作:ピエル・パオロ・パゾリーニ
構成・演出:川村毅
(2013年6月22日19時開演/京都芸術劇場studio21)
アナーキスト的心性の持ち主でダダイストの辻潤と、その後大杉栄のもとに走り彼ともに虐殺された伊藤野枝の長子辻まことの生涯を追った『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』<山川出版社>を読み終えたばかりということもあってか、ピエル・パオロ・パゾリーニの戯曲『ピュラデス』のリーディング公演を観聴きしながら、戦前の日本ではコミュニストよりもアナーキストのほうがより厳しい弾圧を受けていたんだよなあ(なぜなら、アナーキストは国家そのものを否定するので)とか、もしパゾリーニが日本に生まれてコミュニストとなり、そのままの創作活動を行ったりでもしたら、それこそ「敗北の文学」ならぬ「敗北の映像」などと難癖をつけられた上で、異端分子のアナーキストのレッテルのもと除名処分を受けたんじゃなかろうかと、ついつい思ってしまった。
まあ、それは戯言として、パゾリーニが執筆した『ピュラデス』(ばかりか、彼の遺した一連の作品)は、川村毅が公演パンフレットで記しているように、「執筆当時のイタリア社会への苛烈な批評」となっていることは、言うまでもない。
リヒャルト・シュトラウスが『エレクトラ』のタイトルで楽劇化したことでも有名な、エレクトラとオレステスによる母親殺しのギリシャ悲劇を下敷きとした『ピュラデス』は、イタリア国内における、保守的な政治権力と密接に結びついたキリスト教による文化支配(何せ、キリスト教民主党なる政党が戦後長年イタリアの政権を担っていたんだもの)=労働者支配と、大資本による労働力強化、一方でコミュニズムの指示拡大による労使対立思想対立の激化を如実に反映した作品である。
当然、露悪的な性的表現も、単なる芸術趣味としての涜神性によるものではなく、同性愛者であることを公言したパゾリーニの文化的社会的桎梏への痛烈な意志表明と考えなければならないだろう。
そして、川村さんがこれまた記しているように、この『ピュラデス』は、形は異なると言えども、現在の日本の諸状況に通底するものがあるという意味で、大いにアクチュアルな作品であると僕も思う。
しかしながら、そうした川村さんの言葉やテキスト自体とは裏腹に、今回のリーディング公演(単に台本を読むだけではなく、映像や簡潔な演技等、川村さんらしい仕掛けも施されていた)そのものに覚えたことは、アクチュアル云々かんぬんというより、全てが過ぎ去ってしまったというか、もう終わってこれからがないというか、円環が閉じられたというか、ある種の終息感であった。
一つには、パゾリーニと同じイタリア出身の巨匠が撮影した有名作品をすぐにも思い出させるようなクラシックの名曲(まさか、伊丹十三監督の『タンポポ』からじゃないよね。役所広司と黒田福美!)がふんだんに使用されて、カタルシスが喚起されていたことも大きいのだろうけど。
演者陣では、イントネーションなどでいくつか気になる点があったものの、オレステス役の田中遊とアテナ役の武田暁の存在感と丁寧なリーディングに好感を覚えた。
また、天使役・エウメニデス役の森田真和も強く印象に残った。
(ところで、田中さんと森田さんのキャスティングは、たぶん杉原邦生演出の『エンジェルス・イン・アメリカ』によるものと考えられるのだが、公演パンフレットのキャストの経歴のところでお二人ともそれが省かれている。いったいどうしてだろう?)
ほかに、京都造形芸術大学生の原田佳名子、田中祐気、福久聡吾らも出演。
彼女彼らの研鑚のあり様がよくわかる演技で、今後が愉しみだ。