で、本来ならば、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』のどこがどうなり、どこがどうならなかったかということ、言い換えるならば、山口茜さんや演者陣の作業について丁寧に腑分けし、じっくりと解き明かす必要があるのかもしれないが。
あまりくだくだくどくどと御託を並べてしまっては、せっかく公演を観て感じた愉しさや切なさといった心の動きが逃げて行ってしまいそうなことも事実なわけで。
ここは単純に、足を運んで本当に正解だった。
ああ、面白かった!
とだけ、記しておく…。
では、芸がないかな、やっぱり。
今回の『せりふのないガラスの動物園』は、『ガラスの動物園』を下敷きとしながらも、実質的には山口さんの新たな創作と評しても過言ではないのではなかろうか。
ただ一方で、『ガラスの動物園』の持つ性質の中から、山口さんの心に響いたりひっかかたりした部分がしっかりと汲みとられ巧く描き直されていたことも、やはり間違いはないと思う。
タイトルの如く、「せりふのない」作品というわけではなかったが、ときにスラプスティックという言葉を思い出させるほど身体性が重視されていたことも確かで、ダンサーの松本芽紅見さん(彼女の台詞も僕は嫌いじゃない)はもちろんのこと、他の演者陣も舞台上を縦横無尽に動き回っていて、それが大きな笑いにもつながっていた。
また、音楽や音響(奥村朋代さん)が重要な役割を果たしていたことも特筆すべきことで、新井洋平さんや井野アキヲさんの生演奏や演者陣の歌(ともに効果的)などから、カバレットやレビューといった言葉を思い起こしてしまったくらい。
(その意味でも、「見世物」という台詞が強く印象に残る)
加えて、登場人物の「交換」や「交代」、入れ子細工、二口大学さんや四宮章吾さん(鳥居みゆきみたい)のぶっ飛んだ演技等々、まだまだ語りたいこと語るべきことは山ほどあるが、忘れてならないのは、そうしたあれこれが、単に笑いを得るための道具ではなく、今回の作品の本質(そして『ガラスの動物園』のそれとも)と密接につながった大切な仕掛けであり要素であったということだろう。
少なくとも、演者の動きや音楽、音響、台詞、さらには造り込まれた舞台美術(五木見名子さん)やよく考えられた照明(池辺茜さん)、衣装(南野詩恵さん)にいたるまで、様々なところに、山口さんの想いや意志が表わされていたように、僕には思われた。
上述した三人のほか、岩田由紀さん(林檎みたい)、大木湖南さん(これまた難しい役まわり)も、作品の世界観と構造、スタイルによく沿った演技で、硬軟両面ともに、充分に納得がいった。
いずれにしても、一粒で何度もおいしい舞台で、足を運んで本当に正解の公演だった。
ああ、面白かった!
今回の『せりふのないガラスの動物園』では、新井さんの音楽や井野さんとの演奏も存分に愉しませていただきました。
やっぱり生(ライヴ)っていいなと改めて感じた次第です。
こちらこそ、本当にありがとうございました。