2014年04月20日

C.T.T. vol.107 2014年4月試演会

☆C.T.T. vol.107 2014年4月試演会

(2014年4月19日19時開演/アトリエ劇研)


 久方振りのC.T.T.試演会だったが、その内容には大きな違いがありつつも、舞台上で演技を行うということに対する真摯さという意味では3団体ともに通じるものがあったように、僕には感じられた。

 まずは、高槻現代劇場でのワークショップを受けて誕生した「高槻シニア劇団」(50歳以上の参加者)の二つのグループのうちの一つ、高槻シニア劇団恍惚(うっとり)一座『とろっかとろっか 恍惚一座バージョン』(伊地知克介劇作、山口茜演出)から。
 技術的な云々かんぬんよりも前に、まずもって様々な人生経験を重ねてきた出演者の皆さんの存在感やエネルギー、演技から垣間見える人柄に魅力される。
 また、地域の現状や、大きな暴力と小さな暴力の問題をしっかりと盛り込みつつ、向日性というか、希望の視点を失わない伊地知さんの脚本(もともとあった作品を、恍惚一座用に手直ししたものとのこと)にも、面白さを感じた。
 そして、山口さんもそうした演者陣やテキストのプラスの部分を尊重して、無理を強いることのない演出を行っていた。
 稽古はもちろんのこと、こうした実演の経験も重ねて、さらにさらにお客さんをうっとりとさせるような舞台を生み出していって欲しいと思う。

 続いては、劇団ヤッホーの『イルメノルチルの音楽』(劇団ヤッホー出演・演出、ブリキの骸骨作・監修)。
 ヤッホーなんて名乗っているから、はっちゃけはきはきの劇団かと思ったら、さにあらず。
 確かに含みがあって諧謔味にも満ちたテキストではあったが、豊田智子の演技は非常に緊張を強いるもの。
 正直、ちょっと「緊張」する部分が長いなあと感じられて、舞台上ではしっかり緊張が続いてはいたものの、どうしても観るこちら側の緊張が切れてしまったりもしたのだけれど、合評会であえて挑戦してみた旨の発言もあり、なるほどと理解がいった。
 呼吸が声に変わり、さらに言葉に変わっていくプロセスの声の部分がとても音楽的で、僕ははっとさせられた。

 そして最後は、劇研アクターズラボ公演クラス(あごうさとし指導)のメンバーによる、背泳ぎの亀の『最後のコント』(あごうさん作・演出)。
 「今現在」演劇活動を行うということともに、アクターズラボの公演クラスに参加するということへの問いかけが含まれた、二重の意味でアクチュアリティに富んだ作品となっていたのではないか。
 アンサンブルの組み方や、登場人物のキャラクター等々にも、あごうさんの配慮がよくうかがえた。
 演者陣のほうもまた、あごうさんの意図に沿う努力を重ねていたと思う。
 板倉真弓や山野博生、渋谷勇気ら経験者に一日の長があることも事実だけれど、その他のメンバーも、(1月の内々の発表会を観ていることもあって)この間の研鑚を充分に感じ取ることができた。
 今回は途中までの試演ということで、完成版=8月の本公演が実に愉しみである。

 いずれにしても、3団体の皆さんの今後のさらなるご活躍を心より祈願したい。
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2014年04月12日

枠縁 1作目『タウン』

☆枠縁 1作目『タウン』

 作・演出:田中次郎
(2014年4月12日19時開演の回/人間座スタジオ)


 初心忘るべからず。
 これまでサワガレなどで演劇活動を行ってきた田中次郎が新たに立ち上げた団体、枠縁の第1回目の公演(1作目)『タウン』を観てきたが、田中君はじめ、飯坂美鶴妃、稲葉俊といったかつての西一風(立命館大学の学生劇団)出身勢の初心に戻ったかのような奮闘熱演する姿に、ふとそうした言葉を思い起こした。

 『タウン』は、西一風時代に上演したものを、枠縁用に改稿再演した作品だそうだけれど、狂躁(キチガイ)じみて薄気味悪く滑稽で、それでいて痛切な物語が繰り広げられており、田中君(実は、次郎君という呼び方のほうがずっとしっくりくるが)らしい作品だなあとつくづく思う。
 田中君自身に、飯坂さん、稲葉君(こうやって稲葉君が付け足しではない役をきちんと演じているのを観るのは、とても嬉しい)、森田深志、岡本昌也、菅一馬、古野陽大(久しぶりに舞台上の古野君を観ることができて、とても嬉しい)、キタノ万里、土肥嬌也の演者陣も、技術的な長短はありつつも、各々の特性を発揮しつつ田中君の世界観に沿う努力を重ねていたと思う。
 初日2回目の公演ということもあってか、意図した以上に狂躁性が空回りしていたり、間が合わなかったりと、笑いの仕掛けが活きないなど要所急所が詰まりきらないもどかしさを感じたことも事実だが、これは回を重ねるごとに巧くまとまってくるのではないか。
 それと、これは冒頭に記した事どもとも関係しているのだけれど、これまでの経験が演技のそこここに垣間見られる(中でも、飯坂さん)反面、よい意味でも学生演劇の延長線上に劇全体が置かれているように感じられたことも付け加えておきたい。
(作品のアクチュアリティの有無や、演者陣の上手下手といった問題とは全く別の次元の、感覚的な印象として)


 いずれにしても、こうやって田中君の作品を実際の舞台として目にする機会が得られたことを、大いに喜びたい。
 そして、しばらくは手探り状態が続くかもしれないが、できるだけ長く枠縁の活動が継続されるよう心から祈願したい。
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2014年03月25日

ニットキャップシアター ギャラリー公演『サロメ〜フルーツハートスキャンダル〜』

☆ニットキャップシアター ギャラリー公演
 『サロメ〜フルーツハートスキャンダル〜』

 原作:オスカー・ワイルド『サロメ』
 構成・演出:ごまのはえ
(2014年3月25日14時開演/3F project room)


 柳馬場御池下ルTNCビル3Fの3F project roomで開催された、ニットキャップシアターのギャラリー公演『サロメ〜フルーツハートスキャンダル〜』は、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』を下敷きにしつつも、手製の仮面やエスニックな響きのする音楽、そしてダンスなどを活用しながら、洗練されたアンサンブルとよい意味での邪劇性が混交した、ニットキャップシアターらしいシアターピースに仕上がっていた。

 中盤、ごまのはえ演じるエロド王が劇の展開をぐっと引き締め引き回したこともあってだが、原作の持つ耽美性や、サロメ(市川愛里が熱演)と預言者ヨカナーン(織田圭祐他)との関係、サロメと母エロディアス(古屋正子の貫録が印象深い)との関係よりも、エロド王とサロメとの関係に主軸が置かれているように感じられた。
 し、なおかつ、ごまさんの圧巻怒涛の演技(藤山寛美を思わず思い起こしてしまうような座長ぶり)から、オスカー・ワイルドの表現者としての矜持や強い意志、苦悩、さらには彼が対峙した諸々が透けて見えるように思われたことも事実だ。
(それには、一応原作に何度か触れていることも小さくないだろうけれど)

 ほかに、高原綾子、永富健大(彼の今度の活動に注目していきたい)も作品の性格やごまさんの志向によく応える努力を重ねていたし、山岡未奈、門脇俊輔も作品の趣向をよく支えていた。

 そして、今回の公演で仕掛けられたあれこれが、今後のニットキャップシアターの作品にどのように活かされていくのかも非常に愉しみである。
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2014年03月04日

第18次笑の内閣『ツレがウヨになりまして』

☆第18次笑の内閣『ツレがウヨになりまして』

 作・演出:高間響
 演出補:由良真介、山下みさと
(2014年3月3日19時半開演の回/KAIKA)


 東京、札幌を経て京都公演を迎えた第18次笑の内閣『ツレがウヨになりまして』は、一つの作品を繰り返して上演することの意味を改めて考えさせられる内容となっていた。

 会社を辞めてニートとなった青年が、突然ネトウヨと化し、なんのこっちゃらスーパーマーケットへの抗議行動まで参加する始末。
 そんな、ツレがウヨになってしまった状況で、果たして青年の彼女はいかなる決断を下すのか。
 とまあ、物語の主筋をまとめるとそうした具合になるかな。
 ところどころ、それはあんた無茶な! と突っ込みを入れたくなる部分もあるんだけれど、そこはもうお芝居。
 喜劇の中に、それこそ韓流ドラマもかくやのメロドラマの要素を取り込みつつ、「愛国心とはなんじゃいね?」といった問いかけがしっかり行われていて、笑いながらもいろいろと考えさせられる作品となっている。
(何が良くって何が悪い、と問いの答えを押し付けていないところも、『ツレウヨ』、ばかりじゃない、高間君の作品のミソだろう)
 京都大学吉田寮での2012年5月の初演時より、作品がアクチュアリティを増したことももちろんだが(なにせ、ソウリがウヨになりまして、だもんね)、作品全体の練れ具合、まとまり具合という意味でも、再演の成果がよく表われていたのではないか。
 よい意味での邪劇臭は伴いながらも、高間響という劇の造り手の本来の志向嗜好を再確認することもできた。
(だからこそだが、オーケストラトレーナー的な存在、出演者以外の演出助手、演出補佐がここに加われば、作品の特性魅力がさらに発揮されるのではと思ったりもする。例えば、KAIKAの間尺、特質にあわせて、演者の声量の細かいコントロールを指示するような)

 演者陣では、ヒロイン役の鈴木ちひろの成長がまずもって強く印象に残る。
 この間の様々な経験が演技に反映されており、初演に比べてヒロイン像がより明確になったと思う。
(だいいち、歌がうまくなっていたのがいい)
 一方、清水航平は、青年の鬱屈した感情、人間としての弱さにも力点を置いた演技で、物語に幅を持たせる努力をしていたように感じた。
 高瀬川すてらは、初演時同様細やかな表現で存在感を示していたし、髭だるマンもうざさうっとうしさのエネルギーを増していた。
 また、伊藤純也の安定感、手堅さの中のおかしみ、由良真介の抑制された感じ、山下みさとの役を自分自身に落とし込もうとする意志も忘れ難い。
 各々の技術面での課題(台詞の癖であるとか、間のとり方とか)をクリアしていって、より密度の濃い見応えのある舞台を創り出していって欲しい。

 なお、この回の劇中ゲストは、ファックジャパン。
 渾身の至芸を披歴していた。

 そして、アフタートークのゲストはあの井筒和幸監督。
 硬軟交えた怒涛のトークで、圧巻だった。

 ああ、面白かった!
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2014年03月02日

月面クロワッサン番外公演『同情セックス』&『強く押すのをやめて下さい』

☆月面クロワッサン番外公演 月面クロワッサンのおもしろ演劇集

 『同情セックス』
 脚本・演出・出演:山西竜矢
 出演:小川晶弘

 『強く押すのをやめて下さい』
 脚本・演出:丸山交通公園
 出演:浅田麻衣、西村花織、森麻子
(2014年3月1日19時開演の回/人間座スタジオ)


 月面クロワッサンの番外公演、月面クロワッサンのおもしろ演劇集のどんじりに控えしは、月クロの笑いのツートップ、山西竜矢と丸山交通公園の脚本演出による男性二人芝居と女性三人芝居という、まさしく笑いのガチンコ勝負。
 その結果や如何?

 まず先手は、山西君の『同情セックス』。
 明日も公演があるので詳しい内容については触れないが、若い男二人のセックスにまつわる情熱と葛藤を軽々と描いた実におかかなしい作品に仕上がっていた。
 笑いのツボを充分に押さえた職人技で、そのところどころに山西君のぬめっとした感じというか、サディスティックさというか、観察眼の鋭さが垣間見えていたのも興味深く面白い。
 要所急所で笑いを仕掛ける山西君に対し、小川君も見事なコンビネーションで応えていたのではないか。
 山西君の一人芝居(飴玉エレナ)とともに、小川君との二人芝居もできれば続けてもらいたいなあ。

 一方後手の『強く押すのをやめて下さい』は、丸山君が脚本演出に徹するという幾分アウェー状態。
 丸山君の脚本は、女性が演じるという点を十分十二分に計算に入れた、いびつでグロテスク、捻りずらしのきいた内容だったが、実際の舞台のほうは、丸山君の作品の持つシリアスさ、深淵が一層強調された圧巻となっていた。
 その分笑いは減ぜられていたものの(笑うに笑えない)、これまでの月クロの一連の作品で不本意な役回りしか与えられてこなかった浅田さん、西村さん、森さんにとって今回の作品が、配役という意味でも演技という意味でも、最良のものとなっていたこともまた事実だろう。
 少なくとも、この『強く押すのをやめて下さい』が、彼女ら三人の演技、演劇活動の変化変容にとって大きな契機となるだろうことは、まず間違いあるまい。
 三人による企画公演を、ぜひとも継続していって欲しいものだ。
(西村さんと森さんの場合は、昨年夏の劇団しようよと先日の『無欲荘』がホップステップとなっていたのだが)

 いずれにしても、今回の公演に関わった面々の今後のさらなる活躍を心から期待したい。
 ああ、面白かった!
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ナントカ世代『たちぎれ線香売りの少女』

☆ナントカ世代『たちぎれ線香売りの少女』

 原作:アンデルセン『マッチ売りの少女』&古典落語『立ち切れ線香』
 脚本:北島淳
(2014年3月1日14時開演の回/アトリエ劇研)


 羹に懲りて膾を吹く。

 真冬の京大西部講堂で上演された『懐古世代』から、もう8年以上になるのか。
 あのときは、陸奥宗光を中心にしてあるは面白くあるはシリアスに物語を紡ごうとする北島淳や演者陣の意欲は理解しつつも、何しろ寒中二時間になんなんとする上演時間が僕にはまずかった。
 詳しくはかつての観劇記録をご参照いただきたいが、正直寒さにつむじを曲げてしまったのである。

 それから幾星霜、小説や落語といった原作を大きく仕立て直して上質な作品を創り出しているとは聴いてはいたものの、どうにもあのときの記憶が鮮明で、ついついナントカ世代の公演をパスしていたのだが、日中関係日韓関係じゃあるまいし、いつまでも過去にとらわれていちゃいけないもんね。
 で、『たちぎれ線香売りの少女』に足を運ぶことにした。
(誰だ、永榮紘実が出てるからなんて言ってるのは?)

 一言で評するならば、良質の弦楽4重奏を聴いているような作品、とでも言えるだろうか。
 例えば、ハーゲン・カルテットやアルテミス・カルテットが演奏したショスタコーヴィチやバルトーク、リゲティの弦楽4重奏曲を聴いているような。
 少なくとも、そうしたインティメートで音楽的なやり取り、舞台空間が志向されていたと思う。
 明日まで公演が続いているので詳細については触れないが、『たちぎれ線香売りの少女』は、上述の如く『マッチ売りの少女』(ただし、童話よりも、それを下敷きにしたある戯曲のほうを僕は強く思い起こしたが。作品の展開もあって)と『立ち切れ線香』をエッセンスにしつつ、笑いの要素とシリアスな要素がバランスよく加味された趣味の良い作品に仕上がっていた。

 延命聡子(姿態、立ち居振る舞いの美しさが印象に残る。延命さんの演技の特性、長短、癖に関しては、いろいろと感じることもあるのだけれど、このまま50までそれに徹すれば、それもまたきっとかけがえのない形、フォルムになるだろう。延命さんの演劇活動を今後も注視していきたい)、浦島史生(久しぶりに浦島君の演技を観たが、いやあいいな。丹念端整という言葉を使いたくなる)、金田一央紀(ライヴ特有の抜け粗は若干ありつつも、トリックスターぶりをいかんなく発揮していた。彼の演出したブレヒトが愉しみだ)、永榮さんと、演者陣も北島君の作品世界に沿った演技をよく心掛けていたのではないか。
 ほかに、河西美季も少しだけ出演。

 いずれにしても、継続することの意味を改めて強く感じた公演だった。
 次回の公演を心待ちにしたい。

 そうそう、アンケートにも記したけれど、今度は『トゥーランドット』を下敷きにした作品なんか観てみたいなあ。
 氷のような姫君の心も。
 『ローマの休日』や『ラストエンペラー』、『阿Q正伝』を掛け合わせた、『北京のQ日』なんてべた過ぎるか…。
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2014年02月24日

イッパイアンテナ 16th session『オール』

☆イッパイアンテナ 16th session『オール』

 脚本・演出:大崎けんじ(崎は、本当は大ではなく立)
 演出補佐:徳山まり奈
 演出助手:勝二繁
(2014年2月24日15時開演/大阪市立芸術創造館大練習室)

*劇団からのご招待


 いっぱいあってな。
 なんて、いくら落語が重要なモティーフになった作品だったからって、そんなべたな地口、と思われるむきもあるだろうけれど、イッパイアンテナにとって16回目の本公演となる『オール』は、いろいろもろもろがいっぱい詰まった、観て本当によかったと思える公演だった。

 いっぱいあってのまず一つは、そのストーリー展開だ。
 とある地方都市を舞台に、3つの登場人物陣が次第に交差していって…、のエピソードもいっぱい、くすぐりもいっぱい、伏線もいっぱい。
 で、バーバルギャグにスラプスティックなのりと、これまでのイッパイアンテナの持ち味を随所にきかせつつ、全てが最後にしっかり結びついて、じんわりとした心持ちになることができた。
 105分から110分という長尺ゆえ、要所急所もまま見受けられたが、演劇的な仕掛けを多用して巧くかわしていたと思う。

 あと、今回久しぶりに(1年半ぶりかな)に大崎君の脚本演出の作品舞台を観て感じたことは、テンポがいくぶん遅くなって、その分、人と人との関係がじっくり描かれているということだった。
 物理的な事情のほか、もしかしたらそこには、大崎君が定期的に接している人たち(ヒントは、劇中に使われていたある音楽だが、ぶらりひょうたん的な生き方をしている僕は、往々にしてこの音楽を聴くことができていない)の影響もあるのかもしれないけれど、それより何より、それは大崎君がこの間経験したあれやこれやの反映の表われなのではないか。
 公演プログラムの「ご来場の皆さまへ」に記された、創作者表現者としての想いに加え、『オール』は、もっと生な大崎君の想いや願い、感情がこれまで以上に明示されていたように僕には思われてならない。

 日々の積み重ね、短くはない時間の経過が如実に舞台上に反映しているのは、大崎君のみならず演者陣とて同じことだろう。
 今回は、山本大樹、村松敬介、クールキャッツ高杉、渡辺綾子、小嶋海平、西村将兵(ほかに、金田一央紀が声の特別出演)という劇団員のみのキャストだったが、客演等を含む演劇活動ばかりか、各々の様々な経験体験が、劇中の人物に一層の存在感を与えていたように思う。
 個々の技術的な課題は置くとしても、そうした彼彼女らの変化変容を強く実感できたことは、とても嬉しいことだった。
(西村君の演技を観るのは今回が初めて。決めの台詞で、若干エロキューションが鋭角になり気味だったものの、その独特な雰囲気には得難いものがある。哀感と一筋縄でいかなさを兼ね備えた、日守新一のような演技者を目指して欲しい)

 長く演劇を続けること、長く劇団を続けること、てか、生き続けることには、それこそ苦労がいっぱいあるだろう。
 でも、そうした苦労がまた実り多い演技、実り多い舞台、実り多い公演、実り多い作品につながるのではないかとも僕は思う。
 イッパイアンテナの、さらなるいっぱいあってなを、僕は本当に心待ちにしたい。

 そして、ああ、面白かった!
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2014年02月23日

努力クラブ7『深い緑がねじれる』

☆努力クラブ7『深い緑がねじれる』

 脚本・演出:合田団地
(2014年2月23日14時開演の回/アトリエ劇研)


 努力クラブ7『深い緑がねじれる』は、彼彼女らにとって大きなターニングポイントになる作品だった。

 明日まで公演が続いていることもあり、あえて詳しい内容には触れないが、この『深い緑ねじれる』が、いわゆるアクチュアリティに富んだ作品であることは確かだ。
 しかしながらここで大事なことは、そうした現代の諸状況を思い起こさせ考えさせる諸々が、後づけのもの、借り物の主義主張に発したものではなく、合田君自身の内面から表出し表現されたものであるということだろう。
 加えて、これまでの努力クラブでの経験(そこには高間響国際芸術祭での作品も含まれる)の応用変容や散文性文学性の強調、グロテスクな笑い等、様々な仕掛けもまた合田君の志向や思考、嗜好、指向と直結したものであったし、それより何より、今の合田君が何を伝えたいか、何を欲しているか、何に重きを置くか(それを登場人物の誰により強く仮託するか)が明瞭に示されていた点で、とても観応えのある舞台となっていた。
 ときに作品の構造として、いくぶんバランスを失するように感じられた部分もなくはなかったが、それも直球勝負ゆえのことと思う。
 もちろん、お客さんとの間、そして演者陣との間にかけ引きはあるだろうけれど、まずもって自らのあれこれをストレートにぶつけてみせた合田君の攻めの姿勢を高く評価したい。

 無農薬亭農薬や佐々木峻一の努力存在感も忘れてはなるまいが、演者陣ではどうしても川北唯の役とのつき具合が強く印象に残る。
 川北さんがより深い部分で自分自身の今を咀嚼再現することができれば、言い換えれば、もっと自覚的に自分自身をダシに使えるようになれば、合田君との共同作業は一層実り多いものになるのではないだろうか。
 ほかに、努力クラブの九鬼そねみ、レギュラー陣のキタノ万里、長坂ひかる、ベテラン勢の藤田かもめや七井悠(あああーああの笑みでーあの声でー)、大石英史、森田深志も、個々の技術の長短や作品とのつき具合はありながらも、合田君の作品世界に沿う努力を重ねていた。

 いずれにしても、合田君の身を切る作業は成功した。
 あとは、術後のケアをどうするかだと思う。
 当然、それは合田君自身にもしっかり求められるものだろうけど、一方で、合田君がさらけ出したもの、さらけ出したかったものと努力クラブの他の面々の向き合い方、腹のくくり方も大きく問われてくるはずだ。
 そうした点も含めて、次回の本公演も心から愉しみにしたい。
 ああ、面白かった!
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2014年02月17日

月面クロワッサン番外公演 横山清正のひとり芝居、と落語「すてき」

☆月面クロワッサン番外公演 〜月面クロワッサンのおもしろ演劇集〜
 横山清正のひとり芝居、と落語「すてき」

 *Aブロック 16時開演
 脚本・演出:合田団地、高間響、鯖ゼリー

 *Bブロック 20時開演
 脚本・演出:玉木青、向坂達矢&落語『粗忽長屋』
(2014年2月16日/壱坪シアタースワン)


 月面クロワッサンの番外公演 〜月面クロワッサンのおもしろ演劇集〜の第二段となる、横山清正のひとり芝居、と落語「すてき」のAB両ブロックを観たが、いやあ面白かったなあ。
 そして、横山君の演技者としての魅力、まじめさや独特のフラ(まじめな人間が熱心に何かやるのに、それがずれておかしみが出る)、幅の広さを改めて確認することができた。

 再演だってあるかもしれないのであえて詳しい内容については触れないけど、散文性に富んでる上に内面の意識が吐露されているという意味で私小説的ですらある合田団地(だからこそ気になるというか、合田君に確かめたいことがあるんだけど、ここではもちろん記さない)、笑いのツボをしっかり押さえながらも政治的社会的な志向嗜好思考が強く加味された高間響、自己言及的な構造を活かして脱臼に脱臼を重ねる鯖ゼリー(僕の好みによく合っていて大いに笑ったが、全体のピークを考えれば、エピソードを一つか二つ抜いてもよかったかもしれない)、作品の結構としても、批評性とサービス精神の兼ね合いとしても二重仕掛けが巧みな玉木青、知性と稚性、痴性が混じり合う自己韜晦と衒学趣味、そしてリリカルさに満ちた向坂達矢という、一癖も二癖もある脚本(演出)に対してがっぷりよつに組み、横山清正は、あるは大きな笑いを、あるはおかかなしさを、あるはしみじみとした心持ちを、あるはつかみどころのない不安さを見事に生み出して、十分十二分どころか、十五分二十分に満足がいった。
 当然、各々の作家演出家の特性に沿う努力を重ねていた点も高く評価すべきだろう。

 初挑戦に加え、最後の最後ということもあってか落語の『粗忽長屋』では、苦心惨憺奮戦苦闘ぶりが若干前に出てしまっていたけれど、千葉繁(『うる星やつら』のメガネだっちゃ)ばりの張りのある声とメリハリのきいた口跡は落語むきであるとも思った。

 細かく言い出せば、ライヴ特有の傷とともに、横山君の癖もところどころに見受けられて、今後プロを目指していく場合の小さからぬ課題の一つとなるようにも感じられたが、それも月面クロワッサン等の公演のみならず、今回のようなワンマンライヴ企画を重ねていくことでクリアされていくものと信じる。

 いずれにしても、横山清正のさらなる飛躍活躍を心から期待したい。
 ああ、面白かった!
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2014年02月11日

THE ROB CARLTON 7F『ザ・シガールーム』

☆THE ROB CARLTON 7F『ザ・シガールーム』

 作・演出:村角太洋
(2014年2月11日18時開演の回/元・立誠小学校 音楽室)


 THE ROB CARLTONにとって7回目の公演である、7F『ザ・シガールーム』は、タイトル通り、大富豪の紳士連が集うシガールーム。
 あの手この手とよく出来たウェルメイドプレイで、まさしくシガールームで葉巻とブランデーと音楽を味わうかのような愉しく面白い時間を過ごすことができた。
(ちなみに、葉巻は嗜まないが、ブランデーと音楽は大好きだ)

 一応19世紀半ば以降のアメリカという設定かな。
 むろんそこはお芝居ゆえ、よい意味でのずらしが加えられていたんだけど、家督を継いだ百貨店王の若者をホテル王、鉱山王、鉄道王の先達三人がシガールームに迎えて…。
 といった具合に話は進んでいくのだが、バーバルギャグにサイトギャグと笑いの仕掛けがたっぷり盛り込まれていて、飽きさせない。
 特に、終盤のどたばたぶりには大笑いした。
 また、村角太洋の細かいこだわり(例えば、登場人物の名前なんかもそこには含まれる)や、ラグビーのくだりなどTHE ROB CARLTONならではというネタ小物が嬉しいし、葛藤の末、男どうしの友情、善意が謳歌されている点も実に小気味よい。

 ライヴ特有の傷は若干気になりつつも、村角ダイチ、満腹満、ボブ・マーサムの面々に加え、客演の山野博生、渋谷勇気も、各々の特性を活かして心地よいアンサンブルを生み出していた。
(ほかに、木下ノコシが声のみの出演)

 よく造り込まれた舞台(栗山万葉の美術)や、モーツァルトを中心とした選曲(村角ダイチの音楽)、さらには葉巻形のチケットなど表方の気配りも見事で、作品世界によく沿っていたと思う。

 いずれにしても、次回の公演が本当に待ち遠しい。
 ああ、面白かった!
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2014年02月09日

Quiet.Quiet. vol.1.0『現代版・卒塔婆小町』

☆Quiet.Quiet. vol.1.0 三島由紀夫 近代能楽集より『現代版・卒塔婆小町』

 原作:三島由紀夫
 上演台本・演出・舞台美術:辻崎智哉
(2014年2月9日15時開演の回/アトリエ劇研)


 京都出身で、長く東京で研鑚を積み、先頃再び京都へ戻って来た辻崎智哉が主宰する演劇ユニット、Quiet.Quiet.の第一回目の公演、三島由紀夫 近代能楽集より『現代版・卒塔婆小町』を観た。
 原作・三島由紀夫、上演台本・辻崎智哉とあるように、三島由紀夫のテキストをベースにしつつも、登場人物やエピソード等、辻崎君によって大幅に書き加えられ改められた、まさしく「辻崎版・卒塔婆小町」と呼ぶべき作品に仕上がっていた。

 で、演者陣の均整のとれた演技もあったりして、小劇場人は新劇的なものと如何に向き合っていくべきなのか、なんてことまであれこれ考えつつ、興味深く観続けることができた。
 また、辻崎君の問題意識もよく伝わってきたし、作品の結構、登場人物の造形、さらには舞台美術において、いわゆる「類型」が巧く用いられているとも思った。

 ただ、特に中盤以降、音楽なども含めて感情表現が明確になってくるあたりから、三島由紀夫の性質と辻崎君のそれとの違い、齟齬もはっきりと表われてきたように感じられたことも事実だ。
 より詳しく言えばそれは、内面に病気を抱えていて、しかもそれが傍から見れば「あんた見え見えやん」と突っ込み入れられまくりな状態であるにもかかわらず、「俺は何にも抱えちゃいないよ、あっはっは」と嘘っぽく大笑いし、結果郎党引き連れて割腹自殺する三島と、「そりゃ悩みありまくりですわ、けどずっと悩み続けていてもしゃあないですよやっぱり、ほんと」という具合に演劇活動を続ける辻崎君の違いということになるだろうか。
 自分自身もそうだし、それより何よりお客さんに対して、「なんかようわからんでいーってなる」救いのない世界を与えることは避けたいという辻崎君の想いには充分納得いったのだけれど、あえて微糖の缶コーヒーや低糖のヨーグルトを選んだはずなのに、そこに黒砂糖や蜂蜜を加えてしまうといったしっくりしない感じが残ってしまったこともやはり否めない。
 今回の公演で示された辻崎君の美質長所が、次回以降の公演でさらに発揮されることを心から期待する。

 演者陣では、老婆役の片桐慎和子に何日もの長があったが、狂言回し的な役柄の御厨亮やピンク地底人6号をはじめ、大石英史(気になる存在だ)、河西美季(細かい感情表現が印象に残る)、大休寺一磨(美声)、野村明里(表情がいい)、川北唯(ちょっとだけ久我美子っぽい)、大原渉平(しようよとは一味違う演技)も、個々の長短はありつつも、それぞれの特性魅力を活かした演技で、辻崎君の作品世界に沿う努力を重ねていた。

 いずれにしても、辻崎君や演者陣のさらなる活躍を祈るとともに、Quiet.Quiet.の今後の活動に注目していきたい。
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2014年02月02日

月面クロワッサン番外公演『無欲荘』

☆月面クロワッサン番外公演 月面クロワッサンのおもしろ演劇集『無欲荘』

 脚本・演出:稲葉俊
(2014年2月2日18時開演の回/人間座スタジオ)


>だいたい、誠実ってのはさあ、人様にそう言われるからこその誠実なんであってさあ、自分で誠実なんて名乗るのはどだいおこがましいよ<
(拙作『高森みずきの穏やかな一日』から、「幽閉」されている高森みずきへ親友の莢子が語る台詞より)
 と、これはあくまでも映画のシナリオ中の台詞だから、手厳しい物言いになってしまっているが、自分自身をプラスの言葉で評価するってことには、やっぱり勇気がいる。
 相当自信があるか、もしくは破れかぶれでないと。

 月面クロワッサンの面々が自らの番外公演を「おもしろ演劇集」と名付けたと知ったときは、正直ちょっと鼻白んだ。
 自分で自分の企画を「おもしろ」なんて名乗るなんて…。
(なお、今夜確認したが、これは作道雄君の発案ではないとのことである)

 で、そのことはそのこととして、ちょっといろいろと思うところもあって、最後の最後まで観に行こうか行くまいか迷いに迷ったのだけれど、結果これは観ておいて本当に正解だったと思う。

 『無欲荘』は、シュールレアリズム的というか、現実に根ざしながらもそれが脱臼に脱臼を重ねていくという展開で、メタ的志向や乾いた叙情性という点も含めて稲葉俊と合田団地君や田中次郎君との近しさ、合い具合を改めて感じさせる内容となっていた。
 稲葉君の内面のあれこれ(そこには、よい意味での不気味さ、一筋縄ではいかない感じも含まれる)や演劇活動、創作表現との向き合い方、社会意識がよく表われている上に、月面クロワッサンという集団組織の諸々もしっかり投影されているようで、とてもシュートでスリリングな面白い脚本に仕上がっていたと思う。
 また、そのこととも関連して、太田了輔や森麻子、西村花織等、そのキャスティング、人物造形にも目を見張った。
(中でも西村さんに、彼女の「がばい」ぶりを表出させるかのような役回りを与えた点は、稲葉君のクリーンヒットだ)

 上述した面々に、小川晶弘、山西竜矢(サトカヨに雰囲気がちょっと似ている)、浅田麻衣、丸山交通公園、横山清正の演者陣も、技術的な長短はありつつも、その特性魅力とともに、各々の器用さをよく発揮していたのではないか。

 しかし、だからこそ、何かが余分で何かが足りないというのか、それぞれの問題点課題が如実に示されてしまっていたことも残念ながら事実である。
(より具体的に指摘したいことはあるのだが、それは技術面のみならず個々の演劇的立ち位置やプライベートな側面にまで踏み込むことになってしまうので、ここではあえて省略する)

 ただ、そうした課題や問題点、より率直にいえば集団組織としての弱さが明確になってしまったことは、今後の月面クロワッサンにとって、非常にプラスになったとも思うし、その意味でも今回の公演に接しておいてよかったと僕は思う。

 そうそう、護憲運動や平和運動に積極的に関わり、昨年惜しくも亡くなった稀有な財界人品川正治の『戦後歴程』<岩波書店>を偶然読み終えたばかりだけれど、彼が希求し続けた自らの手で創り出す民主主義は、政治や社会のみならず、芸術活動にも大いに通じるものではないか。
 もちろん、集団組織をまとめる確固としたイニシアティヴは必要だろうし、傍で口にするほど相互理解や共通認識を築くということは簡単なことではないだろう。
 けれど、だからと言って手間暇を惜しんで一党独裁一社独裁一者独裁を選ぶことが、結果として多数に幸福をもたらすとは、とうてい考えられないことも事実だ。

 今回の公演、並びに一連の企画が月面クロワッサンの面々にとって、「自分自身と自分が所属する集団組織が何を目標としそれをどう実現していくか、そのためには自分自身と自分が所属する集団組織に何が必要か」を改めて考え、なおかつ実践していく重要な契機となることを心から望みたい。
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2014年02月01日

夕暮れ社いなもり支店「うたとコントの夕べ」

☆夕暮れ社いなもり支店 おきにいり短編集 vol.1「うたとコントの夕べ」

 作・演出・出演:稲森明日香
 脚本提供・出演:いせむら
(2014年2月1日19時半開演/元・立誠小学校 音楽室)


 夕暮れ社弱男ユニットといえば、まずは村上慎太郎の演劇に対する愚直で戦略的な格闘を思い起こすのだけれど、それも稲森明日香や向井咲絵といった演者陣の個性豊かで真摯な演技が加わってこそということは、やはり忘れてはならないだろう。
 そんな稲森さんが、「弱男ユニットで育んできたものの中から、あたらしい芽を発見すること」をモットーとした、その名も夕暮れ社いなもり支店を開店するというので、迷わず足を運んだ。

 おきにいり短編集 vol.1「うたとコントの夕べ」というのがその公演だが、いやあこれは面白かった。
 一見下手うま調のざつっぽくてわかりやすい造りなんだけど、その実弱男ユニットで育まれてきた、ツイスト・ツイスト・ツイスト(捻り・捻り・捻り)の精神が十二分に発揮されていて、大いに笑いつつも、要所要所ではっとさせられた。
 いせむらの機智に富んだ脚本や、藤居知佳子の美しくて声量豊かな歌唱、さらには稲森さん自身の演劇・表現活動に対する切実な想いが(自覚的確信的に)巧みに組み込まれており、一粒で何度でも愉しめる公演となっている。
 上述した稲森さん、向井さん、いせむら君、藤居さんのほか、小林欣也、南志穂、南基文の演者陣も、各々の特性魅力がよく表われていたと思う。
 そうそう、「銃声コメディ」での稲森さんの表情がひときわ美しかったんだった。
 あの表情を観ることができただけでも足を運んだかいがあった。

 僅か2回の公演というのが本当にもったいない。
 ああ、面白かった!
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2013年12月23日

ショウゲキ的な現代版八幡の藪知らず 夕暮れ社弱男ユニット『突然ダークネス』

☆夕暮れ社 弱男ユニット 演劇公演『突然ダークネス』

 作・演出:村上慎太郎
(2013年12月22日19時開演の回/元・立誠小学校音楽室)


 かつて手厳しい感想を書き散らかした『教育』(2010年3月26日/大阪市立芸術創造館、観劇)からはや4年近く。
 あの松田裕一郎が、再び夕暮れ社 弱男ユニットの演劇公演『突然ダークネス』に客演するというので、迷わず足を運んだ。

 一言で評するならば、ショウゲキ的な現代版「八幡の藪知らず」、とでもなるだろうか。
 明日まで公演が残っているのでネタは割らないが、元・立誠小学校音楽室を漆黒に染めて(美術:小西由悟、美術補佐:宮田大雅)、サイコスリラー風ホラー風の物語が繰り広げられる。
 はじめのうちは笑劇の骨法にのっとって、いささかだるいルーチンが繰り返されるものの(それでも、細かいくすぐりは要所要所に挟まれていく)、後半は怒涛の展開。
 そして、衝撃の…。

 もちろん、そこは夕暮れ社 弱男ユニットだ。
 一見、「ああ、またやってるわ」ぐらいに思われるかもしれないが、その実、演者の身体に負荷をかけたどえらいことをやっている。
 やらせもやらせたり村上慎太郎、やりもやったり稲森明日香や向井咲絵ら演者陣である。
 しかも、それが単なる実験のための実験、意匠のための意匠に留まらず、物語の根幹、作品の肝と深く結び付いている点も忘れてはならないだろう。
 『夕凪アナーキズム』(2013年1月26日/元・立誠小学校音楽室、観劇)の感想の繰り返しにもなるけれど、エンターテインメントの手法を取り込みながら、演劇的実験を変化進化させている彼彼女らに大きな拍手を贈りたい。

 で、上述した現代版「八幡の藪知らず」の正体は、もしかしたら御厨亮演じるカギを落とした男の台詞に「思考のカギ」があったりして、なんて深読み込みは禁物かな。
 ただ、ベテラン勢は置くとしても、今、これから演劇お芝居を真摯に続けていこうという若い演劇人にとって、一方で笑の内閣(高間響上皇ら)、他方で夕暮れ社 弱男ユニットの姿勢は、一つの指針となるように僕が感じていることだけは、やはり付け加えておきたい。

 演者陣は、上述した三人のほか、いせむら(顔つきに役柄もあって、すぐにピーター・ローレを思い出す。M!)、藤居知佳子(彼女の特技がよく活かされていた)も好演。
 松田さんも、ライヴ特有の傷はありつつも、独特な演技の質感とキャラクターをいかんなく発揮していた。

 いずれにしても、夕暮れ社 弱男ユニットの次回の公演が本当に待ち遠しい。
 ああ、面白かった!


 そうそう、公演後に、なんと藤居さんのミニライヴが設けられていた。
 お母様の伴奏で、トスティの『アンコーラ』とクリスマス・ソング・メドレーの2曲。
 終わったあと、藤居さんと少し話をして、本格的に声楽を学び始めて彼女がまだ一年程度にしかならないということにはびっくりした。
 まずもって声量がとても豊かだし、声質も澄んでいる。
 もっと音が安定して、詞と感情がより緊密につくようになれば、いい歌い手になるのではないか。
 メゾ・ソプラノなので、イタリアものが好きということだから、ドニゼッティやベッリーニらベルカント、ヴェルディ・プッチーニ、そしてヴェリズモということになるのだろうが、藤居さんの陽性な人柄からいえば、チェチーリア・バルトリのように、モーツァルトのダ・ポンテ三部作(『フィガロの結婚』の、ケルビーノではなくスザンナ、『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ、『コジ・ファン・トゥッテ』のデスピーナ)に挑戦して欲しい。
 こちらの活躍も非常に愉しみだ。

 *追記
 うっかりしてた。
 メゾでイタリアものっていえば、ロッシーニがあったじゃないか!
 『ラ・チェネレントラ(シンデレラ)』とか、藤居さんにぴったりだと思う。
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2013年12月21日

まるでテキストでもみているような上演 ふつうユニット『旅行者感覚の欠落』

☆ふつうユニット プロトコルに関する考察『旅行者感覚の欠落』

 作:合田団地(努力クラブ/2012年)
演出・廣瀬信輔
(2013年12月20日19時開演/アトリエ劇研)


>私はかつて(指揮者のシャルル・)ミュンシュがボストン交響楽団をひきいて東京に来た時、『エロイカ』交響曲(ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」)をきいて、各パートが実に鮮明にきこえてきて、まるでスコアでもみているような印象を与えられ、びっくりもし、やや不満にも思ったものである<
(吉田秀和『世界の指揮者』<ちくま文庫>、ジュリーニの章より)


 アクターズラボの公演クラスを皮切りに、着実な演劇活動を続けてきた廣瀬信輔が自らの主宰するユニット、ふつうユニットで、合田団地君の『旅行者感覚の欠落』(努力クラブ。2012年12月8日、元・立誠小学校音楽室で観劇)をとり上げたのだけれど、吉田秀和のひそみに倣うとすれば、「まるでテキストでもみているような」上演ということになるだろうか。

 日曜日まで公演が続いていることもあって、あえて詳細は省くが、「人見せ」という事象とそれに関わる三人の登場人物を主軸に物語は進んでいくのだが、廣瀬君理知的なテキストの把握と丹念な舞台造形で、作品の構造文脈が手に取るようにわかりやすく再現されていた。
 と、言うより、もっとあけすけに言えば、(廣瀬君にはそんな気は毛頭ないだろうけれど)合田君の履いているパンツを容赦なくずり下ろすというか、合田君自らが演出することで巧みにはぐらかされていた、自己韜晦、テキストの要所急所長所弱点、さらに言うならば合田君の散文家性があからさまに示されていたように、僕には思われた。
 また、アクターズラボの公演クラスでの田中遊さんや柳沼昭徳さんの下での経験が、演者陣の動かし方や場面の処理に活かされていたことも確かだし、演者陣との創作過程が親密で充実したものであっただろうことも想像に難くない。

 ただ、そうしたテキストの把握等々が、かえって合田君の作品演出の持つ悪意、暴力性、不穏さ、猥雑さ(表面的なエロティシズムでは、廣瀬君のほうも負けてはいないし、それがまた批評的な行為になっているような気もするが)、リリカルさを矯めて減じさせる結果となり、廣瀬君が意図した以上に、「心に弱さ怪しさは抱えつつも、根はまじめでいい人たちが、一所懸命に変なことをやっています」といった感じになってしまっていたことも事実だ。
(一つには、初日ゆえの演者陣の緊張からくる傷や粗さもあるわけで、回を重ねるごとに笑いの仕掛けがよりしっかりはまっていくとも思う)

 もちろん、アフタートーク等での話からも、そうした諸々を廣瀬君が折込み済みであることは承知しているし、かつてのふつうユニットでの自作『スペーストラベラーズ』(2011年5月7日、壱坪シアターで観劇)同様、自分が面白いと思うこと、自分がやりたいと思うことをやるという廣瀬君の姿勢には共感を覚えるのだが、やはり一方で、自分の演出上の意図をお客さんにより明確な形で伝えるということ、自分とお客さんとの志向嗜好の違いや演者とお客さんとの距離をどうとっていくかということは、廣瀬君の今後の大きな課題になってくるものと僕は考える。
 そして、今回の『旅行者感覚の欠落』の成果反省点を踏まえた上で、より廣瀬君の特性に合ったテキストでの演出上演に臨んでいってもらえればと心から願う。

 演者陣では、主軸となる田中次郎、田中浩之、永榮紘実が、自らの特性を示しつつ、モノローグなどで廣瀬君自身の演技が見える(声が聴こえる)かのような感情表現を披歴していた。
(その分、テキストと自らとの齟齬や演出と自らとの齟齬も表われていたりもしたが)
 ほかに、稲葉俊、太田了輔、九鬼そねみ、佐々木峻一、澤雅典、三木万侑加、宗岡茉侑、山野博生の面々も、個々の技術面精神面での長短課題は見えつつも、廣瀬君の意図に沿う努力を重ねていた。
 廣瀬君と同じく、今回の経験を活かして、次の公演に挑んでいって欲しい。

 いずれにしても、廣瀬君や演者陣の皆さんの今後のさらなる活躍と研鑚に強く期待したい。
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2013年12月14日

この季節にぴったり IN SITU Vol.1『THE LONG CHRISTMAS DINNER』

☆IN SITU Vol.1『THE LONG CHRISTMAS DINNER』

 作:ソーントン・ワイルダー
演出:大石達起
(2013年12月14日19時開演の回/東山青少年活動センター創造活動室)


 劇団ケッペキ出身で、卒団後もニットキャップシアターの演出助手を務めるなど、精力的に演劇活動を続けている大石達起が、主に近代の海外戯曲の上演を目的として立ち上げたユニット、IN SITU(イン・サイチュ。ラテン語で「あるべき場所」)の第一回目の公演、『THE LONG CHRISTMAS DINNER』を観た。

 『THE LONG CHRISTMAS DINNER』といえば、ソーントン・ワイルダーの原作よりも、パウル・ヒンデミットが音楽劇化したもののほうをついつい先に思い起こしてしまうのだが、アメリカの田舎町のとある家のクリスマス・ディナーを舞台に、人の生と死や、厳然とした時の流れ、社会の変化が効果的に描かれた作品であり、同じワイルダーの『わが町』のひな型とでも呼ぶべき内容となっている。
 大石君は、作品の肝となるべき部分をしっかり押さえつつ、ニットキャップシアターでの経験を活かしてだろう、よい意味での邪劇臭というか、場面構成や演技面でデフォルメを加え、シリアスな部分とコミカルな部分とメリハリがよくきいた舞台づくりを行っていたと思う。
 特に終盤の展開には、心をぐっと動かされた。
 音楽の選択も含めて、この季節にぴったりの公演となっていたのではないか。
(非常に意欲的な企画だからこそ、一つだけ小難しいことを記すと、演出や演技の精度という意味でも、近代戯曲の持つ「歴史性」、「社会性」、「政治性」をどう処理していくかという意味でも、いわゆる「新劇」とどう向き合い、「新劇的」なものとどう距離をとっていくかが、IN SITUや大石君の今後の課題となるように、僕には感じられる)

 ライヴ特有の傷、粗や、個々の課題はありつつも、ニットキャップシアターの織田圭祐をはじめ、仲谷萌(C.T.T.での『煙の塔』もそうだったけど、彼女は気になる演者さんだ)、町田名海子、下川原浩祐、内山航、田渕詩乃、西分綾香の演者陣は、大石君の意図によく沿う努力を重ねていた。

 いずれにしても、IN SITUや大石君、演者陣の皆さんのさらなる活躍に心から期待したい。

 そうそう、織田君が軽妙で愉しいアフタートーク&パフォーマンスを披歴していたことを最後に付け加えておきたい。
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2013年12月08日

マジックリアリズム的なべっかんこ鬼 劇団ニガムシ『べっかんこ鬼』

☆劇団ニガムシ『べっかんこ鬼』

 作:さねとうあきら
 脚色・演出:生方友理恵
(2013年12月8日14時開演の回/京都大学西部講堂)


>音楽評論家の某は、(原嘉寿子作曲のオペラ)『脳死を越えて』を観て、<えそらごとではない>その内容にドキッとさせられたとのたまわったよ。
「日本のオペラ通」を自任するカレは、『白墨の輪』を観ても、ドキッとしなかったわけか!
<鬼(山の人)>と夫婦になり子をなした<里の娘>ゆきは、ヒトと鬼との混血児であるわが子を抱いて、どちらの世界からも排除される、と、ここまで「親切に」つくられている『べっかんこ鬼』を観ても、ひとりの音楽家(!)の、民衆に教えられながらの成長の物語である『セロ弾きのゴーシュ』を観ても、ぜんぜんドキッともしなかったのか!<
(林光さん著『林光 歌の学校』<晶文社>より)

 すでに最終公演も終わっているはずだから、作品の肝とでもいうべき部分が書かれた文章を引用してみた。
 さねとうあきらの創作民話で、生前ちょっとだけ交わりのあった林光さんがこんにゃく座のために作曲したオペラの原作でもある『べっかんこ鬼』が上演されるというので、寒さに負けず京都大学西部講堂まで足を運んだ。
 一つには、ピンク地底人2号や豊島勇士といった魅力的な演者陣に加え、昨年8月のユニット美人の三国志Vol.1『ピーチの園でつかまえて』で印象的な演技を行っていた生方友理恵がこの作品とどう対峙するのかが気になったことも大きいのだけれど。

 珍妙な顔をした山鬼「べっかんこ鬼」にさらわれた盲目の娘ゆきは、いつしか山鬼と愛情で結ばれることとなる。
 そして、山鬼はゆきを愛するがゆえに、ある行動に出るのだが…。
 というのが、『べっかんこ鬼』の簡単なあらましで、ユニット美人の演技にも通じる誠実な演出と評することができるだろう。
 今回の公演では、台詞そのものはひとまず置くとして、舞台設定が日本から中南米・ラテン風へと改められるなど、ある種「マジックリアリズム」的な要素も加味されていた。
 で、お客さんへのサービスを意図したものと承知しつつも、それが巧く活ききっていないなど、舞台上の処理の面(劇場感覚という意味)に、どうしても生硬さを感じる部分があったのだけれど、作品の要所はきちんと押さえられていたように思ったし、舞踏や音楽の選択にも好感を抱いた。
(加えるならば、そうした舞台設定等は、単なる雰囲気づくり、表面的な意匠ではなく、生方さんの表現の根幹、基礎となるものの表われであったように僕には思われた。そうそう、余談だけれど、今回の公演で効果的に使われた『不屈の民』の日本語訳詞を林光さんが依頼された件に関して、冒頭に引用した『林光 歌の学校』の中で詳しく触れられているんだった)

 演者陣では、主軸となるゆきのピンク地底人2号と山鬼の豊島勇士の二人をまず挙げざるをえまい。
 ライヴ特有の傷や粗はありつつも、各々の特性魅力(課題)がよく出た演技を披歴していた。
 ほかに、京都学生演劇祭での好演が忘れられない五分厘零児、好漢古野陽大、川本泰斗、葛井よう子も出演していて、彼彼女らの経験や力量から考えれば、正直「役不足」の感は否めないものの、作品と生方さんの演出に対して真摯に向き合っていたように思う。

 いずれにしても、生方さんや演者陣の今後のさらなる活躍を心から期待したい。
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2013年11月30日

迷宮と逃走 勝手にユニット BOYCOTT #01『Re:空続きの〆切』

☆勝手にユニット BOYCOTT #01『Re:空続きの〆切』

 作・演出・振付:坂口弘樹
(2013年11月30日18時開演の回/東山青少年活動センター創造活動室)


 勝手にユニット BOYCOTTにとって第一回目の本公演となる#01『Re:空続きの〆切』は、C.T.T.における集団創作の試演は置くとして、蒲団座の番外公演や学生演劇祭における公演と同様、坂口弘樹作品の主題がよく示された内容となっていた。
 迷宮と逃走、とそれはまとめることができるのではないか。
 登場人物が、「現実」とは異なるどこかに迷い込まされ、暴力的な追跡者たちから逃げ回る。
 それは、坂口君がこれまでに接してきた様々なものやことの反映であるとともに、彼にとって切実なテーマ、日々向き合っている内面のあれこれの表われと考えられるだろう。
 と、こう記すと、なんだか哲学的な難解な作品であるかのように思うむきもあるかもしれないが、さにあらず。
 一方で、坂口君お得意の身体的パフォーマンスや殺陣、脱力系の笑いを盛り込んだ、エンターテインメントを充分に意識した舞台に仕上がっていた。
 正直、冗長さを感じる部分や、逆に説明不足を感じる部分もあったりして、何を引き何を足すか、さらに全体的な精度をいかに高めていくかが今後の課題になってくるかとも思ったが、自分自身の伝えたいことをお客さんに愉しんでもらいながら伝えようとする坂口君の姿勢、志向や思考、嗜好や試行には好感を抱いた。

 作品の主軸となる小川晶弘(客演・月面クロワッサン)や河西美季をはじめ、とのいけボーイ、山中麻里絵(客演・劇団しようよ)、千葉優一ら演者陣は、細かい傷はありつつも、坂口君の作品世界をよりよく表わす努力を重ねていた。
 特にBOYCOTTの面々には、これから公演を重ねていくことで、各々の課題をクリアしつつ、さらに密度の濃いアンサンブルを築き上げていって欲しいと思う。

 そうそう、今夜の日替わりゲストは、和田謙二の髭だるマンとしゃくなげ謙治郎、それに大九寺一磨と白瀬次郎で、はっちゃけやたけて過剰ないつもの如き力技でよい具合に舞台をかき回していたことを付け加えておきたい。

 いずれにしても、勝手にユニット BOYCOTTの今後の公演に期待したい。
 まずは次回の公演が愉しみだ。
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2013年11月25日

真摯な正統派の青春劇 京都大学学園祭NF・劇団ボヘミアン第28回公演『今日限り逢える日時計』

☆京都大学学園祭NF・劇団ボヘミアン第28回公演『今日限り逢える日時計』

 脚本・演出:小西啓介
(2013年11月24日/京都大学吉田南キャンパス4共11教室)


 正統派の青春劇。
 と呼ぶと簡単に過ぎるかな。
 自分自身にとって切実な想いを、自分自身が影響を受けた演劇的な諸々(当然、それは小西君の劇団ヘルベチカスタンダードや猛き流星での活動の反映でもある)を咀嚼援用しながらストレートに表現した内容で、エピソードとエピソードのつなぎをはじめ作品の結構等に粗さを感じつつも、お客さんに愉しんでもらおうという志向と趣向も含めて、その真摯さに好感を抱いた。

 細かい傷はありつつも、甲斐玲央、道下佳寛、高橋彰、木村勇介、下中季晋、中村直人、笹井佐保(彼女は、今回の役を引き受けて本当によかったと思う)、富永裕也、植松広一郎らも、作品によく沿った熱演を繰り広げていた。

 ああ、面白かった!
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笑って喉から血が出た 京都大学学園祭NF・「  」会『耐久企画祭』

☆京都大学学園祭NF・「  」会『耐久企画祭』

(2013年11月24日/京都大学本部キャンパス 文学部第3講義室)


 劇団ぞうもつと劇団ボヘミアンを観る間、1時間弱、『耐久企画祭』と銘打たれた「  」会の大喜利企画に足を運ぶ。
 玉木青の繰り出すお題に、合田団地、丸山交通公園、鯖ゼリー、北川啓太というおなじみの面々が詭弁駄弁を労するという企画だったが、一見ゆるゆるとしつつも、そこは京大の学園祭という場所企画の趣旨もあって、けっこう知に働いたお題、話しをなっていたのではないか。
 こちらは、答えによって莫迦みたく笑ってしまったもので、喉から血が出てしまったほどだ。
(というか、昨年の風邪以来喉か食道の粘膜が弱っているのか、ときどきこうやって血が出る。もしかして、悪い病気か…。メメントモリ!)

 ああ、面白かった!
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愉しくはっちゃけた小品 京都大学NF・劇団ぞうもつ『橋の下で拾った』

☆京都大学学園祭NF 劇団ぞうもつ『橋の下で拾った』

 作・演出:内山航
(2013年11月24日/京都大学吉田南キャンパス・4共11教室)


 京都大学学園祭NFの演劇企画から、まずは劇団ぞうもつの『橋の下で拾った』を観る。

 一見めためたなんだけど、実はそれがメタっぽい要素にもなっているあたり、やっぱり内山航は侮れない。
 バーバルな面でのセンスのよさに、歌あり踊りありべたなギャグありと、笑いの仕掛けもふんだんで、企画と会場(上述の如く、一般の教室を舞台に設定)に相応しい、愉しくはっちゃけた小品に仕上がっていた。

 多田実希のほか、劇団ケッペキの卒業公演『夢みるナマモノ』と共通する演者陣(全ての方のお名前を把握できていないための省略です。ご迷惑でなければご教示ください)も、作品によく沿って各々の特性魅力を発揮するとともに、いいアンサンブルを造り上げていた。
 ああ、面白かった!
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2013年11月23日

抱腹絶倒まさしく宮崎のバン! THE GO AND MO'S第11回公演『宮崎の番』

☆THE GO AND MO'S 第11回公演『宮崎の番』

 脚本・演出・出演:黒川猛
 出演:チャンピオン
 構成:黒川猛、中川剛
 音楽:Nov.16
 制作:丸井重樹
(2013年11月23日19時開演/スペース・イサン)


 THE GO AND MO'Sにとって11回目の公演となる『宮崎の番』は、いつもの如き黒川猛に加え、あのチャンピオンをゲストに迎えたスペシャル版。
 おまけに丸井さんまで舞台に上がるというのだから、ベトナムからの笑い声フリークにはたまらない公演となった。

 明日も公演が控えているから、くだくだくどくどと詳しく記しはしないが、映像でおなじみ『格闘』(黒川さん作の奇怪なキャラクターとエア対決)と『身体』(お客さんのお題を身体で表わす)の生のほか、踊るコント『Last Smile』、伝説のコント『タイムマシーン』、『体操のお兄さん〜チャンピオンと一緒ver.』と、チャンピオンの大奮戦大奮闘で抱腹絶倒、まさしく「宮崎のバン(番、晩、蛮…)!」だった。
 もちろん、黒川さんのバーバル・センスの高さがチャンピオンの技を引き出していたことも忘れてはいけないが。

 残すところ明日14時の一回こっきり。
 これはぜひぜひ観ていただきたい。
 ああ、面白かった!
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2013年11月11日

お客様、これが私たちのカタログ K.I.T.『地中』

☆K.I.T.『地中』

 脚本:角ひろみ
 演出:柏木俊彦
 振付:高木貴久恵
(2013年11月11日14時開演/アトリエ劇研)


 第0楽章として東京を中心に活躍する柏木俊彦と今井美佐穂、そして京都を中心に活躍する高杉征司による新しいグループ、K.I.T.の『地中』を観たが、『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロのカタログの唄もかくや、顔見世手見世心見世というか、これまで培ってきたものとこれからやろうとすることをはっきりと示し、なおかつ京都で活動する意味や意義についてもきちんと留意した、第一回目の公演に相応しい充実した内容となっていたと思う。

 角ひろみといえば、かれこれ10年以上も前になるか、彼女のホームグラウンドだった芝居屋坂道ストアの『雨ニ浮カブ』(2002年2月11日、扇町ミュージアムスクエア)を観たことがある。
 あいにく細部までは忘れてしまったが、角さんや芝居屋坂道ストアという集団の日常が基軸にありながらも、そこに惑溺するのではないほどよい距離感と普遍性を持った作品で、インティメートで自然な雰囲気の演者陣ともども好感を抱いた記憶が残っている。

 で、今回の『地中』は、2011年に神戸で上演されたものの再演だそうだが、これまで第0楽章で行ってきたようなテキストに忠実に演出とは異なり、大幅に構成を入れ換えたり、テキストの一部を削ったりした上で、高木貴久恵のダンスを巧みに組み込んだり、あれやこれやと演劇的手法を盛り込んだりするなど、試行性の強い舞台に仕上がっていた。
(『建築家M』の終盤でも、その一端は表わされていたが)

 と、こう記すと、表面的表象的な作劇のように思われるむきもあるかもしれないけれど、さにあらず。
 あれやこれやを通して、角さんのテキストが持つ様々な側面、例えば角さん自身の日常、生活、人生と密接に関連しているだろう事どもから始まって、それが個の存在や個と個の関係、個と家族、個と社会の紐帯(つながりってこと)、我々が直面している社会的諸状況、世界、生と死の問題等々へと拡散され、『地中』という作品に結実していく様が浮き彫りにされていたし、そうしたテキストの奈辺を柏木さんが肝、要所と考えているかということも明確に伝わって来たと思う。

 今井さん、高杉さんをはじめ、河合良平、大沢めぐみ、辻井直幸、松尾恵美の演者陣も、身体表現や発声発語、表情の変化にいたるまで、精度の高いアンサンブルを披歴していて、大いに納得がいった。

 最後に、作品の意図によく沿った中川裕貴の音楽と池辺茜の照明も強く印象に残ったことを付け加えておきたい。

 いずれにしても、K.I.T.は京都の小劇場に対して大きな刺激を与え続けてくれると、僕は思う。
 彼彼女らの今後の活動(公演のみならずワークショップなども)を愉しみにしていきたい。
 ああ、面白かった!
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2013年11月09日

泣か(け)ないメロドラマ 楠企画『ラ・ボエーム』

☆京都造形芸術大学舞台芸術学科 2013年度卒業制作公演
 楠企画『ラ・ボエーム』

 企画・演出・上演台本:楠毅一朗
(2013年11月9日13時開演/京都芸術劇場studio21)


 「レジーテアター」って言うんだっけ。
 特にドイツ語圏を中心にして、1990年代以降、オペラの演出は大きく様変わりをした。
 一つには、経済的諸状況のあおりを受けて美術制作費抑制のため抽象的な舞台が必要とされたという物理的な裏事情もあるのだけれど、そこに「現代におけるオペラ上演の意義とはなんぞや?」といったアクチュアリティの問題も加わって、演劇畑出身の演出家による舞台設定を別の時代に置き換えたり、ストーリー展開を大きく読み替えたりする非常に斬新で刺激的な演出がオペラ上演の潮流となっていったのである。
(もちろん、見かけ倒しの演出も少なくなかったが)
 で、中森明菜、じゃないな井上陽水の如く「私は泣いたことがない」とまでは断言しないけれど、小学生の頃、先代の博多淡海の舞台の実況中継をテレビで観て、そのあまりのおかかなしさに思わず涙を流してしまったのも昔の話、いつの間にやらドライハートのドライアイに成長した人間にとって、1993年〜94年のヨーロッパ滞在時に接したそんな「レジーテアター」のはしりは、すんなりすとんと腑に落ちるというか、けっこうしっくりとくるものだった。
 それでも、20年近く海外に旅することもなくこの国の中で暮らしていると、よくも悪くもウェットな環境になじんでくるのだろうか、昨夜youtubeにアップされたプッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』の終景を観聴きしていると、突然涙がこぼれてきてびっくりした。
 何しろ、その録画は演奏会形式(全く舞台美術はなく、歌手も衣裳を着けない)だった上に、結核で死ぬミミ役のソプラノ歌手は昔のプリマドンナ風の立派な体格というのだから、普通なら「えへへこれで結核、おはは病気が違うでしょ」と笑ってもおかしくないところにもかかわらず、これがまあ不思議なこと。
 ミミの澄んだ歌声をから何から聴いていると、思わず涙がこぼれてくるのである。
 いやあ、プッチーニの「メロドラマ」の造り手としての天才ぶりには、改めて感心感嘆したなあ。
(そんなあり様、アンリ・ミュルジュールの原作との乖離を厭うて、アリ・カウリスマキ監督は『ラヴィ・ド・ボエーム』を撮影したんだけどね)

 京都造形芸術大学舞台芸術学科の2013年の卒業制作公演の一つ、楠企画の『ラ・ボエーム』(演劇公演)は、まさしく「レジーテアター」の系譜。
 一言で評するならば、「泣か(け)ないメロドラマ」、とでもなるか。
 むろんこの場合のメロドラマは、一般的なそれではなく、音楽を背景にして台詞を朗唱していくという語源の意味に近いものだけれど。
 プッチーニ作曲のオペラ『ラ・ボエーム』を構成し直し、台詞も七五調に改め、そこに現代演劇の様々な手法を詰め込んで、異端の王道とでも呼ぶべき作品に仕上げられていた。
 それこそイタリア・オペラのメッカ、ミラノ・スカラ座では大ブーイング間違いなしだろう。
(ちなみに、イタリアではこの手の「レジーテアター」は好まれず、オーソドックスな演出が未だに主流だ)
 オペラの要所を押さえてよく今様に造り変えているなと思ったり、原作の中から自分自身の思考志向真情信条とつながるものを巧く抽出しているなと思ったりした反面、正直表現としても表出としても粗さや拙さを感じたことも事実だが、今後の諸々の課題が明確になったということも含めて、卒業制作公演に相応しい作品だったと、僕は思う。
(一つ付け加えるならば、再構成してあるもののオペラの原テキストが基軸にある分、『ラ・ボエーム』そのものを詳しく知らない人には、作品演出の意図や肝が伝わりにくいきらいがあるかもしれない)

 吉田穂、中井優雅、榎本阿礼、鶴坂奈央、千代花奈、坂根隆介(意表をついたキャスティング!)の演者陣は、初日ということもあっての傷だけではなく、より根本的なテキストとの齟齬を感じさせたりもしたが、楠君の演出に沿う努力を重ねていたとも思う。
 その健闘に拍手を贈りたい。

 いずれにしても、楠君をはじめ、全ての参加者出演者の今後のさらなる研鑚と活躍を心より祈願したい。
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2013年11月03日

緩やかに計算された知的な学芸会 「  」会

☆「  」会
(2013年11月3日14時開演/京都東山青少年活動センター創造活動室)


 企画外企画劇場が作道雄のプロデューサー能力の発揮の場とするならば、「  」会は玉木青のクリエーター能力の発揮の場、ってなことは前にも書いたことがあったっけ。
 東山青少年活動センターの創造活動室で開催された「  」会は、玉木君らしい緩やかに計算された知的な学芸会といったのりの、ゆる愉しいバラエティーショーに仕上がっていた。

 正直、冒頭の前説から大喜利までは、いくら計算もあるだろうとはいえちょっとぐだってないかい、おまけに客電がスポットライトみたくおでこに当たって暑いがな、と先行きを少々不安視していたのだけれど、続く丸山交通公園と菅原タイルの立ち話から俄然ヒートアップ。
(そうそう、昨夜の二人のユーストリーム中継にも腹がよじれるほど笑ったんだった)
 京大落研からの刺客道楽亭海人によるぐだくずした南京玉すだれや、いわゆる「VOW」っぽい丸山君、タイル君、鯖ゼリーによる「面白写真シンポジウム」に、鯖ゼリーのフラがよく出たひとり芝居、そしてメンバー全員による「即興新喜劇」と、いやあ笑った笑った。
(「即興新喜劇」では、おなじみ北川啓太をはじめ、京大落研のもう一人の刺客楠木亭北風の味、らしい合田団地、垣間見える垣尾玲央菜の繊細さ、肩の力の抜けたバケツ、そして『ノスタルジア』を彷彿とさせる小川晶弘と作道雄らが活躍)

 が、最高だったのは、柳沢友里亜、永榮紘実、垣尾さん、北川君、横山清正らによる、お芝居のエンディング百態だ。
 イトウモがこれだけのために書いたモノローグを柳沢さんがそれっぽく演じ切ったところで、脳天気なエンディングを模写してみせたり、矢野顕子や山下達郎の楽曲を巧みに使用したエンディングを仕掛けてみたりと、メタ的趣向に満ちたお遊びが繰り広げられていたんだけど、なんとその中に永榮さんが主役を張ったブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』の終景が組み込まれていたのである。
 実はしばらく前に、永榮さんの主演、玉木君の演出でこの作品を観てみたいと記したことがあったのだが、まさかまさか本当にそれをやってくれるとは思ってもみなかった。
 で、もちろん「  」会という企画を意識した落としにはなっていたが、演技の場面はきちんとシリアスで、永榮さんの肝っ玉おっ母を観ることができただけでも本望な上に、彼女か福田きみどりさんか笹井佐保さんでと思っていた娘の役(終景では遺体)を柳沢さんが引き受けていたことも嬉しかった。
 かてて加えて、特筆すべきは「じゃがまさ」横山君の演技。
 これがとてもよかった。
 やっぱり彼はシリアスな役回りが柄に合っている。

 と、言うことで大いに満足。
 ああ、面白かった!
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2013年11月02日

川村毅はこうこなくっちゃ 『新宿八犬伝 第三巻 −洪水の前−』

☆京都造形芸術大学舞台芸術学科 3回生川村クラス発表公演
 『新宿八犬伝 第三巻 −洪水の前−』

 作・演出:川村毅
(2013年11月2日17時半開演/京都芸術劇場春秋座)


 1991年に初演された川村毅の『新宿八犬伝 第三巻 −洪水の前−』が、京都造形芸術大学舞台芸術学科の3回生川村クラスの発表公演として再演されるというので、京都造形芸大内の芸術劇場春秋座まで足を運んだ。
(と、こう書くのはずるいかな。本当は出演者の学生さんからお誘いがあって観に行ったのだけれど、当時の川村さんや第三エロチカのことを一応知っている人間としてはついついそんな風に書いてしまいたくなるのである)

 で、観ての感想。
 途中までは、「アクチュアリティとはなんぞや?」とか、「近過去は如何に表現すべきか?」なんて小難しいことを考えたりもしていて、例えば森高千里や湾岸戦争なんて設定はそのままなのに、都知事の名前はなんで猪瀬なんだなんてことを思ったりもしたのだけれど、まあそれはそれ。
(そうそう、公演パンフの用語解説に『スーダラ節』の項目も割かれていたのだが、あれだけでは、どうして劇中に植木等や『スーダラ節』が登場するのかわからないんじゃないかな。実はこの作品の初演当時、『スーダラ伝説』なる楽曲によって植木等が再ブレイクしていたのだ。それにしても、『スーダラ節』の作詞者=青島幸男が都知事になるなんて、川村さんも思ってもみなかっただろう)

 演者陣の技量、だけではなく、テキストへの向き合い方や演技演劇への立ち位置の問題もあったりして、心身両面の力技でねじ伏せるべき戯作性(しかも、仕込みが非常に多い)が徹底され切れていないもどかしさを感じた箇所があったことも事実だけれど、物語が転び出し、邪劇性がいや増しに増したあたりからは、そうだそうだこれこれこうこなくっちゃと、川村ワールドを愉しむことができた。
 そして、細かい部分は置くとして、この作品の根底にある事どもは、残念ながら今もって大きなアクチュアリティを持っているものだとも強く思った。
(わかりやすく言えば、堤幸彦の『トリック』に様々なメッセージ、思考の時限爆弾を仕掛けたのが川村ワールド。違う逆だ、川村さんらの作品を咀嚼、ではない希釈化してみせたのが『トリック』だ)

 田渕詩乃、田中祐気、田中紗依、福久聡吾、嶋本禎子、福田沙季(あいにく今日はアンサンブルのみ)ら、学外の活動でおなじみの面々も出演。
 全ての出演者参加者の今後のさらなる研鑚と活躍を心より期待したい。

 余談だけど、ワーグナーの歌劇『タンホイザー』序曲が効果的に使用されていた。
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2013年10月28日

ぶれる女ぶれない女 象牙の空港#4『顔面売買』

☆象牙の空港 #4『顔面売買』

 作・演出:イトウモ
(2013年10月27日19時開演の回/人間座スタジオ)



 象牙の空港にとって第四回目の公演となる『顔面売買』は、「私」性を排除しよう、虚構性に特化徹底しようというイトウモの創作姿勢、作家性がよく表われた作品となっていた。
 そして、作品そのものとしても、演者陣の演技としても女性が中心に置かれた内容ともなっていた。

 僕自身は、永榮紘実と柳沢友里亜という好みの演者がたっぷり演技を披歴していたこと、例えば、柳沢さんと稲葉俊とのやり取りを後半永榮さんが改めて反復するあたりなど、稲葉君のウケの演技も含めて両者の違いを愉しんだし、どこかベルイマンを想起させるような内面心理に踏み込んだ意匠に強く興味を覚えたりもした。
 ただ一方で、演技映像と様々な仕掛けが施された結構展開が、ときとして作品の根幹にある人と人との関係性を見えにくくしていたこと、イトウモが意図していた以上の夾雑物となってしまっていたこともやはり否めまい。
 よりシンプルな構成でモティーフ(この場合、一般的な意味合いよりも音楽的な意味合いに近い)を明示するか、逆に意匠の精度を高めて演劇的趣向、フィクションとしての効果を強めるか、もしくは両者のバランスを一層巧くとっていくか、その選択がイトウモの今後の大きな課題になっていくように思う。


 演者陣では、どうしても柳沢友里亜と永榮紘実の二人からということになる。
 あなた柳沢さんは「ぶれる」女。
 僕の観た回ではライヴ特有の傷がどうしても気になって仕方なかったが、心の動きと身体の動き表情の変化が細かく結び付く演技のあり様は、彼女ならではのものとも感じた。
 イトウモの配役も大きいのだけれど、所帯じみてくたぶれた感じの今回の役回りは今の柳沢さんにとてもぴったりだった。
(昨年の京都学生演劇祭、劇団ヘルベチカスタンダードの『あっぱれ!ばかしあい 三千世界の果てはまほろば』での初々しく瑞々しい彼女の姿を記憶しているので、少々時の流れの残酷さも感じないではないのだが。僅か一年とちょっと!!)

 こなた永榮さんは「ぶれない」女。
 思索するとともに行動(感動)する人でもあろう彼女にとって、今回の役柄はそれほど容易なものではなかったように思うのだけれど、「観察者」である部分でも、一転役割を逆転し激しい感情表現を求められる部分でも、「ぶれない」演技を心がけていたのではないか。
 だからこそ、永榮さんの一層のステップアップと演技の磨き上げを心より期待したい。

 また、稲葉君、坂口弘樹、うめっちの男性陣もそれぞれの特性(長所短所)をよく示していた。
 正直、「ぶれなさ」が求められる部分では個々の苦しさが透けて見えたりもしたが、会話の部分では彼らの持つ長所魅力(一例を挙げれば、稲葉君の幅の広さ、坂口君の繊細さと陽性、うめっちの舞台上での存在感)を感じたことも事実だ。
 各々のさらなる活躍が愉しみである。

 いずれにしても、先述した「私」性の排除をはじめ、イトウモと象牙の空港の今後の活動を注目していきたい。
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2013年10月24日

個と個による生活の叙事詩 HOME『わたしのあいだ』

☆HOME『わたしのあいだ』

 小堀結香、染谷有紀、福田きみどり(ドキドキぼーいず)、森陽平
(2013年10月23日19時過ぎ開演/養生市営住宅11棟集会室)


 京都国際舞台芸術祭(KEX)のフリンジ企画「使えるプログラム」の支援事業の一つ、HOMEの『わたしのあいだ』を観た。
 なお、この『わたしのあいだ』は、昨年Factory Kyotoで上演された作品を今回のプログラム、及び上演会場の養生市営住宅にあわせて仕立て直したものである。
(上述の出演者も前回と同じだが、役回りが変わったり、出演者も「わたし」と「あなた」の二人のほかに、コロス的なもう一人が加わっている)

 ある家に住む「わたし」と、なんらかの理由でそこへとやって来た「あなた」の関係(谷川俊太郎や中原中也、永瀬清子らの文章の引用も含むモノローグの積み重ね等)を通して、「個」人と「個」人が根幹において束ねられることのない違いを持っていること、「個」人と「個」人の距離感のあり様、そしてそうした諸々を踏まえた上で生活していくということ、断絶することなく生きていくということへの思索のきっかけ、思考の時限爆弾がふんだんに施された内容となっている。
 観る者に強い感興や激しい興奮、大きな心の動きを与えるような展開を目指していないことは、フライヤーの言葉(宣言)からも明白で、細やかで透明感はありながらも、ウェットでもリリカルでもない叙事詩的な作品世界が造り上げられていた。

 かえすがえすも惜しまれるのは、天候のせいで本来の12棟の中庭ではなく11棟の集会室で今夜の上演が行われたことだ。
 確かに、家の中(部屋の中)を舞台にした作品だから、室内で上演されること自体おかしいことではないのだけれど(実際、マイクを使用したナレーターの森君はもちろんのこと、三人の演者の言葉・テキストも聴きとりやすかった)、場所がつき過ぎるというか、室内であることが当為過ぎて、一見淡々とした展開だけにインティメートな雰囲気や「家具の演劇」的要素、筋の起伏のなさが勝ってしまったように感じられなくもない。
 それより何より、そもそも中庭(屋外)での上演であるからこその作品の結構意匠(ギリシャ古典劇やブレヒト劇の援用)と、問題提起を多分にはらんでアクチュアリティに満ちたテキストだっただけに、それらの仕掛けが如何に効果を発揮するか(もしくはそうでないか)を確認することができなかったのは、本当に残念でならない。

 室内ということで、出演者陣の細部の傷がかえって目立った形にもなったが、過剰な演劇調ではない彼女彼らの発語(それは、声優を使わないジブリ作品の吹き替えにも通じる)と、作品そのものにつながる演者間の距離感関係性には好感を抱いた。

 いずれにしても、今改めて上演されるに相応しい作品だったと思う。
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2013年10月21日

記憶の流れと意識の流れ ヲサガリ、逆輸入公演『不透明な底』と『Re:子供』

☆ヲサガリ、逆輸入公演『不透明な底』、『Re:子供』

 『不透明な底』
 脚本・演出:久保田文也

 『Re:子供』
 原案:福田英城
 脚本:久保田文也、小川晶弘
 演出:久保田文也
(2013年10月20日19時開演の回/思文閣美術館地下一階 Chika)


 名古屋学生演劇祭で演劇祭賞を受賞したヲサガリ(京都工芸繊維大学を拠点とした、フク団ヒデキの後継団体)の凱旋公演とでも呼ぶべき、逆輸入公演の『不透明な底』と『Re:子供』を観たが、いずれも記憶の流れ、意識の流れが重要なモティーフとなっていたのではないか。

 まず、小川晶弘の前説ひとり芝居『不透明な底』から。
 男友達と劇団仲間の女性の三人で製作したインディーズ映画『不透明な底』でのエピソードについて、カメラマンだった人物が語っていくという内容。
 テキストの言葉の選択や映像の使用等作品の構成に粗さを感じたり、小川君の演技に抜けを感じたりしたものの、「藪の中」的な事実と感情の不確かさ、不透明さと、小川君の原に一物二物ありそうな雰囲気はよく合っていたと思う。
 そうそう、唐突だけど、小川君は落語をやってみてはどうかなあ。
 「若旦那」物とか、けっこう柄にはまりそうだけど。

 続いて、名古屋学生演劇祭賞受賞の『Re:子供』。
 実は、第二回京都学生演劇祭でフク団ヒデキが上演した『子供』(その際は、福田英城と小川君が出演)を仕立て直した作品なのだが、舞台上でひたすらドミノに向き合うといった実験味の強かった原作に比して、こちらは市川準の映画作品を観ているようで、早くに母親を、そして少し前に父親を亡くした兄と妹のインティメートな雰囲気がよく醸し出されていたのではないか。
 途中だれ場はありつつも、小川君のおかしみも巧く表われていて、観ていて好感の持てる作品に仕上がっていた。
 高田有菜も真摯な演技だった。

 ヲサガリのウェットに過ぎないリリカルな共同作業(久保田君と小川君らの)を、今後も注目していきたい。
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2013年10月20日

左子光治の知性と嗜好のアナーキーでグロテスクなデッサン ぱらどっくす第3回公演『悩みでかなら、やらいでか。』

☆コントユニットぱらどっくす 第3回公演『悩みでかなら、やらいでか。』

 書き手・導き手:左子光治
(2013年10月20日14時開演/東山青少年活動センター創造活動室)


 今年の京都学生演劇祭で、やたけたながら心情あふれるコントを披歴していた左子光治率いるコントユニットぱらどっくすの第3回公演『悩みでかなら、やらいでか』を観た。

 人を殺せない殺し屋の男、人を呪い殺したいが呪いが自分に返ってくるのが怖いひきこもりの女、人を食いたい大学生の男、世をはかなんで自殺願望のあるホームレスの男の四人が、ひょんなことからかち合って…。
 まったくもって無茶無謀荒唐無稽、アナーキーでグロテスクな展開なんだけど、そこに左子君の知性や嗜好志向思考試行、頭の中と心の中の諸々がふんだんに盛り込まれており、それこそ「悩みでかなら、やらいでか」、やりたいことをやっている清々しさを感じた。
 正直、鉛筆書きのデッサンというか、書きたいものやりたいものむきだしの見取り図という具合で、テキスト面でも演技面でも(もう一つ付け加えるなら制作面でも)、例えば客入れで流された高田渡の歌(選曲最高!)の如く、自然体だけど筋が通ったより精度の高い作品づくりを求めたくもあるのだが、単に精度だけにこだわってこじんまりとまとまってもややなあと思ったりもする。
 まあ、左子君のことだから、その点大丈夫かな。

 35(左子君)はじめ、ウノキミアキ、ゆのきあいこ、野原啓佑が出演。
 技術面のあれこれはひとまず置くとして、皆奮闘していたが、高田渡につながる35の軽味が印象に残った。

 いずれにしても、コントユニットぱらどっくすの今後に期待していきたい。


 そうそう、終演後、今回の公演のテーマ曲を歌ったNovelmanの谷澤ウッドストックのミニライヴが開催されたんだけど、客の扱い方の巧さも含めて懐かしい京都フォークの味わいがあり、とても愉しかった。
 人気急上昇中というのもうなずける。
 こちらも要注目だ。
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2013年10月17日

お芝居という形の説教 十中連合×the★planktons『ある訣別』

☆十中連合×the★palanktons『ある訣別』

 作・演出:渡邉憲明
(2013年10月16日19時半/KAIKA)

*劇団からのご招待


 独特のフラ(おかしみ)は持ちながらも、根は非常にまじめな植木等がおなじみ『スーダラ節』を渡されて、こんな歌なんか歌いたくないと悩み、同居する父徹誠の前で例の「ちょいと一杯のつもりで飲んで」と歌ってみせたところ、徹誠は「わかっちゃいるけど、やめられない」のフレーズに感嘆、この曲はヒットするぞと口にした。
 人間は、わかっちゃいるけどやめられないもの。
 それこそ親鸞上人の教えとも重なる人間の真理を突いた素晴らしい歌だから、というのが徹誠の言い分で、キリスト教の洗礼を受けながら僧籍に入って浄土真宗の僧侶となり、さらには社会主義者として部落解放運動や労働運動で活躍した彼らしい、どうにも飛躍した言葉なのだけれど、それでいて相手をついついその気にさせてしまう重みもある。
 岩戸山のコックピットの一環として上演された、十中連合×the★planktonsの『ある訣別』を観ながらふとそんなことを思い出したのは、作・演出の渡邉憲明が、かつての植木徹誠と同様、三重県内で僧籍にある(宗派は同じかどうか不明)ことに加え、作品そのものが「お芝居という形の説教」であるように、僕には思えたからだ。

 『ある訣別』は、大きな川を東から西に渡っている船中のコックピットという設定からしてそのことは明確だが(ただし、前回の『この世界は、そんなに広いのですか』と同じく、そこには我々が直面する大きな社会的問題が重ね合わされている)、渡邉君が日々向き合っているだろう、生と死、死と生の問題(死生観、人生観、宇宙観)が如実に反映された内容となっていた。
 と、こう記すと、それこそ「説教臭い」作品なのではと疑うむきもあるかもしれないけれど、そこはお芝居であり、狂騒的ですらある演劇的な仕掛けや細かい伏線(マリオの映像やaikoの歌その他)が多々施されている。
 正直、そうした仕掛けや筋運びに粗さを感じたことも事実であり、如何に作品の精度を高くしていくかがこれからの大きな課題であるとも思ったが、一方で、渡邉君の作品世界や創作姿勢には強く好感を覚えた。

 わたしゆくえ、葛井よう子、篠塚ノリ子、伊藤翔太郎(独特の軽味)、榎本篤志(テンション高し。作品前半の狂騒性をよく体現していた)、葛川友理は、ライヴ特有の傷はありつつも、渡邉君の意図を汲む努力を重ねていたと思う。

 いずれにしても、渡邉君と十中連合×the★planktonsの活動をこれからも応援していきたい。
 まずは、次回の公演がとても愉しみだ。
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2013年10月14日

造り手の健闘に拍手 KAIKA劇団 会華*開可『宇宙運送モリカワ』

☆KAIKA劇団 会華*開可『宇宙運送モリカワ』

 作:末山孝如
演出:脇田友
(2013年10月13日19時開演/KAIKA)


 岩戸山のコックピットのうち、KAIKA劇団 会華*開可の『宇宙運送モリカワ』を観た。

 運送業務に従事する宇宙船「モリカワ5号」内で痴情ばなしが持ち上がり…。
 明日も公演があるので、ほんのこれぐらいに留めておこうかな。
 会場はホームグラウンドのKAIKAとはいえ、「劇団衛星のコックピット」のためにしっかりこしらえ尽くされたコックピットを利用して独自の作品を造らなければならないというのだから、ぶっちゃけアウェイ状態の中、なんとか笑いからシリアスへの起伏のついたシアターピース(そこには、末山君の日常生活からにじみ出た労働観や人生観も含まれていると思う)にまとめ上げていた作家演出演者陣に、まずは拍手を贈りたい。
 正直、タイトなスケジュールでの公演ということも耳にしていたこともあって、前半など演者陣の頑張りがずっと気になっていたのだけれど、会場から笑いの反応が大きく起こっていたのは何よりである。
 僕自身は、演者陣の特性人柄とのつき具合からも、後半のほうがよりしっくりと感じることができた。

 演者陣では、小林まゆみを一番に挙げるべきだろう。
 中でも終盤の激しい感情表現が強く印象に残ったが、前半では彼女の達者さ器用さが無駄に遣われているような気がしたことも事実だ。
(その分、台詞を口にしていないときの横顔の美しさにはっとしたりもした)
 小林さん自身の志向嗜好は別にして、彼女はシリアスな役柄のほうがより向いているのではないか。
 唐突だけど、小林さんの『レ・ミゼラブル』のコゼットとか『トスカ』のトスカを一度観てみたく思う。
 また、あぶ潤の演技を久しぶりに観ることができたのが、僕にはとても嬉しかった。
 彼の軽味凄みがさらに発揮されればとも思わないではないけれど、それは次回を愉しみにしたい。
 臆面があって心意気充分な高山涼をはじめ、高橋美智子、椎名ゆかり、渡邉裕史らほかの演者陣も健闘していた。
(渡邉君の場合は、前半のほうが彼の「ふら」、良い意味での胡散臭さが活きていたのではないか。終盤では、彼の特性と役柄との齟齬、葛藤がどうしても舞台に表われてしまっていたように思う)
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2013年10月12日

愛の希求、愛への憧憬 ドキドキぼーいずの紅葉狩り#02『浮いちゃった』

☆ドキドキぼーいずの紅葉狩り#02『浮いちゃった』

 構成・演出・美術:本間広大
(2013年10月12日18時開演の回/東山青少年活動センター創造活動室)


 新生ドキドキぼーいずにとって二回目の公演となる、ドキドキぼーいずの紅葉狩り#02『浮いちゃった』を観たが、リーグ優勝を決めて三試合あとぐらいの読売巨人軍(ジャイアンツ)の勝負運びと評すると、ちょっと違うかな。
 諸々重なってだけれど、福田きみどり、松岡咲子、そして坂根隆介(ほかに、常連の福田沙季)を欠くキャスティングだからこその作品であり構成だとまずもって感じられた。

 で、先達の演劇的手法の援用も明らかな登場人物間のやり取りにはもどかしさと退屈さを覚えたりもしたが、これは不毛さの象徴でもあり、充分意図されたものだろう。
 この作品の肝、饅頭のあんと呼ぶべき部分は、愛の希求、愛への憧憬とそれが満たされないことへの身もだえ、切実さのように僕には思われた。
 そして、上述した演劇的技法=まんじゅうの皮によって客観化、普遍化がはかられつつも(その意味でも、本間君自身がこの作品に出演しなかったことを僕は評価する)、それは本間君の内面の強い想いそのものと言い換えても間違いではあるまい。
 正直、本間君の想いそのものに僕自身が大きく共感できたかと問われれば、否と答えざるをえないのだけれど、劇的な構成表現によってそれを伝えていこうとする本間君の姿勢には好感を覚えた。
(なお、この作品では積極的にダンスが組み込まれていたが、これはまんじゅうの皮よりも、あんこの部分に深く関わっているように思う。そうそう、触れ合う演者陣の姿を目にして、僕もまた触れ合いたい欲求=性欲ではないを刺激されたのだった)

 演者陣では、あんこのあんの部分を演じ切った上蔀優樹が一番に印象に残った。
 また身体性という意味で、役柄が彼女の本質特性と全面に重なるかどうかの判断は置くとして、島あやのダンスと豊かな肢体も忘れ難い。
 ほかに、佐藤和駿、ヰトウホノカ、はく、渡部智佳、恵ハジメ、帯金史、すっ太郎、むろいも、本間君の意図に沿う努力を重ねていた。

 福田きみどりらおなじみのメンバーが戻ってきた際に、本間君がどのような作品舞台を造り上げていくのか。
 そのことも含めて、次回の公演が愉しみである。
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2013年10月03日

お互いのすり合わせに期待 努力クラブ必見コント集『流したくない涙を流した』

☆努力クラブ 必見コント集『流したくない涙を流した』

 作・演出・構成:合田団地
(2013年10月2日19時開演の回/UrBANGUILD)


 ここのところ西村賢太の作品を立て続けに読んで、その韜晦と自己弁護、自分自身のカリカチュアがないまぜになった文「藝」に感嘆したのだけれど、京都小劇場でその西村賢太をはじめとした「私小説」書きの作家たちから強い影響を受けた劇の造り手を挙げろと言われれば、僕はすぐさま合田団地の名を思いつく。
(と、言って、月面クロワッサン製作・KBS京都放映のテレビドラマ『ノスタルジア』で、合田君が演じた作家の名前が合田賢太というのには、いささかストレートに過ぎるかなとも思いはしたが)
 一連の作品、特に前回の本公演の『家』など、佐々木峻一演じた主人公を中心とした作品世界には、どうしても先述したような散文作品との共通性を感じたものだ。
 そして、本公演とは別に「笑い」に特化したはずの今回の必見コント集『流したくない涙を流した』でも、コインの裏表というか、そうした合田君の表現のあり様が如実に示されていた。
 もちろん、そこは必見コント集と名乗るだけあって、シュール、ナンセンス、馬鹿馬鹿しさ、すかし、メタ等々、笑いや演劇的仕掛けが随所に盛り込まれていたことも確かで、しめて20本のコントのうち、いくつかのコントではつい大きな笑い声を上げてしまったほどだ。

 ただ、そうした合田君の諸々の仕掛け、様々な狙いがきっちりかっちりやんわりゆんわりと決まっていたかと問われると、残念ながら思い通り狙い通りと言うわけにはいかなかったのではないか。
 そしてそれは、無理を承知で攻めに出て失点したという挑戦の結果でもあるだろうが、一方で、合田君のテキストと演者陣との齟齬が関係していることもまた大きな事実だろう。
 佐々木君、猿そのもの、無農薬亭農薬、稲葉俊、川北唯、木下ノコシ、笹井佐保、廣瀬信輔と、キャストは一部異なるものの、それは前回の『家』とも通じるものである。

 付け加えるならば、そのような齟齬は、単に技術的な問題ばかりでなく、個々の演者の立ち位置、さらには全員とまでは言わないが精神面で抱える様々な懊悩と直結しているように僕には思われてならなかった。

 合田君の仕掛け、狙い、世界観(例えば、合田君自身が演じた「9月13日」のような、西村賢太流の自己諧謔に満ちた)を演者陣がどう細やかに汲み取っていくか、逆に演者陣の得手不得手特性魅力を合田君がどう巧く加減していくか。
 つまるところ、お互いがお互いのあり様をどう擦り合わせていくか。
 それがクリアされていくことで、コント集も本公演も、より面白さが増していくものと考える。

 いずれにしても、努力クラブの今後のさらなる変化を期待したい。
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2013年09月27日

挑む人黒川猛の真骨頂 THE GO AND MO'S第10回公演『岩田の禁』[破門編]

☆THE GO AND MO’S 第10回公演『岩田の禁』[破門編]

 脚本・演出・出演:黒川猛
 構成:黒川猛、中川剛
 音楽:Nov.16
 技術協力:真田貴吉
 映像協力:竹崎博人
(2013年9月27日19時半開演/壱坪シアタースワン)


 かつてベトナムからの笑い声で鳴らした黒川猛のワンマンライヴ、THE GO AND MO’Sだが、10回目となる今回は、過去の名作十八番を集めた[入門編]と、新作短篇コントを集めた[破門編]の二つに分かれるという怒涛の展開。
 で、GOMO’S常連の当方は、入門編に後ろ髪引かれつつ破門編のほうを選んだんだけど、まさしく挑む人黒川猛の真骨頂とでも呼ぶべき舞台となっていた。

 明日明後日と公演が残っているのであえて詳細については触れないが、「吹き出し5」に始まって、「サスペンス」、「教祖」、「イタコラスイッチ」、「人々」、「体操のお兄さん」、「太陽にほえろ!」の新作コント6本に、活動弁士「斉藤月曜美」(ぬめっぬちゃっとした語り口がたまらない)、さらには映像物の「格闘〜battle3〜」と「KIGEKI」が加わるという盛り沢山のラインナップで、やりもやったり並べも並べたりだ。
 正直、どれもこれもまんべんなく大爆笑の渦とはいかないけれど、バーバルギャグにサイトギャグ、さらには身体性に訴えかける作品やお客さんとのコミュニケーションと、黒川さんの笑いに対する執念には感心感嘆するし、それより何よりいくつかのコントには、ついつい大きな笑い声を上げてしまった。
 また、格闘のあの人ばかりか、「喜劇王」まで登場したのは、嬉しい驚きだった。

 KEXのフリンジ企画「オープンエントリー作品」にも相応しい内容で、入門編はあと少しお席の余裕もあるそうだから、ご都合よろしい方にはぜひぜひご覧いただきたい。

 ああ、面白かった!
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2013年09月23日

ほんの夢の入口 鯖ゼリー第一回公演『鯖からミシン』

☆鯖ゼリー 第一回公演『鯖からミシン』

 作・演出:鯖ゼリー
(2013年9月22日20時開演の回/人間座スタジオ)


 私には夢がある。
 とは、ある有名なスピーチの一節だが、劇団愉快犯の旗揚げメンバーの一人でOBの鯖ゼリーにとって、今回の『鯖からミシン』は、自らの夢の結実といっても過言ではないのではないか。

 一見脈絡のない、往年の名バラエティ番組『ゲバゲバ90分』を彷彿とさせるような(笑いを専門としない演技者が「まじめに」ギャグに取り組むという点でも、両者は共通している)、シュールなショートコント集。
 その実、きっちり通底したモティーフが仕込んであったりもして、それこそ愉しくしかしどこか不気味な夢を観終えたかのような、はははふうという気分にとらわれた。
 正直、基本的には舞台上の責任ではないある要因で、途中まで全くのれない、どころか憤慨していたのだけれど(なんだよ、せっかくおもろい話をやってることはわかってるのに、そんなことされちゃあ、こちとらちっとも笑えないぜ。あっ、ほら鯖ゼリー君以外の演者陣の肩肘張った感じ、頑張り力みが目立ってきやがった…、という具合)、中盤以降それもおさまって、最後は抱腹絶倒、大いに笑って満足がいった。
 そして、鯖ゼリーという人間の笑いのセンスのよさと自負矜持、賢さに改めて感心した次第。

 演者陣では、まず鯖ゼリー本人。
 この人の独特のフラがなんとも言えずおかしい。
 先頃引退を表明したあの人っぽい人など、流石である。
 そして、永榮紘実。
 鯖ゼリーの「臆面ある」作品世界によく合っていて、僕はますます永榮さんのことが好きになった。
 永榮紘実は、京都小劇場の浜木綿子だぜ!

 また、北川啓太、小川晶弘、横山清正、九鬼そねみ、垣尾玲央菜、西城瞳(ワンポイントでよい仕事をしていた)、酒井捺央(彼女は、漱石は漱石でも『夢十夜』でなくて、『虞美人草』の藤尾が似合いそう)も、各々の人柄特性魅力をいい具合に発揮していたのではないか。
 そうそう、この『鯖からミシン』を観ていて、やはり笑いというものは、虐げられる者の痛みと喜びばかりか、虐げる者の痛みと喜びを知っていてこそのものなのではないかと改めて思ったのだけれど、意識無意識は置くとして、ほぼ九割方の演者さんはそのことを、その人なりに自らのものとしているように僕には感じられた。

 いずれにしても、鯖ゼリーにとって、今回の『鯖からミシン』は、ほんの夢の途中、いや、まだまだ夢の入り口だろう。
 今後の公演を心待ちにしたい。

 そして、ああ、面白かった!
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滋味豊かな岡嶋秀昭の一人舞台 OKage『阿久根弥五郎の世界』

☆OKage 演劇公演『阿久根弥五郎の世界』

 構成:岡嶋秀昭、あごうさとし
 演出:あごうさとし
 出演:岡嶋秀昭
(2013年9月22日17時開演の回/アトリエ劇研)


 精度の高いやたけたさ。
 岡嶋秀昭という役者について問われたならば、僕はとっさにそのような言葉を思いつく。

 僕が京都小劇場と密接に関わりだしたのが、ちょうど劇団の作風が変化する頃に重なったため、岡嶋さんといえば当時のホームグラウンド衛星よりも、京都芸術センターでの現代演劇セミナーの試演会(別役実の『あーぶくたった、にいたった』。ちなみに、このとき二口大学さんが好演)や、その延長線上にあった京都ビエンナーレ2003『宇宙の旅セミが鳴いて』(鈴江俊郎作、高瀬久男演出)でのシリアスな演技がいっとう最初に思い浮かぶ。
 必死で自分の内側を掘り下げていこうというのか。
 そしてそれは、お客さん(外側)に向けて大きなサービス精神を発揮している京都役者落語会(劇研寄席)の高座でもそうで、特に京都芸術センターのグラウンドの花見の会など、アウェイもアウェイの劣悪な条件の中で内と外との双方に対して真摯に向き合う岡嶋さんの真骨頂とでも呼ぶべき高座になっていて、今さらながら目にしておいてよかったとつくづく思う。

 そんな岡嶋さんが、毎回ゲストの演出家を招いて一人舞台のレパートリーを制作・発表していくためのOKageという企画を立ち上げたというのだから、これはとうてい外せない。
 と、いうことで、次期アトリエ劇研のディレクター就任が先頃決まった、あごうさとしを演出に迎えた第一回目の公演『阿久根弥五郎の世界』を観た。

 舞台はとある一室。
 阿久根弥五郎と思しき男がひそめた声で歌を歌いだす。
 『ボブ★ロバーツ』ばりの、これってあの歌の…、えっ、それじゃあこの阿久根弥五郎ってやつはもしかして…。
 と、訝り始めたあたりで、やおら物語が動き始める。

 噛めば噛むほど味がじゅっとしみ出るというか、滋味豊かというか。
 つまり、単純にほっこりほこほこして終わりというあまーいお話ではない。
 それどころか、僕も含めて十年一日、あすなろうあすなろうと齢を重ねている人間にとっては、どうにも身につまされる苦い物語ですらある。
 ただ、それでも「わかっちゃいるけどやめられない」、それこそ落語的でもある「おかかなしい」(by色川武大)やたけたな姿、切実さに僕は心を動かされた。

 エピソードの膨らませや細部の練り上げなど、岡嶋さんとあごうさんであれば、まだまだいけるはずと思った部分もなくはなかったが、そのことはお二人とも充分おわかりのことなのではないか。
(時間的制約もきっとあっただろうし)

 いずれにしても、岡嶋秀昭という役者の魅力、そして来し方今これからがはっきりと示された舞台であり作品だったと思う。
 次回以降の公演もぜひ愉しみにしたい。

 ああ、面白かった!
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2013年09月21日

下鴨車窓のワークショップ受講生による C.T.T. vol.106

☆C.T.T. vol.106(2013年9月試演会−2)


 106回目となるC.T.T.(2013年9月試演会−2)は、劇作家演出家・田辺剛が主宰する下鴨車窓のワークショップ受講生の二つのグループによる田辺作品の試演が行われた。

 まず、浦賀わさび、岡本こずえ、仲谷萌、中間統彦、藤田かもめ、森田深志のAグループは、『煙の塔』をもとにした『断章 煙の塔』を試演。
 参考までに、名古屋の七ツ寺共同スタジオが発行している七ツ寺通信に掲載された『煙の塔』初演時の劇評を全開アップしたので、詳しくはそちらをご参照いただきたいが、原作を30分ほどに抜粋し、さらにほぼ素の状態の舞台で上演したことで、舞台上でいくつかのエピソードが同時多発的に進行するという作品の結構、手法的な狙いが一層明確に示されているように感じられて、非常に興味深かった。
 また、合評会で指摘されていたような演者の技術技量の問題とは別に、演劇的経験に何日もの長があるからこそかえって、藤田さんや岡本さんは、田辺さんの作品・演出と自己の特性魅力やこれまで培ってきた諸々とのすり合わせのあり様、葛藤、内にためた強い表現意欲が透けて見えていたように思う。
 ただしその分、田辺さんのテキストに潜んだ邪劇性、滑稽さの一端が表われていたことも事実だ。

 続く、キタノ万里と西村麻生のBグループは、『不動産を相続する姉妹』による『不動産を相続する姉妹 −帰った客ver』を試演。
 初演以降、5つの異なる組み合わせで接してきた『不動産を相続する姉妹』だけれど、「帰った客ver」とあるように、今回は本来登場すべき執行官が「帰ったあと」という具合に手が加えられていた。
 完成度という点では当然課題が残るものの、キタノさんと西村さんのやり取りもあって、笑劇性も強調された仕上がりになっていたのではないか。
 ここ最近抑制された感の強かったキタノさんは、努力クラブの旗揚げ公演『魂のようなラクダの背中に乗って』でのヒロインぶりを彷彿とされるような、振幅の大きい感情表現を披歴。
 一方、西村さんには一見常人、しかし実は変人といったおかしさを感じた。

 いずれにしても、田辺さんの今後の表現活動の展開とともに、受講生の皆さんのさらなる活躍を愉しみにしたい。
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参考 下鴨車窓『煙の塔』劇評(七ツ寺通信掲載)

 C.T.T. vol.106で上演された『断章 煙の塔』(田辺剛作・演出)の参考として、名古屋の七ツ寺共同スタジオ発行の七ツ寺通信に掲載された『煙の塔』(初演時)の劇評をアップします。


☆劇評 下鴨車窓「煙の塔」

 一言で言えば、意欲作ということになるだろうか。
 下鴨車窓にとって十回目の公演となる『煙の塔』は、表現者田辺剛の今がよく表われた作品となっていたように思う。

 山の奥に塔が立つある村で、村長の姪と青年との婚礼が執り行われようとしている。
そんな折も折、塔の辺りから謎めいた音が聞こえ始める。

 という幕開けも印象的な『煙の塔』は、寓話的な手法によって現在のアトモスフェアを映し取ろうとする、田辺さんの創作姿勢が明確に示された作品である。
 中でも、超然と聳え立ち、代々村長の一族によって護られ続けてきた謎の塔は、我々が直面している諸問題の象徴であるとともに、それを支え続けてきた社会的土壌、社会的心性の象徴であると言っても過言ではないだろう。
 ここで重要なことは、田辺さんが多様な解釈と相対的な価値判断を、観る側に委ねようとしていることだ。
 劇中語られる、「三角(三つの点)が世界の安定を保っている」という趣旨の言葉なども、そうした田辺さんの志向をよく伝えているのではないか。
 この多面性こそ、『煙の塔』とサタイア(風刺)とを分ける大きな分岐点となっているとも、僕は考える。

 加えて、小さな共同体における悪意の発生や、抑制されたエロティシズムといった、これまでの一連の作品と通底するモティーフが、チェーホフら先達たちの作品や様々な演劇的技法を咀嚼吸収する形で描き込まれていた点も忘れてはなるまい。
 特に指摘しておかなければならないのが、田辺さんの師である松田正隆との関係だ。
 田辺さんが演出助手として参加した、マレビトの会の『HIROSHIMA―HAPCHEON 二つの都市をめぐる展覧会』(松田正隆演出)での経験が、劇場全体を演劇空間に変えて、同時多発的に演者が演技を行うという、いわゆる展覧会形式を用いた前回公演の『小町風伝』(あいにく未見)に結実したわけだけれど、今回はその手法を一般的な舞台の上にスライドさせることで、時系列の省略や登場人物間の心理的な距離を具体的な像として映し出すことに成功していた。

 一方で、上演時間の制約もあってだろうが、十一名という登場人物の存在感に密度の薄さ、書き込まれるべきことが書き詰められていないもどかしさを覚えたことも、残念ながら否定できない。
 また、これは田辺作品の魅力でもあるのだが、本来叙事詩として綴り終えられるべきものが、結局叙情的に収斂されてしまっているような感じがしたことも事実である。
(その意味で、村長の姪を演じた飯坂美鶴妃の幕切れでのドライなリリシズムと粘らない点描的なエロキューションは、『煙の塔』を陳腐なカタルシスから救い出していたように思う)

 さらに踏み込んで言うならば、下鴨車窓における田辺さんは、松田さんの存在を意識し過ぎているように感じられて、僕には仕方がないのである。
 田辺さんが松田さんを超えていこうとするのであれば、『煙の塔』でもその一端が示された、優れたユーモア感覚(松田さんの作品にはそれが乏しい。グロテスクですらある諧謔性には魅かれるものの)を、演出の面で一層重視していくことが必要なのではないだろうか。
 現実を直視してなお時事諷刺に偏らない寓話性、過度に陥らない叙情性、奇抜さに恃まない試行性、笑いのツボを押さえて外さない喜劇性。
 田辺さんは、その全てがバランスよく混在した、精緻で巧妙な作品を造り出し得るに足る高い才能の持ち主であると、僕は信じる。
 この国の今に相応しい喜悲劇の傑作の誕生を、強く心待ちにしたい。

 最後に、高杉征司、岩田由紀、藤本隆志ら好演の演者陣と、光と影を巧みに利用して作品の世界観を汲み取って余すところなかった魚森理恵の照明と川上明子の舞台美術に、大きな拍手を贈りたい。
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2013年09月16日

三者三様の笑い gate in コックピット

☆gate in コックピット

(2013年9月15日15時開演の回/KAIKA)


 今回のgateは、10月より開催される劇団衛星『岩戸山のコックピット』の舞台装置(ロボット内の操作操縦ルームと思し召せ)をまんま利用した企画。
 と、言うことで、いつもと違った枷がある分、各団体とも苦戦を強いられるのではないかと思っていたが、なんのなんの、三者三様の笑いをためた、面白い作品を造り上げていた。

 まずは、東京のPLAT-formanceの『MOBILE TAKA-6』(オカヨウヘイ作、安藤理樹と吉田能の出演)。
 彼らにとって初の具象舞台美術を使った公演とのことだったが、コックピットの設定をそのまま利用して、例えばナイツのような東京漫才ののりの掛け合い(本当は、以前新宿末廣亭などで接したも少しマイナーなコンビを例に挙げたいんだけど、有名どころが手っとりばやいだろうからナイツにする)を全面に、オーソドックスな演劇的な手法も用いた快活なテンポの作品づくりに成功していた。
 面白うて、やがてかなしき…。
 といった展開も、余韻が残る。

 続いては、京都代表の友達図鑑による『友達図鑑の逃げ出したくせに』(丸山交通公園作・演出)。
 工場を潰して女房にも逃げられた親父は今日も今日とて働きもせで、二階の部屋に閉じこもって自らが作り上げたコックピットの「整備」に没頭する。
 それだけでもしゃむないすかたん人間であるのだけれど、この親父、あろうことか、己が働く代わりに娘を…。
 水を得た魚と言っても過言ではないだろう。
 まさしく、泣くに泣けない、だから歯噛みして笑うという丸山ワールド全開の作品で、冒頭必死にコックピットを磨く丸山交通公園の情けない姿には、黒澤明監督の『どですかでん』を思い出したほどだ。
 また、娘役の金原ぽち子、義弟役の佐藤正純も、各々娘の低温動物的な不気味さと、勘違い男の増長慢ぶりを巧く表現していたと思う。
 書かねばならじ、やらねば命あらじ、といった丸山君の表現者としての業、切実さに満ち満ちた作品で、ここ一年ほどのもやもやが解き放たれた気分になった。
 いろいろと大変だろうが、丸山君にはぜひとも友達図鑑の活動も続けていって欲しい。

 最後は、北九州のブルーエゴナクによる『シュービックラップ(痕)』(穴迫信一作・演出)。
 穴迫信一が演劇活動の中で実際に経験した出来事を、コックピットの設定を通して再現した「セミ・ドキュメント作品」。
 武田鉄矢が好例かな、九州男にときとしてありがちな(ちなみに、僕は長崎出身です)底が見えやすい正論を武器にした説教臭さ、粘着気質ぶりを、穴迫さんは細かく笑いをまぶしながらこれでもかこれでもかという具合にデフォルメしていく。
 そのおかしさとかなしさ、みじめさ。
 むろん、高山実花と松下龍太朗の普通っぽい−常人としての「受け」があるからこそ、穴迫さん演じるチームリーダーの変さ、しつこさがさらに際立っていくのだが。
 今回の作品でも垣間見えた、穴迫さんの狂気がさらに発揮された長篇作品を今度は観てみたい。
 本格的な京都公演が待ち遠しい。

 三作品とも、ああ、面白かった!
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2013年09月13日

fukuiii,5の二本立て 『大勇者伝』と『ロマンス』

☆fukuiii,5『大勇者伝』
 脚本・演出:福井俊哉
(2013年9月13日14時開演/人間座スタジオ)

☆fukuiii,5『ロマンス』
 作:つかこうへい
 演出:福井俊哉
 演出補佐:松浦倫子
(2013年9月13日16時半開演/人間座スタジオ)



 福井俊哉が主宰するfukui(福井)企画にとって5回目の公演となるfukuiii,5の『大勇者伝』と『ロマンス』を観に行って来た。
 二本立てということで、各々短くすませてくるかと思っていたらなんのなんの、前者が約110分、後者も約90分というなかなか長尺の公演となっていた。


 で、まずは福井君自作の『大勇者伝』から。
 公演のプログラムに福井君自身が記しているように、つかこうへいの作品を強く意識した、と言うか、裏返しにしてぐだぐだぐでぐでとおもろおかしく仕立て直した、確信犯的な邪劇と評することができるのではないか。
 人類に危害を加える魔王を倒さんがため、大勇者テルーバが闘いの旅に出る。
 と、まるでRPG調ファンタジー調の展開だけれど、このテルーバという男がどうにもこうにもしゃむない人間だし、かたや魔王は魔王でなんだかピントがずれている。
 正直、もっと刈り込んでもいいんじゃないかと感じた部分があったことは否めないが、つかこうへいばり、もしくは古典劇ばりの長い台詞を含めて、言葉やシチュエーションを活用した笑いの仕掛けの豊富な諧謔味あふれる舞台に仕上がっていた。
 また、福井君の一連の作品と同様、そうしたふざけ繰り返った内容から、何やかやに対する様々な強い想いが垣間見えていたことも確かだろう。
(ただし、そうした場面になると、どうしても流れの重さを感じたことも事実だが)
 高市草平、永井茉莉奈、花岡翔太、田中祐気、松浦倫子、上蔀優樹、大澤利麗ら演者陣は、演劇の基礎をどのように積んできたかがよくわかる演技を行っていた。


 続けて、つかこうへいの『ロマンス』を観る。
 オリンピックを目指す青木しげると花村丑松(丑松って名前からしてさあ…。そういえば以前、車丑松という人物が伍島征a、改め伍島平民という名前の人物になり変わるという作品を書いたことがあるが、ほとんどの人にその意味をわかってもらえなかったっけ)という二人の若き水泳選手の愛憎のさまを、つかこうへいならではの激しく熱くそして強い想いをためた言葉でもって描いた「ロマンス」、とまとめてしまえば簡単に過ぎるかな。
 三回目の公演ということで、演者陣の抜けあらが気になったこともあるのだが、いささか楷書の芸というか、何か全体が丁寧にスタイリッシュにまとめられようとしていて、その丁寧さそのものはよいのだけれど、テンポも含めて、例えばひげプロ(たにかわはるの演出)にあったような切れば血が出るような切実さややたけたさ、勢いが減じられているように思われた。
 作品の肝となる、しげると丑松の長いやり取りという要所急所はよく押さえられており、中でもしげるを演じた上川周作(『大勇者伝』でもインパクトのある役をやっていた)の寅さんか石立鉄男か石橋正次かといった具合のギアのよくきいた演技は強く印象に残ったが。
 立花諒も、不器用な生き方しかできない丑松によく合っていた。
 永井茉莉奈と上蔀優樹も、『大勇者伝』と『ロマンス』とを巧く演じ分けていたと思う。
 ほかに、福井君自身も出演。

 いずれにしても、こうした二本立て公演に挑んだ福井君の心意気を買いたい。
 そして、10月下旬に予定されている次回公演も頑張って欲しい。
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2013年09月08日

C.T.T. vol.105(2013年9月上演会)

☆C.T.T. vol.105(2013年9月上演会)

(2013年9月7日19時開演/アトリエ劇研)


 本公演に先立って試演を行える場と位置付けられているC.T.T.だが、今回は特にその趣の強い上映会になっていたのではないか。

 まず、筒井加寿子主宰・演出による劇研アクターズラボの公演クラス「絶対、大丈夫か」のメンバー(岩崎果林、岡本昌也、柿谷久美子、竹内香織、多田勘太)による故林広志作のコント『叱れません』、『遺失物係』、『バスガイド』から。
 きっちりと出来た本だからこそ、テンポのとり方や登場人物間の関係性の築き方など、難しさもひとしおだったろうが、筒井さんの指導によく沿った面白い舞台に仕上がっていたのではないか。
 今回の試演で明らかになった個々の課題をクリアしながら、来年1月に予定されている本公演をさらに面白いものにしていってもらいたい。

 続いては、坂口弘樹、河西美季、とのいけボーイ、千葉優一による「勝手にユニット BOYCOTT」による『我々LIVEグラフティ』(構成=BOYCOTT)。
 12月の第1回目の本公演を控えた「勝手にユニット BOYCOTT」だが、演技と身体表現を結び合わせたユニットの方向性と、演者陣の特性はよく表われていた。
 合評会では、構成の問題が指摘されていたけれど、身体表現等、細部の精度が上がっていけば、よりこの団体の、そして個々の魅力が発揮されていくように思う。
 本公演を愉しみにしたい。

 最後は、近畿大学の舞台芸術専攻卒業生を中心に結成されたDRIVAL EFFECTのコンテンポラリー・ダンス『蚊』(創作者=森本萌黄)。
 ダンスそのものもそうだけど、出演の蔵元徹平、正木悠太、KENTの面構え、雰囲気が印象に残った。
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2013年09月02日

掛け値なしの大満足 THE ROB CARLTON 6F『フュメ・ド・ポワソン』

☆THE ROB CARLTON 6F『フュメ・ド・ポワソン』

 作・演出:村角太洋
(2013年9月2日19時開演/元・立誠小学校音楽室)


 もう2年以上前になるか、旧知の村山宗一郎君(京都造形芸術大学映画学科卒業)から、昔馴染みのお芝居を手伝ってるんですがこれが面白いんです、ぜひ観に来てくださいと誘われたことがあった。
 やたけたではあるけれど、心ある作品の造り手な村山君の言葉だから、なんとか観ておきたいと思ったのだが、あいにくそのときはタイミングが合わなかった。
 それからもずっと観たい観たいと思っているうちに時間が過ぎて、なんと公演を観る前に、メンバーのボブ・マーサム、満腹満のお二人と、月面クロワッサン製作・KBS京都放映のドラマ『ノスタルジア』で共演してしまった。
 こりゃもう観ないといけない申し訳ないと、そんなTHE ROB CARLTONの6回目の公演『フュメ・ド・ポワソン』(ちなみに、フレンチで「魚のだし」のこと)に足を運んだんだけど、これはもう掛け値なしの大満足、観て大正解の公演だった。

 とあるホテルの厨房で、シェフたちが寄り集まってメニューに関する会議を始めるも…。
 といった具合に物語は進んでいくのだが、ウェルメイドプレイの骨法をしっかりと押さえつつ、笑いの仕掛けもたっぷりと盛り込んだめっぽう面白い舞台に仕上がっていた。
 楽日となる今夜の回は、思わぬアクシデントがいくつか発生したり、ライヴ特有の傷もあったりしたが、演者陣は巧くそこらあたりをクリアしていたし、お客さんもまたそうした演者陣を暖かく見守っているように、僕には感じられた。

 一人一人の見せ場をきっちり設けたテキストもあってだが、村角ダイチ(ツボをよく押さえた音楽は、彼のもの)、満腹満、ボブ・マーサムに、客演の大石英史、古藤望、そして猿そのものの演者陣は、各々の特性魅力を発揮するとともに、よいアンサンブルを築き上げていた。

 丁寧に造り込まれた舞台美術(栗山万葉)も含めて、お客さんに愉しんでもらいたいというサービス精神に充ち溢れた公演であり作品で、まさしく美味しい料理を食べたあとのようなよい心持ちに浸ることができた。
 次回の公演が本当に待ち遠しい。
 そして、ああ、面白かった!
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2013年09月01日

オフビートな短篇集 劇団愉快犯の『今日のおばんざい』

☆劇団愉快犯 番外公演『今日のおばんざい』

(2013年9月1日14時開演/人間座スタジオ)


 折に触れてシンパであることを公言しながら、よくよく考えてみれば京都学生演劇祭での公演しか観たことのなかった劇団愉快犯の番外公演『今日のおばんざい』に足を運んだ。
 一言で評せば、オフビートな短篇集ということになるだろうか。
 愉快犯の名に恥じぬ、捻りの効いたオムニバス作品となっていた。

 で、身びいき偏見は許すまじと、脚本・演出・出演者等、チラシには一切目を通さず観劇したのだけれど、もっとも自分の好みに合っていたのは、『昼食同盟』(ヒラタユミ脚本、石濱芳志野演出)。
 コントはコントでも本来のフランスのコントとでも呼びたくなるような、高校生二人のおかしさをためた昼食時の淡々としたやり取りと感情の揺れを活写した佳品で、演じ手の近衛ひよこと鈴木邦拡もナイーヴな展開によく沿っていた。
 ただ、ラストで場面を変えたのは、流れが切れてしまってちょっと残念かな。
 同じ場所で全篇話を通してもおかしくないと感じたのだけれど。
 それでも、ヒラタさんにはますます期待したいとも僕は思う。

 『あげまん』(バケツ脚本、北川啓太演出)は、タイトルだけを見れば単なる下ネタのように思ってしまいそうだが、そこはバケツ&北川コンビだ。
 バーバルギャグに徹して、下品さを感じさせなかった。
 てか、北川君が出るだけでずるいや。
 受け手の平井良暉の素直さもよかったが。

 『嫌煙?』(髭だるマン脚本・演出)は、シックでスマートに決めたさそうな髭だるマンを、やたけたなてんま1/2がかく乱するという、まさしく劇的細胞分裂爆発人間和田謙二らしい内容だった。
 少々粗くもあるが、やはりこの二人は面白い。

 『あろう』(笹井佐保脚本、鈴木邦拡演出)は、「あろう」としか口にしない殿様を抱えた一族郎党のやっさもっさ右往左往を描いた作品だが、政治性だとかなんだとか余計なものを付け加えたくなる設定を、笑いの線で留めたあたり、笹井佐保の賢しさを感じる。
 笹井さんの作品は、もう少し長いものも観てみたい。

 あと、演者陣では、垣尾玲子央菜のピントのずれた色気が印象に残る。
 それと、石濱芳志野は、ストレートプレイでの演技にも接してみたいと思った。

 いずれにしても、次回の公演が非常に愉しみだ。
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演劇ビギナーズユニット ばんびステップ『桜の森の満開の下』

☆演劇ビギナーズユニット2013 #20 ばんびステップ
 『贋作・桜の森の満開の下』

 脚本:野田秀樹
 演出:田辺剛
 演出補:阪本麻紀
(2013年8月31日18時半開演の回/東山青少年活動センター創造活動室)


 苦心惨憺。
 という言葉がどうしても思い浮かんでしまう。
 けれど、だからこそビギナーズユニットという企画の20周年に相応しかったのではないかとも、逆説的にではなく思ったりもした。
 つまり、一筋縄でいかないからこそ共同作業は尊いという意味で。

 それにしても、野田秀樹の『贋作・桜の森の満開の下』って、本当に難しい作品だなあと改めて感じる。
 身体と言語のアクロバティックな勇技で優擬で友義な遊戯の積み重ねののちに、痛切なカタルシスを生み出していかなければならないのだから。

 いくら自分たち自身で選んだテキストとはいえ、ほぼ舞台初心者という今回の参加者には、まずもって野田秀樹の台詞を覚え、それを身振り手振りを交えながら口にするということ自体難行苦行だったのではないか。
 作品の持つ「不穏さ」や遊びの部分がするするとすり抜けてしまったのは残念なことだけれど、大きな破たんなく幕切れを迎えられたことに、まずは拍手を贈りたい。
 ただ、技術的な問題はあるにせよ、全体的にテンポが遅く(緩く)感じられた点は、やはり気になった。

 そして、苦心惨憺という言葉は、当然演出の田辺剛にも大きく当てはまるものだと思う。
 下鴨車窓での「大島渚の『御法度』スタイル」とでも呼ぶべきキャスティングからもわかる通り、自らの演出家としての仕事は演技指導に非ずして、己がよしとする作品世界を優れた演者陣(演出家としての能力経験も豊富な)とともに再現していくことと考えているような田辺さんにとって、演劇初心者との舞台づくりは、一からやり直しというか、ここ最近の演出手法とは大幅に異なるものとなってしまっただろうからだ。
 と、言っても、田辺さんが演劇初心者の演出に劣ると言いたいわけではない。
 例えば、2002年の9月に今回と同じ東山青少年活動センターの創造活動室で上演された『そして校庭を走った』は、演劇初心者のみらいの会の面々を中心とした座組みではあったものの、ほどよいユーモアとリリカルさをためた瑞々しく気持ちのよい田辺さんにとって屈指の名作となっていたのだから。
 しかしながら、あくまでも『そして校庭を走った』は、田辺さんの作演出、あて書きであり、今回のような既成台本ではない。
 しかも、松田正隆さんや土田英生さんといった田辺さんにとってがっぷりよつに組み易い作家陣の作品ならいざしらず、相手は田辺さんと対極にあると言っても過言ではない野田秀樹である。
 苦戦は、初手から目に見えている。
 それでも、作品の要所を押さえながら、舞台の大筋を描き上げることには成功していたのではないか。
 音楽の使い方など、手が見えるというか、ちょっと露骨に感じたりもしないではなかったが。
(演技指導いう意味も含めて、アクターズラボの公演クラスと同様、演出補の阪本麻紀の作業も高く評価すべきだろう。彼女のサポートの存在を忘れてはならないと、僕は思う)

 繰り返しになる部分もあるが、演者陣の面々はよく頑張っていた。
 中でも、夜長姫を演じた野村明里の表情の豊かさが強く印象に残る。
 この役は、私のものという強い意志と自負も表われていた。
 ちょっとばかり有馬稲子っぽくもあったけど。
 受ける耳男の辻井悟志の真摯さもいい。
 ほかに、王役の松井壮大の軽さも今後が気になるところだ。
 あと、井戸綾子は何日の長というか、台詞のないときの表情が演劇の経験を感じさせた。
(もしかしたら、井戸さんには男の役を振ってもよかったんじゃないのかな。女性が男性の役を、男性が女性の役をやっても、ちっともおかしくないはずだしね)

 いずれにしても、皆さん本当に本当にお疲れ様でした!
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2013年08月31日

豊島勇士の一人芝居『イカロスの飛行』

☆豊島勇士の一人芝居『イカロスの飛行』

 出演:豊島勇士
 原作:レーモン・クノー
 構成/演出:伊藤元晴
(2013年8月30日21時開演/京都大学西部講堂「裏手」の小部屋)


 昨年の京都学生演劇祭の舞台上の姿に強く惹きつけられた豊島勇士が、京大西部講堂の裏手の小部屋という小さなスペースを利用して一人芝居に挑むというので迷わず足を運んだ。

 出し物は、レイモン・クノー原作の『イカロスの飛行』。
 探偵モルコリは、作家のユベールより自らの書きかけの小説から抜け出した登場人物イカロスの探索を依頼されるが…。
 と、ここから先は直接舞台を目にしていただきたいが、一筋縄でいかない不条理で滑稽な展開ながらも、虚無の感覚も秘めた作品になっていたように思う。

 伊藤君の構成もあってか、政治性・社会性と密接に結びついた「」つきのアクチュアリティがさらに捨象され、作品の舞台となった19世紀末の雰囲気=時代性が強調されていた分、どうしてもノスタルジックな感慨にとらわれたりもしたのだけれど、それがまた豊島君の特性魅力とよく合っていたようにも感じた。
 作品そのものに織り込まれたイグゾーストさもあって、若干冗長に感じた部分もなくはなかったし、豊島君の演技面での課題も当然指摘できるものの(ただし、登場人物の演じ分けに関していえば、個々のキャラクターの必要以上の強調はわざとらしくなるだけなので、基本的な部分は今のままでよいのではないか)、ヌーベルバーグを意識したと思しき伊藤君の構成演出は彼の趣向嗜好が充分に発揮されたものとなっていたし、何より豊島君の素の人柄のよさと演技者としての人柄のよさに接することができた点は、大きな収穫だった。

 最後に、作品世界によく沿ったセンスのよい選曲と梶原歩の衣裳・美術が強く印象に残ったことを付記しておきたい。

 ぜひとも、今後もこのような企画を続けていって欲しい。
 次回がとても愉しみである。
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2013年08月26日

飴玉エレナ vol.5『夏蜘蛛』

☆飴玉エレナ vol.5『夏蜘蛛』

 出演・演出:山西竜矢
 脚本・共同演出:石井珈琲
 演出補助:藤澤賢明
(2013年8月25日19時開演の回/元・立誠小学校音楽室)

*劇団からのご招待


 前々回の公演『記憶のない料理店』について、僕は飴玉エレナ・山西君の一人芝居を、確か飴玉ならぬガラス玉と譬えたが(ただし、京都学生演劇祭での公演の感想で)、今回の『夏蜘蛛』は、あえて玉に傷をつける作業が施されていたと評することができるのではないか。
 山西君の演技そのものもそうだし、笑いの仕掛けとしても、これまでの怜悧さモノマニアックな姿勢が抑制された作品づくりとなっていた。

 数年ぶりに郷里(ちなみに、山西君、石井君ともに郷里は香川とのこと)へ戻った三村知樹は、ひょんなことからかつて出会ったある人物に関して調べ始める…。
 という具合に物語は進んでいく。
 古いフランスの映画、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帖』形式、と言ってもわかりにくいかな。
 最近リメイクされた、有吉佐和子原作のテレビドラマ『悪女について』のように、ある人物ある出来事を追って、次から次へと「証言者」が入れ替わるというスタイルがとられていたのだけれど、それに従って山西君の一人芝居のあり様もこれまでの作品とは大きく異なるものとなっていた。
 つまり、前回までの落語のようにその場その場で役を演じ分ける方法ではなく、場面ごとに一人ずつ役を演じる方法だったのだが、キャラクターの造り込み演じ分けが見物であることが今まで通りとして、主人格にあたる三村知樹を演じる際に、自然といえば嘘になるものの、普段の山西君の一部、素と演技のあわいが巧く出されていた点が、僕には興味深かった。
 そして、今回の演技のスタイルもあってだろう、観客に対して細かく視線を動かす山西君のくせが、あまり出ていなかった(気にならなかった)こともやはり付け加えておきたい。

 例えば、数年ぶりに郷里に戻るに到るきっかけ(三村知樹の「記者」という職業との兼ね合い)や、そのきっかけに呼応するような郷里での無為の時間など、より丁寧に書き加えて欲しい部分や、逆にもっと刈り込んでもよいのではと感じられた部分もありはしたが、郷里・家族と自分自身の関係性、切実さや時間のかけがえなさがストレートに描かれた作品全体には好感を抱いたし、心を動かされもした。

 終演後、同じ回を観た人たちと話しをしていて、山西君はあまり同じ作品を繰り返すのは嫌なんじゃないかと指摘され、確かにそうかもなあと納得しつつ、より練り上げた形にした上で(場合によっては、香川の言葉がもっと出てもいいだろう)、三年に一回ぐらいのペースでこの『夏蜘蛛』を再演してみてはどうかと考えたりした。
 ライフワークとまではいかないにしても、30歳ぐらいまでのよいレパートリーになると思うんだけど。
 そうそう、以前の感想で海外に云々かんぬんと記したことの続きで、飴玉エレナは能の『谷行』や『隅田川』を下敷きにした作品に挑戦してみても面白いんじゃないかなあ。
 ブレヒトが前者を『ヤーザーガー(イエスマン)』と『ナインザーガー(ノーマン)』に、ブリテンが後者を『カーリュー・リヴァー』に仕立て直しているから、海外でもけっこう知られた話のはずだ。

 いずれにしても、ああ、面白かった!
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2013年08月11日

和田謙二 Vol.2『夢の無い国からの男』

☆劇的細胞分裂爆発人間和田謙二 Vol.2『夢の無い国からの男』

 作・演出:しゃくなげ謙治郎
(2013年8月11日14時開演/人間座スタジオ)


 髭だるマン、しゃくなげ謙治郎、てんま1/2による演劇ユニット、劇的細胞分裂爆発人間和田謙二にとって第2回目の公演となる『夢の無い国からの男』が、シティボーイズ風のこじゃれたコント集『食い合わせのグルメ』から一転、ストーリー性の強い快作となった。

 キャラクターどうしが血で血を洗うかの如き醜い争いを繰り返す夢も希望も無い異次元の国からやって来た一人の男が、ある女性と出会うことによって大きな変化を遂げて…。
 と、記すとちょっと簡単にまとめ過ぎかな。
 もしかしたら続篇もあるかもしれないので(てか、やらなきゃコロす! いや、冗談だけど)詳しい内容にはあえて触れないが、笑いのルーティン、べったべたなギャグをふんだんに盛り込みながら、その実、しゃくなげ謙治郎の真っ当さ、まじめさ、人生観、世界観がよく表われた作品に仕上がっていたのではないか。
 拙さ粗さ、突っ込みどころはありつつも、中盤以降、どんどん作品世界にひき込まれていった。

 演者陣も、メインキャラとなる髭だるマンを皮切りに、しゃくなげ謙治郎、てんま1/2、佐藤忍、勇宙香、大休寺一磨、伊藤純也、草間はなこ、近江あやかの演者陣は、課題は諸々見受けられたが、熱演を繰り広げていて好感が持てた。

 これで500円(さらにチラシを持っていったので、100円びき)なら安いものだ。
 ああ、面白かった!
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ミナモザ #14『彼らの敵』

☆ミナモザ #14『彼らの敵』

 作・演出:瀬戸山美咲
(2013年8月10日19時開演/元・立誠小学校音楽室)


 東日本大震災からちょっと前の2011年1月に、旧知の松田裕一郎さんの誘いで松田さんが出演する田上パルの公演を東京(公演自体は、埼玉県富士見市のキラリ☆ふじみで開催)まで観に行った際、翌日の昼にも何かお芝居を観ておこうと僕は算段した。
 初めは、新国立劇場の『大人は、かく戦えり』を狙ったものの、これは当日のキャンセル待ちも絶望的ということで諦め、さてどうするかと頭を捻る、ではなく、シアターガイドを捲ったところ、初台からそれほど遠くない三軒茶屋のシアタートラムでミナモザの『エモーショナルレイバー』がかかっていることがわかった。
 東京の演劇事情に疎いゆえ、ミナモザのことなんてちっとも知りはしなかったが、ぴぴんとひっかかるものがあって、自分のこういった勘は信じて間違いなしと観に行ったんだけど、案の定これが観て正解。
 なかなかに面白い公演だった。
 で、その詳細はそのときの観劇記録をご参照のほど。
 そうした好印象のミナモザが京都で公演を行うということをつい数日前に知って(制作、何やってんの!!)、おっとり刀で元立誠小学校へかけつけた。

 で、ミナモザにとって第14回目の公演となる『彼らの敵』は、彼女彼らの舞台写真をこの10年間(3回目の公演以降)撮影し続けている写真家の服部貴康さんをモデルとした作品だ。
 早稲田大学在学中、サークル仲間とパキスタンでカヌーくだりに挑んだ服部さん(作中の坂本)は、ダコイトと呼ばれる現地の強盗団に誘拐される。
 44日後に無事解放された服部さんたちだったが、誘拐中の週刊文春による歪曲された報道によってバッシングの嵐に見舞われる。
 ところがそんな服部さんが、週刊現代のカメラマンとなって…。
 と、ここから先は、劇場で直接ご覧いただきたい。

 正直、舞台以外の出来事もあってしばらくのれないままだったのだが、作品の力だろう中盤以降、ぐいぐいと引き込まれ、観終わったときには、ああ観ておいてよかった、正解だったという気持ちに変わっていた。
 いわゆる「社会派」といくくくりで語られる作品だろうし、実際、個人が社会とどう向き合っていくかという大きな問いかけをはらんでもいるのだけれど、『エモーショナルレイバー』同様、滑稽味や諧謔味も少なくないし、これまた『エモーショナルレイバー』と同じく、一方的にどちらが善でどちらが悪と決めつけるのではなく、登場人物間の会話(対話)によって、観る側の思考と思索を喚起するなど、瀬戸山さんのバランス感覚が巧く発揮されているように感じた。
 特に、坂本にとって小さからぬ転機となる喫茶店のシーンや、坂本と女性ライターとのやり取りが強く印象に残った。

 演者陣は、本日2回目の公演ということもあってか若干の傷や抜けはあったが、坂本役の西尾友樹はじめ、なべて作品世界に沿った熱演好演だった。
 菊池佳南、山森大輔、浅倉洋介、大原研二、中田顕史郎の役の演じ分けも、今回の観物だと思う。

 いずれにしても、ああ、面白かった!
 次回の京都公演が本当に待ち遠しいし、そのためにも多くの方々にぜひ明日の公演をご高覧いただければと心から願う。


 そうそう、はじめのほうに冗談めかして書いたけど、元・立誠小学校での公演ということ自体そうだし、公演の周知徹底もそうだし、制作面でいろいろと反省点があるのではないか。
 僕にはそう思えてならないのだが。
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2013年08月10日

劇団しようよ『アンネの日記だけでは』

☆劇団しようよ この胸いっぱいの朗読劇『アンネの日記だけでは』

 作・演出:大原渉平
(2013年8月9日19時開演/KAIKA)


 皿いっぱいに盛られたメレンゲを、ひたすら口に入れている気持ち。
 劇団しようよの「この胸いっぱいの朗読劇『アンネの日記だけでは』」を観ての感想を簡単に記せば、そういうことになるだろうか。
 素材は悪くないし、お皿のデザインはいいし、スプーンはきらきら光ってるし、メレンゲの盛り方だってとてもきれいだ。
 だけど、他には何もない。
 食べさせてもらえるのは、ただただメレンゲだけなのである。

 『アンネの日記だけでは』は、アンネの日記(アンネ自身)を一方の軸に置きながら、現代を生きる女性どうしの友情を物語の中心に据えた作品だ。

 で、吉岡里帆、小林由実(映像での経験がよく表われていた)、石川佳奈、西村花織、森麻子、クリスティーナ竹子、期間限定の劇団員である西端千晴、山中麻里絵といった演者陣の個性特性に合わせた配役は全く悪くない。
 特に、森さん、西村さんの役のふり方は、これまでの月面クロワッサンの公演ではありえなかった適切なものだし(二人も、その配役に応える努力をしていた)、竹子さんの使い方もしっくりとくるものだった。
 それに、シルエットの活用をはじめとした、作品の造形(そこには、美術音楽も含まれる)に美しくなじみやすい。

 しかしながら、語られる物語がまるきり心に響いてこない。
 雰囲気はとてもいいのだけれど、ただ表面を撫で回されているだけで、奥の奥までぐぐっと刺さってこないようなもどかしさを覚えるのだ。
 と、言っても、『アンネの日記』だからもっとずっと社会的なメッセージを盛り込めと言いたいわけでは毛頭ないが。
(なにゆえ、『アンネの日記』かという疑問は最後まで残りつつも)
 例えば、奇しくも同じ『アンネの日記』を題材に選んだ赤染晶子の『乙女の密告』は、女性どうしの閉塞しきった関係性をいーっとなるほどに細かく記すとともに、そこからの主人公の開放を読者に明示する。
 また、成瀬巳喜男の『流れる』や『晩菊』は、女性たちの弱さ愚かさとともに強さしたたかさを描き込む。
 ところが、この『アンネの日記だけでは』は、きっと女性どうしの関係に伴うはずの、悪意やあけすけさ、えぐさ、身も蓋もなさが一切捨象されていて、どうにも物足らないのである。
 むろん、そうしたいやごとは見たくないし見せたくないという大原君の姿勢、気持ちもわからないではない。
 だが、それならそれで、北村薫の一連の作品(『ひとがた流し』など)のような一層の細やかな筋運び、それより何より「きれいごと」に徹する覚悟が必要であろう。
 もう一つ付け加えるならば、アンネにとっても、現代を生きる登場人物たちにとっても、結婚こそが最良の選択であるかのように見えてしまう展開は、あまりにもナイーヴに過ぎるように僕は思う。
 優れた、そしてとても魅力的な演者陣と共同作業をできることへの大原君の多幸感がしっかり伝わってくる作品だけに、観て不快さを感じることは全然なかったのだけれど。

 上述した演者陣は、技術的な巧拙の差(台詞のみを聴いていると、その差がはっきりとわかる)はありつつも、各々の特性魅力がよく発揮していたのではないか。
 中でも、吉岡さんや石川さん、山中さんの素質を改めて確認できたことが収穫だった。
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2013年07月27日

THE GO AND MO'S第9回公演『西原の恋』

☆THE GO AND MO’S第9回公演『西原の恋』

 脚本・演出・出演:黒川猛
 構成:黒川猛、中川剛
 音楽:Nov.16
(2013年7月27日19時開演/元立誠小学校音楽室)


 会場をいつもの壱坪シアタースワンから元立誠小学校音楽室に移した、黒川猛のワンマンライヴTHE GO AND MO’Sの第9回公演『西原の恋』だが、いやあ、面白かったなあ。

 オープニング「前座」に始まって、創作落語「サーカス」、活動弁士「斎藤月曜美」、仲入り「格闘 〜battle2〜」、創作落語「お誕生会」、エンディング「大喜利」が、約1時間半、休憩なしのノンストップで上演される。
 手際語り際のよい旧作「サーカス」に、一味違った驚きのお誕生会の模様を描いた「お誕生会」という創作落語に加え、徳川夢声(活動弁士出身)ばりのもっちゃりねっちゃりした語り口で黒川さんお得意の言葉遊びが繰り広げられる活動弁士「斎藤月曜美」(ただし、前回第8回公演『白石の瓶』のコント「喜劇王犬養チョップ」に登場した同名の人物とは別人のようだ)、そしておなじみあの人物が大活躍する「格闘 〜battle2〜」と、盛り沢山の内容で、特に「格闘」には大笑いした。

 これで料金がたったの1000円(当日でも1200円)だというのだから、どうにも嬉しいかぎりだ。
 笑いにこだわる人にはマスト。
 そうでない人にも大いにお薦めしたい公演である。
 ああ、面白かった!
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2013年07月26日

ドキドキぼーいずの再旗揚げ#1『夢の愛』

☆ドキドキぼーいずの再旗揚げ#1『夢の愛』

 作・演出:本間広大
(2013年7月26日14時開演の回/KAIKA)


 作品に沿うならば、「本間広大の自画像」という一語にまとめられるだろうか。

 ドキドキぼーいずにとって再旗揚げ公演となる『夢の愛』は、画家・芸術家を夢見るある登場人物たちの姿を通して、本間広大のこれまでと今(そこには、単に彼の表現活動ばかりか、交友関係交流関係といった私生活も含まれる)が如実に示された作品となっていた。

 もちろん、福田きみどり(本当に表情がいい)と福田沙季(よく入り込んでいる)の二人の福田のツートップをはじめ、演者陣の特性魅力を活かした作劇となっていたし、観る側の感興を心得た結構ともなっていたが、やはり根底にあるのは演劇活動・表現活動に対する本間君の「自問」であり、「自答」であったのではないだろうか。
(その「自答」の中身についてはあえて云々しない。その「自答」の上で、ドキドキぼーいずが今後どのような作品を生み出していくかということに、僕は非常に興味がある)

 上述したツートップのほか、佐藤和駿、上蔀優樹(気になる演者の一人)、千代花奈(役柄と自分自身との間に齟齬があるか、もしくはそうでないのであれば、日頃の自分自身の出し方にちょっと無理があるのでは)、坂根隆介(雰囲気がいい)、森孝之、大休寺一磨、細見祥子という演者陣は、本間君(彼も出演)の意図を汲み取る努力を重ねていた。
(あと少し台詞の強弱がコントロールされればなあと思ったりしつつも)
 そして、松岡咲子。
 彼女がスーパーサブになりきれるか、言葉を換えれば「第三者の目」を持てるか否かが、これからのドキドキぼーいずの大きな鍵の一つになるような気がする。

 いずれにしても、次回の公演を愉しみに待ちたい。
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2013年07月16日

正直者の会『日曜月』

☆正直者の会『日曜月』

 作・演出・出演:田中遊
(2013年7月15日17時開演の回/西陣ファクトリーGARDEN)


 正直者の会の公演『日曜月』を観聴きした。

 田中遊という一人の人間の日々の生活から生まれた様々な想いが、田中さんが「戯声」と呼ぶ、音、声、言葉の重ね合わせの試みの中からはっきりと浮かび上がってくるようで、強く心を動かされた。

 ライヴ特有の傷はありつつも、朝平陽子、板倉真弓、木村雅子、浜田夏峰(地に足のついた「肝っ玉ねえさん」たち、と言うとだいぶん意味が変わってくるかな。当然弱さ辛さは抱えているはずだけれど、それに自己陶酔しきって我を忘れたりすることのない強さを持った人たちだと思う)竹ち代毬也ら演者陣も、そうした田中さんの切実で痛切な想いをよく汲み取って、見事なアンサンブルを発揮していた。

 観ておいて本当によかったと思える作品であり、公演だった。
 ああ、素晴らしかった!
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2013年07月14日

月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』(大阪公演)

☆月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』(大阪公演)

 作・演出:作道雄
(2013年7月14日17時開演の回/in→dependent theatre 2nd)

 *劇団からのご招待


 ところを大阪はin→dependent theatre 2ndに移した、月面クロワッサンのvol.6『オレンジのハイウェイ』の最終公演を観に行って来た。

 元立誠小学校の音楽室に比べて大きめの舞台ということもあって、小屋の間尺に合わせた作劇、演技、そして舞台美術(丸山ともきによる簡にして要を得たもの)に巧く造り変えられていたのではないか。
 未だ細部に気になる点は残しつつも、テキストはよくならされていて作道君の才智を感じさせたし、舞台の広さと格闘している感はありつつも、演者陣のアンサンブルもまとまりを見せていたと思う。
 中でも、今回は山西竜矢の芝居巧者ぶりが印象に残った。
(ほかに、西村花織が黙ってたたずんでいる姿と、森麻子が後ろを向いて髪をつくろっているあたりもよかった)

 で、京都・大阪と三回の公演に接して改めて思ったことは、密度の濃い作品造りには、やはりそれなりの時間が必要だということだ。
 来年1月に京都公演、2月に大阪公演が予定されているvol.7の『冬の栞(仮)』だが、適うことならば10月末か11月初めにプレプレビュー(内覧会)、それが無理だとしてもプロット・リーディングなど行ってはどうか。
 もしそれも難しいというのであれば、作道君が演者陣に課題を与えてC.T.T.に参加させる(大阪のほうに参加できるのならば、2月の公演の集客にもつながるはずだ)という手もなくはない。
 様々な可能性を持つ集団なだけに、そういった点に関しても、深く留意してもらえればと願う。
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2013年07月08日

猛き流星 vol.2『朝日のような夕日をつれて』

☆猛き流星 vol.2『朝日のような夕日をつれて』

 作:鴻上尚史
演出:酒井信古
(2013年7月7日19時開演の回/京都大学吉田寮食堂)


 小西啓介主宰の演劇ユニット、猛き流星が第2回目の公演にとり上げたのは、鴻上尚史と第三舞台の旗揚げ作品にして出世作となった『朝日のような夕日をつれて』。
 とくれば、「ゴド待ち」のことやつかこうへいからの影響、そして鴻上尚史とその同世代者にとっての切実さ痛切さということになるのだけれど、演者スタッフ陣より先輩格と思しき演出の酒井信古はひとまず置くとしても、小西君にとっては1980年代初頭の云々かんぬん(ただし、今回用いられたテキストは何回目かの改訂版を演者陣や吉田寮食堂の間尺に合わせたものとなっていたが)より何より、作品そのものの持つ疾走感が自らの表現欲求とぴったりしっくり重なり合っていたのではないか。
 実際、小西君をはじめ、黒須和輝、土谷凌太、中西良友、中原匠という演者陣が汗いっぱい(いっとう前の席だったが、ぴしゃっぴしゃっと彼らの汗が飛んできた!)つばきいっぱいになって、ところ狭しと動き回り速射砲のように台詞を吐きだす姿には、どうにもこうにも心を動かされずにはいられなかった。
 物語のピーク以降、若干ペースが減速した感はありはしたものの、自虐性に富んだメタネタや細かいくすぐり等笑いの仕掛けもテンポよく決まっていて、二時間の上演時間がとても短く感じられた。
 そして、演者陣の直球勝負の演技には好感を抱いた。

 ひょんなことが重なっての観劇だったが、これは観ておいて正解だった。
 ああ、面白かった!
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2013年07月06日

てんこもり堂 第5回本公演『真、夏の夜の夢』

☆てんこもり堂 第5回本公演『真、夏の夜の夢』

 原作:シェイクスピア(『夏の夜の夢』)
 翻訳:小田島雄志
 構成・演出:藤本隆志
(2013年7月6日14時開演の回/アトリエ劇研)


 てんこもり堂にとって5回目の本公演となる『真、夏の夜の夢』は、2010年11月のぶんげいマスターピースのシェイクスピア・コンペに始まって、翌11年9月の青柳敦子演出の『K・リア 〜ヒメミコタチノオハナシ〜』への出演、さらに一連の明倫ワークショップと、この間シェイクスピアと系統立てて向き合ってきた藤本隆志、金乃梨子の二人にとって、その集大成となる公演だったように思う。

 ハムレット的、マクベス的な引き裂かれる自己と言ってしまえばありきたりで大げさに過ぎるかもしれないが、演出面において、よい意味での「学芸会のお芝居」のような面白さ愉しさと、例えばニットキャップシアターの『さらば箱舟』の出演などで咀嚼吸収してきたものとを如何に結び合わせるかという意味で、成功した部分と若干の無理(詰まりきらなさ)を生んでいた部分とにわかれていたように感じられる場面もありはしたものの、登場人物間の関係性や作品の構図を通してシェイクスピアのテキストの持つ生きることのおかかなしさと人の心の動きの不思議さがよく表わされていたのではないだろうか。
 テルやん、芦谷康介、マキノナヲキ、岡本梢、渡邉裕史、ケる子、長田美穂という、一癖も二癖もあるバラエティに富んだ演者陣の特性魅力も、巧く発揮されていたと思う。
 中でも、終盤の中嶋やすきの台詞が強く印象に残った。
 また、かつてのハラダリャンとのコンビネーションを彷彿とさせるような笑いの仕掛けも細かく施されていたし、意識無意識は置くとして、藤本隆志の「私」の部分が垣間見えていた点も、僕には非常に興味深かった。

 いずれにしても、てんこもり堂の今後の活動に期待していきたい。

 ああ、面白かった!
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2013年07月01日

努力クラブ6『家』

☆努力クラブ6『家』

 作・演出:合田団地
(2013年6月30日19時開演の回/アトリエ劇研)


 あれはもう何年前のことになるだろう。
 親しくしていた女性から、「中瀬さんは強いですね」とぽつりと言われたことがある。
 「いや、僕はびびりやし、死ぬのは怖くてたまらないし、へたれやし、すぐにかっとなるし」とすぐさま応えたが、彼女は「そんなことじゃないくて。中瀬さんはやっぱり強いです」とさらに続けた。
 きっと彼女は、本当は僕が強いんじゃなくて、冷たいと口にしたかったのではないだろうか。
 努力クラブにとって6回目の本公演となる『家』を観ながら、ついそんなことを思い出してしまった。


 演劇的趣向はもちろんのこと、終演後ある人が話していたように映像作品との親近性も強く感じた『家』だけれど、僕自身がこの作品を観て第一に感じたことは、文學界や群像に掲載されるような純文学の小説、それも「私小説」だなあということだった。
 と、言っても何から何まで「ぼく」まみれ、幕開きから幕切れまで自我の垂れ流しなんてことは毛頭ない。
(だいたい、第三者が介在するお芝居でそんなことまずもって無理である)

 それどころか、時折合田団地本人のツイッターのツイートを想起させるような、本音と韜晦きわきわあたりの言葉を織り込みつつも、佐々木峻一演じる主人公(合田君の本質と大きな齟齬のある彼にこの役を任せたことは、物語を客観化させるという意味でも正解だったと思う。佐々木君にとって腑に落ちる役柄だったかどうかは置くとして)と彼を取り巻く登場人物たちを通して、より普遍的な袋小路に入り込んだ人間の救いようのないあり様が、おかかなしい笑いを伴いながらじぐじぐぐじぐじと描かれていく。
 正直、合田君が意図した以上の冗長さを感じた場面もなくはなかったが、それもまた作品世界の持ついーっとなるような雰囲気の醸成に貢献していたことは否めまい。
 また、ミニマリズムやマジックリアリズムの応用等、作品の結構構成が興味深かったことも確かである。

 だが、それより何より、そのような意匠がこらされているからこそなおのこと、創作活動、表現活動というものが合田団地という人間にとって欠けてはならないもの、生きることの大きな支えにもなっているのだと改めて強く感じ、僕は深く共感を覚えた。

 けれど一方で、この『家』の登場人物間の関係性の底、作品全体の底にある優しさ、甘さに対し、違和感を持ったこともまた事実だ。
 ただし、その優しさ、甘さは、単なる合田君の自分自身への甘さ、自己憐憫とは異なる。
 映画の『アマデウス』のラストで、サリエリが癲狂院の患者たちに微笑みかけるような感情、といえばちょっと違うかな。
 ならば、「しゃむない人間はしゃむないけど…」の「けど…」と言い換えてもよい。
 そして、僕はその「けど…」という曰く言い難い感情に対して、あまり共感を持ちえないのである。
 そのことこそが、いっとう最初に記したことと大きく関わってくるのだとも思う。


 先述した佐々木君をはじめ、九鬼そねみ(今回は少し演技を意識し過ぎたか)、無農薬亭農薬、猿そのものの努力クラブの面々と、キタノ万里(彼女の役回りもまた、この作品の「私小説」性を高めていた)、新谷大輝、川北唯(誉め言葉として、彼女にはもっと「底意地の悪い」役を演じて欲しい)、木下ノコシ、長坂ひかる、飯坂美鶴妃(マジックリアリズムならぬマジックマッシュルーム的な演技を披歴)の客演陣は、各々の特性魅力をよく発揮していたが、合田君が本来描こうとしたものと実際の演技との間に大きな齟齬を感じてしまったことも、残念ながら否定できない。
 そうした齟齬を如何にして埋めていくか。
 合田君本人の努力ももちろん必要だろうけれど、他の面々の努力も当然必要とされているのではないか。

 合田君の表現の力点がどこに置かれていくかということも含めて、努力クラブの今後の活動に大きく期待したい。
 次回の公演が本当に愉しみである。
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2013年06月25日

月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』(再見)

☆月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』(再見)

 作・演出:作道雄
(2013年6月24日19時開演の回/元・立誠小学校音楽室)


 初日に続いて、月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』の最終公演を観た。

 基本的な感想は、初日の観劇記録に譲るが、公演を重ねた分作品の要所がより明確になって笑いも増えていた反面、楽日ということもあってか、演者陣の疲れ、粗さも散見されたのは残念だった。
 そうした中で、丸山交通公園の奮戦ぶりが目を引いた。
 久方ぶりの友達図鑑の公演が、すこぶる愉しみである。

 で、まだ大阪公演を残していることもあり、作品の詳細については触れないけれど、初日の観劇記録にも記した通り、この『オレンジのハイウェイ』は、卓越したプロデュース能力の持ち主でもある作道雄の創作的志向と彼が考える月面クロワッサンの今後の方向性が如実に示された作品だと思う。
 そして、これまた初日の観劇記録に記したように、作道君の望む月面クロワッサンのステップアップのあり様を考えれば、彼がそうした志向と方向性をとることと、それに見合った演技を演者陣に求めることも十二分に理解できることである。

 ただ、それが果たして『オレンジのハイウェイ』という作品全体に、演者陣の演技に、巧く反映されていたかと問われれば、この京都公演に関してはまだ不完全な状態だったと言わざるをえない。
 むろん、そこには作道君の希求する作品世界に沿った演技を完璧には実現し得ない、現段階での演者陣の技術的な限界もあるだろう。
 だが一方で、演者陣の表面的ではない内面的特性と本質を今一つとらまえきれていない『オレンジのハイウェイ』のテキストと演出の問題も、やはり指摘しておかなければならないのではないか。
 確かに、先日の明倫ワークショップでも示されたような、作家・演出家の要求に柔軟に対応できる演技へのシフトチェンジが意図的に図られていることも事実だろうが、もしそうだとしても、いやだったらなおさらのこと、個々の演者への総合的で丁寧な評価に基づいた作品づくりが行われるべきだと、僕は思う。
 例えばそれは、ヲサガリや十中連合での小川晶弘より月面クロワッサンでの小川晶弘が光って見えるような、努力クラブでの稲葉俊より月面クロワッサンでの稲葉俊が光って見えるような作品づくり、と言い換えてもよい。
(ビジュアル面での印象や演技の質は置くとして、西村花織と森麻子の役回りは逆でも面白いのではないか。そうそう、偶然二人が出演しているので付け加えておくと、しようよの大原渉平君にも、こうした「逆転」を求めたい女性の演者のキャスティングを行っているときが時折あるような気がする)

 以前、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の喩えを、月面クロワッサンの観劇記録で持ち出したことがあったけど、それこそ作道君がみんなのためを思い、みんなと一緒に「細くない」蜘蛛の糸を昇っていこうとしても、「いやいや、そんなに慌てて昇らんでも」、「こんなの昇って大丈夫なの」、「いやあ、作道とは昇りたくないよ」となっては、せっかくの作道君の努力も水の泡となる。
 KBS京都のドラマ放映をはじめ、今後の可能性が徐々に開けているときだからこそ、月面クロワッサンという集団内での強固な共通認識の形成と緊密な意思疎通、そしてそれを受けての作品づくりを心から願ってやまない。

 最後に、限られた舞台空間を巧く活かした舞台美術(栗山万葉、南秋穂の補佐)が強く印象に残ったことを付記しておきたい。
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2013年06月23日

夕暮れ社 弱男ユニット『夕暮れ社、海のリハーサル』

☆夕暮れ社 弱男ユニット<初夏のお芝居短編集>シリーズ第3弾
 『夕暮れ社、海のリハーサル』

 作・演出:村上慎太郎
(2013年6月23日15時半開演の回/元・立誠小学校講堂)


 ここ数年夕暮れ社 弱男ユニットが開催している<初夏のお芝居短編集>の第3弾、『夕暮れ社、海のリハーサル』を観に行って来たが、元・立誠小学校の講堂という広い会場を存分に活かしきった愉しい短編集に仕上がっていたのではないか。
 「海のテンション」のリハーサルに始まって、「海水浴」のリハーサル、「海写真」のリハーサル、「夏フェス」のリハーサル、「マーメイド」になりたい、「ことう」のケンコー骨、「準備運動」のリハーサル、「ポセイドン」になりたい、「うみ、しほ、トモダチ」、「海」のリハーサルと、10本の短いお芝居(もしかしたら、それはスケッチと呼んでもいいかもしれない)が続けて上演されていたのだけれど、まるでコント55号のごとき暴力性不条理性すら秘めたあの手この手に、ときに大笑いしたりときに苦笑いしたり、ときにしんみりしたりと、実に面白かった。

 で、海が舞台ということもあって、ラストに海の映像が大きなスクリーンにばんと映し出されるリーディング『ピュラデス』とどうしても比較しながら観てしまったのだが、あなたどストレートの海丸出しに対して、こなた一見安普請、その実よくよく考えられた舞台美術に、演者の演技という演劇的手法を駆使した抽象的な海のあり様一つとっても、パゾリーニが多くを学んだと言われるグラムシの「陣地論」をよりしっかりと実践しているのは、村上君と夕暮れ社 弱男ユニットの面々のほうじゃないのか、と思わずにはいられなかった。
 いや、ちょうど44歳の誕生日を数日前に迎えて、人生の砂時計の砂が落ちる音がさらに大きく聴こえてくるように感じられる自分自身にとって、川村さんが示した終息感(終末感ではない)とある種の死への憧憬(ルキノ・ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』でおなじみな、マーラーの交響曲第5番の第4楽章:アダージェットの使用もこのことと大きく関わっていると思う。ちなみに、パゾリーニ自身は死を強制されたのだが)は、全く理解の外にあるものではない。
 けれど、やはり、笑いという糖衣をまぶしながらも、演劇に対して愚直に闘いを挑み続ける、村上君らの生命力というか、表現のエネルギーの強さのほうに、大きく心魅かれたこともまた事実なのである。
(と、言っても、もちろん脳天気に莫迦やってますってことじゃない。一筆書きですっと描き上げられたように見えて、けっこう細かい色付けがなされていることも、きちんと付け加えておかないと)

 稲森明日香、御厨亮、南志穂、向井咲絵の夕暮れ社 弱男ユニットの面々と、客演の伊勢村圭太、古藤望、小林欣也、降矢菜採、岩崎優希ら演者陣は、村上君の演出もあってだけれど、各々の特性魅力をよく発揮していたと思う。
 そして、藤居知佳子のベルカント!!
 正直、僕の声質の好みとは若干ずれているものの(でも、キリ・テ・カナワやバーバラ・ヘンドリックスなんかに比べれば藤居さんのほうが断然好き!)、なんちゃってじゃないしっかりした歌唱だった。
 話の流れに沿った選曲も抜群だったし。

 いずれにしても、ああ面白かった!!


 そうそう、最終公演のアフタートークは、なんとあの御厨貴先生がゲストとのこと。
 しまった、夜の回にしておくんだった!!!
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2013年06月22日

リーディング『ピュラデス』

☆リーディング『ピュラデス』

 作:ピエル・パオロ・パゾリーニ
 構成・演出:川村毅
(2013年6月22日19時開演/京都芸術劇場studio21)


 アナーキスト的心性の持ち主でダダイストの辻潤と、その後大杉栄のもとに走り彼ともに虐殺された伊藤野枝の長子辻まことの生涯を追った『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』<山川出版社>を読み終えたばかりということもあってか、ピエル・パオロ・パゾリーニの戯曲『ピュラデス』のリーディング公演を観聴きしながら、戦前の日本ではコミュニストよりもアナーキストのほうがより厳しい弾圧を受けていたんだよなあ(なぜなら、アナーキストは国家そのものを否定するので)とか、もしパゾリーニが日本に生まれてコミュニストとなり、そのままの創作活動を行ったりでもしたら、それこそ「敗北の文学」ならぬ「敗北の映像」などと難癖をつけられた上で、異端分子のアナーキストのレッテルのもと除名処分を受けたんじゃなかろうかと、ついつい思ってしまった。

 まあ、それは戯言として、パゾリーニが執筆した『ピュラデス』(ばかりか、彼の遺した一連の作品)は、川村毅が公演パンフレットで記しているように、「執筆当時のイタリア社会への苛烈な批評」となっていることは、言うまでもない。
 リヒャルト・シュトラウスが『エレクトラ』のタイトルで楽劇化したことでも有名な、エレクトラとオレステスによる母親殺しのギリシャ悲劇を下敷きとした『ピュラデス』は、イタリア国内における、保守的な政治権力と密接に結びついたキリスト教による文化支配(何せ、キリスト教民主党なる政党が戦後長年イタリアの政権を担っていたんだもの)=労働者支配と、大資本による労働力強化、一方でコミュニズムの指示拡大による労使対立思想対立の激化を如実に反映した作品である。
 当然、露悪的な性的表現も、単なる芸術趣味としての涜神性によるものではなく、同性愛者であることを公言したパゾリーニの文化的社会的桎梏への痛烈な意志表明と考えなければならないだろう。
 そして、川村さんがこれまた記しているように、この『ピュラデス』は、形は異なると言えども、現在の日本の諸状況に通底するものがあるという意味で、大いにアクチュアルな作品であると僕も思う。

 しかしながら、そうした川村さんの言葉やテキスト自体とは裏腹に、今回のリーディング公演(単に台本を読むだけではなく、映像や簡潔な演技等、川村さんらしい仕掛けも施されていた)そのものに覚えたことは、アクチュアル云々かんぬんというより、全てが過ぎ去ってしまったというか、もう終わってこれからがないというか、円環が閉じられたというか、ある種の終息感であった。
 一つには、パゾリーニと同じイタリア出身の巨匠が撮影した有名作品をすぐにも思い出させるようなクラシックの名曲(まさか、伊丹十三監督の『タンポポ』からじゃないよね。役所広司と黒田福美!)がふんだんに使用されて、カタルシスが喚起されていたことも大きいのだろうけど。

 演者陣では、イントネーションなどでいくつか気になる点があったものの、オレステス役の田中遊とアテナ役の武田暁の存在感と丁寧なリーディングに好感を覚えた。
 また、天使役・エウメニデス役の森田真和も強く印象に残った。
(ところで、田中さんと森田さんのキャスティングは、たぶん杉原邦生演出の『エンジェルス・イン・アメリカ』によるものと考えられるのだが、公演パンフレットのキャストの経歴のところでお二人ともそれが省かれている。いったいどうしてだろう?)
 ほかに、京都造形芸術大学生の原田佳名子、田中祐気、福久聡吾らも出演。
 彼女彼らの研鑚のあり様がよくわかる演技で、今後が愉しみだ。
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月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』

☆月面クロワッサン vol.6『オレンジのハイウェイ』

 脚本・演出:作道雄
(2013年6月21日19時開演の回/元・立誠小学校音楽室)

 *劇団からのご招待



 市川崑や岡本喜八、増村保造らが自らの作品の登場人物に、あっと言う間もあらばこそ、一気呵成速射砲の如く、次から次へと台詞を吐き続けさせたことは、高度経済成長直前の表層的な時代や社会の変化に対する諧謔精神の表われであったり、深い憤りの表われであったりしたわけだけど、月面クロワッサンにとって6回目の本公演となる『オレンジのハイウェイ』で作・演出の作道雄が見せた演者陣のスピーディーなテンポによる台詞のやり取りは、そうした先人たちとは異なって、まさしく疾走する希望とでも呼びたくなるような明度が高くて、軽さを帯びたものだった。

 舞台は高速道路、ひょんなことから出会った人たちが、ある目的に向かって動き始め…。
 と、これ以上は書いちゃいけないな。
 速いテンポの台詞の積み重ねの中から、物語の結構が徐々に明らかになっていくという構成で、後味の悪さのない、小気味のよい作品に仕上がっていた。
 初日ということで、アンサンブルの練りの足りない部分が見受けられたのも事実だが、これは公演を重ねるごとにどんどん精度を増していくことだろう。
 また、登場人物たちの置かれた状況や彼彼女らが口にする言葉想いが、作道君や月面クロワッサンの面々としっかり重なり合っている点は「私戯曲」の趣きがあって面白かったし、丸山交通公園や山西竜矢ら演者個人の見せ場を用意はしつつも、基本的には上述したようなテンポ感でかっちりと統制のとれた作劇をはかっている点は、今後の劇団の方向性(どのようなお客さんに向けて、何を観せ何を伝えるか)を明確に示した作道君の「創作方法論」、「マニフェスト」となっているように感じられてとても興味深かった。
(これまで作道君の作品に現れていたある重要なモティーフが封印されていることも、たぶんこのことと関係しているかもしれない)
 そして、そうした方向性を示すことと、そうした方向性に合わせた演技を演者陣に求めることは、月面クロワッサンの今後のステップアップを考えれば当然のことであるとも、僕は思った。

 ただ、だからこそ、公演の本番に到るまでの時間がもっと有効に活かされることを強く望まないでもない。
 それは、より速く脚本の第一稿を完成させ、プレプレビュー公演(内覧)を実施した上で改訂作業を行うことによって、演者陣の特性がより深くとらまえられ登場人物の背景陰影がさらに細かく表現された密度の濃い脚本と精度の高いアンサンブルを造り出していく、という風に詳しく言い換えることもできるだろう。
 作道君や月面クロワッサンの面々が、例えば、吉本新喜劇のような日々の公演によって培われた演技と芸とアンサンブルの瞬発力に重きを置く団体を目指していくのであればまた話は別だけれど、少なくとも作道君の求めているものは、より完成度の高いウエルメイドなシットコム(シチュエーションコメディ)なのではないか。
 もしそうであるならば、来年1月に予定されている次回京都公演に関しては、ぜひそういった点に充分留意してもらえればと願わずにいられない。

 丸山君や山西君、小川晶弘、稲葉俊、太田了輔、横山清正ら演者陣は、作品世界によく沿う努力を重ねていた。
 僕自身は、黙っている場面、それもほとんど身体を動かしていない場面での、西村花織や森麻子の表情が、彼女ら本人の真情本質を垣間見せているようで非常に印象に残った。
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2013年06月10日

笑の内閣プロレス復活特別公演『高間家 平井家 結婚お披露目パーティー』

☆笑の内閣プロレス復活特別公演
 『高間家 平井家 結婚お披露目パーティー』

 作・演出:新郎(高間響)
(2013年6月9日14時半開演/京都大学西部講堂)


 空前絶後とまでは言えまいが、やはり前代未聞なことだろう。
 京都大学西部講堂で結婚祝賀のお食事会を開くまではまだしも、そこにプロレス付きの披露宴をドッキングしてこましたろうなんて。
 しかも、友人知己ばかりか一般のお客さんにそれを開放しようというのだから、これはもう沙汰の限り。
 そんな笑の内閣プロレス復活特別公演『高間家 平井家 結婚お披露目パーティー』だが、おめでたい席が大好きな上に、最近笑の内閣に対する明確な支持を打ち出している人間としては、これは当然観逃せまい。
 と、言うことで、昨日京都大学西部講堂まで足を運んだのだけれど、いやあこれは足を運んで本当に大正解。
 いい公演であり、いい試合であり、そして何よりいいお披露目パーティーとなっていた。

 さて、我ら一般客はお食事会終了後の14時頃より西部講堂に入場。
 四方香菜の司会で、沢大洋扮するなんたろザビエル神父に従って新郎の高間上皇と新婦の平井ゆき枝さんが登場し、一同起立で讃美歌「いつくしみふかき」を斉唱。
 お互い誓いの言葉を口にしたまではよかったが(沢ザビエル神父が、「貧しきときも」を「まぶしき」と言い間違えたのが、まず反則だ)、そこに五藤七瑛(ピンク地底人2号。やりもやったり)率いる「ごなえ軍」が乱入し、ゆき枝さんを奪っていったからたまらない。
 プロレス勝負に勝てばゆき枝さんを返してやろうという、アメリカのプロレス団体を彷彿とさせるプロレス試合プロレス芝居、まさしく怒涛の「茶番」(誉め言葉あるよ)のはじまりはじまり。
(ただ、「茶番」は「茶番」だけれど、上皇ばかりか他の出演者たちの古傷、今の傷をさらけ出すあたり、充分「私戯曲」ともなっている)

 で、テレビは置くとして、生のプロレスといえば学生時代に全日本プロレスの試合を何度か観たかぎりの人間としては(余談だけれど、鶴田や三沢のエースはもちろんのこと、ジャイアント馬場とラッシャー木村、大熊元司、永源遥、渕正信、マイティ井上らの繰り広げる「茶番」も僕は大好きだった)、プロレスそのものに関してあれこれ言えないのだけれど、仮面のドス・ミサワ(清水航平)と瑞慶覧長空の第1試合からして、激しいやり取りにぐっと入り込む。
 これまでプロレスの試合は未経験ということに驚いたほど。

 続いて、クールキャッツ高杉は、伊藤純也、HIROFUMI、金原ぽち子、髭だるマン、上蔀裕樹ふんする岡山名産怪人軍団との一騎打ち。
 クールキャッツ高杉の奮戦で高間軍の勝利かと思いきや、岡山・津山・八つ墓村のたたりで彼が呪い殺されるといういかにもの展開で、試合は続く。
(以降も含めて、合田団地、中谷和代、川崎一輝、社会窓太郎、伊集院聖羅、薮内隼、どす恋ハート太郎らが華?を添える。ちなみに、秘書役の小林まゆみは昨日が誕生日だったよし。おめでとうございます)

 お次は、リッキー・クレイジー(嵯峨シモン)&マリイ・ジョー(藤井麻理)とグレイブディガー(ちっく)&ピンク金星人3号(浪崎孝二郎)のタッグマッチ。
 特に、ベテラン嵯峨シモンとちっくの試合運びを愉しむ。

 そうそう、この間プロのプロレスとは違うから、どうしても試合展開に隙間が出たりもしていたのだが、解説の向坂達矢をはじめ、実況の本宿直幸、木村直幸あたりがときに舌鋒鋭くそこをカバーしていたんだった。
(ほかに、レフェリー・ミスター八つ橋を野口雄輔、リングアナをスピッ太郎が務めていた)

 さらに、高間軍の熱い男しゃくなげ謙治郎&デルウィーシュ・アル・ヒル・ダヒカ(由良真介)とごなえ軍のクレイジー・キラー(高田会計)&グレートティーチャーヒゴハシ(肥後橋輝彦)の勝負も高間軍は劣勢で、ついに新郎高間上皇自身がリングに上がらざるをえなくなって…。
 と、ここからはもうお約束の流れだったのだが、高間上皇の様々な想いが表わされたりしたのち、無事ゆき枝さんとの愛が確認されたときには、驚くことにぐっと心を動かされた自分がいた。


 これも全ては、総勢38人の出演者+スタッフ陣を集め得た高間上皇の人徳…。
 いや違う違う、まずはこうした企画にOKを出した新婦ゆき枝さん(美しくってプロポーションもいい)こそ、大きく讃えられてしかるべきだ。
 ただ、ゆき枝さんを「だめ男に母性本能をくすぐられた女性」、なんて考えてしまっては大きな誤りであることは、打ち上げの席でのゆき枝さんご本人のお話からも明らかだろう。
 自分のだめさ、あかん子さ、弱さをさらけ出して、それでもやりたいことをやる、という高間上皇の姿勢人柄をこそ、ゆき枝さんは認めたのではないか。
 そしてそれはたぶん、直接高間上皇に不満をぶちまけながらも、こうやって集まった出演者スタッフ、その他関係者(加えて一般のお客さん)にも通じることだと思う。
(その意味で対象的なのが、歯噛みしてでも自分の弱さを見せたくないだろう月面クロワッサンの作道雄君だ。公演間際なので仕方ないことは承知の上で、彼の不在が本当に残念だった)


 いずれにしても、そうしたゆき枝さん、高間上皇に相応しいパーティーだった。
 ゆき枝さんと高間上皇の末永いお幸せを心より祈願しつつ。
 本当におめでとうございます!!
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2013年06月08日

C.T.T. kyoto vol.103 2013年6月上演会

☆C.T.T. kyoto vol.103 2013年6月上演会

 前田愛美:『対人関係について』
 アルカリ:『思いやりメロンパン』
(2013年6月8日16時30分開演/アトリエ劇研)


 今回で103回目を数える、C.T.T. kyotoの上演会は、演劇二題。

 まずは、前田愛美作・演出・出演による『対人関係について』が上演されたが、これは前田さんらしさが十二分に発揮された内容となっていた。
 「前田愛美って誰やねん?」という人にとっては(いや、そうじゃなくても)、ミシン台の上でトイレットペーパーと白熱灯が正面衝突したような、「なんやのんこれ?」という感情を惹起させかねないことも想像に難くないけれど、前田さんの切実な表現欲求や内面の思索、tabula=rasaをはじめとした演劇的経験や体験、ばかりか、ある種の鋭い批評性がよく表われたシアターピースに仕上がっていたことも確かな事実である。
 自己撞着に陥る危うさを感じないでもないが、前田さんにはぜひとも演劇活動表現活動を続けていってもらいたいと切に願う。

 一方、アルカリは、筒井加寿子さんが講師・作・演出を務める劇研アクターズラボ+ルドルフ「絶対、大丈夫か」(アクターズラボ公演クラス)の第1期生である高橋太樹=脚本、岩崎果林、多田勘太による三人芝居。
(なお、岩崎さんと多田君は、第2期にも続けて参加しているとのこと)
 上述した「絶対、大丈夫か」の第1回公演『NEVER WEDDING STORY』を彷彿とさせるウェルメイドプレイの作品で、愉しい、でもちょっとばかりシニックな舞台を造り上げようとする三人の姿勢には非常に好感を抱いた。
 ただ、脚本演技の両面で、ああ、惜しいなと感じてしまう時間が多かったことも、残念ながら否めない。
 と言うのも、合評会でも感想を述べたのだけれど、脚本では粘る(もしくは、笑いの「ルーティン」を守る)べき部分と、さらりとかわすべき部分がけっこうずれていたように思うし、演技ではもっとウェルメイドプレイ流儀の軽やかな演技が求めらているものが、つかこうへい風の一本調子な感情表現に留まっていたように思うからだ。
 とはいえ、演者陣三人の特性魅力は充分わかったし(例えば、岩崎さんはコメディエンヌとして重宝されるようになるのではないか。チャーミングだしコケティッシュだし、おまけに芯も強そうだ)、ウェルメイドプレイをじっくり造り込もうという姿勢は、しっかり評価しておくべきだろう。
 今後に期待したい。

 それにしても、彼女彼らの舞台を観てつくづく感じたのは、筒井さんの存在の大きさである。
 一つは、演劇に触れ始めて僅か一年とちょっとの三人に、こうやって自分たちのお芝居を上演したいと思わせたこと。
 そしてもう一つは、『NEVER WEDDING STORY』と『思いやりメロンパン』を比べたときにはっきりとわかる、筒井さんの演出家としての力。
 そんなこと当たり前だと口にするむきもあるだろうが、えてして表に現われたものだけで云々かんぬんされがちなきらいも少なくない分(演出の場合、それも仕方のないことでもあろうが)、あえて一言記しておくことにした。
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2013年05月31日

THE GO AND MO'S第8回公演『白石の瓶』

☆THE GO AND MO’S第8回公演『白石の瓶』

 脚本・演出:黒川猛
 構成:黒川猛、中川剛
 出演:森本研典、黒川猛
 音楽:Nov.16
 映像協力:竹崎博人
 制作:丸井重樹
(2013年5月31日19時半開演/壱坪シアター・スワン)


 たとえ二人の人間がその場に居ても、存在するのは一人一人の人間である。
 何から何まで束ねることなんてできやしない、という想いがそのままタイトルとなったのが、矢崎仁司監督の新作『1+1=1 1』(いちたすいちはいちいち)だけれど、太陽族のベテラン森本研典をゲストに迎えた、THE GO AND MO’Sの第8回公演『白石の瓶』も、よい意味で「1+1=1 1」と評したくなるような舞台となっていた。

 中でも、コント「喜劇王犬養チョップ」は、黒川さんと森本さんの特性魅力がしっかり結び合いがっちり向かい合っている上に、黒川さんの笑いに対する思考と嗜好、志向と試行がよく出た作品になっていて、実に面白かった。
 それにしても、森本さん、やりよるなあ!

 ほかに、森本さんのゲスト出演のきっかけである当たり屋「田島太朗」のキャラクターを活かしたコントや映像(北銀馬早苗も再登場!)、さらにはおなじみあの人物の「体技」など、バーバルギャグにサイトギャグと盛り沢山の内容で、まさしく必見の一語である。
 これで1000円は、本当に安い。

 ああ、面白かった!!
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2013年04月16日

第17次笑の内閣『65歳からの風営法』

☆第17次笑の内閣『65歳からの風営法』

 作・演出:高間響
(2013年4月16日15時開演の回/METORO)


 戦前戦後を一貫して、思想信条や言論学問、表現の自由のために闘い続けた弁護士海野普吉の評伝、入江曜子著の『思想は裁かれるか』<筑摩選書>を読み終えたばかりだが、その海野普吉の姿と笑の内閣の高間響の姿とが重なり合うような気がすると記せば、多くの人たちは「えっ?突然あんたは何を言い出すのかいな」と目を白黒させるかもしれない。
 世評も高い人物と高間君を同一視するなんて。
 けれど、他者の利害と自己のそれとの関係を視野にも入れつつ、強い力で人の自由を奪おうとするあれやこれやに怒り憤りを覚え、なおかつそれをわかりやすく説き明かし、しかも自分の論敵さえも納得するようなバランスのとれたやり方で対峙していこうとする姿勢は、やはり海野普吉と高間響に大きく共通することだと思う。
 もちろん、法そのものと、笑いの勝ったお芝居演劇という武器の違いも忘れてはなるまいが。

 そんな高間響と笑の内閣が今回テーマにとり上げたのは、昨今反対運動が盛り上がりつつある、風営法におけるダンス規制とクラブ摘発の問題である。
 で、僕自身、高間さん同様(公演プログラムの「あいさつ」参照)、ダンスにもクラブにもほとんど興味関心を持ってこなかった人間ではあるのだけれど、今回の『65歳からの風営法』を観ることで、風営法によるダンス規制が突っ込みどころの多い時代錯誤で拡大解釈の恐れの強いものであること、そしてそれが演劇をはじめとする表現活動を行っている人間にとって密接に関係しているものであることを、よく理解することができた。

 と、こう書くと、なんだそれってアジテーション演劇じゃん、「ためにするお芝居」はねえって声もあるかもしれないが、さにあらず。
 先述した如く、わかりやすいたとえ話(シチュエーション)に加え、自分は本来ダンスやクラブなんて「どっちでもいい」ことなんだけどという視点からなるばく客観的に描かれる努力が為されていて、全く押しつけがましさを感じない。
 高間さんの狙いや仕掛けはわかりつつも、あいにく僕の観た回はトラブルもあったりして、中盤以降までどうにも乗り切れないもどかしさを覚えてしまったが、丸山交通公園の登場あたりから盛り返したのではないか。
 展開その他、粗さを感じた部分もなくはなかったのだけれど、表面的な物語だけではなく、クラブという会場の雰囲気を巧く取り入れた作劇であり、しんみりさせどころもよく設けられていたように思う。

 演者陣は、今回に限ってならば丸山君が堂々のMVP。
 笑いのことがよくわかっているし、人情味が必要とさえる部分もよく演じていた。
 ただ、公演全体というか、アンケートでMVPにあえて推したのは、小林まゆみだった。
 と、言うのも、例えば努力クラブの第1回目の公演やC.T.T.でのピンク地底人の上演で、他の演者に比べれば確かに技術的には一程度の水準にありつつも、どうしても手わざが先に来て、「テレビの再現フィルム的」な巧さに留まっているように感じられてならなかったものが、今回の『65歳からの風営法』では、演技の精度のよさはそのままに、演じた登場人物の真情(それは、高間さんのそれでもある)と小林さんの内面にある表現への欲求、演技への欲求とがしっかり結びついて表わされていたように思われたからだ。
 その意味でも、僕はこの『65歳からの風営法』を観ておいてよかったと強く感じた。
 ほかに、田中浩之(今気になる演者の一人)、髭だるマン、しゃくなげ謙治郎、伊藤純也、藤井麻理(今回は彼女の柄に合っていたのでは?)、由良真介、廣瀬愛子、高間さん自身、清水航平、抹茶ぷりんらが出演。

 いずれにしても、単に面白さ笑いを追求しているからだけではなく、「今」だからこそ、「負けの数」を少しでも減らしたいからこそ、今後も笑の内閣を応援し続けたい。

 ああ、面白かった!
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2013年04月08日

努力クラブ必見コント集『正しい異臭』

☆努力クラブ必見コント集『正しい異臭』

 脚本・演出:合田団地
(2013年4月7日19時開演の回/人間座スタジオ)


 巷間評価が高まっている努力クラブが必見コント集をやるというので観に行ってきたが、いやあこのコント集『正しい異臭』は、掛け値なしに面白かったなあ。
 まさしく必見!
(一つ一つのコントはけっこう長めのものだから、本当は「スケッチ」集と呼ぶべきものなんだろうけど、それじゃあなんのことだかわからないもんね。なので、コント集で大正解)

 今回は合田団地らしさ(当然そこには、彼が伝えようとすることや想い、世界観も加わるのだが、あえてくどくどとは申しません)もしっかり出ていたんだけれど、わかりやすさ笑いやすさのバランスもきっちりはかられた作品づくりで、見事三振の山を築いていた。
 バーバルギャグにサイトギャグ、べたにルーティンと笑いの基本を押さえた上で、そこにこれまでの努力クラブの一連の公演ともつながる、粘らないリリカルさや意図された暴力性不条理性、それから演劇的な様々な手法技法が加味されてあの手この手、一時間半、みっちりたっぷり盛りだくさんの舞台に仕上がっていたのではないか。
 そうそう、自分たちがどういう笑いをつくっていくかを示してみせたチュートリアル(コンビ名とはちゃうよ!)的なコントが設けられていたのには感心したし、ブリッジ(コントとコントをつなぐ部分)での演者の出はけのさせ方ずらせ方も巧く考えられていて、これまた感心した。

 演者陣も、合田君の意図によく沿った演技、笑いづくりを行っていたように思う。
 中でも、ラストのコントでの丸山交通公園は、エノケン榎本健一に「喜劇をやろうと思うな」との言葉をもらった財津一郎を彷彿とさせるようなきわきわの演技。
 あと少しで笑えなくなってしまうところを、台詞づかいなどでよくかわし、笑いの世界に踏み止まっていた。
 友達図鑑の『かたくなにゆでる』の、いやがらせをしてきた両隣に住む女たちに寿司を振舞おうとする場面での演技にも通じる印象深さだ。
 また、ピンク地底人2号の演技(虚)と素(実)のあわいの滑稽さ、おかかなしさ、コケティッシュさもよかったなあ。
 ピンク地底人の公演とは一味違う彼女の魅力を愉しむことができた。
 他に、独特のフラが魅力的で、丸山君同様水を得た魚のようだった稲葉俊、進境著しい九鬼そねみ(でも、初心わするべからずで)、計算の立つ演技のできる古藤望、難しいキャラクターづくりに挑んだ廣瀬信輔が客演。
 一方、合田君、佐々木峻一、猿そのもの、無能亭農薬の努力クラブの面々は、単なる「ウケ」ではないものの、笑いを固めるポジションに回っていたように感じた。

 いずれにしても、観ておいて本当によかったと思えるコント集だった。
 そして、次回の公演『家』にも大きく期待したい。
 ああ、面白かった!
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2013年03月31日

THE GO AND MO'S 第7回公演『春子の夢』

☆THE GO AND MO’S 第7回公演『春子の夢』

 脚本・演出・出演:黒川猛
 構成:黒川猛、中川剛
 音楽:Nov.16
 映像協力:竹崎博人
 映像出演:森本研典、樋口ミユ
(2013年3月31日13時開演の回/ウイングフィールド)


 ひげプロ企画の『飛龍伝』が彼女彼らの有終の美を飾るものだったとすれば、ベトナムからの笑い声で鳴らした黒川猛のワンマン・ライヴ、THE GO AND MO’Sにとって第7回目の公演となる『春子の夢』は、2012年度の総決算であるとともに、新しい2013年度の門出に相応しい内容となっていたように思う。

 2012年度の公演中に流された「ドキュメンタリー」のうち、もっとも見応えのあった『当たり屋・田島太朗』と『当たり屋Gメン・北銀馬早苗』を客入れに始まった『春子の夢』は、旧作コント『注文の多い風俗店』と『スパイ大作戦』(ただし、単なるリピートとは異なる)に、新作コント『狂言病』、そしておなじみ映像コント『身体〜ファイナル〜』をメインとした構成となっていた。
 ときにきわきわというか、攻めが勝ち過ぎているように感じられた部分もなくはなかったが、黒川さんの「首が飛んでも笑いにこだわってみせらあ」の心意気と気迫はびんびんに伝わってきたし(特に、新作の『狂言病』など)、小刻み着実に笑いのヒットを重ねていたようにも思う。

 ただね、ベトナム時代からこの方、幾多の場外ホームランをかっ飛ばしてきた黒川さんに対して、今回の『春子の夢』で大いに満足し切っているようじゃ、どうにも申し訳が立たないとも思うのだ。

 と、言うことで、まずは次回5月末の第8回公演『白石の瓶』を心待ちにしたい。
 そして、来年度も本当に愉しみだ!
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2013年03月30日

ひげプロ企画『飛龍伝』

☆ひげプロ企画『飛龍伝』

 脚本:つかこうへい
 演出:たにかわはる
(2013年3月30日18時開演/同志社大学寒梅館ハーディーホール)

 *劇団からのご招待


 有終の美。
 と、言ってもよいのではないか。
 つかこうへい作品の上演をこれまで続けてきたひげプロ企画が、活動の一区切りに選んだのは、『飛龍伝』だった。
 長尺2時間半ということで、まずもって生理的な現象が心配だったんだけれど、そのことも含めて全く無問題。
 あっという間にラストを迎えていた。

 『飛龍伝』はつかこうへい自身が直面した70年代の学生運動・学生闘争の問題が(60年安保のエピソードも用いつつ)ストレートに扱われた作品だが、たにかわさんは、そうした作品の本質と真正面から向き合いぶつかっていたのではないだろうか。
 笑いにまぶしてぶちまけられた激しい皮肉や毒に細かくこだわるというより、作品の骨格と肝をきっちりと押さえつつ、メリハリの効いた速いテンポの作劇で、しっかりとカタルシスを生み出していたように思う。
 そして、劇中の諸々が、今現在のひげプロの面々と重なり合う部分が少なからずあるようにも感じられ、その意味でも痛切さ切実さが強く伝わる舞台ともなっていた。

 一人一人の氏名は省略することになるが、総勢20人近くの演者陣は、ライヴ特有の傷はありつつも、ハーディーホールの広い舞台上をところ狭しとエネルギッシュに動き回っていたし、作品の世界観やたにかわさんの意図にもよく沿っていた。
 中でも、伊藤大輝をはじめ、谷川はる、江頭一馬らひげプロ企画勢の熱演奮演が強く印象に残った。

 明日が最終舞台。
 ぜひ、多くの方にご覧いただければ。
 ああ、面白かった!




 以下は、今回の公演の面白さとは別に、作品そのもに対する僕の考えというか感想というか。
>被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。
 ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。
 このばあい、真の非常事態を招きよせることが、ぼくらの目前の課題となる(後略)<
ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』より(『ボードレール』<岩波文庫>所収)
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2013年03月25日

ノーミンpresents『ドリー&メリー 〜ソフトタッチよろしく〜』

☆ノーミンpresents『ドリー&メリー 〜ソフトタッチよろしく〜』

 作:森裕介
演出:脇田友
(2013年3月25日16時開演の回/KAIKA)

 *劇団からのご招待。


 森裕介の脚本に、脇田友の演出出演、そして田中希代子、石川佳奈、堀乃布子、松岡民恵の出演とくれば、どうしても思い出すのが第1回目の京都学生演劇祭で大賞を受賞した、成安造形大学・劇団テフノロGの『テレコム戦隊テッテレー』だけど、彼女彼ら(他に現テフノロGメンバーの須崎志緒里も出演)が今回ノーミンpresentsとして上演した『ドリー&メリー 〜ソフトタッチよろしく〜』も、実はテフノロGの公演でかけられた『ドリー&メリー』を下敷きにしたものだとのこと。

 で、今回の作品も、『テレコム戦隊テッテレー』を彷彿とさせる、へたうまタッチというか、あえて雑っつく、あえてべたに、あえてわざとらしく描き込まれた内容となっていたのではないか。
 正直、中盤ぐらいまでは、演者陣の熱演と作品の手間のかかり具合はわかりつつも、言葉が頭を素通りしていくというのか、どうにものれない感じだったのだが、演出の言葉にもある「茶番」が決まり出したあたりから、声高に語られようとしない事どももはっきりと明らかになってきて、けっこうしっくりと観進めることができるようになった。
(その声高に語られようとしない事どもは、そのままどんぴしゃではないけれど、常日頃から僕が感じ考えていることでもある。女性性や男性性とか、その合い間にあるもの、こととか。だからこそ、その意味でも、演出の脇田君と他の女性の演者陣の関係性がとても気になる)
 脚本の脈絡がさらにしっかりしていけば、演劇的手法が咀嚼応用された茶番の効果ももっと高まるように僕には思われた。
 あと、脇田友という人の内面の繊細さ、毒、狂気のようなものが垣間見えたように感じられたことも付け加えておきたい。

 演者陣は作品の世界観と脇田君(彼自身も大奮戦)の意図によく沿っていたように思う。
 中でも、実質的な主人公ともいえる石川佳奈の、ギアのチェンジが効いた活き活きとした演技が強く印象に残った。
(茶番、べた、へたうまな部分とフラットな部分の違いなどを観るに、この座組み以外、脇田君の演出以外での彼女たちの演技はどのようなものになるのか、僕はとても興味深く思う)

 いずれにしても、ノーミンの今後の活動に注目していきたい。
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2013年03月17日

劇的細胞分裂爆発人間 和田謙二「VOL.1 食い合わせのグルメ」

☆劇的細胞分裂爆発人間 和田謙二「VOL.1 食い合わせのグルメ」

 作・演出:髭だるマン
(2013年3月16日19時開演/人間座スタジオ)


 公演リーフレットによると、この劇的細胞分裂爆発人間 和田謙二は、亀岡高校柔道部の先輩後輩である、てんま1/2としゃくなげ謙治郎によって、昨年JR嵯峨野山陰線社内で発足し、さらに髭だるマンを加えて増殖中の演劇ユニットだそうである。
 髭だるマンとしゃくなげ謙治郎といえば、昨年の京都学生演劇祭での『未開・踏襲・座敷童子』、特に傑作「ジャージマン」で強い印象を残した龍谷大学の未踏座元メンバー(ちなみに、てんま1/2もそう)だが、今回の「食い合わせのグルメ」も彼らの本領を発揮したオムニバス・コント集となっていた。
 長い間合いやルーティンと笑いの骨法を押さえつつ、三人のキャラクターを存分に活かしたコントの数々で、中でも六の「彼女の行方」には大笑いしてしまった。
 また、オフビートで小じゃれた雰囲気も僕の好みにはあっていたのだけれど、ピークの置き方や話の切り方、決めの台詞の処理などで、もどかしさもったいなさを感じてしまったことも事実だ。
 細部を磨き込むことで、コントのアイデアや三人のキャラクターが一層引き立っていくだろうし、彼らに親しく接したことのない方々にもたっぷりと愉しめるコントに仕上がっていくように思う。
 ほかに、鈴木ちひろも出演。
 喀血劇場での薫陶や笑の内閣での経験も当然大きいだろうが、わざとらしい変な表情や大仰なアクションをしない、彼女のフラットなキャラクターは、今回のコントの雰囲気にはよく合っていたのではないだろうか。
 和田謙二の三人とともに、彼女の今後のさらなる活躍を期待したい。
 いずれにしても、和田謙二の次回の公演が待ち遠しい。

 そうそう、できればこの公演、さらに多くのお客さんに観に行ってもらいたいなあ。
 ご都合よろしい方はぜひ。
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劇団ケッペキ 卒業公演『夢みるナマモノ』

☆劇団ケッペキ 卒業公演『夢みるナマモノ』

 作・演出:内山航
(2013年3月16日14時開演の回/京都大学吉田寮食堂)


 ケッペキの公演を観るのは、はていったい何年ぶりのことだろう?
 それもこれも、永榮紘実という演者さんの演技をどうしても観ておきたかったからだ。

 永榮さん。
 京都学生演劇祭の劇団愉快犯の『作り話』にゲストとして顔を出し、一瞬にして女丈夫ぶり、芝居達者ぶりを示してみせた彼女の演技に初めて接したのは、象牙の空港の『女体出口』だったのだけれど、永榮さんの存在に気付いたのは、実はそのときではない。
 あれは、月面クロワッサンだったか、アトリエ劇研の客席での彼女の佇まいに、「あ、これはできる人だ」という勘が働いて(僕は自分のこういう勘を信じている。ときに大外れはあるものの)、それとなく知り合いに「あの人誰か知ってる」と尋ねたのである。
 そのときは、名前のほうまでは聴かなかったのだけれど、ケッペキの所属ということがわかり、いずれ必ず観ておこうと思ったのだった。

 で、今回の『夢みるナマモノ』だが、やっぱり観に行って大正解。
 永榮さんという人の、演技の幅、劇場感覚の豊かさを存分に愉しむことができたからだ。
 改めて記すけど、永榮紘実は今後要注目の演者さんだと思う。

 もちろん、永榮さん永榮さんと繰り返していてはひいきの引き倒しもいいところ。
 だいいち、他の演者さんにも悪い。
 フラットなシーンでは日活のアクションものではない作品の石原裕次郎のようで、コミカルなシーンではいかりや長介のような川原悠、おかかなしさをためた大石達起、脇を固めた加藤将隆、尾木藍子と、他の演者陣も好演で、吉田寮食堂によく合ったインティメートなアンサンブルを造り上げていた。

 また、内山航の脚本も、各々の特性魅力をよくとらまえた作劇で、物語の軸のぶれや、シーンの構成などで、どうしても気になる箇所があり、若干冗長に感じてしまった部分もなくはないのだけれど、笑いのツボを押さえつつ、伝えるべきことを真摯に伝えてもおり、心にしっくりくる内容だった。

 ちょうど京都大学音楽部交響楽団の卒団式のコンサートとかぶっていて、動と静の切り換えの大事な静の部分でショスタコーヴィチの交響曲第5番のいっとうやかましいあたりや鶏の鳴き声が聞こえてくるなんてアクシデント(?)もあったりしたのだが、まあそれはそれ。
 何はなくとも、観ておいてよかったと思える公演だった。

 思い込みの得手勝手な物言いになるし、本人の意識や今後の実際の活動は置くとして、永榮さんは、もしかしたらお芝居がなくても生きていける人のような感じがしたことを最後に付け加えておきたい。
 むろん、是非の価値判断とは関係なく。
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2013年03月11日

第3回京都学生演劇祭 中瀬宏之の極私的な賞

☆第3回京都学生演劇祭 中瀬宏之の極私的な賞


 第3回目となる京都学生演劇祭が、今夜無事終了した。
 去年に引き続き、公演のご招待をいただいたこともあり、参加16団体(うち、KAMELEONと劇団愉快犯は再見)と特別公演4団体、あわせて20団体を拝見することができた。
 今回の京都学生演劇祭に関しては、開催以前より運営等についてツイッターなどで発言を繰り返してきたが、まずは参加団体の皆さん、実行委員の皆さん、沢大洋さん、ちっくさん、浅田麻衣さんやスタッフの皆さん、審査員の松原利巳さん、田辺剛さん、杉原邦生さんのご健闘を讃えご苦労を労いたいと思います。
 本当にお疲れ様でした。

 そして、審査員の皆さんの審査、さらには昨年同様、笑の内閣の高間響上皇の審査の屋上屋を架す形となりますが、僭越ながら、中瀬宏之の極私的な賞を発表させていただきたいと思います。
(こちらは、閉会式終了後の交流会で一部発表したものの完全版です。なお、敬称は略、原則パンフレット掲載順とさせていただきます。また、解説文の有無には他意はありません)



*最優秀作品賞:劇団愉快犯『作り話』

 昨年の西一風『話の時間』の衣鉢を継いだウエルメイドプレイの佳品。
 笑えて泣けて、愉しむことができました。
 僕の心の中では、同点の最優秀作品賞です。


*同:吉田寮しばい部『きずあと』

 伝えたいことを真正面から伝えようとする作り手の姿勢と、その内容、そして真摯な演技に心を強く動かされました。
 評価されにくい作品だろうからこそ、僕は同点最優秀作品賞とします。


*優秀作品賞:ヲサガリ『それからの子供』
*同:喀血劇場『わっしょい!南やばしろ町男根祭り』
*同:劇団紫『天使のはなし』


*最優秀演出家賞:近衛虚作(喀血劇場)

 昨年に続いての受賞。


*最優秀チーム賞:飴玉エレナ

 飴玉エレナに関しては、山西竜矢君の演技が高く評価されていますが、それには石井珈琲君の演出、そして南秋穂さん、ナッツさん、タジマユリカさん、マツモトサワさんらスタッフ陣との共同作業、チームワークの存在が大きいように感じました。
 そうしたことを考えて、僕はあえて山西君個人にではなく、飴玉エレナという一つのチームに賞を捧げたいと思います。


*最優秀主演女優賞:田中沙依(KAMELEON)

 イヨネスコという難しいテキストに対する田中さんの悪戦苦闘と、公演開催中の変化は、今後の活躍を期待する意味でも高く評価したいと思います。


*最優秀主演男優賞:小川晶弘君(ヲサガリ)

 昨年、優秀助演男優賞の小川君です。
 小川君、どんどんよくなっているなあと感心し感嘆します。
 京都マラソンも本当にお疲れ様でした。


*同:北川啓太(劇団愉快犯)

 かつての月面クロワッサンや劇団テンケテンケテンケテンケの公演では、笑いの面、トリックスター的側面が強く表われていた北川君ですが、今回の作品では彼のシリアスな面での好演を観ることができました。


*同:辻斬血海(吉田寮しばい部)

 今は亡き信欣三を想起させる、エロキューションに演技。
 拙さの巧さと言いたくなるような、どこか祈りにつながるかのような心からの演技には敬服せざるをえません。


*優秀主演男優賞:河尻光(KAMELEON)

 河尻君のぶれない雰囲気、静かな狂気は、強く印象に残りました。


*優秀主演男優賞:コバ(劇団紫)

 ちょっと『エスパー魔美』の高畑君っぽい、人が良くてナイーヴで繊細で向日性に富んだ主人公を好演して魅力的でした。


*最優秀助演女優賞:鈴木ちひろ(喀血劇場)

 まさしく身体を張った演技。
 笑の内閣などでも活躍中の鈴木ちひろさんですが、今後も幅広く活躍していってください。


*優秀助演女優賞:富永琴美(同志社小劇場)

 使い勝手がよい、というと語弊がありますが、アンサンブルを重視した作品でのさらなる活躍を心より期待したいです。

*同:葉月(演劇実験場下鴨劇場)
*同:ジェントル(劇団テフノロG)
*同:くらやみ(劇団紫)


*最優秀助演男優賞:伊藤泰三(喀血劇場)

 東京乾電池や東京ヴォードヴィルといった、かつての小劇場の俳優陣を思い出す演者さん。
 タチバナという小役人の哀歓を演じ切って見事でした。


*同:五分厘零児(吉田寮しばい部)

 地方の町で漁業に従事する男のどうにも鬱屈した心情を、真摯に演じていて強く心魅かれました。


*優秀助演男優賞:うめっち(劇団蒲団座)
*同:イマじろう!!!!(劇団月光斜)
*同:谷脇友斗(劇団愉快犯)
*同:三宅陽介(同)
*同:迅(劇団紫)

 谷脇君は、最優秀に選ぶべきかどうしようかとても迷いました。
 本当に僅かの差での結果です。
 イマじろう!!!!君は、その老練さが、うめっち君と三宅君は独特の「フラ」(おかしみ)が、迅君はコメディリリーフぶりが強く印象に残りました。


*最優秀パフォーマンス賞:坂口弘樹、榎本篤志(劇団蒲団座)

 劇団蒲団座の観劇記録に記したように、youtubeにアップされた笑いのネタをほぼそのまま、なんの断りもなしに使用した坂口君には、正直失望しているのですが、坂口君、榎本君のパフォーマンスはやはりとても魅力的でした。
 繰り返しになりますが、団内事情を一度取り払って、ぜひとも「ノンバーバル」なパフォーマンスに挑戦してください。
 きっと「演劇」なんて枠にとらわれないお客さんを得られることと思います。


*最優秀男性キャラクター賞:谷岡和巳(劇団月光斜)

 硬軟ふり幅の広いキャラクターを谷岡君はとてもよく造り込んでいたように思います。
 素晴らしかったです。


*優秀男性キャラクター賞:髭だるマン(喀血劇場)


*最優秀女性キャラクター賞:右田梨子(同志社小劇場)

 悠木千帆時代の樹木希林を思い起こさせる、舞台上に寝そべった右田さんのふてぶてしい感じが、とても印象に残りました。


*最優秀ゲスト賞:永榮紘実(劇団愉快犯)

 劇団愉快犯の日替わりゲスト。
 ケッペキ所属の永榮さんは、ほんの一瞬で女丈夫ぶりを魅せつけました。
 永榮さん、ぜひぜひ今後ともお芝居を続けてください!
 これからも愉しみにしています。


*優秀ゲスト賞:横山清正(同)


*最優秀インパクト賞:コロッポックル企画のくすぐり「ワインガルトナー」

 巨匠指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーに対抗する指揮者として、フェリックス・ワインガルトナー(第二次世界大戦前に活躍した独墺系の指揮者で作曲家、音楽理論家。ベートーヴェンのスペシャリストとして有名で、戦前来日し、夫人ともども新交響楽団=現NHK交響楽団を指揮しています)を持ち出すなんて。
 参考文献(ネットの記事)をそのままひいたのでしょうか?
 それにしても、クラシック音楽好きには驚きのくすぐりでした。


*最優秀司会者賞:作道雄(月面クロワッサン)

 特別公演のインタートークや大交流会、閉会式、さらには交流会(打ち上げ)と、団体の作品性には踏み込まず、各々の表層をよくとらまえた手際のよい仕切りは、学生演劇祭の方向性との兼ね合いで様々な評価の対象となるかとも思いますが、まずもってその司会者としての技術手腕に関しては、やはり賞を与えておかねばと考えました。
 なお、諸般の事情で最優秀秋元康賞の授賞は中止しました。


*ホープ賞:若林りか(コロポックル企画)

 作品そのものの評価は置くとして、彼女の創作、表現活動への切実な想いと、開会式閉会式で見せた雰囲気には、「化ける」可能性を強く感じました。
 彼女の今後の活動に注目していきたいです。


*同:村上千里(KAMELEON)

 学生演劇祭に既成台本、それもイヨネスコでぶつかった村上君の心意気を大きく買います。


*同:左子光治(コントユニットぱらどっくす)

 左子君の社会の諸々を笑いのめそうという「向き合い方」と、関西の笑いの骨法の咀嚼のあり様は、これからの活動がとても愉しみです。
 さらに刺激に富んだ笑いを待っています!


*努力賞:ヒラタユミ(劇団紫)

 ヒラタさんのこの一年の努力、変化はやはり今回の学生演劇祭の中で強く印象に残りました。
 今回は、各劇団のモチベーションの有無が強く問われ始めた学生演劇祭でもありましたが、他の劇団に刺激を受けて、より優れた(面白い)作品を造りたい、より優れた(面白い)作品をお客さんに観ていただきたいというモチベーションと、実際の変化に関する評価も、やはり担保されていかなければならないのでは、と僕は強く思います。
 それが万一一切失われてしまったとき、この学生演劇祭は存在理由を失ってしまうのではないでしょうか。
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京都学生演劇祭(第3回)Aブロック

☆京都学生演劇祭(第3回)Aブロック
(2013年3月10日16時スタート/元・立誠小学校 音楽室)



○演劇実験場下鴨劇場 『宇宙の果て。』(京都府立大学)

 脚本・演出:鴨川J子


 昨年、『裏浦島太郎の話。』というぶっとんだ作品で一躍脚光を浴びた下劇。
 今年もなんぞやらかしてくれるだろう、と愉しみにしていると、あれあれべたな調子で始まったなあ。
 うむむ。
 と、唸っていたら、ほうらやっぱり。
 仕掛けてきたな、オフビートな線で。
 が、その確信犯の部分とシリアスな部分との噛み合わせがどうも今一つで、なんとも乗り切れなさを感じてしまった。
 もう二捻り三捻りあれば…。
 薮内準君以下、演者陣もオフビートの笑いにぴったりな顔触れだったのだけれど。
 どうしても、西城瞳の不在をひしひしと感じたのだった。



○劇団蒲団座 『This is a penの絶望 〜ミニミニ王国を封鎖せよ!〜』

 脚本・演出:坂口弘樹


 昨年の京都演劇祭で、身体性を重視した学生劇団らしからぬパフォーマンスで、清冽な印象を与えてくれたのが、劇団蒲団座だ。
 で、今回も、昨年同様身体性を重視した作劇にはなっていたのだが。

 これは同じ坂口君が作・演出した番外公演『幻想忌憚フェスタ 2012』にも感じたことなのだけれど、「ノンバーバル」というか、もっとずっと身体性(ダンス)の部分に特化すればいいのに、無理に台詞が書き加えられているような感じで、なんだかもったいない気分になった。
 例えば、特別公演のドキドキぼーいずの『Zoo』みたいに、台詞を極力削ってさあ。
 昨年の演劇祭、番外公演、そして今回にも共通する出口のない迷宮に登場人物が放り込まれるという設定は活かした上で。
 いや、学生劇団の性質上、できるだけ多くの団員を舞台上に立たせたいという気持ちはわからないでもないし、お客さんに愉しんでもらおうという坂口君以下、蒲団座の面々の想いや今のこの国の現状をちょっと茶化してみようという趣向は汲み取れもしたのだけれど。

 それと、今回の蒲団座の作品でどうにも残念だったのは、youtubeに投稿されている笑いのネタをなんの断りもなしに、ほぼそのまま使っていたこと。
 ある人のツイートでたまたまこの笑いのネタを知ったが(その人は蒲団座のことを名指ししていない)、ネタをいただくならば、もっと巧く加工すればいいし、それが無理というのなら、いただいたことをなんらかの形で明らかにすればいい。
 そのいずれかが為されていないのであれば、それはただのパクリ剽窃だ。
 そしてそのことは、先述した台詞つきの芝居を無理から作ってしまっていることとも大きくつながっているとも、僕は思う。

 坂口君、僕は君の「ノンバーバル」の作品を心待ちにしている。



○飴玉エレナ 『転がる紳士たち』(同志社大学)

 脚本:石井珈琲
 演出:石井珈琲、山西竜矢


 王磨かざれば、じゃないや。
 玉磨かざれば光なし。
 と言うが、磨き方を誤れば、玉にはどんどん傷がつく。
 どころか、いつしか傷は拡がって、それこそ玉と砕け散る。
 ことだってないとは言えない。

 前回の公演『記憶のない料理店』を観て、ふとヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』を思い出した飴玉エレナだけれど、今回も、まるで研ぎ澄まされたガラス玉のようなきれいに磨かれた、そしてしっかりと閉じられた作品世界を造り上げていたのではないか。
 山西竜矢という演技者の今現在持てる特性魅力が十二分に発揮されていたように思う。
 もちろんライヴ特有の傷もありはしたし、若干先読みの出来るテキストであったことも否定できないが、それでも45分という限られた時間に、山西君のあれやこれやを盛り込んで見せたという点は、やはり評価しておかなければなるまい。

 そういえば、『記憶のない料理店』の感想で、僕は山西君や石井君に「完璧」を求めるかのような言葉を記したのだけれど、あれはあくまでも長い時間のスパンで願っていることで、今すぐどうこうという話ではない。
 それどころか、石井君が山西君用に仕立て直した『ハムレット』や『マクベス』、『リア王』なんかを英訳して、海外のこういった演劇祭に持って行くという遠回りを促すほどだ。
(そうすれば、演技に傷がつくのはほぼ当たり前。もっと完全にもっと完璧にと求め過ぎて、山西君が疲弊するというリスクも軽減されるだろうから。いや、そうしたらそうしたで悩みは尽きないだろうけど…)

 いずれにしても、僕は30年後、40年後の山西君の演技、飴玉エレナの活動を愉しみにしたい。
 そのためにも、僕は長生きしなくちゃいけないし、山西君にも自分を追い詰め過ぎずゆったりじっくり演劇活動を続けて欲しい。
 そう。
 山西、脳天を打つな!
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2013年03月10日

京都学生演劇祭(第3回)Bブロック

☆京都学生演劇祭(第3回)Bブロック



○コロポックル企画 『すぐ泣く』(同志社大学)

 脚本・演出:若林りか


 僕はクラシック音楽が大好きだ。
 JAM、イエモン(吉井さん)、aikoにフォーク・ナツメロ、それに落語をのぞくと、買うCDといえば決まってクラシック音楽だ(詳しくは、CDレビューをご参照のほど。買うも買ったり、聴くも聴いたり)。
 だから、お芝居の中でクラシック音楽が使われると、よくも悪くもすぐに反応してしまう。
 で、コロポックル企画の『すぐ泣く』の場合は、前者のよい反応。
 まずもって、クラシック音楽の使い方がとてもいい。
 まして、作中指揮者の名前がくすぐりに使われた日にゃ、もうおしまい。
 それだけで点が甘くなる。
(にしても、片方の指揮者はまだしも、もう一方の指揮者のことを知ってる人なんて、今日のお客さんの中にどれだけいたのかな? Wikiったにしてはけっこうマニア受けな人物だし。クラシック音楽関係の漫画やドラマの影響かなあ。余談だけど、片方のマニア受けな指揮者は、戦前来日して夫人ともども新交響楽団=現在のNHK交響楽団を指揮してもいる)

 まあ、そのことはひとまず置くとして。
 コアなファンのお客さんもいたのだろうか、素朴でべたな感じのする笑いの仕掛けに客席もけっこうわいていたし、僕自身、演者陣のインティメートな雰囲気には好感を持ったりもした。

 ただ、それより何より、僕の印象に強く残ったのは、登場人物の音楽家に仮託された、若林さんの芸術や表現活動に対する切実な想いだった。
 そして、時間をかけてそうした想いをより突き詰めていけば、もしかしたら若林さんは大きく「化ける」可能性があるようにも思った。

 その線で精度が上がっていくとなると、今現在のコロポックル企画の特性であるインティメートさ、素朴さは損なわれてしまう気がしないでもないが。

 いずれにしても、僕は若林さんの今後の創作活動に注視していきたい。

 そうそう、帰りがけ、前々から欲しい欲しいと思っていたアルテミス・カルテットが演奏したベートーヴェンの弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」&第7番「ラズモフスキー第1番」<Virgin>をAvisで見つけ即刻購入したのだけれど(税込み437円は安過ぎ)、『すぐ泣く』を観たあとで見つけるとはなあ、とちょっと思ったりもした。



○虹色結社 『はこにわ』(京都造形芸術大学/無所属)

 脚本・演出:村田レナ


 お芝居をやりたいという強い想いと、何かを伝えていきたいという強い表現欲求を感じとることはできたし、限られた時間の中で演者陣も努力を重ねていたようにも思うのだが。
 残念ながら、作品としても演者陣のアンサンブルとしても、まだしっかりまとまりきれていないもどかしさを強く感じたことも事実だ。
 昨年11月の結成というから、生まれてまだすぐ。
 これから、どしどし挑戦を重ねていって欲しい。



○劇団月光斜 『僕と殺し屋とレインポップ』(立命館大学)

 脚本・演出:伊藤ハジメ


 お客さんにも愉しんでもらうけど、造り手の自分たちも積極的に愉しむ。
 という姿勢が明瞭に表われているのが、劇団月光斜だ。

 元・立誠小学校の音楽室にしては、少々声が張り過ぎなのでは、と思ったりもしたのだけれど、スピーディーでテンポがよく、エネルギッシュな演技(ダンスや音楽も効果的)にぐいぐい引っ張られた公演だった。

 ただ、確信犯的な作劇であろうとは思いつつも、45分という上演時間の制約もあってか、何かより長めの作品のダイジェストを観ているような物足りなさ、目の詰まらなさ、都合のよさを感じてしまったことも否定できない。
 饅頭の皮の部分が美味しい(演者陣も熱演)だけに、そのことが僕にはとても惜しい。



○ヲサガリ 『それからの子供』(京都工芸繊維大学)

 脚本・演出:久保田文也


 ヲサガリは、昨年ドミノ並べ(倒し)の仕掛けを持ちこんで強い印象を残した「フク団ヒデキ」を母体にして生まれた劇団だ。
 で、そのヲサガリは、今年も大きな仕掛けを試みていたのだけれど、それが単なる仕掛けのための仕掛けに終わらず、作品の世界観、登場人物の真情にぴったりと寄り添っていることに感心し感嘆した。
 過剰ではないユーモアと、ウェットに過ぎないリリカルさをためた佳品。
 特に、終盤以降、僕はぐっと心をつかまれた。
 中でも小川晶弘君が好演。
 ああ、面白かった!
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2013年03月09日

京都学生演劇祭(第3回)Cブロック 再見

☆京都学生演劇祭(第3回)Cブロック 再見


 初日のいっとう最初、しかもラーゲリ然とした厳寒の講堂で観ただけではと思い、Cブロックを再見することにした。
 なお、途中どうしても退席せざるをえない事情があり、テフノロGは未見。
 本当に申し訳ない。



○KAMELEON 『新しい下宿人』(京都造形芸術大学)

 脚本:ウジェーヌ・イヨネスコ
 演出:村上千里


 公演を重ねて、舞台上の家具類、だけではなく、演出や演技の、そして作品の色がようやく見えて来たのでは、というのが一番の感想だ。
 当然、一度観ているということが大きいのだけれど、狂気と狂気(もしかしたら、狂気のように見える正気と正気のように見える狂気、もしくはいずれかがランダムで)の対峙といった作品のあり様をより受け取れたようにも思う。
 河尻光君はぶれない演技。
 一方、田中沙衣さんはよく健闘していた。
 また、脇を固める福久聡吾君、片山将磨君も存在感を増していたのではないか。
 演出演者ともに、今回の公演で明らかになった課題を、少しずつクリアしていってもらえればと思う。

 そうそう、小林信彦がかつて売り出し中のザ・ドリフターズのバラエティ番組のためにコントに造り直したという(青島幸男と中尾ミエが主演)、同じイヨネスコの『二人で狂う』を、村上君の演出で観てみたいとふと思った。
 とてもアクチュアリティを持った作品だと思うしね。



○劇団愉快犯 『作り話』(京都大学)

 脚本・演出:玉木青と劇団愉快犯


 演者によって若干の調子の良し悪しはあったように感じたが、すでに作品を知っていても、いや知っているからこそ、伏線の張り具合もわかって、存分に愉しむことができた。
 そして、ゲストの永榮紘実さん。
 思った通りいい。
 本当にいい。
 永榮さんは、ますます目が離せないや。
 お芝居、辞めないでよ!
(浜木綿子や清川虹子みたいな女丈夫の役も似合いそう。あと玉木君、ブレヒトの肝っ玉母さんやってみない、永榮さんのおっかあで)
 ああ、面白かった!
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2013年03月08日

京都学生演劇祭(第3回)特別公演

☆京都学生演劇祭(第3回)特別公演
(2013年3月7日15時スタート/元・立誠小学校 音楽室)


 京都学生演劇祭も中日。
 今日は、全国各地の学生演劇祭からの参加団体などによる、特別公演を観た。



○gekidan U 『二十歳の戦争』(多摩美術大学)

 原案:西岡憂
 脚本・演出:遠藤遊


 多摩美術大学のgekidan Uは、東京ではなく京都学生演劇祭枠での出演。
 で、彼彼女らの公演に、僕はどうしても笑いをこらえることができず、笑い声を上げてしまった箇所がいくつかあった。
(Factory Kyotoの松山君が、笑いを堪えるのに…といった辛いツイートをしていて、そんなことあるの、と思っていたのだけれど)
 と、言うのも非常にナイーヴに過ぎるように思われてならない遠藤君の脚本(台詞と世界観)が、「演劇を全く知らない状態から」立ち上げて一年ほどの劇団ということもあってだろう、いささか感情過多と感じられる抑揚台詞づかいで語られていたため、僕にはどうにも我慢がならなかったのである。
 遠藤君や演者の皆さんが自分たちの伝えようとすることについて、とても真摯であることは充分にわかったので、笑ってはいけないと必死にこらえていたのだが。
 そして、上述したナイーヴさと密接につながることでもあるが、舞台の上で全てが自己完結している、言い換えれば、自己検証性に欠けるように感じられた点もやはり指摘しておかなければならないだろう。
 ビジュアル面での趣向志向(例えば、終盤での宇宙=夜空の表現)は印象に残ったし、ヒロインを演じた山口藍さんの存在感には、今後の可能性を感じたことも事実なのだけれど。
 演劇的な技術面でのどうこうよりも、お客さんとの関係の築き方や、自分自身が伝えようとすること語ろうとすることに「他者の目」を持とうと努めること(伝え方だけではなく、内容そのものにも)に関して、少しずつでも留意していってもらえればと心より願う。



○ドキドキぼーいず 『Zoo』(京都造形芸術大学他)

 構成・演出:本間広大


 ドキドキぼーいずは、京都じゃなくて、岩手県西和賀町で開催されている銀河ホール演劇祭枠での出演。

 昨年の学生演劇祭が終わって。
 パンドラの匣には、希望が残った。

 ちょっと違うかな。
 台詞を極力削って、演者陣の身体に多くを語らせたこの作品については、あんまり言葉を重ねたくないや。
 とても痛切な作品で、途中のあるシーンでさらに心にぐっときた。
 客演の島あや(やはり身体性が魅力だ)、河西美季をはじめ、ドキドキぼーいずの面々を中心とした演者陣も好演。
 本間君も、一人一人の特性魅力をよくとらえていたのではないか。
 ああ、面白かった!
 そして、次回のドキドキぼーいずの公演を心待ちにしたい。


○金星ロケット 『ネーちゃんにもの申す』(名古屋学芸大)

 脚本・演出:エリマキトカゲ


 名古屋学生演劇祭枠では、名古屋学芸大の金星ロケットが参加した。
 出演者の突然の変更というスクランブル発進もあってだろうが、全体を観ての感想は、ああ、惜しい、というものだった。
 中盤のあるあたりで、ちょっと流れが滞ったというか、作品が巧く詰まりきっていない感じがしたのである。
 お客さんを愉しませつつ、いろいろなことを伝えていこうとする姿勢や、作品全体に漂う向日性には好感を抱いたので、できれば改めて長尺の作品を観てみたいと強く思った。



○劇想からまわりえっちゃん 『ピースの反対と言われたら』(大阪芸術大学)

 脚本・演出:森山亮祐


 劇想からまわりえっちゃんといえば、同じ大阪芸大の大田健人監督(『ときどきどきどきしたりした』!)や、昨日(6日)たまたまエキストラとして撮影に参加した二宮健監督の一連の作品(『大童貞の大冒険』では、こちらはこれまたエキストラだったものの共演)で独特のオーラと輝きを発している、「たけさん」こと岸本武亨さんの所属団体。
 でも、たけさんって卒業したはずだし…。
 残念やなあ、と思っていたら、いるじゃあないかたけさんが!
 嬉しさもあって開演前にもかかわらず少し話しをしたのだけれど、「今回は笑いはないですよ」とのこと。
 あれ、からまわりえっちゃんって、笑いにもこだわった劇団じゃなかったっけ。

 と、思って客席に座ると、冒頭、演出の森山君が客いじりも辞さぬとんだ茶番をやり始めて、ああおかしい。
 なんだ、笑いがあるじゃないか、もおたけさん、と思っていたら、あれあれ森山君が「(本編は)全く別物」、みたいなことを言っているよ。

 で、実際始まったのは、基本お茶らけなしのファンタジー。
 ちょっと豊島由香さんっぽいヒロインには、よく造り込みよく入り込んでいるなあと感心したし、他の演者陣(たけさんはコロス的な出演で台詞も少なかった)からも、基礎的な能力の高さが伝わってきたが、残念ながら物語そのものにはあまりぐっと惹き込まれることがなかった。
 たぶん上演時間の制約もあってだろうけど。
 からまわり、じゃなくてちょっとかたすかし…。

 できれば、噂に聞くはっちゃけにはっちゃけた舞台を観てみたいなあ、と言うのが僕の正直な感想だ。
(そうそう、大交流会では、森山君やたけさんらからまわりえっちゃんの面々がけっこういろいろやってくれて、実に嬉しかった)
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2013年03月05日

京都学生演劇祭(第3回)Eブロック

☆京都学生演劇祭(第3回)Eブロック
(2013年3月4日17時スタート/元・立誠小学校 講堂)


 若干気温は上がったものの、まだまだ講堂の中は寒い寒い寒い。
 まあ、ラーゲリほどではあるまいが。
 それに運営側の防寒対策も増しもしたし。
 それでも、寒さを噛み締めながら、京都学生演劇祭のEブロックを観劇した。



○コントユニットぱらどっくす 『ノアのドロ舟』(同志社大学)

 脚本・演出:左子光晴


 あいにくコントユニットぱらどっくすの公演自体は未見なものの、左子君が第2回目の企画外企画劇場の大喜利で、政治がらみのネタ(名は体を表す? 左がかった。たぶん、企画者の作道雄君は嫌いそうな)を生な言葉で口にしているのを観たことはある。
 なかなか気骨あるやんけ、というのが僕の第一印象で、今回の『ノアのドロ舟』も、そうした左子君の真情が相当ストレートに表われた作品になっていたのではないか。
(ちなみに、政治関連の話ではないけど)
 と、言っても造りはいたってべた。
 ときに漫才的な絡みも交えつつ、吉本や松竹等々、関西の笑いの手法(もしかしたら、落語の地獄八景亡者戯も下敷きになっているかもしれない)に非常に忠実な作品となっていた。
 ルーティン、反復と笑いの仕掛けもよく効いていたし、ブリッジの音楽ともども左子君の伝えたいこともよくわかったのだけれど、そのブリッジの置き方も含めて、テンポ、タイミングが詰まりきらず、ぐいぐい押し進めていくエネルギーに若干欠けて、間延びした感じがしたのは残念だった。
 とはいえ、コントユニットぱらどっくすの公演にはぜひ一度足を運びたいとも思った。
 さらにとがった笑いと社会批判を期待したい。



○吉田寮しばい部 『きずあと』(京都大学)

 脚本・演出:中西良友


 拙さの巧さ、訥弁の能弁とでも言おうか。
 とてもシンプルでわかりやすくてリリカル、それでいて(だからこそ)心にぐっとくる作品だった。
 例えば、山田太一や倉本聰のドラマにもつながるような。
 演劇的な技法や技巧としてどうか、という点はひとまず置くとしても、伝えたいことを真正面から伝え切るという造り手の姿勢に、僕は大いに好感を覚えた。
 演技、エロキューションともに今は亡き信欣三を思い起こした辻斬血海、五分厘零児、埜口敏博君、中西君、いずれも作品の世界観によく沿った真摯な演技だったと思う。
 音楽のチョイスもよし。
 ああ、面白かった!



○同志社小劇場 『国道X号線、Y字路』

 脚本:伊藤元晴
 演出:吉見拓馬


 老舗中の老舗、同志社小劇場が演じたのは、吉見君や出演者の長南洸生君が共同作業を行ったことのある、象牙の空港の伊藤元晴君が書いた『国道X号線、Y字路』。
 「モノローグの積み重ね」という、現代の小劇場を知る人間にとっては「ああ、ああ」と思いつく手法を確信犯的に援用模倣しつつ、叙情的に幕を閉じるあたり、伊藤君の面目躍如だなあと思いながら、一方でジョヴァンニ・アントニーニじゃない(これは指揮者の名前だ)、ミケランジェロ・アントニオーニのことなども思い出したりした。
 さすが同小、しかも伊藤君のことをよく知る面々も含まれているということもあって、そうした作品の要点、肝を押さえた舞台となっていたのではないか。
 ただ、愚直なほどにストレートな吉田寮しばい部のあとでは、いささか手わざが先にきて、ちょっと表層的というか、意図された以上の不毛さと退屈さを感じたことも否定できない。
 一つには、伊藤君自身が演出する場合は、今回のテキストにも如実に示されているような自己の内面の葛藤やどろどろとした感情というものを、あえて普遍化しよう、馴らして見せようとすることからくるせめぎ合いと、それでも結局根底にあるものが見えてしまう切実さが生まれるのに対し、同小の面々の場合、はなからそうした諸々を隠す必要もなく(だって、伊藤君本人じゃないもの)、結果せめぎ合いや切実さが生まれないため、伊藤君の作家としての急所がかえって目立ってしまったということも、大きいような気がするが。
 演者陣は、作品の意匠をよく汲んだ安定した出来。
 悠木千帆時代の樹木希林のような赤い服を着た女性が強く印象に残ったが、客演等、アンサンブルとしての使い勝手がよいのはもう一人の女性のほうかもしれない。
(高間響さんもツイッターで記していたが、誰が何の役を演じているかはやはりどこかに明記して欲しいなあ。老舗の美意識もあるのか、同小は終演後各々名前を名乗ったりもしなかったし)
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2013年03月03日

京都学生演劇祭(第3回)Dブロック

☆京都学生演劇祭(第3回)Dブロック
(2013年3月2日17時スタート/元・立誠小学校 講堂)



○劇団立命芸術劇場 『行き当たりばったり』(立命館大学)

 脚本・演出:和田直大


 初日ということをまず加味した上で。
 ううん、造り手のまじめさはよくわかったんだけど、作品の面でも演技の面でも、どうにも厳しさつらさを感じてしまった。
 今回の作品のアイデアだって、たぶんもっと面白くできると思うんだよなあ。
 例えば、細かい出入りに気を遣わなくて、同じ一つの舞台であなたこなたを処理してしまうとか。
 次回の捲土重来を心より期待したい。



○劇団紫 『天使のはなし』(佛教大学)

 脚本・演出:ヒラタユミ


 課題や突っ込みどころは当然あるし、ちょっとミニシアター系の映画っぽい雰囲気もあるのだけれど、この作品のべたで(と)ぼけた、向日的な笑いと雰囲気は嫌いじゃない。
 だが、それより何より、去年の『ドッペルゲンガーは出られない』からのヒラタさんの「変化」に、僕はおおっと思ってしまった。
 よい意味でのびっくり!
(未見ゆえ詳細はわからないものの、もしかしたら、昨年の冬季定期公演、とのいけボーイ君作・演出の『モテたくて…!!』にも、その「変化」の原因を解く鍵があるのかもしれない)
 次回のさらなる「変化」を愉しみにしたい。

 それにしても、こうした「変化」を確認するのも、学生演劇祭の醍醐味だと思うなあ。


○喀血劇場 『わっしょい!南やばしろ町男根祭り』

 脚本・演出:近衛虚作


 名は体を表す。
 題名はお芝居の内容を表わす。
 まさしく笑い満載、下ネタ満載。
 そりゃ、喀血劇場、大人の劇団だもんね。

 ただし、タイトルや表面的な部分とは裏腹に、近衛虚作君のお芝居の骨法の心得具合とツボの押さえ具合、シャイさと細やかさが垣間見える作品となっていることも、また大きな事実だ。
 さらには、近衛君の演劇や「祭」への強い想いさえ…。

 なあんてね。
 まあ、下ネタが大好きな人はそのままに、逆に下ネタが苦手な人は、そこだけに惑わされず心眼でご評価いただければ。
 と、ちょっとステマ臭いことを記してみました。

 いつもの如く古野陽大君はもちろんのこと、よい意味で1980年代の東京乾電池などを思い起こさせられるタチバナ役の男性(名前教えて!)や、髭だるマンら演者陣も好演熱演。
 それと、喀血劇場は女性の演者のチョイスがいいんだよね。
 ライター役の女性(名前教えて!)とか、いいなあ。
 もちろん、ここでも近衛君の演出が大きくモノを言っているんだけど。

 ああ、面白かった!
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京都学生演劇祭(第3回)Cブロック

☆京都学生演劇祭(第3回)Cブロック
(2013年3月2日13時スタート/元・立誠小学校 講堂)


 一昨年昨年に続いて今年もご招待いただいた京都学生演劇祭の初日ということで、元立誠小学校に足を運んだ。
 一昨年の3月にクラシカル・オーケストラ京都で講堂を利用した経験からも、ここの寒さは覚悟していたのだけれど、昨日までの穏やかさと打って変わっての低い気温。
 おまけに雪まで降るんだから、西部講堂も真っ青の寒さ。
 皆さん、くれぐれも重防寒のほど。
(正直、運営側の用意するものでは寒さは防げないので)

 まず、出演者の一人が「昼のワイドショーみたい」と思わず口にした、ちょっと煮え切らない開会式で三谷幸喜がらみの音楽が流れていたから、すはS君の作道、じゃない策動かと疑ったが、どうやらそうではないらしい。
 作道君、じゃないS君、ごめんなさい!

 で、第一ブロック目のCブロックを観る。
 あまり会場での稽古ができていない、それも初日ということを加味の上で、以下ご覧いただければと思う。



○KAMELEON 『新しい下宿人』(京都造形芸術大学)

 脚本:ウジェーヌ・イヨネスコ
 演出:村上千里


 まずもって既成台本、それもイヨネスコに取り組んだという点だけでも◎。
 杉原邦生君じゃなくったって高く評価したい。
 そして、イヨネスコに何かを足していきたいという村上君の意志もよくわかったんだけど。
 イヨネスコの狂気に裏打ちされた毒のある笑い、それとコインの裏表にある切実さというものが、あまり伝わってこなかったのは非常に残念だ。
 回を重ねていけば、精度も上がってくるだろうから、一概には言えないのだが、もしかしたら、ただ淡々と作品を「積み上げていった」ほうが、ある種の虚しさと狂気は表現できたような気がしないでもない。
(ジブリかアメリか、と評したくなるようなポップでキュートなイヨネスコには、ルドルフの『授業』という先例があるけど、あれは筒井加寿子さんと水沼健さんの共同作業だからこそだもんなあ)
 演者陣では、下宿人の河尻光君(未確認。間違っていたら訂正します)の雰囲気がいい。
 年を重ねれば、浅野和之さんみたいな役者さんになるのでは。
 一方、fukuii企画の『ニッポンの教育 −女子校編−』で、その存在感に魅せられた田中沙依さんは、難しいテキストの初日ということもあってか、台詞にも感情表現にも粗さが目立った。
 もしかしたらこれは、技術の巧拙というより、彼女が自分の柄に合わない役をやっている(やらされている?)ことのほうが大きいのかもしれないともふと思う。
(とはいえ、河尻君同様に田中さんも、15年後の演技がとても愉しみだ)
 できれば、別の回をもう一度観ておきたいな。



○劇団テフノロG 『空想世界の平均率』(成安造形大学)

 脚本:カメレオン十和子
 演出:テフノロガールズ


 成安造形大学の劇団テフノロGは、女性のみの出演。
 等身大というのかなあ、今の自分たちにとって身近で切実な事どもを、心理学的な要素をからめながら描いていたんだけど、脚本的に線が見えにくいというか、演劇的なものを意識したためにかえって遠回りしたという感じがしなくもない。
 ただ、本来ならば学内だけに留まってしまうだろう彼女たちの活動に、こうやって広く接する機会があるということはやはり重要だし、他の学生劇団と接することで彼女たちが得るものも小さくないとも思うわけで、評価において無理やり下駄をはかせる必要はないものの、彼女たちのプラスの部分は極力認めておくべきだとも感じる。
 諸々の事情もあってだろうが、今回京都女子大学の劇団S.F.P.が参加していないことも踏まえればなお。

 そしてこのことは、京都学生演劇祭がどこに軸足を置くのかということとも大きく関係していることだ。
 「演劇」のほうに特化して、学生劇団間の淘汰もやむなしとするのか、それとも「学生」の部分にもきちんと留意し続けるのか。
 あくまでもその意味で、審査員の人選は適切なのかどうか。
 沢大洋さんの学生演劇祭への関わり方も含めて、3月5日のパネルディスカッションではこういった点についてこそまずもって語られるべきだと、僕は思う。

 それにしても、例年感じることだが、テフノロGって、どうして昭和の香りがするのかなあ。



○劇団愉快犯 『作り話』(京都大学)

 脚本・演出:玉木青と劇団愉快犯


 いつくるかいつくるかとオチを待っていたら、オチなどなくて、まじめな私戯曲、と、言うより、先輩で実行委員長を務めてもいた玉木青君を糾弾する(?)ミュージカルだった『インギンブレイ。』から一転、玉木君が復活してオールスターキャストを揃えた今年の愉快犯は、元祖確信犯の名に恥じぬ、昨年の確信犯、西一風・田中次郎の『話の時間』に負けないウェルメイドプレイの佳品を造り上げた。
 その名もずばり『作り話』。
(企画外企画劇場と「」会の違いにもつながるけれど、やっぱり玉木君はクリエーター気質だし、作道雄君はプロデューサー気質だと思う)
 で、詳しくは観てのお愉しみ。
 バーバルギャグにサイトギャグと、しっかりきっちり笑わせておいて…。
 硬軟両面を演じてみせた北川啓太君をはじめ、谷脇友斗君、三宅陽介君、高崎正信君、井田勝也君ら演者陣も、長短はありつつも好演。
 横山清正君も、ゲストの役割をきっちり果たしていた。
(笹井佐保さんの出番が少なかったのは、残念。僕は、彼女を買っているのだ。でもこれ以上誉めると、今度は彼女が糾…)
 回を重ねるごとに、さらに磨きがかかるのでは。
 象牙の空港の『女体出口』で目を見張った永榮紘実さんがゲストの9日の回を再見しようかな。
 ああ、面白かった!
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2013年02月24日

O land Theater 第4回演劇公演『イナンナ』

☆O land Theater 第4回演劇公演『イナンナ』

 戯曲・演出:苧環凉
(2013年2月24日17時開演の回/人間座スタジオ)


 安部公房や吉田喜重的なモティーフが、増村保造的な感情表現でもって語られた作品。

 と、評しても、何を言いたいのかよくわからないという方も多そうなので、詳しく感想を記していくが。

 O land Theaterにとって第4回目の公演となる『イナンナ』は、「イナンナの冥界下り」という古代シュメールの神話を下敷きに、「災害」(苧環さんの意図は別にして、長崎市出身の僕は、どうしても原子爆弾のことを思い出してしまう)によって激しく傷ついた女性の「変容」(リヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と変容』の「変容」と思って欲しい)が、その夫との関係なども交えつつ描き出された作品である。
 で、苧環さんの切実な想いは、主人公である女の台詞等から、とてもはっきりと伝わってきたように感じた反面、そうしたストレートな表現、感情吐露に、正直逃げ場のなさや息苦しさを感じてしまったことも事実だ。

 加えて、登場人物の口にするエモーショナルな言葉と、作品の根底にある静的なもの、「動かなさ」との齟齬に、僕はもどかしさを覚えたりもした。
 例えばそれは、吉田秀和が、アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィルの演奏によるベートーヴェンの交響曲第7番について感じた、
>汽車が遠くから近寄ってくるとする。
 当然、近づくにつれ、音が大きくなる。
 それにつれて、汽車の姿も、大きくなるわけだが、どういうわけか、私たちの目には、その汽車の動きがちっともはやくなるようには映じないのである<*
(吉田秀和『世界の指揮者』<ちくま文庫>の「アンドレ・クリュイタンス」の章より)
というもどかしさにも通じるものかもしれない。

 そういえば、以前Factory Kyotoの松田正隆さんを囲む会で、苧環さんや司辻有香さんと話しをした際、僕が司辻さんのことを「クールビューティー」と口にしてちょっと盛り上がったことがあったのだけれど、「止まっていても動いている」ような感じのする司辻さんと、「動いていても静止している」ような感じのする苧環さんの各々の魅力特性と「クールビューティー」云々のこと、そして上述したような事どもは、大きくつながっているのかもしれない。

 女の坂本美夕、男の辻智之(ほかに、黙役として衣装の南野詩恵も出演。舞台映えのする彼女は適役だ)は、ともに難しいテキストに伍して苧環さんの意図によく沿う努力を重ねていたし、苧環さんの演出も、両者の個性に配慮しつつ自らの求める舞台を造り出す工夫を行っていたと思う。
 ただ、苧環さんの本来意図した作品世界(それは、彼女自身の美術、舞台造形と通底する、洗練されて繊細で精度の高いものだろう)を再現するためには、言い換えれば、この『イナンナ』を増村保造流の「いっちゃった」邪劇ではなく、演者の身体性よりも台詞に重きを置いた古典劇的な直截でシリアスな作品として観る側に受け入れてもらうためには、残念ながら、現在の坂本さん、辻さんの技量技術では荷が重過ぎると、僕には考えざるをえない。
(一例をあげれば、「性」に対する激しい表現が激しい表現たりえていない等)
 率直に言って、より演者の側に寄ったテキストの執筆か、逆によりテキストの側に寄ったキャスティングが必要だったのではないだろうか。
 またその意味で、苧環さんの意図を十全に汲み取りながら、企画作劇のサポートを務める、演出補佐なりドラマトゥルクなりが必要とされるのではとも考える。

 いずれにしても、苧環さんの感性才知がさらに発揮された作品の誕生を、強く心待ちにしたい。


*僕は、吉田秀和自身が別途指摘しているような、「劇的な動きは正確に、明確に捉えられ、見事に音になって生きている」点から、この演奏のLPレコードを好んで聴いていたのだけれど。
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2013年02月05日

下鴨車窓 #10『煙の塔』

☆下鴨車窓 #10『煙の塔』

 脚本・演出:田辺剛
 舞台監督・舞台美術:川上明子
 照明:魚森理恵
 音響:小早川保隆
 衣装:徳山まり奈
(2013年2月5日14時開演/アトリエ劇研)

 *NPO劇研枠での招待


 意欲的な作品。
 という一語ですませてしまうのはどうかと思うけど、劇作家・演出家の田辺剛が主宰する下鴨車窓の第10回目の公演『煙の塔』は、田辺さんのこれまでの積み重ねてきたものと今後の方向性がよく示された意欲的な作品となっていたのではないか。

 立ち入り禁止の山の奥に塔が存在するというとある村、まもなく村長の姪と青年の婚礼がとり行われようとする折も折、突然塔の辺りから不可思議な音が聞こえて来て…。

 という具合に、『煙の塔』は始まるのだけれど、寓話的手法によって「今現在」のアトモスフェアを把み表わそうとする田辺剛の姿勢がまずもって明確に表現された作品になっていたように、僕には感じられた。
(現在の諸状況を想起させるような場面、設定もふんだんに盛り込まれていたし)
 むろんそればかりではなく、小さな共同体、組織、集団における悪意の発生に、抑制されたエロティシズムといった、田辺さんの一連の作品と通底するモティーフが、チェーホフなどの先達たちの創作物や様々な演劇的技法を吸収咀嚼する形で描き込まれていた点も忘れてはなるまい。
 加えて、下鴨車窓の公演には珍しい11名という出演者数も含め、作劇的にも演出的にも新たな試みが諸々施されていたようにも思った。
 出演者の変更というアクシデントはひとまず置くとして、楽日にありがちな抜けやアラがあって、(田辺さんが好むラヴェルの音楽のような)テキストの精巧さ精緻さが減じられ、意図された掴みどころのなさがより散漫なものに感じられてしまったのは残念だけれど、これはレーゼドラマではなく、生の舞台なのだから仕方ないことだろう。
 それと、本来叙事詩として綴り終えられるべきものが、叙情的に収斂されてしまっているような感じがどうしてもしてしまったことも事実である。
 それがまた田辺さんの作品の特性であり魅力であることは充分承知しているし、例えば、今から10年以上前のt3heater時代に上演された『LOVE Radio 91.MHz』(2001年6月)などと比べれば、田辺剛の内面的、並びに技巧的な大きな変化進化は全く疑いようのないものでもあるのだが。
(飯坂美鶴妃は、幕切れの粘らないリリカルさをよく体現していたと思う。彼女が西一風時代に演出出演したという野田秀樹の『農業少女』をぜひ観ておきたかった)

 高杉征司、岩田由紀、藤本隆志、大沢めぐみ(田辺作品ではおなじみのモノローグを担うのに相応しいきれいな声質の持ち主)、飯坂さん、合田団地(ソリョーヌイ的な人物。今日の安田猛は、ちょっと失投が多かったかな。ただ、下鴨車窓のマウンドに立ったことは、彼にとって大きなプラスになったとも感じた)、芦谷康介(芦谷君の演技の変化をこうやって観続けることができることは、やはり嬉しいことだ)、新田あけみ、松田裕一郎、曽田伸一、水月りまの演者陣は、経験の長短やライヴ特有の傷はありつつも、田辺さんの意図によく沿う努力を重ねていたのではないか。
 中でも、高杉さん、岩田さん、藤本さんらベテラン勢の演技が強く印象に残った。
 あと、光と影を巧く利用した魚森理恵の照明と川上明子の舞台美術も、作品の世界観をよく汲み取っていたように感じた。

 次回の下鴨車窓の公演は、田辺さん自身の演出による『建築家M』(もしかしたら完全版か?)の上演とのこと。
 これまた実に愉しみだ。
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2013年02月01日

十中連合×the★planktons #2『この世界は、そんなに広いのですか』

☆十中連合×the★planktons #2『この世界は、そんなに広いのですか』

 演出・脚本:渡邉憲明
 演出助手:稲垣貴俊
(2013年2月1日19時開演/東山青少年活動センター創造活動室)


 公演チラシの十中連合の劇団紹介に、>渡邉(憲明)のSF(少し不思議)な脚本を元に、悲しいことも楽しいことも「茶番劇」に作り変えてしまう<、とあるのだが、今回の十中連合×the★planktons(こちらは、十中連合への出演がきっかけで出会った、のりすと望月歩のユニットとのこと)の#2『この世界は、そんなに広いのですか』を観て、確かに言い得て妙だなあと感心した。

 3日まで公演が続いていることもあってあえて詳しい内容には触れないが、『この世界は、そんなに広いのですか』は、「私」(たち)が直面している様々なこと、だけではなく、その奥というか、それと地続きにある死生観、人生観が、「茶番劇」的な笑いと20代ならではの疾走感を伴って非常にストレートに描かれた作品となっていた。
 また、1980年代に書かれたある有名な戯曲が意識されたであろう結構に加え、渡邉君の諸々の蓄積がよく観受けられる脚本であり、舞台であったとも思う。
 あいにく、アクシデント的な要素によるある箇所を除くと、僕自身は、実は全く笑わなかったのだけれど、これらの笑いの仕掛けがなんのためにあるのかということ(如何に苦い「良薬」を服用してもらうかということと、渡邉君のシャイさ)は、十二分に理解することができたし、事実効果的な働きをしていたとも思う。
 もしかしたら糖衣だけは舐めながら、薬のほうは吐き出すって類いの人たちもいなくはないだろうが、これはまあ仕方あるまい。
(僕が笑えなかったのは、渡邉君がターゲットとしている人たちの好みと僕自身の好みにずれがあったことがまず大きいだろうし、笑いを先取りされるというか、演者陣をよく知っている人たちの笑いに先を越されて乗り遅れてしまったことも大きい。それと、演者陣の人柄の良さかな。演技座組みとしてはとても好感を抱いたのだが、笑いという点では、僕はもっともっと意地の悪い演じ手が好みなのだ。ただそうなると、作品自体の雰囲気が大きく変わってしまうなあ…)

 渡邉君を含む、望月さん、榎本篤志、櫻井賢詳、のりす、小川晶弘(水を得た魚の感強し)、喜田愛子、椎名ゆかり、本間広大、渡邉裕史の演者陣は、各々の特性魅力をよく発揮していたのではないか。
 初日ということや作品の造りもあって、粗さを感じる部分もあったが、作品の世界観にはよく沿っているとも感じた。

 いずれにしても、二重の意味で「今」だからこそ書かれ得た作品だと思う。
 そして、十中連合や渡邉君の今後の活躍に強く期待したい。
 次回の公演がとても愉しみだ。
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2013年01月26日

夕暮れ社 弱男ユニット『夕凪アナキズム』

☆夕暮れ社 弱男ユニット『夕凪アナキズム』

 作・演出:村上慎太郎
 演出補佐:山西竜也
(2013年1月26日15時開演の回/元・立誠小学校音楽室)


 観る観る観たい観たいと口にしながら、前回の『教育』(2010年3月)から約3年もの歳月が過ぎ去ってしまった。
 まさしく観る観る詐欺の典型で、今回の『夕凪アナキズム』を観ることができて、村上慎太郎ら夕暮れ社 弱男ユニットの面々にやっとこさ借りを返せた気分で、なんだかほっとした。
 と、言うのは、まあ半分冗談としても、『夕凪アナキズム』を観たのは大正解だったな。

 28日まで公演が続いているから、あえて詳しいことは触れないが、四方を客席に囲まれた音楽室中央のある場所(小西由悟の美術)で繰り広げられる、おかしくもかなしい恋愛模様。
 と、まとめると、あまりに単純過ぎて、出演者の一人佐々木峻一あたりに「ぶわあか!」と怒鳴りつけられそうだけど(いや、佐々木君のこの反応は、夕暮れ社 弱男ユニットと言うより、努力クラブっぽいかな)、そこだけ切り取って観てみても面白いんだもの、いいじゃんか。

 で、そこは村上君のこと、もちろんそれだけじゃ終わらない。
 そこに確信犯的な様々な仕掛けが施されているわけで、舞台上を演者たちが回り続けることが各々の感情と密接に重なり合っているところなど、奇しくも『教育』と共通していたりもして、おおっ、と思ってしまう。
 その、おおっ、をより詳しく記せば、村上君の観せ方の洗練され具合、急所要所の造り方の巧くなり具合への感心感嘆と言えるだろうか。

 と、言っても、それは村上君が諸々の状況に擦り寄って小さくまとまっているということでは毛頭ない。
 それどころか、村上君の演劇という表現活動に対する想いは、今なお盛んで愚直と評したくなるほどだ。
(でなけりゃ、『夕凪アナキズム』なんてタイトルつけないだろうしね。あんまりいいたとえじゃないかもしれないが、『教育』の「学生活動家」が、よい意味での「職業革命家」に変容した感じとでも言うべきか)

 稲森明日香と向井咲絵、そして御厨亮の夕暮れ社 弱男ユニットの面々をはじめ、岩崎優希、九鬼そねみ、小林欣也、南基文、佐々木峻一の演者陣は、相当困難な作業を行っているのにそれと気取られぬような、村上君の意図よくに沿った演技を繰り広げていたのではないか。
 そして、女性陣には美しさを、男性陣にはなんとも言えない情けなさを強く感じたことも付け加えておきたい。
 ああ、面白かった!
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2013年01月22日

劇団しようよ vol.3『スーホの白い馬みたいに。』(京都ver.)

☆劇団しようよ vol.3『スーホの白い馬みたいに。』

 作・演出:大原渉平
 音楽:吉見拓哉
 ドラマトゥルク:稲垣貴俊
(2013年1月22日15時開演/元・立誠小学校音楽室)


 月面クロワッサンのwebドラマ『虹をめぐる冒険』の第一回目のゲストとして、劇団しようよの大原渉平がゲスト出演していたのだけれど、いやあ、あの大原君の演技にはすっかり騙されてしまった。
 なんだか腹に一物も二物もありそうな様子に、てっきり西村花織が演じるヒロインを拉致監禁したのは、大原君だと思い込まされてしまったのだ。
 造り手の作道雄の思惑意図はひとまず置くとして、あのミスリードは秀逸だったなあ。
 で、腹に一物二物とは異なるけれど、常日頃の大原君とはだいぶん違って翳りというかぬめりのある『スーホの白い馬みたいに。』の演技に対して、僕の観た回では若い女性のお客さんが笑い声を上げていた。
 大原君、やっぱりよくわかっている。

 で、その『スーホの白い馬みたいに。』だけど、今回は昨年11月にKAIKAでプレビュー公演が行われた北九州バージョンのまるまま再演ということではなく、あちらで伏せられていた物語の核となる部分がしっかり解き明かされる新バージョンとなっていた。
 様々な登場人物たちの現在や過去が、いくつかの事象事件をきっかけにして絡み合い…。
 ということは、前回の公演の感想にも書いたっけ。
 人の心の哀しさ淋しさがリリカルに、わかりやすく受け止めやすく描かれていたのではないだろうか。

 ただ、本当は天童荒太的なテーマとシチュエーションの物語が、どうも石田衣良のようなきれいな手つきで書き流されているような感じがして、正直、大原君はこの物語のどこからどこまでを本心から語って騙りたかったのか疑問に思ってしまったことも事実だ。
 言い換えれば、相手から彼の言いたいことのある程度のところまで口にされて、いっとう大事なところを口ごもられはぐらかされてしまったかのようなもどかしさを感じたというか。
 もちろん、そこには大原君のシャイさ美意識、逆に自分が誰から何を求められているかをよくわかった上での戦術戦略もあるだろうから、そのことを否定するつもりは毛頭ないけれど。
 けれど、年をとって突然身も蓋もないことを明け透けにするよりも、若いうちからできるだけあけっぴろげにしておいたほうが、表現者としてもけっこう楽な気がするんだけどな。
 それに、吉見拓哉の正直でストレートな音楽との付きも、そっちのほうが今以上にさらにいいような気がするし。
(一つには、昨晩司辻有香の作品を観たことも大きいと思う。あっそうそう、僕が辻企画の『不埒なまぐろ』の感想で、無縁云々底が浅い云々と記したことは、セックスそのもののことではない。僕のセックス観については、もともと東陽一監督の『ラブレター』みたいなポルノ映画のシナリオを書いてくれと言われて、結局喜劇になってしまった『モノは試し』という拙作に詳しいので、いずれ必ず公開したい)

 前回に続く、ピンク地底人2号、山本大樹、宗岡ルリ、殿井歩、田中次郎、高山涼、井戸綾子、長南洸生、立花葛彦、橋岡七海ら演者陣は、諸々の長短や楽日特有の波はありつつも、各々の特性魅力をよく発揮していたのではないか。
 KAIKA、北九州、そして元立誠と公演を重ねて、アンサンブル的にも前回以上にまとまっていたように感じた。
 また、ゲストの劇団野の上の山田百次(心と腹と頭で演じることのできる人)と出村弘美(モナリザのような、彼女のどこかミステリアスな微笑みを観ることができたら、なおよかった)も、物語の核心を任せるに相応しい(冒頭記した月クロのwebドラマにも通じる)見事な組み合わせだった。
 さらに、穴迫信一もうざったいコメディリリーフをきっちりこなしていた。
(ここでは、山本大樹の受けのよさも忘れてはならないだろうが。山本君の筋の通ったのりのよさは、貴重だと思う)

 当然、それには大原君の演者の選択、キャスティングの巧さも高く評価しておく必要があるだろう。
 ただし、各々の演者の本質と大原君が求めるキャラクター、より具体的に言えば、全てではないけれど(そして、前々回の『ガールズ、遠く バージンセンチネル』同様)、大原君の女性観というか、希求する女性像と実際の演者との間に、埋め難い溝、齟齬を感じてしまったことも否定できない。
 むろん、登場人物をよい意味での「記号」と割り切って、石田衣良(もしかしたら杉原邦生?)的に作品世界を造り込む手もなくはないが、それは演者にとって精神的な負荷が強過ぎるだろうし、それより何より、大原君の持ち味よさともずれてしまうような気がするわけで。
(だいたい、石田衣良のようなスタイルは、「なる」ものではなく「ある」ものだろうしなあ)

 なんだか好き勝手なことを書き散らかしてしまった。
 いずれにしても、劇団しようよ、そして大原君、吉見君の今後の表現活動に注目し、その活躍に心から期待したい。
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2013年01月21日

辻企画 第六回公演『不埒なまぐろ』

☆辻企画 第六回公演『不埒なまぐろ』

 脚本・演出:司辻有香
 演出補佐:古野陽大
(2013年1月21日19時開演/アトリエ劇研)

*NPO劇研枠での招待


 辻企画にとって6回目の公演となる『不埒なまぐろ』の感想をどう記そうか、とても迷っている。
 いや、実は、出演者の大熊ねこが発する言葉が、司辻有香の肉声にふと入れ替わるような感覚に何度もとらわれたことから、本人と別の歌手が歌った中島みゆきの歌のことを枕に、大熊ねこの演技の持つ大きな意味や強い力(彼女が出演したからこそ可能となっただろう事ども)についてや、それでも、だからこそ、司辻さん本人が自作に出演すべきなのではないかと感じたこと(C.T.T.での彼女の演技のことも絡めながら)等をまとめてみようかとも思ったのだけれど、そういうことをこぎれいに書くこと自体が、自分の感じたことを巧く言語化してごまかす作業のような気がして嘘臭く、やめにした。

 ううん、『不埒なまぐろ』を観て感じたこと。
 それをどう書き表わせばいいか。
 ちょっと的外れかもしれないけれど、筒井康隆の『エディプスの恋人』<新潮文庫>のラスト近くで、ヒロインの火田七瀬がとらわれてしまった感覚にどこか近いものが…。
 いや、違うかな。
 なんだか応えようのない質問を投げかけられたようなとまどい。
 いや、あたふたととまどっているのではないのだが。
 と、言って、描かれていることのわけがわからないのでがなく、ただそうした事、ものが自分のうちに顕在するのでなく、それどころか、全く無縁だと常日頃から感じ、だから自分は「底が浅い」のだと友人知己に繰り返し語っていることでもあるため、馬鹿にしているのでもなく揶揄でもなく「ああ、これはすごいな」と思いはするのだけれど、では、じゃあどう応じるのかと問われれば、ううんいや、と口ごもってしまうような。
 もしこの作品が、もっと客観性を欠いた内面呪詛の塊のような内容であったり(だったら、『不埒なまぐろ』なんてタイトルにはならないだろう)、逆により露悪性の強い過剰でエキセントリックな「挑発」であったりすれば、受け取り方感じ方も大きく変わったのかもしれないが。
(もしそうであれば、それこそ増村保造風の「いっちゃい過ぎた」邪劇として、司辻さんの想いなどお構いなしにただただ面白がったかもしれない)

 心をぐぐっと激しく動かされるのではなく、かと言って冗長退屈つまらないのでもない、曰く言い難い感覚に今も、そう今もとらわれている。
 だから、この『不埒なまぐろ』を観ておいてよかったと思うし、司辻さんの次の作品もきっと必ず観たいとも思っているのだけれど。

 そして、出演の大熊ねこ、タケダナヲキ、田中浩之の三人に、改めて大きな拍手を贈りたい。
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2013年01月20日

fukuiii企画『蟲を解放つ。』

☆fukuiii企画『蟲を解放つ。』

 脚本・演出:福井俊哉
(2013年1月19日18時30分開演の回/京都芸術劇場studio21)


 もうかれこれ8年ほど前になるか。
 劇作家・演出家としても小説家としてもブレイク少し前の本谷有希子が、オールナイトニッポンのパーソナリティーを1年ほど務めていた時期があった。
 その後の活躍を考えれば、彼女をパーソナリティーに起用した人物はなかなかの慧眼の持ち主だと敬服するのだけれど、同じくパーソナリティー経験者の演劇人鴻上尚史をゲストに迎えての第1回目の放送など、あまりのアップアップ具合に、なんとも言えない危なかしさを感じたものだ。
 もちろん回を重ねるごとに、初回のようなスリリングな状態は脱していったものの、結局最終回まで、ある種の座りの悪さとどこか嘘をついている感じ(虚言癖やごまかしという意味ではない)はぬぐえなかった。
 で、彼女の一連の作品に目を通し、皮膚の下を悪意がゆっくりと這いまわっているかのようないーっとなる感じや、それをどこかで冷たく見放しているかのような底意地の悪い感じに、さもありなんと大いに納得がいったのだった。

 と、こう枕をつけると、まるで本谷有希子との関連性を云々かんぬんしたいのかと勘違いされそうだが、全くそういうことではなくて。
(いや、痛おかしさ痛滑稽さという点では『蟲を解放つ。』と本谷有希子につながるものはあるかもしれないが。言いたいのは、結果につながるものはあっても、というやつだ)
 福井俊哉を中心とした京都造形芸術大学 舞台芸術学科3期生の卒業制作公演、fukuiii企画の『蟲を解放つ。』を観てまず思ったことは、やはり創作物というものは、造り手の人となりを体現するものなのだ、ということだった。

 蟲。
 虫が三つ集まるだけで、なんと禍々しいことだろう。
 タイトルからして、何やらおぞましい世界が舞台上に蠢きそうだ。
 冒頭のモノローグも、観る者を苛立たせ、いーっとさせるような入りだぞ。
 さて、どんな気色の悪い物語が展開するか…。
 そんな風に思っていると、そこから予想は見事に裏切られる。
 と、ここからは公演期間中ゆえ詳しくは記さないが、本来ならば救いようのない話ではあるし、実際、救いようのない劇世界がよく造り込まれているのだけれど、そこになんとも曰く言い難い、おかしさが見え隠れするのだ。
 もちろん意図して仕掛けられた笑いの種もあるのだが、それより何より、福井俊哉という劇の書き手造り手の持つ面白さ、人柄というか。
(そしてそれは、昨年5月にfukuiii企画が上演した『ニホンの狂育』をすぐに想起させる)
 正直、テキスト自体の再現という意味では、もっとねっとりどろどろくどくどと描き込む手もあるだろうし、逆に底意地の悪さ全開で全てを狂った笑いに塗り替えるという手もあるだろう。
 福井君とは別の人が演出を行えば、それこそ全く異なる像が生み出されることは想像に難くない。
 けれど、福井君の悪意の表出表現への意志と格闘は卒業制作として相応しいものだと思うし、そうした中でなお現れる福井君の向日性には好感を抱いた。
 こうした作業ののち、改めて福井君がどのような作品世界を造り出すか、僕にはとても興味深く愉しみだ。

 相原未来、石原慎也、生方柚衣、柿本沙希、椎名翔一、本間広大ら演者陣は、ギアの細かいチェンジが必要とされる作品ということもあって、その基礎的な能力技量の高さを想像させる演技を行っていた。
 残念ながら僕の観た回は、どこか上滑りしているというか、表面的に流れている感じもしないではなかったが、それは技術的巧拙と言うより、彼女彼らと作品の結構や描かれた事どもとの距離、齟齬が少なからず影響しているように思われた。

 いずれにしても、観に行っておいて正解の公演であり作品だった。
 福井君をはじめ、皆さんの今後のご活躍を心より祈願したい。
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2013年01月14日

絶対、大丈夫か第1回公演『NEVER WEDDING STORY』

☆劇研アクターズラボ+ルドルフ 絶対、大丈夫か第1回公演
 『NEVER WEDDING STORY』

 脚本・演出:筒井加寿子
 ゴーゴリ『結婚』より
(2013年1月14日14時開演/アトリエ劇研)

 *NPO劇研枠での招待


 邪劇が大好きだ。
 狙った邪劇も大好きだけど、やむにやまれぬ想いが高じて、はたから見ると「なんじゃそりゃ!」と突っ込みたくなるような邪劇も大好きだ。
 日本におけるそんな邪劇の偉大で天才的な造り手の代表こそ、大映東京で意欲作を連発し、いわゆる大映ドラマのフォーマット(突拍子もない設定とありえない展開、内面の感情を露骨に表わす独特の言い回しを伴った台詞等々)を完成させた、今は亡き増村保造である。
 強固で強烈な自我の表現、まではよいとして、それがエスカレートして結果思わぬ方向へとストーリーは転回(天界)していく。
 例えば、川端康成原作による『千羽鶴』での、突然激しく喘ぎ始める若尾文子、はたまた反戦恋愛劇『赤い天使』の終盤での、若尾文子と芦田伸介のコスプレまがいの怪体なやり取り、さらには『大地の子守唄』のラストでのあの歌声。
 その邪劇っぷりは、実におかしく、実に哀しく、そして時に神々しくすらあった。

 ルドルフを主催する筒井加寿子と劇研アクターズラボの公演クラス受講生による「絶対、大丈夫か」の第1回公演『NEVER WEDDING STORY』も、大映ドラマもかくやと思わせる邪劇臭たっぷりの喜劇に仕上がっていた。
 ただし、増村保造が自己自我実現まっしぐらであるならば、筒井さんの場合は、ベテラン演劇人ならではの劇場感覚とサービス精神、含羞、自己との距離感(それは、筒井さんの私戯曲『まっしろけでゴー』にもよく表われていた)に裏打ちされた、考え抜かれた邪劇臭と評すべきだろうが。

 藤吉はなは御年37歳。
 恋愛や結婚への興味関心が全くない。
 と、言うのも彼女、『ポコブル』なるパペットアニメにぞっこんだからだ。
 そんな彼女が、実の両親代わりの叔母の勧めに従って、人生初のお見合いに挑んでみたのはよいのだけれど、会場のホテルに現れたのは、公務員の野呂間種男をはじめなんと4人の男性たちだった…。
 という具合に、物語は展開するのだが、諸々あって結婚に乗り遅れたり結婚を所望する人間たちの姿が、面白おかしくキュートでポップ、そしてどこかほろ苦く描かれていく。
 二時間という長尺で、ときに急所もなくはなかったものの、歌にダンスに劇中人形劇、そしてやたけたやぶれかぶれの邪劇的趣向(吉本風でもあり、花登筐風でもあり)に、スピーディーなテンポの演技もあって、全篇愉しく観終えることができた。

 加えて、一人一人の登場人物が、おかしな奴=だめな奴=社会不適応者=いらん=死んでまえ!と責められ断罪されるのではなく、人間どっかあかんとこはあるさ、あかんちんしゃあないやん、といった姿勢で描かれていた点も忘れてはなるまい。
 そしてそのあかんちんの中には、当然筒井さん自身も含まれているはずだ。
(もしそうでなければ、藤吉なのはの部屋、と、言うより本棚の様子が、あれほどまでにマニアックでモノマニアックに再現されることはなかっただろうから。全部ではなくとも、多分に藤吉なのはは、筒井さん自身の投影だと思う)

 いずれにしても、今回の『NEVER WEDDING STORY』は、アクターズラボの公演クラスにおける一年間の共同作業の貴重な成果であるとともに、まだ微かではあるかもしれないが、確固とした自己肯定と他者肯定の証明であり表明だと思う。
(おっ、これでやっと増村保造につながったようだぞ)

 筒井さんの演出もあってだが、藤吉なのはを演じた岩崎果林、野呂間種男を演じた高橋太樹(彼の雰囲気もあってか、ルドルフではおなじみの「キャラクター」が巧くスライドされていた)をはじめ、多田勘太、北方こだち、柿谷久美子、奥田覚、渋谷善史、川本泰斗、青生しんの演者陣は、各々の個性魅力を十二分に発揮した熱演好演だったのではないか。
 喜劇ならではの間の取り方等々、一人一人の問題点急所も明らかになったとも思うが、それこそ来年の第2回公演の課題としてもらえれば幸いだ。

 そうそう、岩崎さんが描いたイラストなど、細部へのこだわりが嬉しかったんだよね。
 そういったあたりも含めて、次回の公演が愉しみだな。

 ああ、面白かった!
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2013年01月10日

飴玉エレナvol.4『記憶のない料理店』

☆飴玉エレナvol.4『記憶のない料理店』

 脚本:石井珈琲
 演出:石井珈琲、山西竜也
 出演:山西竜也
(2013年1月9日14時30分開演/アトリエ劇研)

 *劇団からのご招待。


 京都小劇場で一人芝居といえば、なんと言っても、その後東京で落語家修業をはじめ、今では放送作家への道を歩んでいるハラダリャン出演で、「てんこもり堂」を旗揚げした藤本隆志のサポートによる一連の公演を思い出す。
 やたけたやさぐれ感とシャイさに満ちたハラダリャンと、細やかでかっちりとした組み立てを信条とする藤本さんの歯車は、毎回必ずしも完璧に噛み合っていたとは言い切れないけれど(それには、ハラダリャンの「のる」「のらない」という芸人気質も少なからず関わっていたと思う)、それでもひとたびツボにはまったときのハラダリャンのおかしさ面白さときたら、やはり忘れられないものである。

 一方、脚本・演出の石井珈琲と演出・出演の山西竜也による一人芝居劇団、飴玉エレナは、そんなハラダリャンと藤本隆志のコンビとは対照的に、計算されコントロールされ尽くした舞台を造り出す。
 第4回目の公演となる今回の『記憶のない料理店』の場合、しれっとした顔でおかしなこと言ってますといったスタイルの笑いの味付けもたっぷり行われていたが、全体的に観れば、リリカルな側面が勝った作品となっていたのではないだろうか。
 かえってわかりにくい喩えになるかもしれないが、東川篤哉の線かと思っていたら、実は中身は奥泉光に近かったと評してもいいか。
 はじめ違和感を覚えた登場人物の演じ分けも、あまりぶれを感じさせない山西君のコントロールのきいて繊細な演技をひき立てる意匠でもあると、充分に納得がいった。
 また、僕自身ならば「作中の人物」にも「演じさせる」という仕掛けを用いるだろうといった好みの違いはあるが、石井君の脚本も、狙いのはっきりしたわかりやすく受け入れやすい、山西君の演技のスタイルによく沿った内容となっていた。
 料理店という作品の設定に絡めて言えば、今現在彼らが持っている技術技量と、手にし得る材料(食器も含む)を使って、よく造り込まれた料理に仕上がっていたように、僕は思う。

 ただ、そうした点に感心する一方、何かが心に届かない物足りなさ、つかみようのなさを感じたことも事実だ。
 ある種のナルシズム(一般的に使われる言葉としてよりも、もしかしたら本来の語源のそれに近いか)といえば語弊があるかもしれないけれど、それは、舞台上で全てが自己完結している感じとでも言い換えることができるだろうか。
 加えてそれは、造り手の賢しさ、頭のよさ、計算のほどがどうしても先に見えてしまい、作品世界に巧く入り込めないもどかしさと言い換えてもよいかもしれない。
 たぶん、このことは、山西君がさらに多様な演技の素養を身につけ、石井君の書く脚本の「ドラマ」の層に厚みが加われば、必ず解消されていく問題だと思うし、コントを中心とした作品では、受ける印象も大きく変わるだろうとも感じたが。

 いずれにしても、飴玉エレナの今後の活動に注目するとともに、彼らによるとても自然に見える、その実、磨きに磨き抜かれ、考えに考え抜かれたとびきりの人工世界の誕生を心待ちにしたい。
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2013年01月01日

イッパイアッテナ

☆イッパイアッテナ


 2013年が明けてすぐ、阿部潤さんと小林由実さんがイッパイアンテナを退団することを、イッパイアンテナのツイートで知った。
 ここ数年、イッパイアンテナのファンを自認公言してきた人間だけに、二人の退団は、とても残念なことだ。
 しかしながら、まさかこのタイミングでという驚きはありつつも、二人の退団が寝耳に水だったかというと、実はそうではない。
(加えて、同じくイッパイアンテナのツイートにあったように、阿部さんや小林さんがイッパイアンテナの他のメンバーと関係を悪化させたものではないだろうことも想像に難くない)
 そこら辺りのことを得手勝手に書き連ねると、徒に誤解を生むことにもなりかねないので、ここでは今回退団を決めた二人のことにできるだけ絞って、少し感じたことを記しておきたいと思う。

 阿部さんとは、以前一度ゆっくり話をしたこともあるので、その人柄はある程度わかっている。
 例えば、Factory Kyotoの代表、松山孝法君が戦闘戦略戦術の意味合いもあって太宰治的な行き方を志向しているとすれば、阿部さんはよりナイーヴな無頼派というか、同郷の石川啄木や宮沢賢治を思わせる弱さと強さ、柔らかさと頑なさの持ち主だと思う。
(と、言っても、聖人君子などではなく、生身の人間の煩悩と日々向き合っていることも事実で、『バードウォッチングダイアリーズ』で、クールキャッツ高杉君はそうした点も鋭く突いていたように感じた)
 だから、自分自身の来し方行く末とイッパイアンテナの今後のあり様を考えに考えた末、さらに諸々が重なって、退団を決めたのだろう。
 正直、その決断に思うところはないわけではないが、やはり事ここに到るまでのあれこれを想像すれば、それも仕方のないことと諦めるしかない。
 もし今後も阿部さんが演劇活動を継続するというのであれば(そうあって欲しいし、そうあるべきだ)、阿部さんにはぜひとも井上ひさしの作品に真正面から取り組んで欲しい。
 なぜなら、それが今の阿部さんにぴったりしっくりくるように、僕は考えるからだ。
 阿部さん、またゆっくりお話しましょう!
(あえてアルコール抜きで)

 小林さんの場合は、衛星やユニット美人への客演が大きな契機となったのだろう。
 実はそれ以前から、イッパイアンテナの他の面々と彼女の演技の質感の違いを感じてはいた(それは、京都ロマンポップ時代の浅田麻衣さんのそれと似ている。というか、同志社と立命館という関係でいえば、二人は真逆の立場にあった)から、客演後、中でも『ドリリズム』での彼女の雰囲気の大きな変化(イッパイアンテナの作品世界にとっては、過剰な色気と言ってもよい)をあわせて考えれば、今回の退団は予想できなかったことではない。
(イッパイアンテナのときとは異なる、ユニット美人でのトリックスターぶりは、強く印象に残っているし)
 ただ、だからこそ、小林さんには無理に「コメディエンヌ」を目指して欲しくないな、というのが僕の本音だ。
 そして、このことでは由実さんばかりでなく、真弓(まゆみ)さんの「二人の小林さん」について記してみたいのだけれど、ここではあえて省略する。
(と、いうか極言すれば、今の京都の小劇場で真の「コメディエンヌ」は存在しないと思う。「コメディエンヌ」とは言えないかもしれないが、もしかしたらそれと同じような存在になり得るのは、地点の安部聡子さんかもしれない。あと、可能性としては愉快犯の笹井佐保さんとか)

>コメディエンヌは、変な顔などで笑わせてはいけません。
 よく見ると美人なのだけれども、「そこはかとなくおかしい」のが必要条件です<
(小林信彦「金曜の夜は忙しい」、『女優はB型』<文春文庫>所収)

 急がば回れでないけど、僕は小林由実さんのシリアスで、救いのない役回りでの演技を観てみたい。
(『バードウォッチングダイアリーズ』でもその片鱗が表わされていたような)
 柳沼昭徳さん(残念ながら、黒木陽子さんの演技は未見とはいえ)や柏木俊彦さんとの共同作業などどうだろう?

 感じ想い考えることが、いっぱいあって、結局書かでもがなのことまで書き散らかしてしまった。

 いずれにしても、阿部さん、小林さんの今後のさらなる活躍を心より祈願するとともに、イッパイアンテナの今後のさらなる活躍も心より祈願したい。
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2012年12月27日

11月、12月の京都小劇場の公演を振り返って

 最近、若手の活躍台頭が著しい京都小劇場だが、松田正隆さん、鈴江俊郎さん、土田英生さんという三人の先達の次代を担う30代半ば以降の演劇人たちも、着実にその進化を遂げているように、僕には感じられる。
 特に、2012年も最終盤となる11月から12月にかけては、彼女彼らの本領が十二分に発揮された公演が目白押しだったのではないだろうか。

 まず、11月はじめのトリコ・Aプロデュースの『ROUVA −ロウヴァ−』(文化庁芸術祭賞新人賞受賞)は、山口茜さんの表現の大きさ厚みを改めて感じさせる作品となっていた。
 京都公演の初日に観劇したこともあり、できれば八尾での再演を観ておきたかったのだが、これはまあ仕方あるまい。
(そういえば、先述した文化庁芸術祭賞新人賞受賞のことをネットで調べていたら、同じ山口さんの作品『ポストムーミン』に出演していた戸谷彩さんのブログを見つけた。彼女とは、だいぶん前に劇団テンケテンケテンケテンケの制作を手伝った際に、いっしょの現場になったことがあるが、こういう軽めの面白い文章を書く人とは思っていなかった)

 一方、ちょうど同じ時期、壱坪シアターでは、トランポリンショップとソノノチの「ロングラン」公演として、田辺剛さんの『Tea for Two』が上演されていた。
 あいにくトランポリンショップのほうのみの観劇になったのだけれど、これは、田辺さんの劇作家としての腕のよさ、職人ぶりがよくわかる作品だった。
 田辺さんには、今後も硬軟柔剛バラエティに富んだ戯曲をぜひとも書き分けていって欲しい。
 その意味でも、来年2月の下鴨車窓の『煙の塔』が非常に愉しみである。

 11月後半の正直者の会.lab『ライトスタッフ』は、自らが講師を務めたアクターズラボの公演クラスの受講生との関係性も含めて、田中遊さんの表現者としての真っ当さが表わされた公演であり作品だったのではないか。
 正直者の会で試みてきた諸々の表現の実験が、伝えようとすることやものと見事に重なり合って、強く心を動かされた。
 正直者の会とともに、正直者の会.labでの田中さんの活動にも大いに注目していきたい。

 そして、12月に入ってからの、ニットキャップシアターの『Strange』では、ごまのはえさんの表現意欲の強さに加え、表現者としての覚悟とニットキャップシアターというアンサンブルを率いる者としての覚悟を「観る」想いがして、感無量だった。
 ダンスや音楽の援用と、観どころも豊富で、来年2月の東京公演をぜひとも多くの皆さんにご覧いただければと思う。

 また、12月のはじめには、昨年末惜しまれつつも無期限活動停止を決定したベトナムからの笑い声の黒川猛さんによるソロ・パフォーマンス・ライヴ、『THE GO AND MO’S』が一区切りをつけた。
 中川剛さん、丸井重樹さん、宮崎宏康さんらの応援もあり、様々な厳しい条件下、隔月コンスタントにライヴを開催し続けた黒川さんに改めて大きな拍手を贈るとともに、定期的な企画の再開を強く願う。
(なお、来年3月には、大阪ウイングフィールドで総決算となる公演が予定されている。これは観逃せない!)

 あと、こうした中に、花田明子さん(三角フラスコ)や山岡徳貴子さん(魚灯)のお名前を加えることができないのは、10年以上にわたって京都の小劇場に接し続けてきた人間にとっては、どうにも残念でならないことだけれど、これは言っても仕方のないことでもある。

 いずれにしても、ここに挙げた方たちをはじめ、30代半ば以降の演劇人たちの来年度の一層のご活躍ご健闘を心から期待したい。
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2012年12月17日

クールキャッツ高杉のイッパイアンテナジャック『バードウォッチングダイアリーズ』

☆クールキャッツ高杉のイッパイアンテナジャックvol.2
『バードウォッチングダイアリーズ』

 脚本・演出:クールキャッツ高杉
(2012年12月16日18時30分開演の回/スペース・イサン)


 イッパイアンテナの旗揚げメンバーであるクールキャッツ高杉が企画・脚本・演出をつとめ、劇団の乗っ取りを狙う(?)、クールキャッツ高杉のイッパイアンテナジャックvol.2『バードウォッチングダイアリーズ』を観た。
 上演時間が110分と開演前に耳にしたときは、生理現象への危機感もあって、「えっ!?」と思ったのだけれど、いやあなんのなんの、2時間弱があっという間に終わっていた。

 チラシの「心にいつも鳥カゴ」という惹句と、「まず言っておかなければならない。これは僕と、僕の兄の恋愛に関する物語である」という言葉が、作品全てを言い表わしているんじゃないのかな。
 いや、それだとちょっとだけ不親切か。
 これまたチラシの梗概を引用すれば、背中に羽を持って生まれたある男と弟にその家族、そして彼彼女らの友人知己たちによる群像劇、とまとめることができるかもしれない。

 これまでの演劇的経験(だから、ピンク地底人3号や三鬼春奈の出演も必然と言える)や、映画などからの影響をしっかりと咀嚼しつつ、クールキャッツ高杉の人生観や世界観が、上述した登場人物たちの交差交流、生き死にを通してテンポよく描き込まれていたのではないか。
 下ネタを含む笑いの仕掛けもふんだんに施されていて、シリアスな場面やリリカルな場面とのコントラストをよく造り出していたと思う。
 いずれにしても、クールキャッツ高杉の今やりたいこと今やるべきと思うことがやり尽くされた作品に仕上がっていた。

 それと、企画の趣旨から考えれば当然のことだが、この『バードウォッチングダイアリーズ』は、自ら舞台に立つ演技者の手によって造られた作品だということを強く感じた。
 それは、円錐の頂点や円の中心でなく、円を形作っている輪の中の一人によって造られた、という風に言い換えてもよいかもしれない。
 ただここで付け加えておきたいことは、それが仲間内の慣れ合いなどではなく、演者陣の不得手にさえも留意して役柄が割り当てられていたばかりか、その内面にまでもけっこう踏み込んだ作劇結構になっていたように思われたことだ。
 その意味で、演者陣にとっては精神的な負荷が相当かかる公演であり舞台であったはずだけれど、今後のイッパイアンテナのあり様、方向性を考えていく上ではそれもやはり大切な作業であったように、僕は考える。
 ライヴ特有の傷はありつつも、イッパイアンテナの面々に先述した二人のほか、野村侑志、川北唯の客演陣は、クールキャッツ高杉の意図によく応えた演技を披歴していた。

 それにしても、『バードウォッチングダイアリーズ』ってタイトルもいいな。
 そこに様々な想いがこめられているようで。

 そして、今回の公演を受けたイッパイアンテナの次回本公演、大崎けんじ作品(崎は、本当は大ではなく立)も愉しみにしたい。

 ああ、面白かった!
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2012年12月14日

ニットキャップシアター 第32回公演『Strange』

☆ニットキャップシアター 第32回公演『Strange』

 作・演出:ごまのはえ
 振付:佐藤健大郎
 照明:葛西健一
 音響:三橋琢
(2012年12月13日19時開演/アトリエ劇研)


 ニットキャップシアターにとって第32回目の本公演となる、ごまのはえの新作『Strange』のプレビュー公演を観た。

 来週火曜日まで京都公演が続き、さらには来年2月1日〜3日に下北沢のザ・スズナリでの東京公演が予定されていることもあって、あえて詳しい内容については触れないが、これは観に行って大正解の作品であり、公演だった。
 と、言うのも、ごまのはえという劇作家・演出家の、演劇という方法を用いながら今現在表現すること(何を?どのように?)への強い意志や覚悟、疑問、葛藤、冒険、切実さが、「第一部 垂直移動編」、「第二部 平面移動編」、「第三部 直角交差編」の三部構成の物語を通してはっきりと示されていたからだ。
 『Strange』というタイトルや三部の名称(ただし、この名称はまた、その内容を読み解く大きなヒントともなっているのだけれど)からもわかるように一筋縄ではいかない展開で、各部のブリッジの間に感じ取ったものを反芻してみる必要があるだろうし、ごまさんの様々なせめぎ合いが作品の結構に表われているようで、ときにスリリングにすらあるのだけれど、全編観終えたときの余韻感慨充手応え観応えは非常に大きい。
 加えて、これまでの一連の作品でも試みられてきたダンス(今回の公演にも出演している佐藤健大郎の存在を忘れてはなるまい)や音楽、ごまさんが接してきただろう過去の創作物、マイクパフォーマンスといった現代の潮流となっている演劇的な手法技法の使用援用も、さらに洗練されて精度を増しているように感じられた。

 初日ということで、まだまだ粗さは残っていたものの、客演の佐藤さんや黒木夏海を含む演者陣のアンサンブルのよさも、回を重ねるごとにこの『Strange』の観どころの一つに数えられることとなるのではないか。
 おなじみ、ごまさんはじめ、市川愛里、織田圭祐、門脇俊輔、澤村喜一郎、高原綾子、藤田かもめのニットキャップシアター・メンバーに、新たに山岡未奈(ちょっと柳原加奈子を思わせる風貌で、柳原さん同様に回転が早くて芯の強そうな演者さんだ)が加わって、今後がますます愉しみだ。

 いずれにしても、ぜひ多くの方にご覧いただきた作品であり、公演である。
 ああ、素晴らしかった!
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2012年12月09日

努力クラブ5『旅行者感覚の欠落』

☆努力クラブ5『旅行者感覚の欠落』

 脚本・演出:合田団地
(2012年12月8日19時開演の回/元立誠小学校 音楽室)


 フジテレビ系列のプロ野球ニュースで、球界の福田赳夫よろしく飄々然と解説を披歴していた関根潤三だが、彼がヤクルトの監督を退任してすぐに『一勝二敗の勝者論』なる著書を刊行したときは、いくらなんでもそのタイトルはないやろと唖然としたものだ。
 人生たった三回の勝負で一勝二敗というのであれば、そらちょっとかっこよさげに聴こえないでもないが、いかんせん関根さんはチームを率いリーグを通じて勝負に挑み続けねばならプロ野球の監督なのである。
 一勝二敗のペースを続けていけば、50勝100敗、100勝200敗、500勝1000敗…。
 いや、1000敗する前に監督をクビになるか。
(ああ、なるほどとけっこう納得する内容ではあったんだけど、それでも「一勝二敗」という書名はなあ…)

 そんな関根潤三の監督時代に投手コーチを外れていたのが、ヤクルト生え抜きのピッチャー、安田猛だ。
 僕らの世代であれば、いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』で主人公のタブチくん同様、徹底的にからかわれていたヤスダ投手を思い出す人も少なくないだろう。
 左サイドスローから繰り出すとてもゆるやかなボールや数々の変化球でこつこつ勝利を重ねていたピッチャーである。
 この安田猛にあやかりたいとかつて合田団地は口にしていたが、彼が作演を務める努力クラブにとって5回目の本公演となる『旅行者感覚の欠落』(いつもながら、タイトルがいいやね)も、そうした合田君の曲者ぶりがよく表わされていた。

 月曜日まで公演が残っていることもあって詳しい内容については触れないが、『旅行者感覚の欠落』は、過剰過激な表現にだれ場退屈場と作品の振り幅の大きさも厭わず、様々な演劇的手法や笑いの手法を織り込みながら、自らの表現のあり様を示した作品となっていたのではないか。
 努力クラブの旗揚げ公演『魂のようなラクダ、の背中に乗って』を思い起こさせる結構筋運びでもあったのだけれど、リリカルな部分の見せようも含めて、球の曲がり具合や緩さにしっかり磨きがかかっているように感じられた。
 だからこそ一方で、配球の組み立ての苦しさ難しさを感じたことも事実で、あえて「見せ球」としてではなく、本気の超速球主体の勝負を挑んでみてもよいのではないかと思わないでもなかった。
 合田君の美学美意識に反するだろうことは承知の上でだけれど。

 演者陣は、喜撃名詞(やりよった!気になるシーンあり!)と無農薬亭農薬という新たに加わった二人と、おなじみ合田君、佐々木峻一の努力クラブメンバーや、盟友の丸山交通公園、常連のキタノ万里、九鬼そねみ(奮戦)、長坂ひかる(前回の『よく降る』の変な人より、今回のウェットな感じの役柄が合っている)のほか、新谷大輝、玉一祐樹美、木下ノコシが出演していて、各々の特性を発揮していた。
 一発狙いからセーフティーバント、さらには隠し球といった合田君の貪欲な要求に、万全とまでは言えないながら、皆々応える努力を重ねていたと思う。
 中でも、木下ノコシのこれ見よがしでない着実なヒットぶりに注目した。
(彼女に関しては、ホームチーム・サワガレの『顔の底』でのフラットな感じにも好感を抱いたんだった)

 加えて、稲森明日香による過不足ない衣装のセンスのよさが印象に残った。

 いずれにしても、合田団地が関根潤三ではないということがよくわかる作品であり公演だった。
 次回の試合、じゃない公演にも大いに期待したい。
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2012年12月02日

THE GO AND MO'S 第6回公演『松尾の凛』

☆THE GO AND MO’S 第6回公演『松尾の凛』

 脚本・演出・出演:黒川猛
 構成:黒川猛、中川剛
 音楽:Nov.16
 映像協力:竹崎博人
 制作:丸井重樹
(2012年12月2日17時開演の回/壱坪シアタースワン)


 ベトナムからの笑い声でならした黒川猛によるワンマンライヴ企画、THE GO AND MO’Sの第6回公演『松尾の凛』を観た。

 で、映像ネタのオープニング「吹き出し2」で始めて、新作コントの『ブレーンバスター』におなじみ「電話」、ドキュメンタリーの『北銀馬早苗』、休憩を挟んでの創作落語『夢眼鏡』、コント『身体〜元世界王者〜』、「しりとり」、そしてアンケート『もしもシリーズ』(お客さんのお題を使って黒川さんが苦しむ…)で〆るという、黒川猛の攻めと守りの姿勢がバランスよく表わされたTHE GO AND MO’Sらしいラインナップだったが、中でも強く印象に残ったのは、ドキュメンタリー(映像)の『北銀馬早苗』。
 と、言うのも、最近ではすっかりご無沙汰してしまっているが、かつてその公演に親しく接していた関西小劇場を代表する女性が、北銀馬早苗なる人物として登場したからだ。
 しかも、正直当たり外れが激しい、演者の底力が試されるこのフェイクドキュに、彼女が本息も本息、直球勝負で挑んでいたことにも驚いた。
 いや、彼女の作風人柄を考えれば、これも当然のことかもしれないんだけど。
 社会的な視点をきちんと織り込みつつ、結果結局なんじゃいなこれは、と思わせてしまうあたり、脱帽するほかなかった。
 また、東山青少年活動センターで行われた幻のプレ公演でもかけられた創作落語の『夢眼鏡』は、黒川さんの真っ当さがよく表われていて嬉しかったし、宮崎宏康と「謎」の元世界王者が身体性を競い合うコント『身体』には大いに笑わされた。

 それにしても、周囲の人たちの協力があったとはいえ、こうやって隔月コンスタントに公演を開催してきた黒川さんには、心から大きな拍手を贈りたい。
 本当にお疲れ様でした。
 そして、ああ、面白かった!

 なお、THE GO AND MO’Sは、来年3月末に大阪心斎橋のウイングフィールドで、第7回公演『春子の夢』の開催を予定しているとのこと。
 マスト!
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2012年12月01日

劇団蒲団座 番外公演『幻想忌憚フェスタ 2012』

☆劇団蒲団座 番外公演『幻想忌憚フェスタ 2012』

 作・演出:坂口弘樹
(2012年12月1日18時開演の回/人間座スタジオ)


 思い返せば、今年の京都学生演劇祭は振り幅が広いというか、とてもバラエティに富んだラインナップだった。
 その中でも、ひと際刺激的に感じられたのが、大谷大学の劇団蒲団座だ。
 何せ、コンテンポラリーダンス、どころじゃないクラブ(ディスコ)ダンスやブレイクダンス流の踊りや動きを積極的に取り入れて、躍動感と疾走感に満ちた舞台を生み出していたんだもの。

 で、そんな蒲団座の番外公演を観に行って来た。
 公演が明日まで続いているので詳しくは触れないが、都市伝説(ロア)を物語の中心に置いて、そこにネット上のゲームを絡めながら、社会への適応やコミュニケーション等、諸々のコンフリクトを織り込みつつ、京都学生演劇祭同様のダンス、さらには殺陣のシーンを盛り込んだ作品となっていた。
 まずもって作品の見せ場、お客さんに観て愉しんでもらいたいというところがはっきりと示された、造り手の意図がよくわかる公演になっていたのではないか。
 ただ、身体感覚が重視される場面と、会話(台詞)の場面との噛み合わせが少ししっくりこないというか、ぎゅっと詰まりきっていないもどかしさを感じたことも事実だ。
 京都学生演劇祭での記憶に加え、活き活きとしたアフターアクトでのパフォーマンスを観たこともあってか、正直、演劇というスタイル=物語にこだわる必要があるのかな、と思わないでもなかった。
(坂口君がどうしてもこの話をやりたいというのであれば、話は別だし、ほかの演者陣とのバランス、兼ね合いもあるのかもしれないけれど)

 演者陣は、各々の個性、演技の質感の違いがよく表われていたのではないか。
 身体性という意味で、島あやが印象に残った。

 いずれにしても、次回の公演にも注目したい。
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2012年11月27日

月面クロワッサン vol.5『最後のパズル』

☆月面クロワッサン vol.5『最後のパズル』

 脚本:作道雄、丸山交通公園
 演出:作道雄
 音楽:高瀬壮麻
(2012年11月26日19時開演の回/元・立誠小学校 音楽室)

 *劇団からのご招待


 以前にも記したことがあるかもしれないが、月面クロワッサンの面々を借り切って、『月面クロワッサンの古典パン!』というちょっとした企画を「妄想」したことがある。
 丸山交通公園の山椒魚と小川晶弘の小海老が漫才風に諍う井伏鱒二の『山椒魚』、小川君の作家が丸山君のイモリを一撃に打ち殺す志賀直哉の『城ノ崎にて』、丸山君が小川君におぶさるも、丸山君がおなじみの台詞を口にする前に小川君が潰れてしまう夏目漱石の『夢十夜』。
 森麻子と浅田麻衣が、メインとサブの役柄を交互に演じ分けたり同化したりする、至極シリアスな太宰治の『女生徒』。
 そして、最後は、作道雄演じるカンダタが稲葉俊演じる蜘蛛の糸を掴んで天国へと昇ろうとした瞬間、西村花織演じる冷酷無慈悲なお釈迦様の手によって糸を切られてまっさかさま、するとそこは丸山君演じる閻魔大王はじめ、いつもの面々が企画外企画劇場よろしく大喜利を愉しむよい意味でのぬるま湯的世界、カンダタはその居心地の良さに我を忘れるが、これではならじと立ち上がり、太田了輔演じる鬼ばかりか、閻魔大王までが天国を目指す、するとそこにまたもた蜘蛛の糸が、果たして彼彼女らは天国に昇ることができるのか、それとも…、という『蜘蛛の糸 もしくは、地獄八景月黒戯』。
 とまあ、全くもってお寒い企画なのだけれど、月面クロワッサンにとって第5回目の本公演となる『最後のパズル』で、作道君たちは、先述した『蜘蛛の糸 もしくは、地獄八景月黒戯』で伝えようとしたことやものを、とてもスマートに、とてもリリカルに描きだしていたように思う。

 日本ではないとある国、夢を持った「ユメオイビト」たちは、国家が設けた「塔」へと入り一定期間の作業を続けたのち、夢を実現させることができる、というプロジェクトが施行されている。
 そして物語は、「塔」へと行く人たちを見送り、「塔」から還って来た人たちを迎える宿屋の一室を舞台に繰り広げられていく。

 まず、全体的な感想を述べれば、京都学生演劇祭における第0回から今回までの公演(や、webドラマの『虹をめぐる冒険』)を観続けてきて、この『最後のパズル』は、もっとも面白さを感じる作品であり、公演となっていた。
 一つには、これまで幾度も指摘してきたような、「手わざ」としての過剰な笑いが抑制されていたこともあるのだが、それより何より、作道雄自身の(全部ではないにしても)今実際に強く感じ考え思っていることが、劇全体を通して、ストレートに吐き出されていたように感じられていたからだ。
(加えて、これまた幾度も指摘してきた、作道君自身の「大切な人を失った」喪失感や痛みも忘れてはなるまい)
 そしてそれは、作道君の創作者表現者としての悩みやとまどい、自負自身、希望願望と言い換えることもできるだろう。
 作道君と月面クロワッサンが、次のステップに進むための「宣言」として『最後のパズル』を造り上げたことに、心から大きな拍手を送りたい。

 しかしながら一方で、『最後のパズル』は、作道君たち月面クロワッサンという集団のクリアしていくべき課題がひときわ明確になった作品であり、公演だったとも思う。
 一例を挙げれば、「塔」というシステムをはじめ、この物語の大きな枠組み・基本的な部分に耐性はあるのか、どうか。
 そのこととも関連するが、鈴江俊郎や田辺剛、高間響ではない作道雄が、作品の相対化を狙っただろうとはいえ、国家や政治そのものに、簡単な状況説明以上に、それでいて単なるイメージとして踏み込む必要があったのか、どうか。
(特にラストには、メロドラマを装った女性の自立自律の物語である吉村公三郎監督の『夜の河』のラストで、伏線はきちんと張ってありつつも、唐突に赤旗の更新が表われてくるのと同様の違和感を覚えた。「頑張っていきたい!」という切実な意志の表現であることは、痛いほどわかったのだけれど)
 小道具への細やかなこだわり(これは凄い)と同様に、作品全体、物語全体への細やかな検証が一層必要になってくると、僕は考える。
 その意味で、プレビュー公演の設定は高く評価できるのだけれど、それ以前のプロット会議、関係者による内覧等々、来年5月に予定されている公演に向けて、早速動き始めて欲しい。

 演者陣は、限られた時間の綱渡りの中で、作品の世界観によく沿った演技を心がけていたのではないか。
 中でも、稲葉俊、森麻子の真情吐露には胸に迫るものがあったし、愚直でシリアスな役柄に横山清正をあてたことには、まさしく我が意を得た思いがした。
 ただ、最終公演ということもあってだろうが、フラットな部分での粗さ、抜けがどうしても気になったし、キャスティング、登場人物のキャラクターづけそのものにもいくつか疑問が残った。
 例えば、梶原善的な役柄には梶原善的な演技が求められるのではないか、ということや、丸山君にはさらにしばりをかけて(黒澤明監督の『どですかでん』の三波伸介や小島三児のように)淡々と普通に演じさせるとか。
 そして、これは好みの問題になるのかもしれないが、西村花織と森さんの役を交換させるとか。
 それは実は、最初に記した『蜘蛛の糸 もしくは、地獄八景月黒戯』で、森さんでも浅田麻衣でもなく、西村さんに冷酷無慈悲なお釈迦様を演じてもらいたいと思ったことにも深く繋がっていることだ。

 いずれにしても、今後の月面クロワッサンの活躍に心から期待したい。
 次回公演が本当に愉しみだ。
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2012年11月24日

正直者の会.lab 第一回公演『ライトスタッフ』

☆正直者の会.lab 第一回公演『ライトスタッフ』

 作・演出:田中遊
 照明:川島玲子
 音響:城地弘典
 演出補佐:下野優希
(2012年11月24日19時半開演の回/アトリエ劇研)


 今年1月の公演を持って三年間の活動に終止符を打ったアクターズラボの公演クラス、正直者の会+アクターズラボ「鉄人漁船」の有志と田中遊が立ち上げた、その名もずばり正直者の会.labの第一回目の公演を観た。
 で、観てのいっとう最初の感想は、田中さんはずるいや、だった。

 いや、実は田中遊は何もずるいことはやっていない。
 なぜなら、公演パンフレットにある如く、演劇等の照明スタッフと「正しい資質」、「適格性」を重ね合わせたタイトルの『ライトスタッフ』にはじまって、自らのユニット正直者の会で試みたり、この間吸収咀嚼したりした演劇的手法を巧みに盛り込んだ上で、ラボの名に相応しい参加者の舞台人表現者としての変化変容をきっちり考えた作劇結構になっている点や、作品そのものが田中さんの演劇論、表現(者)論、人生論、世界観となっている点と、「正直者」の名に恥じない真っ正直で真剣な舞台作品が創り上げられているからだ。
 それでも、「鉄人漁船」の第一回目の公演『Plant』と同様、観る者の心をぐぐっと掴んで動かしてしまうようなストーリー展開を用意しているんだもの、やっぱり田中さんはずるいや、と一人ごちてみたくもなるのだった。
(ただ、そのストーリー展開だって、物語の造り手としての計算だけではなく、田中さんの実人生、日々の生活の営みの反映であることもまた明らかな事実ではないか)

 アイウエオ順で、板倉真弓、岡崎信幸、渋谷善史、下野優希、のりす、治田絵理子、古野陽大の演者陣も、ライヴ特有の傷はありつつも、単に個々の演者の特性魅力ばかりでなく、長期間同じ顔触れで演劇活動を続けるというアンサンブルの強みを十二分に発揮していて、非常に好感を抱いた。
 今後の演劇活動は個人個人で大きく異なるとは思うが、この作品に田中さんがこめた様々な想いをくみとりながら、ぜひとも頑張っていってもらえればと心から願う。

 加えて、『ライトスタッフ』というタイトルと世界観にぴったりの美しい照明(川島玲子)と、一つ一つの曲名を記すと煩雑なので省略するが、ピアノ曲を中心としたセンスのよいクラシック音楽の数々(音響は城地弘典)が、作品世界をよく支えていたことを付記しておきたい。

 いずれにしても観て大正解の公演で、次回の公演がとても愉しみだ。
 ああ、面白かった!
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KAIKA劇団 会華*開可 本公演vol.1『ビリビリ直子ちゃん』

☆KAIKA劇団 会華*開可 本公演vol.1『ビリビリ直子ちゃん』

 作:末山孝如
 演出:渡邉裕史
(2012年11月23日19時半開演/KAIKA)


 KAIKAを拠点とするKAIKA劇団 会華*開可の満を持しての第一回目の本公演、『ビリビリ直子ちゃん』を観た。

 舞台はとある高校の3年生のとあるクラス。
 「げんぱつ、はんたい」というシュプレヒコールを含んだ台本を、一人の生徒が書き上げた。
 果たして、このクラス劇は文化祭で上演できるのか、否か?
 と、こう書くと、ああ、そんな話ね、と思われてしまうかもしれないけれど…。

 土曜日曜と公演が残っていることもあって、あえて詳しいことは書かないが、この『ビリビリ直子ちゃん』、いやあ実に面白かったなあ。
 ちょっと高校演劇っぽい出だしに、おんやと思っていたら、途中『ビリビリ直子ちゃん』ってタイトルに相応しいおもろいシーンが挟まれて、コペ転(by樋口尚文)、掌をするりと返されるような、おおっと考えさせられるラストが待っている。
 一見わかりやすく、その実仕掛けと含みの多い末山孝如のテキストを、アフタートークで村上慎太郎も口にしていたように、演出の渡邉裕史が様々な演劇的手法を咀嚼引用しつつまじめに丁寧に再現していたのではないか。
 演劇的な指向試行に加え、物の見方考え方という意味でも、福田恆存のことをちらと思い起こした。
(あと少しだけ、登場人物の背景というか経験を想起させるような台詞なり仕種なりを加えれば、さらに作品の幅が拡がるように思う)

 ライヴ(初日)特有の傷はありつつも、芦谷康介、小林まゆみ、高橋美智子、渡邉君の劇団メンバーと、客演の川北唯、玉城大祐、脇田友ら演者陣は、役柄によく沿った演技で、各々の特性魅力を発揮していた。

 いずれにしても、次回の公演が愉しみである。
 ああ、面白かった!
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2012年11月18日

劇団しようよ vol.3『スーホの白い馬みたいに。』

☆劇団しようよ vol.3『スーホの白い馬みたいに。』

 作・演出:大原渉平
 音楽:吉見拓哉
(2012年11月18日15時開演/KAIKA)


 劇団しようよにとって3回目の本公演となるvol.3『スーホの白い馬みたいに。』を観た。

 で、まずは『スーホの白い馬みたいに。』ってタイトルが気になるところだが、そのことはずっと置いておいて。

 今を生きる人たちが、ふとしたきっかけから交差していって…。
 と記すと、なんだか陳腐だけれど。
 とかくこの世は生きにくくて、どうにも切ないやるせない、だからときには激しく叫び出してみたくもなる。
 そんな言葉が思い浮かぶような展開で、特に終盤のクライマックスの築き方には、やはりはっとさせられた。
 また、大原君のこれまでの演劇的な経験(直接間接を問わず)が巧みに咀嚼され、キャスティング込みでしっかりと表現された作品になっていたようにも思う。
 ただ、一つ一つのピースが凝集されきっていないと感じる部分が観受けられたことも事実で、同じパターンが繰り返される場面をどう処理するかとともに、今月末の北九州での公演や来年1月の京都再演への課題ではないだろうか。

 演者陣は、例えばピンク地底人2号や今回のみのゲスト植田順平など、個性豊かな顔触れが揃っていて、それぞれの演技に惹き込まれたが、一方で、アンサンブル(演技そのものと言うより、一つの座組み)としてまだ何かがまとまりきれておらず、意図されているだろう以上に、演者間の齟齬を感じた部分があった。
 そうしたアンサンブルの練れ具合を確認するという意味でも、1月の公演がとても愉しみだ。

 そうそう、劇団しようよで忘れてならないのが、吉見拓哉の音楽。
 作品の世界観によく沿っていることはもちろんだけれど、加えて劇場感覚にも満ちた演奏で、実に魅力的だった。
posted by figaro at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月17日

象牙の空港 第3回公演『女体出口』

☆象牙の空港 第3回公演『女体出口』

 作・演出:伊藤元晴
(2012年11月17日、18時開演の回/東山青少年活動センター創造活動室)


 えっ、女体出口!!!
 ってタイトルに期待して興奮した男子諸君、いる?
 そんな君は残念。
 確かに、そこは伊藤元晴のことゆえ、意味なくこんなタイトルつけやしないけれど。
 崎田ゆかりや永榮紘実が淫猥な言葉を口にしたり、ましてやマレビトの会みたいに下着いっちょになるわけでもない。
 それどころか、そんなエロ妄想全開の君の考え方を、ベートーヴェンのスケルツォよろしく斜め45度あたりから「いふひ」と笑って軽くいなそうというのが、この作品。

 と、書くとだいぶん違うかな。
 アクチュアリティがあって非常に切実な題材をべたに描かず、表面的にではなくその根底にあるものに焦点をあてて諧謔的な仕掛けを施しながら描いた作品。
 とでも評すると、それっぽく聴こえるか。

 角を立たせようなんてついぞ思ってもいないだろうけれど、智にも知にも働き過ぎて、中智は愚に観えず、けれど迂遠に過ぎるんじゃと感じられる場面が少なからずありはしたが(錯綜する展開ばかりでなく、故意の粗さや、やってる感がありありでシュールレアリズム風に思えてしまうくすぐりも含む)、現時点での伊藤君の総決算というか、今彼が表わしたいと思っているものに表現者として持てるものが全面に押し出された舞台となっていることも確かだろう。
 その意味でも、僕にはとても興味深い作品に仕上がっていた。

 演者陣は、粗さが活きている部分とそうでない部分との差がはっきりと出てしまっていたが、各々の特性魅力をよく発揮していたと思う。
 メインとなる大田雄史と崎田ゆかりの二人はもちろんのこと(ラスト、斜光なしのガラス窓に映った大田君の表情が忘れ難い)、脇を固める小林欣也、谷脇友斗、三宅陽介の存在感、細かい芝居も忘れてはなるまい。
 中でも、今回初めてその演技を観た永榮紘実が強く印象に残った。
(できれば、彼女が演じる永井愛や飯島早苗の作品を観てみたい)
posted by figaro at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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