族(うろ覚えだが、お兄さんたちも出演していたのでは)を想う天知さんの優しい笑顔が強く印象に残っているからである。
 で、大ファンだった中日ドラゴンズ(何せ、天知茂の芸名は天知俊一と杉下茂によるものだ)OBの板東英二あたりとコンビを組んで『なごやか天知茂』なんてべたなタイトルのローカル・トーク番組をやっていたかも、と夢想してみたりもする。

 と、あえてこんなことを書きたくなったのも、天知茂という俳優が長年「ニヒル」な人間を演じ続けたからだ。
 『座頭市物語』における平手造酒、初期の『大岡越前』における神山左門、『非情のライセンス』における会田刑事(天知茂自身が歌う『昭和ブルース』がまたいい)、極めつけが土曜ワイド劇場における明智小五郎。
 冷徹さと斜に構えた風、そしてときに垣間見える哀しさ。
 まさしくニヒルと呼ぶにふさわしい人物ばかりではないか。
 それに、天知茂の切れ長の鋭い瞳に、渋い声質もそんな役回りにぴったりだった。
 そういえば、土曜ワイド劇場のシリーズにつながることとなる『黒蜥蜴』の明智小五郎役に天知茂が抜擢されたのは、これから触れる中川信夫監督の『東海道四谷怪談』での演技を三島由紀夫が高く評価したからだという。
 確かに、この作品で天知茂が演じる民谷伊右衛門は素晴らしい。
 発作的な感情で人を殺してしまった民谷伊右衛門が、江見俊太郎演じる直助という小悪党(余談だが、ここでの江見さんの演技には僕はそれほど感心しない。江見さんの滑稽な味わいが巧く活かされてきたのは、風貌がまるでギュンター・ヴァントのようになった晩年のことではない)に引きずられ、ついには妻のお岩さん(若杉嘉津子)を死においやるまでに到る。
 その非情さと弱さ、冷たさと哀しさを適確に演じ切っているのだから。
 特に、終盤の追い詰められた民谷伊右衛門の姿には、強く惹きつけられた。

 加えて、この『東海道四谷怪談』は、新東宝で、『毒婦高橋お伝』や『憲兵と幽霊』、『女吸血鬼』といった邪劇を撮影し続けていたベテラン中川信夫監督にとっても快心の一本となる。
 僅か1時間15分ほどの尺の中に、鶴屋南北の原作とも通底する人間の弱さ、どろどろとした暗部を無理なく描き込んだ上に、様々な映像的表現的実験を仕掛けてもいるからだ。
 翌年公開されたカルトムーヴィー『地獄』は、当然この『東海道四谷怪談』での成果を踏まえたものと言えるだろう。

 出演は、ほかに北沢典子、中村竜三郎、池内淳子、大友純ら。

 いずれにしても、観て損のない一本である。

 そうそう、天知茂がもっと長生きしていたら、彼のセルフパロディを目にすることにもなったのではないか。
 例えば、荒井注ならぬ志村けんと組んだ偽明智小五郎や偽民谷伊右衛門、左とん平ならぬ加藤茶と組んだ偽会田刑事、いずれも名古屋弁の。
 いや、こう考えると、市川雷蔵と同じように、天知茂も早くに亡くなって幸せだったのかもしれない。
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2012年08月05日

マチヤ映画夜行 〜京の夕涼み上映会〜 に参加した

☆マチヤ映画夜行 〜京の夕涼み上映会〜


 昨夜夕方外出し、堀川中立売の京都リサーチパーク町家スタジオへ。
 今年度第一回目となる月世界旅行社主催の映画上映会&交流会、マチヤ映画夜行 〜京の夕涼み上映会〜に参加する。

 機材のトラブルもあって上映スケジュールの変更が発生したりはしたものの、おなじみ顔触れから初めて参加された方など大盛況で、まずは何より。

 そして、僕自身もエキストラとして出演した新作『大童貞の大冒険』に『PLEIADES』、高校時代の『試験管ベイビー』という大阪芸大の二宮健監督の特集をはじめ、これまた僕も出演している京都造形芸大の小川泰寛監督の『まぶたをみろ!』、大阪電通大の佐々木勝己監督の『リフジウム』、佐藤麻衣子監督の『LATE SHOW』(再見。町家スタジオのゆったりした雰囲気の中で観ると、やはり印象が変わった)、祗園天幕映画祭でも上映された祗園CMアワード作品(ヨーロッパ企画の黒木正浩さんと山口淳太さんがゲストで登場)、京都精華大学の皆さんによるアニメーション短篇集、京都造形芸大の酒井麻衣監督の『棒つきキャンディー』、平川湖鼓監督の実験作とバラエティーに富んだラインナップだった。

 加えて、今年度から始まったマチヤダービー(あるテーマにそって5分程度の作品を造り、お客さんの投票によって1位を決める)は、「汽車の到着」というお題の難しさもあってか、月世界旅行社の柴田有麿監督の新作のみの応募だったけれど、柴田組には欠かせない浜島正法君と夕暮れ社弱男ユニットの向井咲絵さんのキャスティングが絶妙で、ついつい笑わされてしまった。
(次回のお題は「パワー」。なんぞ撮影してみるか!)

 で、交流タイムでは、二宮監督や『大童貞の大冒険』に主役として出演していたアベラヒデノブ監督、小川監督、佐々木監督、佐藤監督、酒井監督、月世界旅行社の面々、黒木さん、向井さん、告知に訪れていた男肉 du Soleilの角田行平さん、今年度のビギナーズユニットの面々その他、多くの方たちとお話をしたりあいさつをしたりする。
 こうやっていろんな方たちと出会えるのも、このマチヤ映画夜行の愉しみの一つだ。

 隔月開催ということで、次回第二回目は10月27日開催の予定だが、ぜひとも「皆勤」を続けたい。
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2012年07月20日

第五福竜丸

☆第五福竜丸<1959年、近代映画協会、新世紀映画>

 監督:新藤兼人
 脚本:新藤兼人、八木保太郎
 音楽:林光
(2012年7月19日、京都文化博物館フィルムシアター)


 アメリカによるビキニ環礁で行われた水爆実験のため、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員たちは死の灰を浴び被爆、帰国後原爆症と診断される…。
 いわゆる第五福竜丸事件だが、タイトル通りその事件をドキュメンタリー・タッチで追った作品が、新藤兼人監督の『第五福竜丸』だ。

 家族や船主たちの見送りの中、喜び勇んで焼津港を後にする第五福竜丸の船出に始まり、海上での活き活きとした乗組員たちの姿、突然の水爆実験と死の灰による被爆、診断と治療、そして無線長久保山愛吉の死までが、抑制された怒りを保ちつつ丹念に描かれていて、全篇観飽きない。
 ときおり挟まれる乾いたユーモア(三井弘次や中村是好、森川信がコメディリリーフを務めている)は、久保山愛吉をはじめとした乗組員たちの悲劇や、アメリカ側の冷淡で利己的な姿勢を際立たせる意味でも効果を発揮している。

 また、飄々とした演技を披歴している久保山愛吉役の宇野重吉のほか、乙羽信子、稲葉義男、永田靖、原保美、小沢栄太郎、殿山泰司、永井智雄、浜田寅彦(この人の代表作の一つと言っても過言ではあるまい)、千田是也、清水将夫、松本克平、三島雅夫、十朱久雄、松本染升、内藤武敏、松山照夫(その後、悪役ばかりやるようになったが、もともとこういった「良心的」な映画に多数出演していた)、小笠原章二郎、嵯峨善兵、毛利菊枝、原ひささ子【以上、京都文化博物館フィルムシアターのプログラムに掲載】、金井大、本郷淳、左右田一平、田中邦衛、井川比佐志、江角英明、田口計、中谷一郎、横森久、辻伊万里、二見忠夫といった主に新劇畑(民芸や俳優座)の人たちが出演していて壮観である。
(ただし、後年の山本薩夫監督の作品のような「くどい」演技にはなっていない。それも観どころの一つだ)

 それと、作品の世界観によく沿った林光の音楽も忘れてはなるまい。
 この『第五福竜丸』こそ、新藤監督と林さんの長い共同作業のはじまりとなる作品だったのだ。

 いずれにしても、久しぶりに観て大正解だった一本。
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2012年07月19日

悲しみは女だけに

☆悲しみは女だけに<1958年、大映東京>

 監督・原作・脚本:新藤兼人
(2012年7月18日、京都文化博物館フィルムシアター)


 小野良樹の『新藤兼人伝』<白水社>にも詳しく記されているが、新藤兼人は自らの実際の体験や経験を執拗なまでにその作品に投影し続けた監督であり脚本家であった。
 劇団民芸のための戯曲『女の声』を映画化した、『悲しみは女だけに』など、まさしく新藤兼人の家族のエピソードを核とした、私映画とでも呼ぶべき内容となっている。

 父親が他人の保証人となったばかりに多額の借金を抱えたため、なんとかそれを帳消しにすべく結納金と引き換えにアメリカに嫁いだ姉(田中絹代)が、30年ぶりに帰国する。
 しかし、姉の奮闘も虚しく実家は跡かたもなく消えており、弟(小沢栄太郎)の一家は敗戦をきっかけにばらばらとなってしまっていた…。

 と、いうような筋立ての中に、弟の娘息子(京マチ子、船越英二、市川和子)の置かれた現状やそこから発するエゴ、弟と前妻(杉村春子)との諍いや現在の妻(望月優子)との救いのないあり様、助産婦をやっている妹(水戸光子)の被爆体験(これも実際のエピソードであり、同じ新藤監督の『原爆の子』を想起させる)等が、巧みに盛り込まれていく。
 もともと戯曲であること(登場人物の出し入れにもそれがよく出ている)を逆手にとった演出など、映像的な実験工夫も随所に見受けられるが、それより何より、登場人物たちの悲しみや苦しみ、弱さ、葛藤の中に、この国の抱えたあれこれが凝縮された形で表わされている点、言い換えれば新藤監督の私的な体験がより普遍的な問題と結び合わされている点に、僕は心動かされた。
(その意味でも、新藤兼人がシナリオを書いた川島雄三監督の『しとやかな獣』と通底するものを強く感じた)

 役者陣は、上述した人たちのほか、宇野重吉、殿山泰司、見明凡太郎らが出演している。
 田中絹代の存在感と、小沢栄太郎たちの達者さ(初老に近づいている小沢さんの場合、ときに達者さが先に来ている感じもしなくはなかったが)が強く印象に残った。
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2012年07月11日

原爆の子

☆原爆の子

 監督・脚本:新藤兼人
 原作:長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』
(2012年7月10日、京都文化博物館フィルムシアター)


 もう一つの被爆地長崎市に生まれ、それも小学校、中学校、高校と爆心地近くの学校に通い続け、しかも中学校の修学旅行では広島市を訪れたこともあって、新藤兼人監督の『原爆の子』は、自分にとって全く驚きの対象などではなく、子供の頃から当為のものとして受け止め受け入れてきたことが語られた作品である。
 いや、たとえそれが「ドラマ」を意識した設定、結構であるとしても、伊福部昭の詠嘆調の音楽も含めて、『原爆の子』のウェットな雰囲気には、率直に言って、若干違和感を覚えなくもない。
 しかしながら、米軍の占領が終わってまだ間もない時期に、被爆地広島の実態、それも被爆による原爆症の恐怖や被爆者の貧困といった広島が抱えた問題を丁寧に描き込んだ新藤監督の明確で強固な姿勢には、やはり心を強く動かされた。
 また、扇の要となる乙羽信子をはじめ、滝沢修、宇野重吉、北林谷栄、奈良岡朋子(まだ若い時分だが、この人は本当に巧い)、清水将夫、細川ちか子、山内明、斎藤美和、下元勉、佐々木すみ江、多々良純(桜隊に参加するも、召集のため広島で被爆することはなかった。新藤監督の『さくら隊散る』にも出演している)といった民芸勢のほか、東野英治郎、殿山泰司、小夜福子、原ひさ子(8月6日が誕生日)、柳谷寛、英百合子(呉出身)、寺島雄作らが出演しているが、新藤監督の意図をよく汲んだ演技を行っていると思う。

 それにしても、原爆投下直後の表現を観るに、一瞬のうちに多くの生命が焼き尽くされ奪われた広島の情景をCGではなく実写で撮影したいとの新藤監督の強い想いを、改めて思い起こす。
 20億円。
 悔しいかぎりだ。
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2012年06月30日

シマフィルム展特別企画 映画×演劇deつながらナイト!

☆シマフィルム展特別企画 映画×演劇deつながらナイト!


 昨夜、京都リサーチパーク町家スタジオで開催された『シマフィルム展特別企画 映画×演劇deつながらナイト!』に、演劇と映画双方に親しくコミットしているという立場からコーディネーター的な役割で参加した。

 『建築家M』や衛星、ベビーピー、ピンク地底人、ひげプロ企画と小劇場の公演が重なる中での開催ということもあって、正直それほどの参加者を見込んでいなかったのだけれど、映画側からシマフィルムの皆さんに松野泉、佐藤麻衣子両監督、月世界旅行社の岡本建志さん、演劇側から大橋敦史さんに京都ロマンポップの向坂達矢さん、沢大洋さん、デの市川タロ君、象牙の空港の伊藤元晴君、京都造形芸大や立命館大学の学生さんたちなど、約30人の方々にご参加いただくという、予想を上回る盛況となった。

 まず、シマフィルムの田中誠一さんよりシマフィルムの概況や、7月、9月、10月に開催される谷口正晃監督の俳優ワークショップ、新作『太秦ヤコペッティ』の詳しい説明があったのち、座談会がスタートする。
 こちらが形として会を回すことになったのだが、時間配分に若干ミスがあったりもして、議論が深まり始めたところで終了となってしまったのは本当に申し訳ないかぎりだった。

 ただ、映画と演劇における演技の質の違いや、作品製作(制作)への取り組み方の違いにはじまり、出演に関する条件、映画の撮影現場やお芝居の稽古場見学などの相互交流の確認、映画映像出演に向けての俳優データベースの作成(京都映画祭事務局の中西佳代子さんより、個人では負担が大きいが、公的なものを頼り過ぎる形でも長期的な継続は難しい旨、具体的なご助言をいただく)、シナリオ(作者)不足の状態を受け手の映画演劇両分野の人材によるシナリオ勉強会の発足など、意志疎通をはかったり、今後の実現可能な課題を明らかにすることもできたりした。

 いずれにしても、今回の企画を一つの契機として、映画や演劇、加えて音楽や美術等、多ジャンルの人たちによる人材交流、人材シェアにつなげていければと強く思う。


 *ご興味ご関心がおありの方は、お気軽に中瀬のほうまでご連絡(メールやメッセージ)をいただければ幸いです。
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2012年06月23日

夜の鼓

☆夜の鼓<1958年、現代ぷろだくしょん>

 監督:今井正
 原作:近松門左衛門
 脚本:橋本忍、新藤兼人
(2012年6月23日、京都文化博物館フィルムシアター)


 ときは宝永年間(西暦1700年代初頭)。
 参勤交代による一年数ヶ月にわたる江戸在勤を終え、国許因州鳥取へと戻った下級藩士小倉彦九郎(三國連太郎)は、自らの妻お種(有馬稲子)と鼓の師匠宮地(森雅之)との間に不義密通の噂が流れていることを知らされる。
 はじめは噂を否定していたお種だったが、諸々の証言もあって疑念を深めた彦九郎の厳しい追及に…。

 といった展開を持つ、今井正監督の『夜の鼓』は、近松門左衛門の『堀川波の鼓』を下敷きに、はじめ橋本忍、のちに新藤兼人がシナリオの筆をとった作品で、江戸時代の封建体制のもと、心ならずも不義を働いてしまった妻と、親族たち圧迫の中、ついに妻を殺さざるをえなくなった武士である夫の悲劇が丁寧に描かれている。

 と、こう書くと、今井監督が終生密接な関わり合いを持ち続けた革新政党の公式見解のようになってしまうが、実際、東野英治郎や加藤嘉、浜村純といった面々が彦九郎をやいのやいのと責め立てる場面や、終盤彦九郎の妹(日高澄子)がお種に自害を強いる場面など、まさしく封建体制の桎梏、今風に言えば同調圧力がよく表わされていると思う。

 ただ、彦九郎を演じた三國連太郎が自撰十本を佐野眞一に語る『怪優伝』<講談社>の、この『夜の鼓』に今井監督の実体験が色濃く投影されているといった記述を読んでいたこともあり、彦九郎の湧き上がる疑念や感情の爆発を観るに、どうしてもそのことを考えざるをえなかった。

 役者陣では、その三國連太郎の、何も知らずに嬉々として国許へ帰ってきたのち、どんどんと精神的に追い込まれていく変化のあり様が、やはり流石だなとまずもって感心した。
 一方、お種の有馬稲子のどこか退廃的な美しさにも舌を巻く。
 見るからに何かやるだろう、と言ってはざんないが、この艶っぽさ色っぽさは、そりゃそうなるやろ、と思わざるをえない。
 また、鼓の師匠宮地の森雅之の苦み走った色男(どこか薄情さも感じさせる)ぶりも適役だし、お種を不義に走らせる磯辺床右衛門の金子信雄の小悪、ならぬ中悪ぶり(プレ山守組長!)も印象深い。
 ほかに、先述したベテラン陣に加え、殿山泰司(彦九郎の妹の夫。人間味のある役回り)、奈良岡朋子(女中役。物語の鍵となる人物でもある。巧い)、雪代敬子、中村萬之助(現吉右衛門。フィルムシアターのプログラムには、錦之助とあるがこちらが正解。萬の字が萬屋=錦之助につながったのかな?)毛利菊枝、夏川静江、菅井一郎、柳永二郎、松本染升、東恵美子、草薙幸二郎らが出演。

 正直、誕生日にチョイスせず正解だった一本。
 むろん観て損はしない作品だけど。
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2012年06月21日

裸の島

☆裸の島<1960年、近代映画協会>

 監督・脚本:新藤兼人
 音楽:林光
(2012年6月21日、京都文化博物館フィルムシアター)


 シーシュポスの神話は神罰、神に与えられた責め苦であるから、それをそのまま人間の創作活動、表現活動にあてはめるのもどうかと思うが、完璧などあり得ないとわかっていながら、次もまた次もと自らの創作活動、表現活動を繰り返すということは、やはり地の底に落ちてしまった巨岩を再び頂まで押し上げて行こうとするシーシュポスとつながるものがあるような気がする。
(って、カミュの受け売りじゃないよ)
 そしてそれはまた、ある種の業にとり憑かれた行為と呼べなくもない。

 先日亡くなった新藤兼人ほど、そうした創作活動、表現活動の繰り返しの責め苦(物心両面での)を厭わず、自らの表現欲求という業に一生を費やした(というイメージに相応しい)人物もそうそういまい。
 そんな新藤兼人という表現者のあれやこれやが凝縮され、全面的に押し出された作品こそ、近代映画協会崩壊の危機の中で撮影されたこの『裸の島』ではないだろうか。
 瀬戸内海の孤島、殿山泰司と乙羽信子演じる夫妻(玄人の俳優はこの盟友二人だけ)と男の子二人の自給自足と呼ぶにはありにも厳しい日々が、ほとんど台詞を省略し、なおかつドキュメンタリー的な手法を効果的に取り入れながら、丹念に描かれていく。
 毎日毎日、別の大きな島へと小舟に乗って水汲みに行く夫妻。
 切り立った頂の狭い場所に無理をして開いた畑まで天秤棒を担いで水の入った桶を運ぶ夫妻。
 乾燥し切った畑に水をやる夫妻。
 まさしくシーシュポスの神話を思い起こさざるをえない厳しい毎日の連続だ。
 むろん、そんな生活の中にも喜びや息抜きはないでもないのだけれど、それすらこの家族の貧しさを浮き彫りにもしてしまう。
 いずれにしても、この夫妻のようにこうやって孤島で生きて行くことそのものばかりでなく、生きることそれ自体について、どうしても思いが到る、ずしりと心に届く作品だ。
 個人的には、さらにドライな感触が好みだが、終盤のウェットな表現も、新藤兼人らしさの強い表われと言えなくもない。
 殿山泰司と乙羽信子の二人も熱演。
 特にラスト近く、妻乙羽信子の激しい感情の爆発を受ける夫殿山泰司のなんとも言えない表情がとても印象に残った。
 また、新藤兼人と同じく今年亡くなった林光のリリカルで感傷的な音楽も、作品の世界観によく合っていると思う。

 なお、この『裸の島』の撮影現場に関しては、新藤兼人、殿山泰司がそれぞれの立場から文章を遺しているので、ご興味ご関心がおありの方はぜひご一読のほど。
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2012年06月12日

谷口正晃監督の俳優ワークショップに関する打ち合わせを行った

 今日、ホテルモントレ京都1Fのライブラリカフェで、シマフィルムの田中誠一さん(製作・配給)、牧野裕也さん(映像制作・撮影・編集)、そして唐津正樹監督と、7月以降、9月、10月に元立誠小学校や京都リサーチパーク町家スタジオで開催予定の、谷口正晃監督の俳優ワークショップ、並びに短篇映画制作(元立誠小学校での撮影)に関する打ち合わせを行った。
 なお、仲里依沙版『時をかける少女』や『乱反射』、『スノーブレーク』、そして『シグナル 月曜日のルカ』の谷口監督は、京都出身で、閉校となった立誠小学校は母校となる。

 今回のワークショップを一つのきっかけとして、映画映像をはじめ、演劇、音楽などジャンルの垣根を越えた人材のシェアをはかっていければということで、皆さんからいろいろとお話をうかがうとともに、こちらも演劇等について話しをする。

 そして、7月21日、22日の元立誠小学校での第1回目のワークショップにあわせて、人材交流の場づくりを見据えた催しを企画できないかということにもなった。
 詳細が決まり次第、こちらにも随時掲載していく予定だが、いずれにしても魅力的な企画、実り多い繋がりになればと強く思う。


 *ワークショップに関しては、主催のシマフィルムや映画24区に直接お尋ねいただきたいが、その他の企画等についてご興味ご関心がおありの方は、中瀬のほうまでお気軽にメール、メッセージをお送りください。
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2012年06月06日

わが恋は燃えぬ

☆わが恋は燃えぬ<1949年、松竹京都>

 監督:溝口健二
 原案:野田高梧
 脚本:依田義賢、新藤兼人
(2012年6月6日、京都文化博物館フィルムシアター)


 戦前の『浪華悲歌』や『祗園の姉妹』から、代表作の『西鶴一代女』、そして遺作の『赤線地帯』と、虐げられた女性の悲しみを巧みに描いた溝口健二だから、婦人解放の先駆者である福田英子(劇中は平山英子)の半生を扱った『わが恋は燃えぬ』など、それこそ溝口健二ぴったりの作品…。
 と、そうは問屋がおろさないのだ。
 溝口健二が得意とするところは、あくまでも虐げられた弱い、しかしだからこそ強い女であって、胸を張って先陣切って闘う女性の描写はごうも苦手なのではないだろうか。
 と、言うより、冒頭の女性解放どうこうといったスローガン風の文章からして、敗戦後の時流に合わせて掲げられた看板みたくどうしても感じられてしまうのだ。
 少なくとも、自由党党員から藩閥の犬と成り下がった早瀬(小沢栄=栄太郎)や、自由党の領袖で進歩主義者ながら、女性に対しては旧態依然の考えの持ち主である重井=大井憲太郎(菅井一郎)に裏切られて覚醒する平山英子(田中絹代)よりも、貧しさゆえに身売りされ、どん底にまで身を落とし、それでも男を求めざるをえない、英子とは対照的な千代(水戸光子)のほうこそ、溝口健二がじっくりたっぷりと描くに相応しい人物ではないかと思わずにはいられなかった。
(田中絹代は「硬い」演技だが、新藤兼人監督の『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』での彼女を思い起こすに、この硬さが彼女の地に近いのかもしれない)

 ほかに三宅邦子、荒木忍、千田是也、東野英治郎、松本克平、清水将夫、沢村貞子、小堀誠、宇野重吉らが出演。
 小沢栄太郎をはじめ、左翼演劇人として投獄された経験のある人が少なくない。
(しかも、沢村貞子など、それこそ女囚役をやっている)
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わが生涯のかがやける日

☆わが生涯のかがやける日<1948年、松竹大船>

 監督:吉村公三郎
 脚本:新藤兼人
(2012年6月5日、京都文化博物館フィルムシアター)


 のちのち近代映画協会を設立することとなる、新藤兼人の脚本、吉村公三郎の監督による『わが生涯のかがやける日』を観ながら、やっぱり映画は時代を映す鏡だなあ、とつくづく感じ入った。

 昭和20年8月14日、義憤にかられた陸軍将校沼崎(森雅之。身を持ち崩してからあとの彼がかっこいい)は、ポツダム宣言受諾を是とする重臣戸田(井上正夫)を暗殺する。
 それから数年が経ち、モルヒネ中毒者となった沼崎は、かつて般若のマサと呼ばれた賭博師で、今やダンスホールと新聞社(愛國新聞!)を経営する傍ら、隠匿物資摘発を阻止するギャング団の頭目でもある佐川(滝沢修。濃いいメイク)の手先となっている。
 そうした折も折、偶然戸田の娘節子(山口淑子。李香蘭)が佐川のダンスホールで働き始める。
 戸田を殺した負い目と節子への愛情もあって、沼崎は佐川の手から節子を守ろうとするが…。

 といった具合に話は進んでいくのだけれど、かつて罪を犯した者が過ちを認め、悔い改め謝罪することによって自らが傷つけた者と和解する、また悪も滅びる、という展開は、まさしくGHQの占領下でアメリカ型のデモクラシーが推し進められていた当時の日本の状況を色濃く反映したものと言えるだろう。
 その分、ちょっとご都合主義的というか、単純明快に過ぎるなと思わないでもない。
 ただ、これには、フィルムシアターのプログラムにも触れられているように、本来占領下の政治の腐敗や佐川のGHQとの癒着等を描く予定が、GHQ側の検閲のため大幅にカットされてしまったという裏の事情も大きいのだが。
 いや、そうした点もまた、明らかに時代の反映と言えなくもないか。

 決闘という趣向やピストルの効果的な使用、肉弾戦に当時では激しいだろうラブシーンと、ハリウッド調の作劇で、サングラスに映る山口淑子の歪んだ顔など、吉村公三郎らしい映像的な仕掛けもふんだんに盛り込まれているが、それが今となっては少々わずらわしく感じられることも事実だ。

 役者陣は、上述した人たちに加え、清水将夫(節子の兄で、戦時中思想弾圧を繰り返した検事)、加藤嘉(かつて陸軍の高級軍人で、佐川の右腕)、三井弘次、殿山泰司(まだ髪の毛がある)、村田知栄子といった面々が作品の世界観によく沿った脂っこくアクの強い演技を披歴している。
 ただ個人的には、佐川たちの悪行を追及する新聞記者で沼崎の学友高倉を演じた宇野重吉の淡々として抑制された演技が、かえって強く印象に残った。

 いずれにしても、時代の一端を識るという意味で一見の価値は充分ある作品ではないだろうか。
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2012年06月02日

駅前旅館

☆駅前旅館<1958年、東京映画>

 監督:豊田四郎
 原作:井伏鱒二
 脚色:八住利雄
(2012年6月2日、京都文化博物館フィルムシアター)


 確か小林信彦だったと思うが、自ら「喜劇」を名乗り出して、日本の喜劇は全く面白くなくなった、といった趣旨の文章を記していた。
 面白いか面白くないか、事の当否はひとまず置くとして、いわゆる「喜劇」を冠したプログラムピクチュアが量産されてルーティンにルーティンを重ねたことは事実だろう。
 森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺のトリオを中心に、計23本も撮影された喜劇駅前シリーズもそのうちの一つで、正直駅前はこじつけとしか思えないようなタイトルの作品も少なくなかった。
 例えば、駅前茶釜とか駅前怪談、駅前音頭、駅前探検とか。
(喜劇駅前市役所、喜劇駅前基地外、喜劇駅前原発という三つの作品のプロットをぱぱっと思いついたが、あえて省略。お知りになりたい方には直接お教えします)
 で、『駅前旅館』なんてタイトルだから、それこそシリーズ中の一作だろうと思う人もいるかもしれないが、さにあらず、これは井伏鱒二の同名作品を八住利雄が脚色し、豊田四郎が映画化した、さしずめプレシリーズとでも呼ぶべき作品だ。

 おなじみ、森繁、伴淳、フランキーのトリオに、森川信、山茶花究、浪花千栄子、左卜全、藤村有弘、都家かつ江、沢村いき雄、武智豊子、若水ヤエ子といった顔触れが揃っていることからも明らかなように、この『駅前旅館』はもちろん喜劇で、例えばフランキーがロカビリーの真似をしていると、新興宗教のじいさんばあさんどもが修学旅行の女学生といっしょになって踊り狂い始めるシーン(若き日の市原悦子も一枚かんでいる)などおかしくって仕方がないのだが、一方で森繁演じる上野の駅前旅館の古風な番頭次平が徐々に居場所を失っていく様が巧みに描かれるなど、単なる笑劇軽喜劇には終わっていない。
 またそうした作品役回りに相応しい演技を森繁久彌も披歴している。

 ほかに、淡島千景(森繁との絡みでは、どうしても同じ豊田監督の『夫婦善哉』を思い出してしまう)、淡路恵子が作品に彩りをもたらし、草笛光子(淡島淡路の色っぽさ艶っぽさに対して、彼女は怜悧冷徹な役柄だ。巧い)、三井美奈、藤木悠、多々良純、堺左千夫(プログラムにはカッパ=強引な客引きの一員とあるが、実際は警官役)、大村千吉、谷晃、野村昭子も出演。
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2012年05月31日

暗夜行路

☆暗夜行路<1959年、東京映画>

 監督:豊田四郎
 原作:志賀直哉
 脚本:八住利雄
(2012年5月31日、京都文化博物館フィルムシアター)


 箔付けかっこつけもあってか、中学高校とハルキやばななといった流行りの文学には目も向けず、日本や西洋の古い小説ばかり読みふけっていた。
 あたら中学生の分際でアナトール・フランスの『神々は渇く』<岩波文庫>なんて読んで、「フランス革命は…」などといっぱしの文学通を気取っていたのだから、厭味ったらしいったらありゃしないこまっちゃくれたガキだけれど、今となってはその頃そういった作品に触れておいて、テキストの行間を読む力はある程度ついたかなと思わないでもない。
 どちらかと言えば苦手だった白樺派だが、志賀直哉の新潮文庫の三分冊の短篇集は愛読した。
 筋の通ったミニアチュアというか、技巧と自然さとが巧みに混ざり合った結構に魅力を感じたからである。
 ただ、『暗夜行路』にだけはどうしても手をつけることができなかった。
 いや、読もう読もうとは思うのだけれど、さて読もうという段になって手が止まる。
 で、いつしか古い小説愛好時代は終わり、『暗夜行路』に関しては梗概ばかりを知るだけで、今の今まで読まないでいた。
 だから。豊田四郎監督の『暗夜行路』は、まっさらとまでは言えないものの、やはり原作未経験者として接することができたことになる。

 父の父=祖父と母との間の不義の子であることを知った時任謙作(池部良)は懊悩の末、長年共に暮らしてきた祖父(実の父)の妾お栄(淡島千景)との結婚を望むも、父の反対もあって適えられない。
 そんな失意の謙作は滞在先の京都で直子(山本富士子。ただし、敦賀の出ということで京都弁を聴くことはできず)と出会い、結婚するが…。
 といった、どうにもじぐじぐじぐじぐ爛れるような内容だが、そこは「三人称」の芸術・映画であるからして、たとえモノローグを多用しようとも(モノローグが、ラストで謙作から直子に移るのは原作を踏襲したものではないか)、たぶん原作ほどには俺が我がの思索の世界、暗闇を進むようなどんよりとした世界に入り込むことはない。
 2時間20分の尺は、生理的には厳しいものがあるが、原作を上手くダイジェストしただろう八住利雄の脚本と豊田四郎のきっちりとした演出もあって、それほど観飽きることはない。
 ちょっとご都合主義とも思えなくない後半の展開など気になる点もなくはないが(白樺派的っちゃ白樺派的とはいえ)、池部良や山本富士子、淡島千景の演技をはじめ、観どころも少なくなかった。
 千秋実や仲代達矢、汐見洋、市原悦子のほかは、杉村春子、中村伸郎、長岡輝子、三津田健、賀原夏子、仲谷昇、北村和夫、加藤治子、南美江、荒木道子、小池朝雄、加藤武、本山可久子、岸田今日子、北見治一ら文学座の面々が脇を固めている。

 さて、せっかく映画も観たんだし、原作の『暗夜行路』を読んでみるか!
 てな気には、実はなっていないのだよね、これが…。
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新藤兼人を悼む

 日本を代表する映画監督で脚本家の新藤兼人が亡くなった。先月29日に100歳の誕生日を迎えたばかりだった。
 はじめ現像部として映画界に入り、のちに溝口健二の厳しい指導と妻の援けを受けながら映画のシナリオ執筆の研鑚を積む。
(この間の様々な出来事とその妻の病死に関しては、監督デビュー作品となる『愛妻物語』で詳しく描かれている)
 その後、松竹へと移動するが、海軍に召集され宝塚で敗戦を迎える。
 松竹復帰後、吉村公三郎監督とコンビを組んで、数々の作品を世に送り出すが、興業上の理由から幹部と対立して松竹を退社し、吉村監督らと近代映画協会を設立した。
 独立プロの厳しい条件下、自ら監督として『原爆の子』、『裸の島』、『人間』、『鬼婆』、『悪党』、『裸の十九才』、『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』、『竹山ひとり旅』、『北斎漫画』、『さくら隊散る』、『午後の遺言状』、『生きたい』等、名作、力作を数多く発表し、90歳を過ぎても『ふくろう』、『石内尋常高等小学校 花は散れども』を撮影。
 さらに、昨年は99歳で『一枚のハガキ』を撮り上げた。
 また、脚本家としても映画、テレビドラマで多数の作品を遺し、著書も少なくない。
 新藤監督に関しては、『一枚のハガキ』を完成させての死で本望なのではという声もあり、またたまたま目にする機会を得たNHKのドキュメンタリー番組からも『一枚のハガキ』が最後の作品となるのではと感じてもいたが、しかし、そのライフワークとなるべき広島への原爆投下の瞬間の映画化が成し遂げられなかったことを、新藤監督はやはり無念に思っていたのではないか。
 製作費約20億円。
 確かに、大変な金額だ。
 けれど、世のあれやこれやを考えるに、僕は非常に悔しくてならない。
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。

 以前も別に記したことがあるが、新藤兼人の生への執念は、母や最初の妻、「戦友」、広島の人々、そして乙羽信子や殿山泰司、吉村公三郎といった自らより先に亡くなった人々への強い想いに支えられていたような気がする。
 そういえば、盟友の一人、林光さんも新藤監督より先に亡くなられてしまったのだった…。

 なお、新藤兼人については、自著のほか、殿山泰司の一連の作品が詳しいし、先日読み終えた麿赤兒の『怪男児麿赤兒がゆく』<朝日新聞出版>や高井英幸の『映画館へは、麻布十番で都電に乗って。』<角川書店>にもその印象的なエピソードが綴られている。

 そうそう、来月、京都文化博物館のフィルムシアターで、新藤兼人の脚本作品が特集上映される予定だ。
 脚本家としての新藤兼人の魅力を再認識する機会になると思う。
 お時間おありの方はぜひ足をお運びいただきたい。
(本来は、生誕100年を記念したプログラムだったのだけれど。ああ…)
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2012年05月30日

螢火

☆螢火<1958年、歌舞伎座・松竹>

 監督:五所平之助
 原作:織田作之助
 脚本:八住利雄
 撮影:宮島義勇
 音楽:芥川也寸志
 文殊九助の歌:西口克己*
(2012年5月29日、京都文化博物館フィルムシアター)


 幕末史を語る際、必ずと言ってよいほどとり上げられる出来事に、薩摩藩内の倒幕急進派の粛清(1862年)と幕府方による坂本龍馬急襲(1866年)の、二つの寺田屋事件がある。
 織田作之助の短篇『螢』による八住利雄の脚本を映画化した、五所平之助監督にとって生涯唯一となる時代劇『螢火』は、それこそ寺田屋を舞台としているだけに、当然二つの事件が劇中に登場する。
(薩摩藩の急進派を代表する有馬新七を数年前に亡くなった佐竹明夫が演じ、坂本龍馬を20代半ばで早世した森美樹が演じている。正直、森美樹の演技はあまり達者とは言えないが、人の心を惹きつける清々しさ若々しさはあると思う)
 ただし、この『螢火』の主人公はあくまでも寺田屋の女将お登勢であって彼ら勤皇の志士たちではない。

 跡取りと目される伊助(伴淳三郎。伏見の言葉にはどうしても無理がある。しかし、好人物とは言えないけれどさりとて悪い人間でもないこの伊助という人物の微妙さが伴淳の柄によく合っている)の嫁とはなったものの、伊助とはなさぬ仲の病気の姑(三好栄子。好演)や小姑(水原真知子)から日々嫌がらせを受けるお登勢だったが、持ち前の人柄の良さとまじめさで徐々に寺田屋にとってなくてはならない存在となっていく。
 だが、姑が亡くなったことをこれ幸い、伊助は妾を囲うわ、浄瑠璃は唸るわ。
 そんな折も折、坂本龍馬が寺田屋にやって来て…。
 といった展開の中で、お登勢という一人の女の半生が非常に丹念に描かれていく。
 また、そうしたお登勢の心のうち、哀しさや切なさ虚しさ、覚醒、高揚、喜び、諦めといった感情の様々な変化を淡島千景が見事と呼ぶほかない細やかさで演じていく。
 その美しさ巧さには、ただただ惚れ惚れするばかりだ。
 加えて、若尾文子(養女のお良。けなげな彼女が坂本龍馬と出会うことで変化する様には、どうしても増村保造の作品を思い起こす)、沢村貞子、三井弘次、須賀不二夫、三島雅夫、東野英治郎、中村是好、初音礼子(関西人の役ではおなじみだった。宝塚出身)、石井富子(現トミコ。若い!)ら共演陣も各々の役柄をよくとらえた演技を行っていて、とてもしっくりきた。

 いずれにしても、観ておいて正解の一本だった。
 ああ、面白かった!


*文殊九助の歌は、劇中坂本龍馬が歌う伏見の義民を歌った歌。
 なお、西口克己は伏見出身の作家で、日本共産党の党員として京都市議会議員や府議会議員を長く務めた。
(西口さんについては、その生前の活躍を知る方たちから度々お話をうかがったことがあるが、ここでは省略する)
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2012年05月24日

黄色いからす

☆黄色いからす<1957年、歌舞伎座・松竹>

 監督:五所平之助
 脚本:館岡謙之助、長谷部慶治
 台詞:由起しげ子
 撮影:宮島義勇
 音楽:芥川也寸志
(2012年5月24日、京都文化博物館フィルムシアター)


 昔『あばれはっちゃく』という少年少女向けのドラマがあって、善意で行動しているはずがへまをやっては東野英心演じる父親に叱られるはっちゃくという少年の気持ちが痛いほどわかるような気がしたが、この『黄色いからす』も…。
 と、書きかけて、いやいや、実はそれだけじゃないんだよなあ、と思ってしまう。

 五所平之助にとって初のカラー作品となる『黄色いからす』は、出征のために父親の顔を知らずに成長してきた少年(設楽幸嗣)が、中国大陸から引き揚げてきたその父親(伊藤雄之助)ばかりか母親(淡島千景)との関係にも深いひびを入れてしまい…。
 といった展開なんだけれど、先日CDレビューでちらと触れたように、一年の大半を航海に出て家を留守にしていた父と子供の頃の僕の関係も、けっこう微妙なものがあったんだよね。
 当然、父のことを嫌いってわけじゃないんだけど、離れて暮らす時間が長い分、うまく距離がとれないというか。
 それに、父は父で、幼いときに実の父を徴用先の三菱の工場で原爆で亡くしたのち、実の父の弟(ちなみに、テレビのプロレス中継を明かりもつけずに観ていたのがこの祖父)と母親が結婚したことで、父と子の関係を身をもって知らないこともあり、僕に対してつい斜に構えたような態度をとってしまう。
 映画の中の伊藤雄之助が戦地帰りの辛さ苦しさを味わっているように、僕の父もいろいろしんどかったろうな、と今だったら思えるが、その頃はこちらも幼いのでどうしても納得がいかなくて。
 少年と父親のディスコミュニケーションが大きなテーマとなっているだけに、どうしても自分自身の子供の頃のことを思い起こさずにはいられなかった。
(ただ、淡島千景演じる母親が夫である父親に加えて新しく生まれて来た妹に対して愛情を強く向けることで少年をはじき出す結果となる映画と異なり、僕の母の場合は、早産で生まれた弟がすぐに亡くなってしまった上に、長く身体の調子を悪くしてしまったのだが。そのせいで、たまさか近くにあった母方祖父母の家で過ごす時間が多かった。そうそう、母の体調不良には、妊娠中に服用したある風邪薬が大きく関係しているのではないかと、僕は疑っている)

 それはそれとして、少年(子供)や両親(夫婦)、家族、そして周囲の人々(社会)との関係が丹念に、かつ優しい視線をもって描かれており、非常に腑に落ちる作品だった。
 伊藤雄之助は、根が善人でありながら戦争体験もあって鬱屈とならざるをえない父親という役柄にぴったりだったし、淡島千景もときに母親でありときに妻であるという一人の人間の感情の変化をよく表わしていた。
 また、少年たちを暖かく見守る隣人や教師を田中絹代(五所監督とは、国産初トーキーの『マダムと女房』等でおなじみ)や久我美子(五所監督では、原田康子原作の『挽歌』にも出演)がそれぞれ演じているほか、飯田蝶子、多々良純、高原駿雄、中村是好、沼田陽一らも出演している。
 なお、キャメラマンは宮島義勇。
 少年の描く黄と黒のみを配色した絵(作中、精神的に不安定な子供が選ぶ色である旨説明がある)をはじめ、彼にとっても初めてのカラー作品ということを十二分に意識した撮影を行っていた。
 柔らかさ甘さと不安をためた芥川也寸志の音楽も作品にぴったりで、胸につんときた一本。
 たまには、こういう作品もいいな。
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2012年05月23日

早春

☆早春<1956年、松竹大船>

 監督・脚本:小津安二郎
 脚本:野田高梧
(2012年5月22日、京都文化博物館フィルムシアター)


 実際にこういう捉え方が当たっているかどうかは置くとして、僕にとって黒澤明がぐいぐいぐいぐい引っ張る感じの作品の造り手とすれば、小津安二郎はじわじわじわじわ引っ張る感じの作品の造り手ということになる。
 そして、この『早春』も、エピソードを巧く積み重ねていってじわじわじわじわと人の心を引っ張っていく、小津安二郎らしい作品だ。
 ざんない言い方をすれば、話の肝は、(岸恵子演じる女性との)不倫による夫妻(池部良と淡島千景)の危機なんだけれど、それだけに留まらず、サラリーマンとして働き続けることであるとか、生や死といったことであるとかにまで思考は拡がっていく。
 と、言っても、しんねりむっつり芸術家を気取らないところも小津流で、ときに乾いた笑い(杉村春子と宮口精二の夫妻のやり取りなど)を織り込みながら、細やかで丁寧な作品造りが行われていて、実にしっくりとくる。
(個人的には、池部良の同僚宅のシーンでの音楽の使い方が印象に残る。まるで、黒澤明の『酔いどれ天使』の「かっこうワルツ」のようだ)
 また、上述した人たちをはじめ、浦辺粂子(成瀬巳喜男の『稲妻』なんかもそうだけど、市井の母親を演じさせたら本当にぴか一だと思う)、笠智衆、山村聰、高橋貞二、中北千枝子、東野英治郎、加東大介、三井弘次、中村伸郎、三宅邦子、須賀不二夫、田中春男、長岡輝子といった面々が柄によく合った演技を繰り広げている。
 ゆっくりと映画を愉しみたいという人にはぜひお薦めしたい一本である。
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2012年05月17日

夫婦善哉

☆夫婦善哉<1955年、東宝>

 監督:豊田四郎
 原作:織田作之助
 脚本:八住利雄
(2012年5月17日、京都文化博物館フィルムシアター)


 毎週木曜日は、週刊文春の発売日で、きまって小林信彦の連載エッセイを立ち読みしているのだが、今号は連載700回を記念して通常の見開き2頁が4頁に増頁されていた。
 で、小林さんの名著『日本の喜劇人』の総括が改めて行われていたのだけれど、森繁久彌、それも今日観る予定にしていた『夫婦善哉』に関して詳しく紹介されている。
 おまけに、助演者山茶花究のことまで記されていて、これはまさしくグッドタイミングだった。

 織田作之助の原作を、八住利雄の脚本、豊田四郎の監督で映画化した『夫婦善哉』だが、小林信彦ならずとも絶賛したくなるというものだ。
 大阪船場の商店の跡取り息子柳吉が、芸者の蝶子と惚れあって、妻や娘を放り出し駆け落ちしたまではよかったが…、という切るに切れない男女の関係を、ときにユーモアを交えながらたっぷりじっくり描いた作品なのだけれど、まずもって柳吉を演じる森繁久彌と蝶子を演じる淡島千景の丁々発止の掛け合いには惚れ惚れしてしまう。
 どないもこないもしゃむないが、どこかにくめない男の哀しさ情けなさ屈折具合を軽やかに体現する森繁久彌(ぼそっと口にする捨て台詞がまたいい)。
 一方、そんな男を恋し尽くし愛し尽くしやまない蝶子の感情の様と美しさ色っぽさを巧みに表現してみせる淡島千景。
 絶妙のコンビネーションというほかない。
 むろんそこには、豊田四郎の細部まで目配りの届いた作劇があることも忘れてはならないだろうが。
 また、小林信彦も高く評価する山茶花究の冷徹で神経質な女婿ぶりも強く印象に残るし、浪花千栄子、司葉子、田中春男、田村楽太(蝶子の父親役。とても魅力的な役者さんだ)、三好栄子、小堀誠、志賀廼家弁慶ら助演陣も粒ぞろいだ。

 観てよかったと心底思える一本。
 ああ、面白かった!
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2012年05月16日

にごりえ

☆にごりえ<1953年、文学座・新世紀映画社>

 監督:今井正
 原作:樋口一葉
 脚色:水木洋子、井手俊郎
 脚本監修:久保田万太郎
(2012年5月16日、京都文化博物館フィルムシアター)


 その長い生涯のうち、数多くの作品を遺した今井正だが、この『にごりえ』は、そうした彼の作品の中でも屈指の一本の一つということになるのではないか。
 水木洋子と井手俊郎によって脚本化された、樋口一葉の『十三夜』、『大つごもり』、『にごりえ』(もっとも尺数が長い)の三作品をオムニバスのスタイルで映画化したものだが、樋口一葉自身が日々直面し痛感していたであろう明治の女性の苦境・悲劇(貧しさと切っても切れない)が丁寧に、なおかつ抑制された表現で描かれていて、こちらの心に切々と伝わってくる。

 また、役者陣も作品の世界観に沿って見事である。
 優しく善人であるがゆえに過ちを犯してしまう『大つごもり』のみねを演じた久我美子の可憐さや、酌婦の様々な顔を巧みに演じ分けた『にごりえ』の淡島千景の達者さと色っぽさはもちろんのこと、脇を固める文学座の面々も流石だ。
(当然そこには、脚本監修で名を連ねている、くぼまん久保田万太郎との共同作業の成果も大きく影響していると思う)
 京都文化博物館フィルムセンターのプログラムにクレジットされているのは、『十三夜』で田村秋子、丹阿弥谷津子(金子信雄夫人。第一話とはいえ、彼女がヒロインを演じていることからも、当時の文学座での彼女の位置がわかる)、三津田健、芥川比呂志、『大つごもり』で中村伸郎、長岡輝子、龍岡晋、仲谷昇、荒木道子、『にごりえ』で杉村春子、宮口精二、南美江、北城真記子、賀原夏子、文野朋子、十朱久雄だけだが、ほかに気がついた範囲で、北村和夫、岸田今日子、有馬昌彦、小池朝雄、青野平義、北見治一、稲垣昭三、神山繁、加藤和夫、加藤治子、小瀬格、加藤武、内田稔も出演していた。
 あと、『にごりえ』には山村聰が重要な役回りで出演しているし、子役として前進座の河原崎次郎と松山政路も出ている。

 フィルムの状態はあまり芳しくなかったが、大きなスクリーンで改めて観ておいて正解の作品だった。
 演劇関係者にも強くお薦めしたい。
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お茶漬の味

☆お茶漬の味<1952年、松竹大船>

 監督・脚本:小津安二郎
 脚本:野田高梧
(2012年5月15日、京都文化博物館フィルムシアター)


 実の甥、黒川鍾信による本格的評伝『木暮実千代』<NHK出版>を紐解くと、木暮実千代にとって唯一の小津安二郎監督出演作となる『お茶漬の味』で散々な目にあったことが、詳らかにされている。
 詳しくは、同書の297頁から301頁、第六章の「日本映画の黄金時代を舞い上がる」のシーン9をご参照いただきたいが、親友役で出演した上原葉子(小桜葉子。上原謙の妻。加山雄三の母)から嫌がらせを受けるわ、小津安二郎との相性は悪いわと、「踏んだり蹴ったりの目にあった」木暮実千代は、後年彼女の付き人の経験もある妹がお茶漬を食べようとしている際、「顔色を変え、ひっつかむように茶碗を手にすると台所へ走って中身を捨て」、「自身もお茶漬を口にしなかった」というのだから、相当のものがある。
 ただ、実際作品を観てみると、役とのつき具合は置くとして、そんな裏の事情など露ほど見えてこないのだから、やっぱり映画は面白い。

 ええとこの生まれの妻と田舎出の夫のぎくしゃくした関係(味噌汁かけご飯のくだりなど巧いし、子供がいない夫婦という設定も重要だ)に、姪御の見合い話が絡まって…、というのは小津作品ではおなじみの展開だが、プロ野球の試合風景を皮切りに、当時流行のあれやこれやがふんだんに取り入れられているのは、戦時中に書かれた脚本を戦後になって仕立て直したことも大きいのだろう。
 思うに任せない人間(夫婦)関係、女性どうし男性どうしの友情、戦争の記憶、さらには子供の効果的な使い方等、小津作品に欠かせない様々な要素が巧みに盛り込まれていて観飽きない*。
 木暮実千代に対する佐分利信のぬーぼーとした雰囲気はいつもながらに嬉しいし、淡島千景、津島恵子、鶴田浩二、笠智衆、柳永二郎、十朱久雄、望月優子らも役柄に合った演技を各々披歴している。
 なお、上原葉子同様、ジャーナリストで随筆家の石川欣一が社長役として「特別出演」しているが、なかなか堂に入った演技だ。
 また、日活以前の北原三枝の姿を初めのほうのシーンで観ることができる。

 まさしく、お茶漬の味的な一本だった。


 *ただし、今回上映されたフィルムにはけっこうカットがある。
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2012年05月04日

本日休診

☆本日休診<1952年、松竹大船>

 監督:渋谷実
 原作:井伏鱒二
 脚色:斎藤良輔
(2012年5月4日、京都文化博物館フィルムシアター)


 渋谷実は、喜劇の造り手として知られるが、彼の遺した喜劇の中でも『本日休診』は屈指の一本と呼ぶことができるのではないか。
 同名作品や『遙拝隊長』といった井伏鱒二の小説を下敷きに、小さな医院の老先生と「本日休診」にもかかわらず次から次へとやって来る患者たちとのエピソードを通して、苦しみや辛さを抱えつつもなんとか生きて行こうとする人々のあり様や未だ癒えない戦争の深い傷などがしっかりと浮き彫りにされていく。
 と、言っても、そこはあくまでも喜劇、乾いた笑いの仕掛けもふんだんに盛り込まれているが(望月優子の診察のくだりとか)、それでもラストの情景にはぐっと心を掴まれた。

 役者陣では、まずもって扇の要の役回りを演じた柳永二郎が見事。
 ときに激しい憤りをあらわにするも、善人好人物の老医師を達者に演じている。
 落ち着いた感じのナレーションも素晴らしく、永井荷風らの作品の朗読は残っていないものか。
 また、佐野眞一のインタビュー『怪優伝』<講談社>でも触れられているように、この『本日休診』を自らの生涯の十本のうちの一本に選んでいる三國連太郎も、戦争で気の狂った青年の役をナイーヴに演じ切っていて、強く印象に残る。
 中でも、ラストの表情!
 ほかに、淡島千景(淡島さん、好きだなあ)、田村秋子(杉村春子が彼女の影響を強く受けていることがよくわかる)、鶴田浩二(本当は気の狂った青年役のはずがそれを三國連太郎に奪われる形となり、そのこともあって終生三國さんを敵視したことが『怪優伝』で語られている)、角梨枝子、佐田啓二、岸恵子、中村伸郎、長岡輝子、十朱久雄、多々良純、増田順二、山路義人らが出演している。

 おかかなしさ(by色川武大)に彩られた作品。
 ああ、面白かった!
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2012年05月02日

麦秋

☆麦秋<1951年、松竹大船>

 監督・脚本:小津安二郎
 脚本:野田高梧
(2012年5月2日、京都文化博物館フィルムシアター)


 今さら小津安二郎の『麦秋』についてつらつら書き連ねるのもどうかと思うけど。
 『麦秋』、やっぱり観てよかったなあ。

 婚期の遅れた娘(28歳で婚期はどうこうって…)の結婚を大きな軸に、鎌倉の中流家庭の日常生活を通して、過ぎ去って行くものやこと(そこには戦争の深い傷も含まれている)への痛切な想いを描き出した一本。
 と、まとめるとあまりにも単純に過ぎるかな。
 二時間を超える作品だが、かつて喜劇でならしたことを想起させるくすぐりや仕掛けがそこここに散りばめられていること(子供の使い方も巧いや)や、ゆっくりとしたテンポでありながらも停滞することのない筋運びもあって、全く観飽きることがなかった。
 そして、行間を読むというか、あえて多くを語らない抑制された映像と映像、台詞と台詞、演技と演技の間にあるものの豊かさに改めて感心した。
(女性どうしの親しい感情が巧みに表現されている点も、非常に興味深い)

 原節子をはじめ、笠智衆、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子、杉村春子、二本柳寛、高堂國典、佐野周二(様々な意味で興味深い人物像)、宮口精二、高橋豊子、井川邦子といった役者陣も作品の世界観によく沿った演技を披歴していて嬉しかった。

 なお、今月の京都文化博物館のフィルムシアターは、今年2月に亡くなった淡島千景を追悼するプログラミングとなっているが、この『麦秋』では、原節子演じる主人公の親友役を陽性軽快に演じていて、強く印象に残る。
 それにしても、若き日の淡島さん、キュートだ。

 ああ、面白かった!
 できれば、『晩春』も観たいなあ。
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2012年04月27日

大満足の『悪名市場』

☆悪名市場<1963年、大映京都>

 監督:森一生
 原作:今東光
 脚本:依田義賢
(2012年4月27日、京都文化博物館フィルムシアター)


 タイトルからもおわかりの如く、勝新こと勝新太郎演じる八尾の朝吉と、田宮二郎演じる清次(亡くなったモートルの貞の弟という設定。もしかしたら、『男たちの挽歌』は、この「トリック」をいただいたのではないか?)のコンビが大活躍する『悪名』シリーズ中の一本である。

 で、今回は、芦屋雁之助小雁兄弟演じる贋の朝吉清次が絡んで話が進んでいくのだけれど、登場人物出演者の見せ場をきっちり設けつつ、巧みにドラマを造り出した依田義賢(溝口作品でおなじみ)の脚本に、森一生の手堅い作劇もあって、あっという間に一時間半が過ぎてしまった。
 当然、勝新田宮の軽妙さを兼ね備えたかっこよい演技が見物であることは言うまでもないが、一方の偽物二人喜劇人ぶり、ばかりか、ここぞというところで見せるシリアスな演技も印象に残る。
(特に、悪党にはめられて嬲り者にされたあとの雁之助の表情!)
 ほかに、ほわんほわんくにゃりくにゃりとした雰囲気の瑳峨美智子をはじめ、田中春男、松居茂美(あまり映画には出演していないが、存在感がある)、藤原礼子、茶川一郎、曾我廼家五郎八、西岡慶子(後述、小雁さんも話されていたが、五郎八の娘)、白木みのる、花沢徳衛、永田靖、横山アウトらが、各々の柄に合った演技を披歴していた。
(加えて、ラストの藤田まことの出演もオチがきいていていい)

 しかも、上映終了後には小雁さんのトークまであって大満足というほかない。
 ああ、面白かった!


 なお、この『悪名市場』に関しては、小林信彦も芦屋雁之助を追悼する一文「雁之助さんのような生き方」(『本音を申せば』<文春文庫>所収)で、好きな作品として触れている。
 『悪名市場』を未見でない方は、よろしければご参照のほど。
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2012年04月25日

赤い天使

☆赤い天使<1966年、大映東京>

 監督:増村保造
 原作:有馬頼義
 脚本:笠原良三
(2012年4月25日、京都文化博物館フィルムシアター)


 AKB48の『上からマリコ』じゃないけれど、当人はいたって真面目も真面目、大真面目なのに、「君は本気なのか? JOKEなのか?」と激しく問い質してみたくなるような行動をとる人間がいる。
 さしずめ、『赤い…』シリーズや『スチュワーデス物語』、『少女に何が起こったか』等、いわゆる一連の大映ドラマなど、そうした本人は本気、傍から見たら狂気といった人物のオンパレードで、子供心に、何ゆえこの人たちはこうも力んで台詞を口にしているのだろうと不思議に思ったものである。

 で、こうした大映ドラマのフォーマットを造り上げた人物こそ、増村保造なのだが、彼の『赤い天使』もまた、当然の如く大映ドラマを彷彿とさせる展開内容となっていた。
 だいいち、タイトルからして『赤い…』だし、強い愛情で結ばれる上官の軍医(芦田伸介が役柄にとてもよく合っている)と従軍看護婦(若尾文子。後述)の関係には、『スチュワーデス物語』のあの二人をどうしても思い出してしまう。
 ただ、後年のドラマがあまりに行き過ぎて過剰過度過激過敏の邪劇に陥ってしまったのに対し、『赤い天使』のほうは、確かにふんぷんと邪劇臭を漂わせながらも(例えば、終盤、周囲を敵の中国軍に囲まれてからの二人のやり取りの中には、意図はわからないでもないが、やっぱりそれはないやろと突っ込みたくなるシーンがある)、極限状態のもとで、それでも、いやだからこそか、自己の感情を抑制することなくストレートに噴出させるという強い自我のあり様や、エロス(性=生)への欲求を克明に描き出すことで、人間のドラマとしてしっかりと踏み止まっているように、僕には思われた。
 一つには、主人公のあどけなさや可憐さと、情念の激しさを演じ分ける若尾文子という演技者の存在も大きかったのだろうが。
 いずれにしても、増村保造という表現者がどうして生き急がざるをえなかったかすらが感じられるような一本だった。
(どの監督でもそうだけれど、こと増村監督に関しては、単に表面的な作風を真似してみても全く意味がないと改めて思った。そんなことをしてみたところで、中身のない上っ面だけのすかすかなものにしかならないだろうから)

 それにしてもメルヘンである市川崑監督の『ビルマの竪琴』を間に挟んで、亀井文夫監督の『支那事変後方記録 上海』(残念ながら未見)と『戦ふ兵隊』、そしてこの『赤い天使』を同じ月に並べてみせた京都文化博物館フィルムシアターのプログラミングは、本当に見事だと思う。
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2012年04月24日

関の弥太っぺ

☆関の弥太っぺ<1963年、東映京都>

 監督:山下耕作
 原作:長谷川伸
 脚本:成沢昌茂
 音楽:木下忠司
(2012年4月24日、京都文化博物館フィルムシアター)


 血を分けた親兄弟との別離と思慕の念。
 例えば、大村彦次郎の『時代小説盛衰史』<筑摩書房>を紐解いてもらえればわかることだが、長谷川伸の一連の作品は、自らの幼時の体験、深い心の傷が強く投影されたものとなっている。

 そして、そうした長谷川作品のエッセンスを巧みに汲み取り、新たに仕立て直したのが、山下耕作監督による『関の弥太っぺ』だ。
 生き別れた妹への想い、そしてひょんなことから命を助け、実の親類のもとへと送り届けることになった娘への想い。
 そんな主人公の関の弥太郎の強い想いを、錦ちゃんこと中村錦之助(のちの萬屋錦之助)は、たぶん彼の地である人柄のよさからくる優しく柔らかい表情や哀しみの表情、逆にしっかり造り込んだ厳しく険しい表情を見事に使い分けながら、しっかり演じ切っている。
 中でも、妹がすでに亡くなっていたと知ったときの弥太郎の慟哭には、ぐっと心を動かされた。
 加えて、この山下監督版では、弥太郎と対照的な箱田の森介(木村功が好演。そして、同時期に撮影された内田吐夢監督の『宮本武蔵』の本位田又八をどうしても思い起こす。事実、山下監督は『宮本武蔵』の助監督を務めていた)が人間の弱さ、狡さを体現することで、物語に奥行きを生み出してもいた。
 また、月形龍之介や夏川静江、安部徹、鳳八千代、岩崎加音子、坂本武、十朱幸代(個人的には、小さい頃を演じていた上木三津子のほうが達者に観えた)、沢村宗之助、砂塚秀夫といった共演陣も柄に合った演技を行っていたのではないか。
 一人、彼を狙う飯岡勢へと向かって歩いて行くラストの弥太郎の姿も強く印象に残る。

 そうそう、東映京都の作品ということのほか、木下忠司の音楽や大坂志郎(達者、と言うより達者過ぎる演技を披歴)、俳優座の武内亨の出演もあったりして、どうしても後年のナショナル時代劇を思い出してしまったことを付け加えておきたい。
 いや、まあ、東映京都の時代劇映画のフォーマットが、ナショナル時代劇に受け継がれているということなんだけど、実際のところは。

 いずれにしても、時代劇好きの人間には大いに満足のいった一本だった。
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2012年04月04日

戦ふ兵隊

☆戦ふ兵隊<1939年、東宝作品>

 監督・編集:亀井文夫
(2012年4月4日、京都文化博物館フィルムシアター)


 大きい力、大きな声が世を席巻する中で、それって違うんじゃないの? という意志を持ち続けることは非常に難しい。
 だからこそ、そうした状況と如何に向き合うかということは、表現者にとっても忘れてはならない大切な課題の一つだろう。

 本来戦意高揚の目的で製作されながら、結果日中戦争の悲惨さを色濃く描き出してしまった亀井文夫監督の『戦ふ兵隊』は、様々な意味で「如何に向き合うか」を考える際の重要な教材となるのではないか。
 確かに、日本軍による武漢作戦を讃えるかのような映像や文面も一応挿入されているのだが、観終えてより強く感じるのは戦地で闘う兵士たちの辛さであり、中国の人々の強かさであった。
(細かい例を挙げれば、軍楽隊が演奏するスッペの『軽騎兵』序曲のうち、中間部の葬送行進曲的な音楽のみが使用されているあたりも、亀井文夫の確固とした意志の表われのように感じられる)
 亀井監督自身の思惑は別として、厭戦的な内容との判断から公開禁止になったということも理解ができないことではない。
 いずれにしても、いろいろと考えさせられた作品である。

 なお、この『戦ふ兵隊』をはじめ、亀井文夫に関しては、彼自らが著した『たたかう映画』<岩波新書>が詳しい。
 ご興味ご関心がおありの方は、ぜひご一読のほどを。
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2012年03月16日

赤西蠣太

☆赤西蠣太<1936年、千恵蔵映画・日活>

 監督:伊丹万作
 脚色:伊丹万作
 原作:志賀直哉
(2012年3月16日、京都文化博物館フィルムシアター)


 東映時代劇の二大御大といえば、市川右太衛門御大と片岡千恵蔵御大ということになるが、生涯時代劇スターの看板を掲げ続けた右太衛門御大はひとまず置くとして、千恵蔵御大のほうは、どこかすっとぼけたような三の線のイメージが強い。
 特に、『大岡越前』シリーズの大岡忠高(忠相=越前の父親)は、頑固一徹な中に愛嬌というか、フラがあって、その個性的なエロキューション(木久扇師匠の十八番の一つ)ともども未だに忘れられない。
 そして、そんな後年の千恵蔵御大を彷彿とさせるのが、伊丹万作監督による『赤西蠣太』の赤西蠣太役である。

 いわゆる伊達騒動を主題とした『赤西蠣太』は、志賀直哉の小説を原作に、伊丹万作自身が巧妙に再構成し直した作品だが、片岡千恵蔵は朴訥として人柄のよい奥手なタイトルロールを力まず飄々と演じ切っている。
 また、今では伊丹十三の父親としてのほうが通りのよい痛み万作の作劇も、笑いのツボもよく押さえて軽快、全くべたつかない。
(片岡千恵蔵は原田甲斐を一人二役でこなしており、こちらのほうで二枚目二の線の見せ場が用意してある)

 ほかに、原健作、瀬川路三郎、上山草人、杉山昌三九らが出演。

 なお、今月の京都文化博物館フィルムシアターの特集は「没後30年 俳優志村喬の世界」ということで、赤西蠣太の同僚役を志村喬が演じているが、滑稽さとまじめさを兼ね備えた彼らしい役回りだった。

 そうそう、志村喬といえば、『大岡越前』で小石川療養所の海野呑舟先生を演じていたんだっけ。
 現場で千恵蔵御大と志村喬が昔話をする機会はあったんだろうか。
 ちょっと気になるな。
 殿山泰司によると、志村喬は相当無口だったらしいが。
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2012年02月29日

『爛れる』の撮影が無事終了した

 昨日、13時台に阪急桂駅で監督の末長敬司、出演のながたみなみさん(大阪芸大)、監督補・撮影補の二宮健君(同)、録音・整音の平川鼓湖君(京都造形芸大)、制作応援の浜口真由美さんの、『爛れる』撮影第一陣が集合し、撮影場所である洛西ニュータウンの末長敬司宅へ移動する。

 まず、ながたさん、代役の浜口さん、中瀬で、読み合わせ、立ちのリハーサルなどを重ねる。

 そして、17時台に、月世界旅行社の片岡大樹君(京都造形芸大)の案内で、林海象監督の『弥勒』の撮影終了後の大西礼芳さん(同)が合流し、再び読み合わせを行い、休憩ののち、テスト&本番撮影となる。
 で、今日の8時頃にほぼ全ての撮影を終了する。

 自分自身の演技に関しては、正直満足のいくものとは到底言えないが、ながたさん、大西さんという本当に素晴らしい役者さんと共演できたことは、言葉に表わし難い喜びだった。
(完成の暁には、ぜひともながたさん、大西さんのアップの表情を確認してもらいたい)
 加えて、二宮君、平川君(音楽の三上友樹君)という優れたスタッフとともに仕事ができたことや、月世界旅行社の片岡君、浜口さん、高橋志保さんや橋岡七海さんら多くの方々の力強く暖かいサポートにも心より感謝をしたい。
 また、第一作目ということで、末長監督もいろいろと苦労はあったと思うが、この『爛れる』が彼にとって大きな一歩となることを強く祈るばかりだ。

 単に自作(シナリオ)だからということではなく、参加して本当によかったと思える作品だった。
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2012年02月15日

裸足のピクニック

☆裸足のピクニック<1993年、ぴあ・ポニーキャニオン>

 監督:矢口史靖
 脚本:鈴木卓爾
(2012年2月14日、京都文化博物館フィルムシアター)


 ラジオの人気深夜番組『伊集院光の深夜の馬鹿力』に、ピタゴラスイッチならぬ「イタゴラスイッチ」なるコーナーがある。
 ほんの些細なボタンのかけ違いがもとで、泣くにも泣けぬ痛悲しい事態が発生する様を淡々とした語り口で読み上げていくものだが、矢口史靖監督にとって劇場映画第一作となる『裸足のピクニック』など、イタゴラスイッチもイタゴラスイッチ、とんでもないイタゴラスイッチが入ったブラックコメディと評することができるのではないか。
 定期の不正使用が災いし、あわれ主人公の女子校生純子は流浪流転の身となるばかりか、友人たちはヤンキーに転落し、家庭は崩壊、はては商店街も壊滅と、イタゴラスイッチが続くわ続くわ。
 内心そんなんあるかいと突っ込みを入れながら、矢口監督と鈴木卓爾らが生み出した毒の多い世界を愉しむことができた。
 作品の作りにキャスティング(Mr.オクレや梶三和子、泉谷しげる、あがた森魚、映画監督の緒方明も出演はしているが、主人公の純子を演じた芹沢砂織やメフィストフェレス的な祥子を演じた娘太郎については寡聞にしてその後の活動を知らないし、ほかもあまり有名でない人々が出演している。そうそう、ヤンキーになる純子の友人役を鈴木砂羽がやっていた!)ともども、よい意味でも素人臭さを感じたことも事実だが、大好きな西田尚美や加藤貴子が出演している『ひみつの花園』はまだしも、『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』、そして『ハッピーフライト』と、精度が上がった分、希釈化されたきらいもなくはない矢口監督の核になるような部分が明示されている点も、個人的には面白かった。

 それにしても、広岡由里子をかわいくしたような芹沢砂織に、高泉淳子とYOUを足して二で割ったような娘太郎、そして自転車に乗ったおかっぱの女の子、この『裸足のピクニック』のあと、どうしているのかなあ。
 ちょっと気になるなあ。
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2012年02月10日

シコふんじゃった。

☆シコふんじゃった。

 監督:周防正行
 脚本:周防正行
(2012年2月9日、京都文化博物館フィルムシアター)


 もともとそんなに好みじゃないものを、日本相撲協会の理事長に北の湖が再任されたり、外部協会理事に海老ジョンイル海老沢勝治が就任したりで、正直大相撲なんてどうにでもなりやがれの心境の今日この頃だが、今夜久しぶりに『シコふんじゃった。』を観直してみて、いやいやまだまだ相撲も捨てたもんじゃないや、なんて思ってしまうのだから、我ながらあまりにも調子が良すぎる。
 まあ、それだけ『シコふんじゃった。』が面白かったってことで。
(ただし、単純に相撲愛が語られた映画でないことは言うまでもあるまい。そもそもこの作品、『がんばれ!ベアーズ』が下敷きの一つになっていて、その種明かし代わりというか、あいさつ代わりというか、ビゼーの『カルメン』のメロディが引用されている)

 モックン本木雅弘演じる大学生が、卒業のための単位欲しさに廃部寸前の相撲部に加わって、これまたひょんなことから集まったにわか部員たちと時間をともにするうちに、いつしか相撲の魅力にとらえられ、一人の人間としても成長していく…。
 という、らしいっちゃらしい展開なんだけど、竹中直人の怪(快)演技をはじめ、笑いのツボを押さえたくすぐりに笑っているうちに、どんどんこちらも彼らの勝負ぶりに惹きつけられていく。
 最終盤のモックンの土俵姿など本当に感動的で、結末を知っているにもかかわらず、ついつい息を飲み込んでしまったほどだ。
 そしてそれが、じとじととウェットにではなく、乾いたタッチで描かれているのも僕の好みに合っている。

 また、周防監督の丁寧な造形にも好感を覚えるし、上述した本木雅弘や竹中直人をはじめ、柄本明(抑制された演技。だからこそ、この人の怪しさ、狂気が垣間見える)、田口浩正ら役柄によく合ったキャスティングもいい。
 個人的には、強面の審判役片岡五郎が好きだし、大好きな村上冬樹が出演しているのも嬉しい。
 ほかに、清水美砂(実は、僕はあまりこの人のことを買っていない)、六平直政、桜むつ子、周防作品ではおなじみの宝井誠明や宮坂ひろし、水島かおり、手塚とおる(ちょっとした役)らも出演。

 いずれにしても、観直して清々しい気持ちになれる作品で、再見しておいて本当によかった。
 ああ、面白かった!

 ところで、『シコふんじゃった。』の公開(と、いうことは、大学院の入学)からもう20年が経ってしまったのか。
 時の流れはあまりにも速すぎる…。
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2012年02月09日

東京上空いらっしゃいませ

☆東京上空いらっしゃいませ
<1990年、ディレクターズカンパニー・松竹第一興業・バンダイ他>

 監督:相米慎二
 脚本:榎祐平
(2012年2月8日、京都文化博物館フィルムシアター)


 長崎にいた頃からそのきらいはあったものの、大学に入って京都で一人暮らしを始めて決定的となったのが、宵っ張りの夜型生活だ。
 で、CD、ラジオを聴きながら細々と作業を進める癖がつき、結局現在のぶらりひょうたん的な人生へと到っているのだが、まさか学生時代には自分がこんな生き方をするようになるとはついぞ思ってもみなかった。
 まあ、それはそれ。
 今では完全にテレビとおさらばしてしまったけれど、学生の時分など喜んで深夜番組を観たものである。
 市川雷蔵の眠狂四郎にはまったのも、確か読売テレビの深夜枠の映画放映がきっかけではなかったか。
 あと、同じ読売テレビでは、生瀬勝久や古田新太、升毅、牧野エミ、羽野晶紀、立原啓裕、山西惇らが出演した『ムイミダス』など一連の番組や、上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶の『鶴瓶上岡パペポTV』は、ほぼ毎週欠かさず愉しんでいた。
 そういえば、笑福亭鶴瓶が結果として主人公を死に追いやる悪い奴と死神の二役を演じた相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』について鶴瓶自身がおなじみのおもろおかしい口調で話すのに対し、上岡さんが鋭い突っ込みを入れていたことがあったような…。
 などと思いながら、今夜京都文化博物館のフィルムシアターでその『東京上空いらっしゃいませ』を観ていたら、なんのことはない、作品の中で上岡さんと鶴瓶のおしゃべりが音声だけだけどしっかり聞こえてきた。

 と、こう書けばわかるように、『東京上空いらっしゃいませ』をきちんと観るのは、今夜が初めてである。
 いや、同じ相米慎二監督の『台風クラブ』にあてられて、この作品に出演されていた伊達三郎さんのお宅の電話番号にお電話をかけ、「そんなけったいな人おりません」という女性の冷ややかな声に肝を潰した経験もあるくらいの人間だもの、この『東京上空いらっしゃいませ』も一度レンタルビデオで観ようとしたことはあった。
 ところがどっこい、このビデオがとんだ喰わせもので、観始めたとたんグルギャルグルギャルと汚い画像になってあじゃぱー、別の貸しビデオ屋を探してもこれまたなし、もうええわ観んでええ、と断念して以来、ずっと観そびれたままだった。

 そんな『東京上空いらっしゃいませ』だが、いろいろ気になる部分や突っ込みどころ(一つには、バブル時代の作品ということもある。基本的にバブル肯定の作品ではないとはいえ)はなくもないのだけれど、個人的には観ておいてよかったというのが正直な感想だ。
 相米監督というと、どうしても長回しということになって、この作品でもやってるやってると改めて感心し、ハンバーガーショップでバイトを始めたヒロインの牧瀬里穂が何人もの注文を一人でこなそうとしておたおた無茶働きをするシーンでは、これってセルフパロディかいとすら思えて、ついつい笑ってしまったほどである。
 ただ、僕が観ておいてよかったなあと思ったのは、一度死んでしまったヒロインが生き返ることで、生きるということや自分自身について考えるという展開と、牧瀬里穂(どことなく多部未華子に似ている)の初々しい姿が巧く重なり合っていたように感じられたからだ。
 相米監督の演出もあってだが、特に後半の彼女の表情は本当に魅力的だった。

 そうした牧瀬里穂演じるヒロインを支える、と言うより彼女によって目醒めさせられるのが中井貴一(父親の佐田啓二を思い出させる場面が何度かあって、はっとする)。
 二枚目半という役回りは、もしかしたら、アメリカのスクリューボールコメディーを意識してのものかもしれない。
 また、上述した笑福亭鶴瓶は悪役敵役での演技は「おいおい」という出来だが、関西弁丸出しの死神(コオロギ)役は実に柄に合っている。
 山田洋次が気に入ったのも無理はない。
 ほかに、毬谷知子、三浦友和、藤村俊二(まだ枯れていない)、竹田高利、出門英、谷啓、河内桃子らも出演。

 それにしても、『東京上空いらっしゃいませ』が公開されてからの約22年という時の流れをどうしても考えてしまう。
 ディレクターズカンパニーは崩壊し、相米監督をはじめ、出門英(公開直後に死亡)、河内桃子、谷啓が亡くなった。
 そして、『パペポTV』も終わり、上岡龍太郎も引退した。
 そんな中、中井貴一が予想していたほどに変わってはいないように思えるのは、彼が今も若いというより、この頃すでに老成していたからではないか。
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2012年02月07日

恋する女たち

☆恋する女たち<1986年、東宝作品>

 監督:大森一樹
 脚本:大森一樹
 原作:氷室冴子
(2012年2月7日、京都文化博物館フィルムシアター)


 高校生の頃、斉藤由貴が大好きだった。
 と、言っても現実で好きになる女の子はなべて斉藤由貴とは似ていなかったから、もしかしたら彼女の容貌容姿ではなく、文学好きやらモルモン教徒やらという「その他」の部分に気を魅かれてしまったのかもしれない。
 あっそうそう、彼女の歌声もけっこう好きで、FMやAMから流れてくる彼女の歌をエアチェックして、何度も繰り返し愉しんだものだ。
(レコードやCDを買わなかったのは、クラシック音楽のそれを買うので小遣いが足りなかったからである)

 『恋する女たち』はそんな斉藤由貴が大好きだった頃とどんぴしゃの1986年に製作されたものなんだけど、実はこの作品に接したのは、その後しばらくして、大学に入ってからのことだった。
 残念ながらその頃には斉藤由貴熱も冷めていて(高校生から『卒業』したからでも、ましてや「支配からの卒業」などという邪念妄念に惑わされたからでもない。ただただ時の流れの為せる仕業だろう)、結局「金沢の風景が活かされた青春映画の佳品」といった感想に留まったのだけれど、それから20年以上経って再見すると、やっぱりこの頃の斉藤由貴はよかったなあと改めて感心した。
 いや、彼女の天然自然が高じてぼじゃぼじゃぼじょぼじょといった呟きになる台詞づかいは個性的な反面、いつもの如く拙さを感じさせるものだが(緒形拳が亡くなったとき、そうした斉藤由貴の天然自然ぶりを鍛え上げた自然さで受けた『とっておきの青春』での緒形さんの演技をすぐに思い出したものだ)、スクリーンに映し出される彼女のアップの表情、涙、笑顔がなんともいいのである。
 加えて、彼女演じる吉岡多佳子とその友人たちが繰り広げる恋に恋する季節ならではの物語にも、様々な記憶を呼び起された。
(そこには、今は懐かし氷室冴子のティーンズノベルのことやらケン・ラッセルの同名作品のことから始まって、気になっていた子とたまたまバスに乗り合わせてどきどきしたことやら、友人の誤解で痛い目にあったことなどまで含まれる)

 演技の巧拙はひとまず置いて、斉藤由貴と相楽晴子、高井麻巳子(おニャン子クラブのメンバーで、現秋元康夫人)という友人の組み合わせもよい。
 また、多佳子(斉藤由貴)にとって重要な役回りを小林聡美が務めているが、達者というか、もろ「小林聡美」が完成していて少し驚く。
 ほかに、柳葉敏郎(途中『タッチ』が絡んでくるのは同時上映の関係からだろう)、菅原加織(文太の息子で、当時薫。早世してしまった)、原田貴和子、蟹江敬三、星由里子(東宝ゆえか)、川津祐介、中村育二(当たり前だが、若い!)、上田耕一、室井滋、渡辺祐子、泉本教子らが出演している。

 約100分、懐かしい時間を過ごすことができた。

 それにしても、大森一樹監督にとって、この頃が彼のピークだったんではないのかなあ。
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2012年01月14日

裸の大将

☆裸の大将<1958年、東宝>

 監督:堀川弘通
 脚本:水木洋子
 音楽:黛敏郎
 製作:藤本真澄
(2012年1月14日、京都文化博物館フィルムシアター)


 裸の大将山下清というと、若い人ならすぐにドランクドラゴンの塚地武雅の顔を思い出すだろうが、僕ら40前後の世代だと、なんと言っても花王名人劇場の芦屋雁之助ということになる。
 太平シローに負けじと、「ぼ、ぼ、ぼくは」と雁之助さん演じる山下清の真似を吃音症になりそうな勢いで繰り返したものだけれど、少し前にKBS京都で再訪された『裸の大将放浪記』の映像を観る機会があって、透けた黒いシャツを着た小坂一也やピンクのネグリジェを着た大泉滉、眉毛をやけに強調したケーシー高峰と共に監獄に入れられた雁之助山下清には、こんなシュールな作品と子供の頃に接していたのかと、ちょっとびっくりしてしまった。
 で、そんなことをさらに年配の人と話していたところ、その人の口から、「雁ちゃんの山下清はちょっと悪達者やなあ」という言葉がもれた。

 今日、堀川弘通監督(本来は成瀬巳喜男が撮影するはずだった)、水木洋子脚本による『裸の大将』の、小林桂樹演じる山下清に触れてみて、その人の言わんとすることがよくわかるような気がした。
 同じ山下清を演じるにしても、笑いで鍛えた人であるだけに、芦屋雁之助が口調ばかりか表情、身体の動きにも様々なデフォルメを加えているのに対し、小林さんのほうは、リアリスティックというか、実直に細かく山下清の特徴を掴み取ることで淡々とユーモラスな雰囲気を醸し出しているといった感じがしたからである。
 個人的には、軽演劇調の雁之助さんの山下清も捨て難いが、小林桂樹のそこはかとない味わいの山下清に強く心を魅かれたことも事実だ。

 加えて、のちのテレビドラマでの、蒸気機関車、巡査との追いかけっこ、食堂などでの住み込み働き、逃走と放浪といったフォーマットが、すでにこの『裸の大将』の段階で確立されていた点も興味深かった。
(いずれの作品も、山下清が綴り、式場隆三郎がまとめた『放浪日記』を下敷きにしたものなのだから、エピソード的に重なり合うものがあるのは当然だけれど、やはりフォーマットに関しては水木洋子の脚本を踏襲したと考えて間違いはあるまい)

 また、冒頭で記したシュールな設定を想起させるような精神病院の場面(千葉信男、藤木悠、千石規子、賀原夏子らが登場)や「夢」の場面が挿入されているが、そうした部分も含めて、この『裸の大将』では、嫌戦的(反戦的と言うよりも)な姿勢、庶民の狡さや戦後の変わり身の早さへの批判的な視点が示されている点も忘れてはならないだろう。
(山下清が徴兵忌避のために放浪を続けるという設定や、終盤自衛隊の行進に対して山下清が素朴な疑問を投げかけるところなど、その最たるものではないか)

 そういえば、芝居達者な面々やひと癖もふた癖もある面子をキャストにそろえるという点でも、この『裸の大将』と雁之助さんのドラマは共通していて、始まってすぐの巡査役のブーちゃん市村俊幸を皮切りに、母親役の三益愛子(大映の母物とは異なり、山下清に対してなんともつっけんどんな態度をとっている。と、言って優しさがないわけでもないが)、式場隆三郎らしき学園の先生役の加藤和夫、本間文子、高堂國典、若き日の毒蝮三太夫(石井伊吉)、沢村貞子、団令子(好きなんだよね、僕はこの人のことが)、中村是好、有島一郎、一の宮あつ子、三好栄子、堺左千夫、佐田豊、谷晃、青山京子、横山道代、中田康子、柳谷寛、加東大介、田武謙三、左卜全、荒木道子、沢村いき雄、東野英治郎(陸軍の軍人で、荒木貞夫みたい)、南道郎、上田吉二郎、三木のり平、並木一路と内海突破(戦後すぐの人気コンビ)、コロンビア・トップライト、ハナ肇とクレージーキャッツという東宝らしい夫人に加え、飯田蝶子と坂本武まで出演して非常に嬉しいかぎりだった。

 あと、のどかな感じに満ちていて、なおかつリリカルで諧謔的でもある音楽は、あの黛敏郎。
 ラスト近くの追っかけのシーンで、芥川也寸志の交響曲第1番の終楽章を茶化したような曲調になるのが、僕にはおかしくて仕方がなかった。

 様々な点から愉しむことのできた一本だ。
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2012年01月11日

狂った果実

☆狂った果実<1956年、日活>

 監督:中平康
 原作:石原慎太郎
 脚色:石原慎太郎
 音楽:佐藤勝、武満徹
(2012年1月11日、京都文化博物館フィルムシアター)


 あれは高校何年生のときだったか。
 たまたま両親が留守をした土曜日の深夜、中平康の遺作(映画としては)『変奏曲』がテレビで放映されるということを知った僕は、すけべ心を胸に喜び勇んでチャンネルを回したのだが。
 いやはやなんともはや、どよんどよんとした気分に陥って、女性の裸やセックスの場面を観さえすれば興奮するなんてもんじゃないや、と自分の迂闊さを悔いたものだ。
 そして、中島敦の『山月記』ではないけれど、過ぎたるは及ばざるが如し、才智に長け過ぎるのも考えものと、高校生心に痛感したものである。

 まあ、それはそれ。
 中平康にとって出世作、というか彼の映画人生のうちもっとも有名な一本となる『狂った果実』を久しぶりに観てきたのだが、この作品、記憶していた以上に面白かった。
 石原裕次郎の若々しさ(その美声ぶりも愉しめる)、北原三枝の美しさ(ただし、この人は本当はもっと中性的な役柄のほうが合っているのではないか)、衝撃的なラストは記憶のままだったのだけれど、そこに到る道筋というのが、後年のコメディーを彷彿とさせるような細かいくすぐり(例えば、石原慎太郎と長門裕之がお互い「長門」と「石原」と名前を取り替えてのカメオ出演や、裕次郎津川雅彦兄弟のボートの名前が「SUN SEASON=太陽の季節」であるとか、近藤宏の使い方とか)も含めて、よく出来ている。
 また、津川雅彦がこの頃から鬱屈した役回りを演じていたことや、岡田真澄がけっこう重要な存在を占めていたことにも気づかされた。

 一方で、石原慎太郎らしい傲慢さ、青臭さ、マチズモ、反米的な思考も散りばめられていて、ああ三つ子の魂百までだなあ、とまたぞろ思ってしまったことも付け加えておきたい。
(憎まれっ子世にはばかる。ある種の鈍さ、傲慢さは長生きの秘訣かもしれないな、と思ったりもする。中平康と比較しても)

 そうそう、京都文化博物館フィルムシアターのプログラムでは、兄弟の父親役が芦田伸介となっているが、実際は深見泰三が演じている。
 たぶん当初発表されていたキャストから変更になったものだろう。


 *追記
 本当は、「カインとアベル」の話を皮切りに、慎太郎裕次郎兄弟(慎太郎の『弟』も含める)のことや、長門津川兄弟のことについて詳しく書いてみようかとも考えたのだが、きちんと文章をまとめる自信がなかったので、ここでは断念することにした。
 機会があれば、いずれまた。
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2012年01月06日

太陽とバラ

☆太陽とバラ<1956年、松竹大船>

 監督:木下恵介
 脚本:木下恵介
(2012年1月6日、京都文化博物館フィルムシアター)


 三つ子の魂百まで、と言うけれど、表っ側は変わっても、なかなか地のほうまでは変わらないもの。
 『太陽の季節』など一連の作品からこの方、嵐を呼ぶ都知事石原慎太郎の人格ってものはよくも悪くも(悪くも悪くも?)ちっとも変わっていないなあ、などと、木下恵介監督の『太陽とバラ』を観ながら、ついつい思ってしまった。

 と、言ってもこの映画、「太陽」って言葉が題名に冠されているからといって、太陽族礼賛、石原慎太郎礼賛の作品だなんて思っちゃ大間違い。
 太陽族は太陽族でも、『太陽とバラ』はアンチ太陽族そのものの作品なのだ。

 で、85分程度の上映時間のうち、後半70分近くまで、正直僕は観ていて辛かった。
 一つには、木下恵介の描く不良像というのがステロタイプ的というか、どこか戦前調だし(そういや、戦前の与太公磯野秋雄が、吉川満子や小林十九二らとともにちょい役で顔を出していたっけ)、それより何より、いくら真っ当正論とはいえ、沢村貞子の言動から何から、どうにもウェットで辛気臭い。
 加えて、不良息子役の中村賀津雄(現嘉葎雄)も、演技はいいんだけど、なんともうじっとしていて辛気臭い。

 が、そうした辛気臭い積み重ねが、終盤俄然活きて来る。
 少なくとも、そう感じさせるような作品の造りになっている。
 そして、迎えるラストについては、同じ木下恵介の『日本の悲劇』を想起した、とだけ記しておこう。

 役者陣では、上述した中村賀津雄と鼻持ちならない真の太陽族ブルジョア息子を演じた石濱朗もいいし、彼の姉役久我美子の美しさもいつもながらだが、個人的にはどうしても沢村貞子を挙げざるをえまい。
 まさしく迫真の演技だと思う。

 ほかに、三宅邦子、有田紀子(同じ木下監督の『野菊の如き君なりき』の)、北竜二、龍岡晋、桜むつ子、須賀不二夫、奈良真養らも出演。

 それにしても、憎まれっ子世に憚るとはよく言ったもんだと改めて痛感した次第。
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2012年01月05日

自由学校(大映版)

☆自由学校<1951年、大映東京>

 監督:吉村公三郎
 脚本:新藤兼人
 原作:獅子文六(岩田豊雄)
(2012年1月5日、京都文化博物館フィルムシアター)


 『三文役者あなあきい伝』<筑摩文庫>は、自称三文役者殿山泰司の自叙伝であるとともに、盟友たる新藤兼人や吉村公三郎との近代映画協会の苦難苦闘の歴史を綴った一冊でもあるが、その「ノン・タイトル」という章で、吉村公三郎監督が撮影し、自らも出演した『自由学校』について詳しく触れられている。
 曰く、『自由学校』は大映と松竹で競作となり、「一応は千葉信男や小堀明男が候補に上がっていたのであるが、映画の前宣伝をもかねての一般からの募集というチマチマしたことをやることになり、どこでどうなったのか」、文藝春秋新社の小野詮造が主人公五百助役に選ばれ、「小野文春という芸名で」出演することになったとのこと<文末注>。
 さらに殿山泰司は、(五百助という主人公役は)「小野さんの風ボウと人柄にどんぴしゃりで、ヌーボー的な性格のその役にぴったりの好演であった。小野さんに対して、失礼な言葉かもしれないが、シロウトでもこれだけでけるのだ。そこに映画の秘密がある」と続け、冗談をまぶしながらも、「映画俳優とは何だ?」という大きく難しい問題を提起している。

 確かに、この大映=吉村監督版での小野文春は、正直達者ではないものの、五百助という大柄で物事にあまり動じない人物像にはぴったりと合っている。
 ただ、殿山さんが「映画の秘密がある」と付言している通り、松竹=渋谷実監督版と比較すると、五百助の役回りは相当小さなものに変わっているような気がする。
 それは言い過ぎだとしても、小野文春という素人俳優の技量技術にあわせて、原作が大幅にいじられてしまったことは、まず間違いないことだろう。
 一例を挙げれば、殿山さん自身が演じる元海軍軍人(同じ新藤兼人のシナリオということで、ふと『しとやかな獣』の伊藤雄之助を思い出す)を、松竹=渋谷監督版では殿山さんの兄貴分にあたる小沢栄(太郎)がやっていて、同じ戯画化でも、どこかに原作者岩田豊雄(獅子文六)の『海軍』を想起させる哀しさがあったが、こちらの『自由学校』では、物語中の一挿話、賑やかし程度の意味合いしか持っていない。
 こうした変更には、やはり小野文春の力量(佐分利信のような「やり取り」ができない)が大きく影響を与えているのではないだろうか。
 そうしたこともあり、総じて松竹=渋谷監督版に比べて、中身が薄いというか、すかすかとした印象と物足りなさを僕は抱かざるをえなかった。
(一つには、実質的に松竹を追い出された形となった吉村・新藤コンビが、松竹=渋谷監督に対抗して変化球を投げたということもあるだろうけど。あの『愛染かつら』でおなじみ『旅の夜風』=「花も嵐も踏み越えて」のメロディの引用や、斎藤達雄、岡村文子らのキャスティングなど、そのよい見本だ)

 その分、小野文春を支える共演陣の芸達者腕達者ぶりは冴えていて、木暮実千代の賢しい美しさ、京マチ子の躍動感、山村聰の気障たらしさ、この作品がもとで身を持ち崩した感すらある(?)大泉滉のイカレポンチを存分に愉しめはしたが。
 そうそう、藤田進のパロディカルな起用も傑作だが(観てのお楽しみ)、『青い山脈』(木暮実千代がこの『自由学校』とは全く反対の役柄を演じていた)への言及や、その他の細かい台詞を考えれば、単に映画的なお遊びというだけではなく、1951年当時の「逆コース」的風潮を揶揄したものではないかと、僕は思った。
 ほかに、徳川夢声(文学座=獅子文六つながりか)、藤原釜足、加東大介、英百合子、山口勇(余談だが、小林信彦の親類にあたる)、織賀邦江らも出演。

 あっ、あと一つ。
 吉村公三郎らしく、時折技というか、わざとというか、あんたまたやってはるなあ、と思わせる箇所がいくつかあったことを付け加えておきたい。

 そういえば、『三文役者あなあきい伝』では、滝田ゆうの漫画賞受賞式で、今や重役となった二十何年ぶりの小野詮造から「トノさんと、あんたはちっともかわらんねェ」と言われてしまったというエピソードを殿山泰司は記している。
 まあ、それはそれとして、三日やったらやめられないはずの役者(それも、これまた三日やったらやめられないはずの浮浪者を演じた)の道など見向きもせず、その後重役にまで上り詰めた小野詮造という人は、五百助なんかと違って、見かけによらず結構したたかな人物だったのかもしれない。



*注
 菊池寛と大映のつながりを考えれば、小野詮造の起用は「出来レース」だったのではないか。
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2012年01月04日

自由学校(松竹版)

☆自由学校<1951年、松竹大船>

 監督:渋谷実
 原作:獅子文六
 脚色:斎藤良輔
(2012年1月4日、京都文化博物館フィルムシアター)


 「ぼくは名作だけは作らない」という言葉*1を口にした渋谷実は、苦くて重たい喜劇の作り手として知られたが、獅子文六(岩田豊雄)の朝日新聞連載小説を映画化した『自由学校』も、そんな渋谷監督らしい一本となっている。
 敗戦後の大きな混乱と変化の中で、「自由」とはなんぞやと迷い悩んだ末会社を辞めた五百助(佐分利信)は、妻駒子(高峰三枝子)から家を追い出され、ひょんなことから浮浪者生活を始める。
 一方、駒子は駒子で様々な男たちから言いよられ…。
 という大きな展開の途中途中に、獅子文六らしいスラプスティクでシュールなくすぐりが盛り込まれつつも、観終わって感じたのは、ああ世の中ままならないもの、とかくこの世は生きにくい、さりとて死ぬにも死にきれぬ、ならば明日も生きていこうか、ということだった。
 そして、「戦後派にはなれず、かといって昔の女でもいられない」といった趣旨の駒子の台詞(それをさらっと言わせているとろも渋谷監督らしい)こそ、そうした作品の世界観、さらには戦前の松竹大船調のスタイルと戦後の新しい潮流が混交してちょっとぎくしゃくとした感じのする渋谷実の造形を端的に表わしているのではないかとも思った。

 役者陣では、まずもって佐分利信か。
 五百助という人物のもっちゃもっちゃとしていて、それでいてなんともやるせない心情がよく表現されていて、実にしっくりくる。
 あの色川武大も記しているが*2、佐分利信のあの顔、あの表情には本当に心魅かれるなあ。
 一方、この『自由学校』の高峰三枝子には、初めて美しさというか、女性としての魅力を感じた。
 無理から気丈な女性を演じているような気がしないでもなかったものの。
 ほかに、手塚治虫が『リボンの騎士』のモデルにしたというエピソードを彷彿とさせる淡島千景のアプレっぷりや佐田啓二らしからぬイカレポンチっぷりも印象に残ったし、三津田健、杉村春子、東野英治郎、小沢栄(太郎)、清水将夫、望月美恵子、中村伸郎、龍岡晋、高橋豊子、笠智衆、十朱久雄、高屋朗(彼についても、色川武大は一文ものしている)といった脇を固める人々の出演も愉しい。
 特に、獅子文六(岩田豊雄)らが、もともと彼女とその夫友田恭助のために文学座を設立した田村秋子の演技(杉村春子への影響も垣間見える)に接することができて、僕はとても嬉しかった。
(あと、歌右衛門丈の『京鹿子娘道成寺』が挿入されていることや、東京のカオスな状況を描くシーンで伊福部昭の音楽が急にSF調のアレグロ・バルバロ風に変化したことも、個人的には嬉しかったなあ)


*1 小林信彦『人生は五十一から』<文春文庫>、「ある<戯作者>の死」より。なお、ここでは渋谷実の弟子である前田陽一の死について語られている。

*2 色川武大『なつかしい芸人たち』<新潮文庫>、「いい顔、佐分利信」
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2012年01月02日

ペーパーバード 幸せは翼にのって

☆ペーパーバード 幸せは翼にのって<2010年・スペイン>

 監督:エミリオ・アラゴン
(2012年1月2日、京都シネマ・1)


 いやあ、新年早々、いい映画を観たなあ。
 本当はいいなんて言葉、軽々に使いたくないんだけれど、そう思ってしまったんだから仕方がない。
 約2時間の上映時間があっと言う間、と、言うより、まだもっと観ていたいと感じているうちに終わってしまった。

 京都シネマでは上映が始まったばかりということもあって、詳しい内容についてはあえて触れないが、スペイン内戦後のフランコ独裁政権下、戦争の深い傷を心に抱いた芸人たちのあれやこれやが、喜怒愛楽交えながら非常に丁寧に描き込まれていて、強く心を動かされた。
 主人公のホルヘ(イマノル・アリアス)やエンリコ(ルイス・オマール)、孤児のミゲル(ロジェール・プリンセプ)といった登場人物の細やかな心の動きや、まるで歌を歌っているかのような言葉のやり取りにまずもって心魅かれるし、細かいエピソードの積み重ね方や伏線の張り具合も見事というほかない。
 また、スペインを代表するサーカス芸人一家に生まれ、自らも舞台で活躍したという監督自身の経験からくる、芸人たちや舞台、劇場への深い愛情には心打たれるし、表現者が自国の歴史や社会そのものに向き合うことの大切さもストレートに示されていて大いに納得がいく。
 それに、役者陣のなんと素晴らしいことか。
 上述した三人はもちろんのこと、いわゆる端役と呼ばれるほんの僅かな出演時間しかない人たちの存在感にも、僕は圧倒された。
 加えて、風景の描写や時代考証における細やかな作業にもほれぼれするほかなかった。

 この作品を観た人とゆっくりたっぷりおしゃべりがしたくなるような、本当の映画好きにお薦めしたい一本だ。
 ああ、面白かった!
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2011年07月23日

月世界旅行社『マチヤ夜行 其の一 オールナイトシネマ』に刺激を受けた!

 昨日は、この間様々な形でお世話になっている堀川中立売の京都リサーチパーク町家スタジオへ足を運び、月世界旅行社主催による『マチヤ映画夜行 其の一 オールナイトシネマ』に参加した。

 以前打ち合わせに参加した際に記したことがあるが、月世界旅行社は京都造形芸術大学芸術学部映画学科の有志によって立ち上げられたインディーズ・メジャーレーベルだが、今回の企画は彼彼女ら京都造形芸大のほか、関西一円の映画関係の学校や映画製作団体、上映団体を網羅したものとなっている。
 で、第一回目の昨夜は、月世界旅行社のメンバーやそれ以外の京都造形芸大生、立命館大学studio PANDA、近畿大学、京都精華大学、ビジュアルアーツ専門学校の面々の作品が上映されていたが、フィクションからドキュメンタリー、PVと幅広いジャンルで、しかも予想していた以上のクオリティの作品が並べられており、実に観応えがあった。
 また、上映会の質疑応答やフリータイムでの意見交換、相互交流も活発に行われていて、結局朝方6時過ぎまで刺激を受け続けた。
(22時過ぎには、キノ・フォーラムkyoの共同代表末長敬司も到着し、具体的かつ的確な質問を重ねたり、上映作品の監督の皆さんなどと熱心に話をしていた)

 なお、このマチヤ映画夜行は、来年3月まで毎月一回京都リサーチパーク町家スタジオで開催される予定で、8月は『其の二 京の七夕上映会』と題して12日(金)夕から13日(土)朝までの開催が決定している。
 学生の皆さんからは、撮影の際に俳優の調達に苦労している(特に30代、40代)との声も耳にしたが、小劇場の演者さんの中で、映画出演にご興味ご関心がおありの方は、ふるってご参加いただければと思う。
 まずは、中瀬までご一報のほど。
(大根へたっぴいのくせして、相手方のOKさえ出れば、自分が出演させてもらたっろかいと狙っている、我があさましさ…)

 いずれにしても盛況盛興の上映会だったと思う。
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2011年05月17日

『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』、『善人』

 知ってる人はより面白く、知らない人も面白く。

 旧知のよこえとも子(彼女の場合、親しみこめて敬称を略したい)から連絡があったこともあって、昨晩シネ・リーブル梅田まで加藤行宏監督の『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』と『善人』(よこえ出演)を観に行ったのだけれど、二つの作品の感想を簡潔にまとめると、昔のテレビCMの惹句を少しずらしたようなそんな言葉になるだろうか。

 まずもって両作品のタイトル(題字)からして、何事かが始まりそうな「やってる」感が醸し出されていて、わくわくする。
 で、詳しい内容についてはぜひ作品を観て確かめて欲しいからあえて触れないが、実際、『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』にしても、『善人』にしても、よい意味での邪劇臭が濃厚というか、グロテスクな笑いの要素がたっぷりと詰まっていて、個人的には嬉しい。
 加えて、人の度し難さや、鬱屈した悪意の表現も、強く印象に残った。
 また、加藤監督の咀嚼力や映画的背景が、存分に示されていた点も付記しておくべきだろう。
 演者陣も、監督の意図に沿いつつ、その個性や魅力を充分に発揮していたのではないか。
(そうそう、『善人』には、あの「たま」の石川浩司が出演しているのだ!)

 なお、昨夜は、加藤監督と土田英生さんのアフタートークも企画されていて、こちらのほうでも、僕は大いに笑った。

 21時10分上映開始で、22時34分頃上映終了(アフタートークを加えると、23時近くに終了)と、少し遅めの時間帯にはなるが、大阪の方はもちろん、京都の方でも阪急の最終には充分間に合う。
 入場料は1300円。
 20日までの上映なので、新しい才能を応援するという意味でも、ぜひシネ・リーブル梅田に足を運んで欲しい。


 *追記
 上映が5月27日(金曜)まで延長となりました。
 なお、21日(土曜)からは上映開始が21時5分となりますので、お間違えないように!
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2011年01月14日

『玄牝』

 京都シネマまで、河瀬直美監督の新作『玄牝(げんぴん)』を観に行って来た。
 ちょうど京都シネマの会員の更新時期で、はじめはケン・ローチ監督の『エリックを探して』を観るつもりだったのだが、予告でそれほどしっくりこなかったことに加え、上映時間が2時間近くあることもあって(体調的・生理的な問題)、『玄牝』を選んだ。

 『玄牝』は、愛知県で自然分娩にたずさわる吉村医院の吉村正院長と、そこに集う人々を描いたドキュメンタリー作品である。
 当然のことながら、出産がこの作品の中心に置かれているのだけれど、それがまた、そのまま、生きるということや死ぬということへの真摯な問いかけともなっていて、子供を出産する女性たちの姿やそれを見守る家族たち、そして吉村さんや助産婦の方たちの姿に強く心を動かされるとともに、自分自身の生や死についても深く考えさせられた。
 ただ、この『玄牝』をもって「女性にとって、やっぱり出産こそが一番で重要なものだ!」と強圧的に論じることは問題外として、単純に吉村さんたちの姿勢を賛美することに終わっては何かが違うとも思った。
(河瀬さん自身も、助産婦の方たちの言葉や吉村さんの娘さんの言葉を織り込むなど、そうした観点を忘れてはいないが)

 いずれにしても、今現在妊娠出産と直接関係するか否かは別にして、この作品を観た人たちの様々な意見を耳にしたいし、そのことについていろいろと語り合いたいと思う。
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2011年01月06日

ウディ・アレンの『人生万歳!』

 村上春樹は村上春樹だし、ショスタコーヴィチはショスタコーヴィチ。
 そして、ウディ・アレンはウディ・アレン。

 今日、京都シネマでウディ・アレンの最新作『人生万歳!』(記念すべき40本目の作品だそうだ)を観ていると、ふとそんな言葉が頭をよぎった。
 いや、もちろん自同律が不快の対象であることぐらい、僕だって知らないわけじゃないけれど。
 でも、劈頭、ウディ・アレンの分身としか思えないラリー・デヴィッド演じる主人公(雰囲気がウディ・アレンそっくり。話し方も)のおしゃべりを耳にしただけで、おおまた始まったと思ってしまったほどだ。

 で、京都シネマの映画案内にある「ありえないピュアな恋愛物語」のままで終わってしまえば、それこそ老人親父に都合の良すぎる妄想恋愛譚も、そこはウディ・アレン、一ひねり、どころか二ひねりで、自負と自虐、楽観と悲観が見事に入り混じった一筋縄ではいかない物語に仕立て上げている。
 セックスへの執着に、昔なつかしヒット・ナンバーやクラシック音楽(第九に運命!)の引用と、これまたウディ・アレンお得意の趣向。
 ウディ・アレン自身の老いも加わってだろう、タナトスへの傾斜や厭世感の表出も色濃いが、だからと言ってただただ悲嘆にくればかりいないあたりが、また「らしい」。
(個人的には、ウディ・アレンらしいバーバル・ギャグを愉しんだ)

 映画のほうも、戦いすんで日が暮れて、じゃない目まぐるしい一年が暮れて、新しい年を迎えたところで幕を閉じるが、まさしく脳天気に一年を始めたくない人にはぴったりの、機智と機転に富んだ一作ではないだろうか。

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。
 とは、ちょっと違うかな。
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2010年09月22日

ミックマック

 ジャン・ピエール・ジュネといえば、まずは『アメリ』ということになるのだろうけれど、個人的にはどうしても『デリカテッセン』を挙げたくなる。
 と、言うのも、核戦争後、人間が人間を食べるという、それだけ聴けばおぞましさ全開の世界を舞台にしながらも、機智と希望を武器に「人生それでも捨てたものではないさ」と小気味よく、ただしところどころグロテスクでシュールな映像も交えながら全篇描き切ったジュネの手腕に、僕は強く心を奪われたからだ。
(当然、共同監督のマルク・キャロの存在も忘れてはならないだろうが)

 で、そんなジャン・ピエール・ジュネの新作『ミックマック MICMACS A TIRE-LARIGOT』が公開されたので、迷わず京都シネマまで観に行って来た。
(そうそう、『デリカテッセン』で主人公を張ったドミニク・ピノンが、ここでも魅力あふれる役柄を演じている)

 現在公開中ということもあって、いつもの如く詳しい内容については触れないが、全てはタイトルのミックマック(いたずら)に尽きるのではないか。

 父を地雷で奪われ、自らも頭の中に流れ弾が残ったままの主人公バジルが、父を殺し、自分自身を傷つけた二つの兵器製造企業(軍需産業)に復讐を挑むというストーリー展開で、一つ間違うと、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』のような重たくて救いのない内容になってしまうのだけれど、そこはジャン・ピエール・ジュネ。
 お得意のファンタジー・タッチを駆使しつつ、徹頭徹尾笑いを忘れず、バジルと仲間たちの戦いを軽やかに描いていく。
(黒澤明でいえば、企業の対立の構図などからもう一つ有名な作品を思い出すのだが、あちらがあくまでも個人の力を信じているのだとすれば、こちらは集団の力、その友情と愛情を信じているのだと評することができるのではないか。ただし、ジュネは、黒澤明の作品ではなく、フランコ・レオーネの作品のほうに影響を受けているようだが)

 表現のテンポのよさはもちろんのこと、痛烈な諷刺と細かい仕掛けやくすぐり(例えば、サルコジ大統領の写真!)、映画ならではの「遊び」(例えば、タイトルやテーマ音楽!)も豊かだし、音楽の使い方も非常に効果的だ。

 また、主人公を演じるダニー・ブーンをはじめ、役者陣も実に達者で個性に富んでおり、観ていて本当に嬉しくなってくる。

 難しいことを柔らかく、かつ面白く暖かく描こうという創り手の姿勢(それは、『デリカテッセン』とも共通している)も含めて、大いに満足のいった作品。
 映画好きにはぜひともお薦めしたい。
 ああ、面白かった!
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2010年09月19日

小林桂樹を悼んで

 俳優の小林桂樹が亡くなった。
 86歳だからやはり長命だったというべきだろうが、最近まで現役で活動を続けていたことに加え、彼の上司役を長らく務めた森繁久彌翁のことも思い出されて、ついまだ早いのではと思ってしまったことも事実だ。

 今さらくどくどと語る必要もないだろうけれど、小林さんといえば、まずは東宝への移籍後のいわゆるサラリーマン物(上述した「社長シリーズ」も含む)で一世を風靡したほか、成瀬巳喜男監督の一連の作品や黒澤明監督の『椿三十郎』でも、その個性をよく発揮した。
(余談だが、小林さんが山下清を演じた堀川弘通監督の『裸の大将』は、もともと成瀬巳喜男が監督する予定だった)

 また、年齢を重ねるごとに、強情さと頑なさ、優しさとおかしさを兼ね備えた人柄は厚みを増し、映画やテレビドラマなどで活躍した。
 中でも、牟田刑事官シリーズ(津島恵子とのコンビネーションが嬉しい)、弁護士・朝日岳之助シリーズなどは有名だが、個人的には下山定則国鉄総裁を演じた、NHKの『空白の900分』が忘れ難い。

 なお、小林さんの聞き書きである『役者六十年』<中日新聞社>は、彼の人となりをよく伝えていて、彼を識るためには必読の一冊だろう。
 あと、斎藤忠夫の『東宝行進曲』<平凡社>では、自らの弟の友人である小林さんの、東宝移籍にまつわるエピソードが詳しく記されている。

 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。
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2010年06月17日

『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』

 京都シネマで開催中の『山中貞雄監督映画祭』。
 今日は、『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935年、日活京都/ニュープリント)を観る。

 で、この作品に関しては、以前京都文化博物館の映像ホールで観た際の感想をアップしたこともあるので、詳しくは繰り返さない。
 アメリカ映画『歓呼の涯』を巧みに仕立て直した、時代劇の形を借りた「ホームコメディ」で、省略を効果的に利用した笑いの仕掛けも見事の一語に尽きる。
 また、セルフパロディに徹した大河内傳次郎をはじめ、役者陣も実に柄が合っていて、愉しく面白い。
(沢村国太郎の演技は息子の長門裕之や津川雅彦の演技と本当にそっくりだなあ、と今回も痛感した)
 まさしく、快作傑作の一本。

 そうそう、ニュープリントということで、京都文化博物館所蔵の劣悪な状態のフィルムとは大違いの観やすさだったことも嬉しいかぎりだった。
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2010年06月16日

『人情紙風船』

 京都シネマで開催中の『山中貞雄監督映画祭』。
 今日は、山中貞雄の遺作となった『人情紙風船』(1937年、P.C.L./ニュープリント)を観た。

 で、この『人情紙風船』に関しても、今さらくどくどくだくだと繰り返すこともあるまい。
 三村伸太郎のもともとの脚本は、それまでの山中貞雄らしい明朗快活調、「明日への新しい希望をもつ」ものだったはずが、実際に完成した作品は、当時の世相を如実に反映したとも考えられる、どうにも救いようのない結末を迎えることとなる。
(山中貞雄自身、「人情紙風船が俺の最後の作品では浮かばれない」と周囲にもらし、「「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず」と書き遺したこともよく知られている)
 ただ、事そこにいたるまでの展開は、見事というほかはない。
 また、中村翫右衛門、河原崎長十郎をはじめとした前進座の面々のアンサンブルも、実に優れている。
 やはり、何度観直しても、観飽きない作品の一つだ。

 それにしても、『人情紙風船』を観るといつも、三村伸太郎や山中貞雄は、岸田國士の『紙風船』(実演は無理としても、戯曲)に触れたことがあるのではないかとついつい思ってしまう。
 ラストの紙風船を目にするたびに、特に。
(まあ、タイトルだって『紙風船』と『人情紙風船』だものね)
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2010年06月15日

『河内山宗俊』

 先週土曜日から、京都シネマで『山中貞雄監督映画祭』が始まった。
 旧い邦画好きの京都シネマ会員、ましてや『山中貞雄餘話』なる作品をものした人間だもの、そりゃ当然観に行かなくてはなるまいて。

 と、言うことで、今日は14時45分から上映の『河内山宗俊』(1936年、日活京都=太秦発声/ニュープリント)を観ることにした。
 で、もはやこの作品についてくだくだくどくどと語る必要もあるまいが、はじめのほうで少しテンポ感の遅さが気になった以外は、山中貞雄の筋運びの巧さにぐいぐい惹きつけられた。
 特に、様々な人々の思惑、想いが絡み合って一気に悲愴感あふれる結末へと向かうあたり(チャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』が鳴り響く!)の展開は、それこそ手をぎゅっと握り締めてしまうほどのスリリングさだった。
 役者陣も、河原崎長十郎や中村翫右衛門をはじめとした前進座の面々(その中には、若き日の加東大介もいる)が上手達者だし、清川荘司、コメディーリリーフの高勢実乗、鳥羽陽之助らも柄に合った演技を行っている。
 そして、演技の質は置くとして、当時まだ16歳だったという原節子の初々しさ、美しさ!

 いやあ、何度観ても面白いな、『河内山宗俊』は。
 観に行って、本当によかった!
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2010年02月10日

スティング

 ☆スティング The Sting


 早起きは三文の得、って言葉があるけれど、TOHOシネマズがこの2月から始めた「午前十時の映画祭」なんて、洋画の名作傑作人気作をじっくり愉しむことができるんだから、映画好きにとってはそれこそ三文どころか、何千両何万両もの得。
 何があっても早起きしなくちゃいけないだろう。
 で、有言実行、僕も近くのTOHOシネマズ二条まで「午前十時の映画祭」の一本目、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スティング The Sting』(1973年、アメリカ)を観に行って来た。
(予想通り、団塊の世代の方々や学生さんなどを中心にほぼ満席状態)

 いやあ、面白かった!
 実はこの作品、僕は何度か観たことがあるんだけど、大きなスクリーンで観ると、やっぱり面白さが何倍も増しますな。
 仲間を殺された若者が、詐欺師の先輩とがっちり手を組んでにっくき悪党相手に勝負を挑んでいくが…。
 おっと、ここから先は言えない言えない。
 あとは、映画を観てのお愉しみだ。
(だって、一度観てから二度目三度目を愉しむのと、他人様から大事な部分をばらされて初めて観るのとでは、全く意味が違うでしょう。まあ、これはどんな作品でもおんなじことだけどね。あっ、そういや中村賢司さんのブログに『ゴールデンスランバー』の記事があったけど、中村さん、ああたネタばらししちゃだめですぜ。同じ創作者表現者仲間なんだから。少なくとも、僕ならネタをばらさず伝えたいことを伝えるように努力するんだけどなあ)
 それこそ幾重にも張られた伏線や一筋縄ではいかない仕掛けの数々に、細かいくすぐりや細かいこだわりと、まさしくエンターテインメントの王道を行く見事な出来栄えだ。
 加えて、ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードを皮切りに、集めも集めたり、脇役端役にいたるまで芝居達者個性派がそろっている。
(あの人この人、見落とさないで下さいね)
 また、テーマ曲のスコット・ジョプリンの『ジ・エンタティナー』をはじめ、ラグタイムの効果的な利用も嬉しいかぎり。
 本物の映画好きには「マスト」の一本。
 てか、本物の映画好きなら、いの一番に観てるっけ。
 これは失礼しました!

 なお、『スティング』に関しては、小林信彦に『明日に向かって賭ける「スティング」の世界』(『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』<文春文庫>所収)と『ジョージ・ロイ・ヒルの不思議な世界』(『映画を夢みて』<ちくま文庫>所収)があるので、ご興味ご関心がおありの方はぜひご一読のほど。


 *追記
 そうそう、三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』が、この作品への熱烈なオマージュであることを再確認することができた。
 まあ、トリュフォーの『アメリカの夜』だとか、映画全体への熱烈なオマージュであるんだけどね、『ザ・マジックアワー』は。
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2010年01月27日

誰がため

 時代も違えば状況も違う、出てくる人間もてんでばらばら。
 そんな全く脈絡のない作品に続けて触れるのも映画の愉しみ方ではあるが、逆に、同時代似たような状況を描いた作品に続けて触れるのもまた、映画の愉しみ方の一つなのではないか。
 京都シネマでオーレ・クリスチャン・マセン監督の『誰がため』(FLAMMEN & CITRONEN)を観ながら、ふとそんなことを思った。

 と、言うのも、この『誰がため』の内容が、先日同じ京都シネマで観た『カティンの森』と大きく重なり合うものだったからである。
 そう、『誰がため』も『カティンの森』同様、第二次世界大戦中、他国(ナチス・ドイツ)に自国(デンマーク)を占領された中で起こった実際の出来事をテーマとした作品なのだ。
(だから、そうそう簡単に愉しんでばかりもいられないのだけれど)

 で、『誰がため』は、ナチス・ドイツ占領下、抵抗運動に加わり、戦後祖国から英雄として讃えられもしたフラマンとシトロンという二人の人物の、これまで語られてこなかった本当の姿を描いた作品となっている。
 作品の根幹にもかかわってくることもあり、ここではあえて詳しく述べないけれど、厳しい歴史的状況とナチス・ドイツへのレジスタンスという大義に動かされた彼らが、様々な裏切りによって傷つき、破滅に向かって進んでいく姿がストレートに表わされた展開となっていて、生理的な意味合いを除けば、2時間を超える上映時間もそれほど長く感じることはなかった。
 また、この作品の大義と暴力という関係への問いが、現在を生きる我々にとって全く他人事ではない問題であるということも充分に納得がいった。

 ただ、二人の主人公をドラマティックに描き上げるという視点に、どこかアメリカのニューシネマ的な雰囲気を感じたことも事実で(予告編で感じたほどハリウッド調ではなかったものの)、個人的には、歴史的な事実を克明に丹念に刻み込もうという強い意志をより感じる『カティンの森』のほうに一層シンパシーを覚えたことは明記しておきたい。
 それと、これは史実に基づいた作品だから仕方ないこととはいえ、主人公らレジスタンスの側の人々がデンマークとスウェーデンの間を行き来したりするなど、切迫感や緊張感に若干水を差される想いがしたことも付け加えておきたい。
(自由に行き来できるのにも関わらず、彼らがデンマーク国内に残ったことの重みは充分に承知しつつも)

 俳優陣では、主人公のトゥーレ・リンハートとマッツ・ミケルセンの熱演を当然挙げるべきだろうが、いわゆるファムファタル的な存在であるケティーを演じたスティーネ・スティーンゲーゼ、ゲシュタポの高官を演じたクリスチャン・ベルケルも強く印象に残った。
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2010年01月14日

『カティンの森』

 アンジェイ・ワイダ監督の最新作『カティンの森』(2007年、ポーランド)を観た。

 『カティンの森』は、そのタイトルからも明らかなように、第二次世界大戦中の1940年、捕虜となったポーランド人将校1万数千人がソ連によって虐殺されたカティンの森事件をモティーフとした作品である。
 当然、この事件で、自らも父を殺害されたアンジェイ・ワイダは、ソ連が犯した罪を厳しく告発する。
 そして、父を待ち続けた母や妻たちの深い哀しみや強い憤りを描く。
(アンジェイ・ワイダは、この『カティンの森』を彼の両親に捧げているのだ)

 それとともに、この作品は、共産主義ソ連やナチス・ドイツに蹂躙されたポーランドの姿と、そうした状況の中で翻弄され続ける人々の姿を克明に映し出す。

 加えて、この作品は、人間が犯す暴力や罪、さらには人間存在そのものへの問いかけ(そこにはもちろん宗教や神の問題も含まれているだろう)ともなっているように、僕には思われる。
(その意味で、成功作か否か置くとして、僕は同じアンジェイ・ワイダの『悪霊』を思い出す)

 全編、ユーモアなどとは全く無縁の、まさしく救いのない展開が続いていくのだが、一つ一つのエピソードの選択の的確さと表現の距離感の適切さ、作品の世界観によく沿った役者陣の優れた演技によって、2時間を超える上映時間を僕は長く感じることはなかった。

 クシシトフ・ペンデレツキの作曲による音楽(交響曲第4番やポーランド・レクイエムの引用)も効果的だったのだけれど、ラストの音のないローリングタイトルに、僕は一層アンジェイ・ワイダの強い意志を感じた。

 いずれにしても、本当に観てよかったと思える作品だった。
 多くの方に、ぜひともお薦めしたい。


 *追記
 僕は、この『カティンの森』を観ながら、ふと新藤兼人のことを思い出した。
 アンジェイ・ワイダと新藤兼人の大きな違いは充分承知しつつも、老いてなお自らが伝えようとすることを執拗に作品にし続けるという点で、二人の監督の姿が僕にはどうしても重なり合ってしまったのだ。
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2009年12月12日

ある官僚の死

 京都シネマで、今日からキューバ映画祭2009が始まるということで、いろいろ思案した末、結局当初のチョイス通り、キューバを代表する映画監督、トーマス・グティエレス・アレアの1966年の作品、『ある官僚の死』(La Muerte de Un Brocrata)を観に行くことにした。

 『ある官僚の死』が、ついつい叔父の亡骸とともに棺の中に入れてしまった故人の労働証を、甥が年金取得のために取り戻そうとするが、墓地に戻れば剣もほろろの対応で、役所に行ったらたらい回し、と疲弊に疲弊を重ねるばかり、思い余ってついには…、という展開で、官僚主義の弊害をときにスラプスティックな笑いを交えつつ痛烈に批判した作品である。
 冒頭、ルイス・ブニュエルやイングマール・ベルイマン、黒澤明やオーソン・ウェルズ、ローレル&ハーディ、バスター・キートンらに敬意が表されているように、過去の先達たちの成果が巧みに取り込まれていて、映像的な実験という意味でも、また細部へのこだわりという意味でも非常に面白かったが、いくぶんテンポ感が緩いというか、あともうちょっとだけテンポよく運んでもらえれば、一層すとんすとんと腑に落ちるような気がしないでもなかった。
(例えば、多分にこの作品に影響を与えただろう、黒澤明の『生きる』の、特に前半部分のテンポのよさとどうしても比較してしまう)
 とはいえ、アレアの強い想いと意匠とがうまく結びついた作品であることも事実で、やはり映画好きなら観て損はないと思う。

 なお、上映終了後、今回のキューバ映画祭2009のプログラムディレクター、比嘉世津子さんのトークがあったが、その情熱的な話っぷりも含めて、なかなかの聴き(観)ものだった。
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2009年11月30日

『うまや火事』(妄想映画館)

『うまや火事』

 1956年・東宝、千葉泰樹監督


 『うまや火事』は、その名の通り、落語の『厩火事』を下敷きに、前年の『夫婦善哉』で絶賛を博した森繁久彌淡島千景コンビを再起用して撮影された作品である。

 *あらすじ
 髪結いのおさき(淡島千景)は、亭主の伊三郎(森繁久彌)と喧嘩の毎日。
 およね(沢村貞子)の代わりに伊勢屋の娘(中北千枝子)の髪を結いに行ったところが、帰りが遅いと怒鳴られ、今日も今日とて大喧嘩。
 腹が立つやら悔しいやら、思い余って仲人の源兵衛(小堀誠)を訪ねるが、源兵衛が伊三郎の悪口を言うと、おさきは大いに怒り出す。
 なんのことはない、おさきは伊三郎のことを好きで好きでたまらないのだ。
 そんなおさきの想いを察した源兵衛は、孔子と麹町の旗本松平玄蕃の二つの逸話をおさきにし、伊三郎の気持ちを試してみるのが一番だとおさきをそそのかす…。

 *みどころ
 なんと言っても、森繁久彌と淡島千景の丁々発止のやりとりが作品のきもだが、二つの劇中劇で、森繁久彌が孔子と松平玄蕃の二人を演じ分けるあたりもみどころだ。
(孔子の厩火事の場面では、山茶花究や田中春男、三木のり平、沢村いき雄、谷晃といった連中がここぞとばかり悪乗りをやっている)
 また、満洲訪問時に森繁久彌を高く評価した古今亭志ん生が前口上を務めているのも貴重だろう。


 ☆3・5
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2009年04月29日

中丸忠雄が亡くなった

 俳優の中丸忠雄が亡くなった。76歳。
 東宝ニューフェイス出身で、映画やテレビドラマなどで活躍した。
 今のドラマ好きには、中丸といえば中丸新将ということになるのだろうが、一世代前、70年代、80年代のドラマに親しんだ人間からすると、やっぱり中丸といえば、この中丸忠雄ということになる。
 個人的には、『独立愚連隊』をはじめとする岡本喜八監督の一連の作品や、Gメン75、そして大岡越前第四部の車屋が特に記憶に残る。
 正直、男臭い、というかその濃いい雰囲気はあまり好みじゃなかったけれど、その分インパクトの強い役者さんだったとも思う。
 深く、深く黙祷。
(そういえば、明治天皇の孫を自称する中丸薫はこの人の夫人だったのだ)
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2009年01月15日

永遠のこどもたち

 昔話から始めよう。
 今から15年以上も前、僕は半年ほどドイツのケルンに住んでいた。
 ライン河畔に位置するこのケルンという街の名前を耳にして、あの巨大な聖堂を思い出す人も少なくないのではないか。
 僕自身、ケルンの駅に降り立って、あの大聖堂を初めて目にしたときは、その威容さに驚嘆し息を飲んだものだった。
 ただ、物事というものは外から眺めるのと内に入って実感するのとでは全く別であって、この大聖堂の堂内の静謐で厳粛な雰囲気は、たとえそれが素朴な信仰心からばかりでなく、巧みにたくまれた明確な意図のもとに生み出されたものと承知しつつも、人の心を動かす強い力が存在すると思った。
 特に、クリスマスの夕刻にふと入った際の、ひっそりとした堂内の空気感には、本来無神論者で死後の世界など一切信じていない僕にすら、神の恩寵や奇跡というものを感じさせるものであった。
 そして、それは、日本で日々生活してきた僕に、歴史的、精神的、文化的、社会的な彼と我との大きな違いを痛感させるものでもあった。

 J・A・バヨナ監督の『永遠のこどもたち』(2007年、スペイン=メキシコ)を観終わって、僕はふとそんなことを思い出した。
 と、言っても、この『永遠のこどもたち』はスペインを舞台にした作品であり、ケルンとはいささかの関係もない。
 ただ、そのあまりにも宗教的でカソリック的な作品の世界観や物語の展開に、僕はあの時のことを思い起こしてしまったのだ。
 そう、この『永遠のこどもたち』は、「それ」が主題なのであり作品の肝なのである。
 つまり、ヒッチコック調のハラア趣向や『エクソシスト』等々のオカルト作品の巧みな咀嚼も、若干のスプラッター的な描写も、結局は「それ」を強調し、明示するためのスパイスであり、エッセンスでしかない。
 だからこそ、スペインの歴史や風土、言い換えれば、彼と我との違いをきちんと踏まえた上で「それ」を信じる人ばかりでなく、そんな違いなどわからなくたって「それらしいもの」に親近感を抱く人にも、すうっと心に浸みる作品に仕上がっているのではないか。
 逆に、「それらしいもの」はもちろんのこと、「それ」すら信じることのできない僕などには、残念ながら今ひとつ腑に落ちない作品だった。
 たとえ、伏線の張り方やシークエンスのつくり方、さらには映像そのものの美しさといった、映画の出来のよさ、また、主人公ラウラを演じたベレン・ルエダや、特別出演格のジェラルディン・チャップリンをはじめとした役者陣の演技の素晴らしさ、きめの細かさ、キャスティングの妙(個人的には、ベニグナという老女を演じた女優が印象に残る)は充分評価しつつもである。

 つまるところ、信じる者は救われる、ではない、信じて疑わない者のみに薦められる映画だと、僕は思った。
(と、ここまでは彼と我との違いを強めに記してみたんだけど、このバヨナって若い監督、なかなか映画に通じてるみたいだから、もしかしたら、日本のホラーやオカルト映画に学んだ部分もけっこうあったりしてね。なんて、思ったりもして)
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2008年10月22日

わが教え子、ヒトラー

 京都シネマまで、『わが教え子、ヒトラー』<2007年、ドイツ作品/ダニー・レヴィ監督・脚本>を観に行って来た。
(原題は、Mein Fuhrerだから、『わが闘争』ならぬ『わが総統』という語呂合わせもできないことはないが、それはまあいい。それと、この邦題は三島由紀夫の戯曲から来ているのかもしれない)
 『わが教え子、ヒトラー』は、あのヒトラーに演説指導を行う特別の教師がいたという実話を下敷きとした自らの脚本をダニー・レヴィが映画化した作品で、第二次世界大戦も末期となった1944年末から1945年1月1日までの5日間に舞台を限定したこと、そして何より、演説指導の教師を本来のドイツ人から、強制収容所に収容されていたユダヤ人俳優へと移した点がまずもって光る。
 で、ヒトラーとユダヤ人教師(彼はプロフェッサー=教授とも呼ばれるほどの名優である)との「人間的」な交流や、教師の心の葛藤、家族への愛情、独裁者の孤独、ユダヤ人である監督によってこの作品が造られたこと等々、語りたいことはいろいろとあるのだが、そういうことは映画を観てもらいさえすればすぐにわかることだろうから、ここではあえて詳しく触れないことにする。
 ただ、この物語 − そこには当然、連合軍の爆撃によってほとんど廃虚と化したベルリン市街(セットやCGが巧く利用されている)を隠蔽しようとするゲッペルスたちのあさましい姿も含まれる − が、ナチス・ドイツのいんちきいかさままやかしぶりやヒトラーの虚像を鋭く指摘した作品であることは、やはり記しておきたい。
 また、チャップリンの『独裁者』からの影響が濃厚な作品だけあって、本来シリアスな内容であり展開でありながら、ふんだんに笑いの種(それも相当きつめの)が仕掛けられており、なおかつそれが作品の本質ときっちり重なり合っていた点も強く印象に残った。
(てか、この作品ののりは、マルクス兄弟のほうにより近いものがあるのではないか。片手を吊ったヒムラーなどそのよい例だ)
 演技陣では、残念ながらこの作品が遺作となってしまったユダヤ人教師役のウルリッヒ・ミューエをまずもって挙げるべきだろう。
 「迫真の演技」という言葉だけでは全てを伝えることができないような、一見淡々としていながら、その実語るべきことを語り尽くした見事な演技だった。
 一方、ヘルゲ・シュナイダー(今は亡きレオナルド熊をいかつくした感じ)も、ヒトラーという独裁者の多様な側面をよく表していたのではないか。
 大粒の涙を求める人には、あまりにも乾いたタッチに過ぎるかもしれないし、最後の最後の趣向は僕自身の好みにはそれほど合わないが、全篇観飽きることのない優れた作品だとも僕は思う。
 経済的な事情もあってどうしようか迷ったが、やっぱり観ておいてよかった一本だ。
 なお、ニキ・ライザーの音楽(ケルンWDR交響楽団による演奏)が「よくできて」いたことを最後に付け加えておく。

 それにしても、日本はどうなんだ! とどうしても考えてしまうのだ、この作品を観ても。


 *一部、加筆しました。
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